忍者ブログ

9.キリストの十字架の意味の歪曲

偽りのキリスト教であるグノーシス主義においても、キリストの受肉、そして十字架は特別な意味を持っています。グノーシス主義者は必ずと言って良いほど強調します、「神が人となられた」がゆえに、と…。

しかし、グノーシス主義者の教えにおけるキリストの受肉と十字架の意味は、聖書の正統な解釈からはおよそかけ離れていることに注意が必要です。結論から述べるならば、彼らはキリストの受肉と十字架の意味を歪曲し、それを罪人が罪あるままで神に受け入れられ、生まれながらの人が神に等しい者として栄光化されるための手段として悪用するのです。

今日のキリスト教界においても、「キリストが私たち罪人を愛し、私たちのために十字架で死んで下さった」と言って、神の愛と憐みの深さに滂沱の涙を流すクリスチャンは大勢います。しかし、その中には、罪人に対する神の愛と憐みの深さを強調するばかりで、ますます悔い改めから遠ざかり、決して罪を離れようともせず、かえって罪深い自分自身に自己安堵してしまう人々がいます。
 
これまでの色々な分析を通して、そのような人々の十字架の解釈には大いなる偽りの可能性があることを、多少なりとも、明確にできたのではないかと思います。

さて、この分析においても、サンダー・シングが神の独り子なるキリストの十字架の意味をどのように歪曲してとらえているか、それがどのような点でグノーシス主義に通じているかを説明します。

ただし、サンダー・シングの文章を引用する前に、改めて、彼の文章を読む際の危険性について前もって警告しておきたいと思います。なぜなら、彼の文章は、生まれながらの人の耳には、とても道徳的で、もっともらしく聞こえるため、人々を真理から引き離す大きな危険性を持っているからです。感化力の強い、確信に満ちた独特の文体で書かれているため、本来、引用することも望ましくありませんし、クリスチャンが彼の書物に目を通すことは全くお勧めできません。

それにも関わらず、この分析においてサンダー・シングの文章を引用するのは、彼の偽りに満ちた話が、いかに生まれながらの人の耳に道徳的で、心地よく、もっともらしく響くかをあえて知ってもらうためでもあります。私たちは、偽りというものがいつも不道徳の仮面をかぶってやって来るなどと思うべきではありません。むしろ逆なのです。サタンの偽りはいつも非常にもっともらしく、正しそうに聞こえ、道徳的で、(世の)道理にかなっており、ヒューマニズムにも合致しているのです。

ですから、私たちは、ある話の内容が道徳的に聞こえるというだけの理由で、それを信用すべきではありません。肉による善行というものが存在するように、御霊を離れた人間の道徳性というものも、アダムの命から出て来るものとして、神の御前には徹底的に腐敗しているのです。ですから、欺かれないようにするためには、私たちは世の道徳基準や、ヒューマニズムの観点から物事を判断するのではなく、語られている内容が本当に聖書に合致しているのかどうかをよくよく自分で吟味する必要があります。

以下、かなり説明が長くなりましたが、一貫したテーマのため、記事を分割せずに掲載します。「続きを読む」からお読み下さい。

 



▼続きを読む

この記事へコメントする








絵文字:
Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字









「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)

「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。

しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」

こういうわけで、兄弟たちよ。 私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」
(ガラテヤ4:28-31)


(08/14)
(08/06)
(07/17)
(05/14)
(05/09)
(05/07)
(05/07)
(05/02)
(03/20)
(03/05)