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7.裁き主としての神の否定

聖書は、神は愛であられると同時に、大いなる「さばきの主」(イザヤ33:22)(ヤコブ5:9)であることを教えています。ところが、サンダー・シングは言います、「愛なる神」と、「裁き主である神」とは、決して両立し得ない相矛盾する側面であると。彼は聖書を歪曲してでも、人間にとって都合の良い「愛なる神」だけを残し、「裁き主である神」を否定しようとします。彼は言います、「『神は誰をも罰したりはなさらない。誰をも地獄に落とされたりはなさらない。そのようなことは、キリストが教えられ、十字架上での犠牲によって表された神の愛とは相容れぬものである。」(p.21)と。

このような考え方がどの点で聖書に反し、誤っているかを理解するために、まず、「神の愛」とは何なのか、もう一度、聖書を振り返ってみましょう。

「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。――主の御告げ。――天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」(イザヤ56:8-9) 

まず、聖書は言います、神の思いは人の思いとは異なっており、人の思いよりも高いと。私は神の愛とは、神の御思い、神のご計画、神の御旨そのものを指すと言って良いと考えていますが、そもそも、神の思いは、人の思いによってはかり知ることのできないものです。従って、神の愛に、人間に理解可能な、人間に都合のよい解釈を施そうとすることに非常な無理があることは明らかです。

さらに、私たちは神が愛であることと、神が公正な裁きを行なわれるという二つのことが、何ら矛盾しないことを知っています。これを卑近な例で考えてみましょう。子供を愛する父親は、子供が従順である間は愛に溢れている親しみやすいパパですが、もしも子供が父の戒めを破り、悪戯をするならば、「鬼のように」恐るべき存在へと変わるでしょう。父親は子供を叱り、子供は恐ろしさのあまり、二度と父に近寄りたくないと感じるかもしれません。しかし、その時、たとえ子供には理解できなくとも、父の怒りは、愛ゆえの訓戒なのです。

子供が悪いことをした時に、本心から叱ることのできないような父親は、良い父親とは言えません。何でも赦して大目に見るのが愛なのではありません。父親は審判者でなくてはならず、何が正しいのかを子供に教える手本となる義務を負っています。

また、ならず者が家に侵入しようとすれば、父は一家を守るために立ち上がり、彼を撃退するでしょう。父は権威を帯び、力を持って、一家の中で自分の支配を確立せねばなりません。彼の秩序にそぐわないものは警告を受け、叱責され、それでも従わないなら排斥されます。排斥される側にとって、彼は恐れの的でしょう。しかし、それは父が家族を愛しているということに反しません。彼は自分の保護下にある者を守るために権威を帯びなければなりません。その権威を正しく行使することが彼の義務です。愛によって、彼は家族を守るために権威を行使するのです。

詩篇の作者は次のように述べています、神は正しい審判者、日々、怒る神。悔い改めない者には剣をとぎ、弓を張って、ねらいを定め、その者に向かって、死の武器を構え、矢を燃える矢とされる。」(詩篇7:11-13)、「主は義によって世界をさばき、公正をもって国民にさばきを行なわれる。」(詩篇9:8)、「主のさばきはまことであり、ことごとく正しい。」(詩篇19:9)

以前にヨナの話をしたのを覚えておられるでしょうか。ヨナが主の御顔を避けて逃げ出した一つ目の理由は、ニネベの人々に厳しい託宣を告げたくなかったことにあるだろうと述べました。しかし、ヨナが主の御顔を避けたもっと重要かつ直接的な理由があると考えられます。それは、ヨナが裁き主としての主の御顔を恐れたということです。

「主の御顔を避けて」(ヨナ1:3)、この言葉に注目するならば、ヨナは他のどんなものよりも、主の御顔そのものから身を隠したかったことが分かるのです。一体、なぜでしょう? もしもヨナが主の憐みに満ちた御顔を仰いだのであれば、彼は御顔を慕い求めこそすれ、それを避けて逃げ出す理由はなかったでしょう。しかし、ニネベに滅びの宣告を伝えることの恐ろしさもさることながら、何よりも、主の御顔こそ、ヨナの心に最も大きな恐れを呼び起こしたのではないかと考えられるのです。

それは、彼が裁き主としての主の御顔を見、それを恐れたためではないかと思います。黙示録の中にそう考える一つの根拠を見ます。黙示録において、ヨハネは裁き主としての主イエスを見ますが、その容貌は非常な恐れを彼に起こさせるものでした。

「そこで私は、私に語りかける声を見ようとして振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台が見えた。それらの燭台の真中には、足までたれた衣を着て、胸に金の帯を締めた、人の子のような方が見えた。その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は、燃える炎のようであった。その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、その声は大水の音のようであった。また、右手には七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった。」(黙示1:12-16)

ヨハネの見た正確なイメージをこの言葉から思い浮かべることは難しいです。しかし、私たちは少なくとも、主の御顔を見たとき、ヨハネがどのような反応をしたのかを知っています。「…私は、この方を見たとき、その足もとに倒れて死者のようになった」(黙示1:17)

預言者イザヤはウジヤ王の死んだ年に、高くあげられた王座に座す聖なる万軍の主を見ました。その時、イザヤが何と言ったか、私たちは知っています、「ああ。私はもうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。」(イザヤ6:5)

ホレブの山で主が火の中から語られたとき、イスラエルの民は神にこう願い求めずにいられませんでした、「私の神、主の声を二度と聞きたくありません。またこの大きな火をもう見たくありません。私は死にたくありません。」(申命記18:16)

シモン・ペテロは主が御業をなされたとき、主の足もとにひれ伏して、こう言わずにおれませんでした、「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから。」(ルカ5:8) 

そうです、聖なる方、いと高き方、大いなる裁き主、正しい審判者、この方の前で、肉なる者は誰一人立ちおおせません。神の聖に近づくとき、私たちはもはや自己肯定できなくなり、自分が死にしか値しない罪人であることを思い知らされ、深く恐れ、おののきながら、御前にひれ伏すしかないのです。

神の光は何よりも、私たちがいかに神の聖から遠く隔たった罪ある者であるかという事実を容赦なく見せます。神の光は、私たちがそれまで見ることを拒んでいた自分自身の真の姿を明るみに出し、私たちに旧創造の忌まわしさを見せて、それまでの自己安堵、自己肯定を打ち砕きます。御光の下で、私たちは自分の裸の恥を露にされ、自分が神の御前でどれほどまでに腐敗し切って、ただ死にしか値しない、惨めな肉に過ぎない者であるかという事実を思い知らされます。私たちは深く恥じ入り、死人のように恐れおののいて、塵と灰の中で悔い改める他ないのです。

ダビデも神の裁きを恐れてこう言わずにいられませんでした、「まことに、私たちはあなたの御怒りによって消えうせ、あなたの激しい憤りにおじ惑います。あなたは私たちの不義を御前に、私たちの秘めごとを御顔の光の中に置かれます。まことに、私たちのすべての日はあなたの激しい怒りの中に沈み行き、私たちは自分の齢をひと息のように終わらせます。」(詩篇90:7-9)

「主よ。私の祈りを聞き、私の願いに耳を傾けてください。…あなたのしもべをさばきにかけないでください。生ける者はだれひとり、あなたの前に義と認められないからです。」(詩篇143:1-2)

行いにおいては何一つ落ち度がなかった義人ヨブも、主に試みられて、こう言う他ありませんでした、「私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔い改めます。」(ヨブ42:5-6)

神は恐れおののいて崇められるべき方です! 本当に神の光に照らされて御前に立つ時、神に心を探られ、試みられる時、私たちは自己弁明の全てを捨てて、御前にひれ伏し、沈黙するしかないのです。「すべての肉なる者よ。主の前で静まれ。主が立ち上がって、その聖なる住まいから来られるからだ。」(ゼカリヤ2:13)

これらは、旧創造そのものが神の御前に罪に定められていることをはっきりと表わしています。ただ私たちのあれやこれやの罪が忌まわしいものであるというだけではなく、旧創造の全てが十字架の死に服さなければならないのです。私たちの生まれながらの命は何の役にも立たず、ただ死にしか値しません。私たち自身には改良の余地がありません! 私たちはただキリストの十字架の死に服すしかなく、彼とともに死を経て、彼の命によってよみがえらされたものだけが、神の御前に貴く、受け入れられるのです。そのことを、信仰によって進んで行くごとに、私たちはますます深く知らなければならないのです。

そして、神の愛とは、私たちを滅びから救うために、御子を遣わして、私たちの負うべき刑罰を御子に身代わりに負わせ、十字架上で御子がご自分の肉体を裂いて、私たちのために新創造へ至る道を開いてくださった、その御業にこそ現れています。従って、旧創造に対する神の刑罰を否定するならば、私たちは神の愛の最高の表現を否定していることになり、もはや神の愛を理解する手がかりは全く失われてしまうのです。

「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。わたしがあなたがたに命じることをあなたがた行なうなら、あなたがたはわたしの友です。

わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。」(ヨハネ15:13-15)


恵みとは、それに全く値しない者に与えられるからこそ、恵みなのです。私たち自身のうちにわずかでも、それを受け取るべき資格があったのでは、それは恵みにはなりません。私たちは永遠に廃棄されてしかるべき厭うべき堕落した罪人に過ぎませんでした。神は私たちを大目に見て、無罪放免するために、私たちに対する刑罰を思い直され、撤回されたのでは決してありません。神は私たちに対する刑罰を、十字架で御子に余すところなく負わせ、ご自分の義を証明され、罰せられるべきものを罰せられたのです。すべては御子が成就されたのです。御子は私たちの受けるべき苦痛のすべてを十字架で受けられ、肉において罰せられ、霊において神に捨てられ、そして言われました、「完了した。」(ヨハネ15:30)と。

死に至るまで従順であった御子の名のゆえに、私たちは御父に何でも願い求めることが許されており、御子の従順のゆえに、私たちは御父に子供として受け入れられるのです。私たちは、自分が決して自力では神に受け入れられることのできない者であり、すべては神の恵みによったのであることを片時も忘れるわけにはいきません。私たちは信仰によって、御子の刑罰を自分への刑罰として受け取り、私たち自身が主とともに十字架で死に渡されたことに同意することによって、このアダムの命、旧創造に死んで、彼の復活の命へと入れられ、御子のゆえに、神に喜ばれ、受け入れられる者とされるのです。

「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」(ヨハネ15:16)

地上にある間、私たちは御父によって、僕として、子として訓練を受けます。私たちは御子の贖いを信じて受け取っているので、私たちを永遠の滅びに定める神の裁きからは解放されていますが、しかし、地上にあって主の訓練を避けることはできません。ある意味で、私たちは義なる裁き主によって、罰せられたり、懲らしめられる存在です。その度ごとに、主の正しさを知り、恐れを持って裁き主の御顔を仰ぐのです。「わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。」(黙示3:19) 

私たちは、主なる神が「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。」(創世記18:17)と言われたアブラハムや、顔と顔を合わせて主と見えたモーセのように、主に信頼される僕、いや、友のようにまでなれるか分かりません。

それは私たちの歩み次第でしょう。それでも、恵みの中で、僕から子供へ、子供から息子へ、息子から友へと、恵みにふさわしく、主が私たちを訓戒し、生長させて下さることを疑いません。もしも私たちが主の小さな信頼に応えることができ、任されたわずかなものに忠実であるならば、より多くの信頼を受け、より多くを任されることになるでしょう。「小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実」(ルカ16:10)だからです。それについてはまたいつか述べることができればと思います。

とにかく、神は愛であられますが、私たちを叱ったり、懲らしめられる方なのです。そして神が愛であることと、神が裁きを行なわれ、人を罰したり、訓戒される方であるということは何ら矛盾しないのです。神は秩序の神であり、彼の秩序の中に、彼の権威と支配の中に、全ての調和が保たれているのです。

「『わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。』 

訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。

さらにまた、私たちには肉の父がいて、私たちを懲らしめられたのですが、しかも私たちは彼らを敬ったのであれば、なおさらのこと、私たちはすべての霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。なぜなら…、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。

すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものでなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。ですから、弱った手と衰えたひざとを、まっすぐにしなさい。…聖くなければ、だれも主を見ることができません。」(ヘブル12:5-14)



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「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)

「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。

しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」

こういうわけで、兄弟たちよ。 私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」
(ガラテヤ4:28-31)


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