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6.復活の否定

「しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。『下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。』」(マタイ16:23)

生まれながらの人の思いの奥底には、人のアダムの命、すなわち、旧創造が神によって滅びに定められているという事実をどうしても認めたくない思いがあります。それは、生まれながらの人が神の御前に腐敗し切っており、ただ滅びの刑罰にしか値しないという事実を否定して、生まれながらの人(肉)をできる限り弁護したいという自己義認の思いに基づいています。また、それは神によって罰せられることへの生まれながらの人の根強い反発と恐れでもあります。

クリスチャンになって十字架の意味を知った後でも、私たちの心の中には、依然として、十字架の死を厭う気持ちがあります。肉が死の刑罰にしか値しないとは認めず、むしろ、肉の腐敗から目を背け、肉による善行を積み上げることによって、神に受け入れられ、天にまで達したいという願いがあります。人の生まれながらの心は、自分自身に対する神の刑罰を真正面から受け止めることができません。

偽りの福音は、人の生まれながらの自己の内にあるそのような自己保存の願望、すなわち、肉を弁護し、旧創造を惜しむ気持ちに巧妙に働きかけて、また、神の愛を悪用することによって、人が十字架の死を避けて、自分の生まれながらの命を保つようささやきかけます。主イエスが、エルサレムで受けねばならない苦難や、十字架の死と三日目のよみがえりについて弟子たちに語られたとき、ペテロの口を借りてサタンが語ったのが、そのような偽りの教義でした。

サタンの偽りの教義は、旧創造が全て十字架の死を受けなければならないことを否定します。サタンは「神の愛」を拡大解釈することによって、神は憐み深い方なので、罪人を寛容に赦して下さるはずであり、人が十字架の死という重すぎる神の刑罰を耐え忍ぶ必要はない、それは人にとっては残酷すぎると説明します。そうして、サタンは主イエスに向かって、生まれながらの人(アダム)を弁護して、アダムの命を惜しむよう提案したのでした。

サタンは今日、神の子供たちにも同じ提案をささやきかけます。すなわち、クリスチャンが旧創造は十字架で死に渡されねばならないという事実を否定して、アダムの命を惜しみ、弁護するよう仕向けるのです。それは、十字架の死がなければ、復活はあり得ないことをサタンは知っているからです。

サタンは復活の命を激しく憎んでいます。なぜなら、復活の命の現われほど、悪魔とその暗闇の王国に対して、決定的な敗北を突きつける事実はないからです。復活の命が地上に現われることは、その領域に御子の揺るぎない統治が確立され、神の国が到来し、サタンの支配が追放されることを意味します。復活の命のあるところには、汚れたもの、旧創造はもはや存在する余地がありません。復活の命が現われるための前提として、旧創造は全て死んでいなければならないからです。

アダムの堕落とともに、目に見えるもの、万物、旧創造は全てサタンの支配下に引き渡されました(「私たちは…全世界は悪い者の支配下にあることを知っています。」(Ⅰヨハネ5:19))。旧創造はサタンの作業場です。ですから、旧創造が真に主と共なる十字架の死によってはりつけにされ、キリストの復活の命が生じることは、悪魔にとっては自分の作業場である旧創造に対する支配権を失うという大打撃をもたらします。

それだけではありません。キリストの復活の命の現われそのものが、サタンにとっては永遠の恥辱に満ちた敗北であり、致命的な脅威でもあるのです。それは、復活の命の現われは、御子が十字架で取られた勝利――「死は勝利に飲まれた」(Ⅰコリント15:54)――を完膚なきまでに証明するからです。御子の来臨に先立って、キリストの復活の命が現われるところではどこでも、御子が悪魔の最大の武器である死をすでに打ち破って、もろもろの支配と権威の武装を解除され、彼らをさらしものにして、揺るぎない統治を確立されたことが証明され、神の国の(御子の霊なる)支配が打ち立てられることにより、悪魔の支配はすでに打ち破られ、彼にはもはや何の権利も力もなく、悪魔は御子によってすでに滅ぼされたことが、事実として証明されるからです。

ですから、サタンはクリスチャンの目から何としても復活の命を隠したいのです。何としても復活の命の現われを阻止し、復活を地上から消し去りたいのです。悪魔はあらゆる方法を尽くして、クリスチャンが復活の命に達しないように仕向けます。そのために、悪魔は復活という概念そのものを作り話であると思い込ませて嘲笑するか、もしくは、罪人に対する神の愛や憐みを拡大解釈することにより、十字架の教義を歪め、クリスチャンが十字架を厭い、自分の命を愛し、それを惜しんで十字架の死を拒むように仕向け、どんなことがあっても、決して御子の復活の命へ達することがないよう妨げるのです。

「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」

それでも、もしも私たちが主と共なる十字架の死を経由して、復活の領域を実際に生き始めたならば、地獄の全軍勢が私たちに敵対して立ちはだかるのが分かるでしょう。私たちは復活の命に生きるようになって初めて、神の子供が、血肉によっては到底、立ち向かうことのできない、暗闇の全軍勢からのどれほどはかりしれない憎悪の前にさらされているかを、実際に理解し始めるのです。復活の命の現われを地上から消し去るために、サタンが人知を超えた方法で総力を尽くして神の子供たちを日夜攻撃することをも実際に分かるでしょう。その攻撃と対峙する時、復活がどれほどサタンの憎むべきものであるかを私たちは知るのです。そこには私たち個人に向けられるべき憎しみをはるかに上回る、まさに想像を絶するものがあります。それと同時に私たちは、キリストの復活の命の現われが、闇の王国に対してどれほど圧倒的な脅威となり、そして、彼らにとって大いなる敗北を意味するかも理解し始め、復活の命の中にある勝利を敵に対して実際に行使することを学び始めるのです。

「もしあなたがたがこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがを選び出したのです。それで世はあなたがたを憎むのです。」(ヨハネ15:19)

「今がこの世のさばきです。今、この世を支配する者は追い出されるのです。わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。」(ヨハネ12:32)

ですから、「愛である神は誰一人地獄に落とし給わない。永遠にそうである」(p.210)というサンダー・シングの主張は、旧創造が神によって罰せられることへの否定、神の正しい裁きへの異議申し立てに貫かれていることが分かるでしょう。

いかに「愛」という罪人の耳にとって心地よい言葉を使っていたとしても、このように旧創造に対する十字架の死の刑罰を否定する教えは、神から来たものではありません。そこにあるのは、旧創造に対する滅びはないと主張することで、新創造(復活)が現われることを何としても阻止したいサタンの思惑であり、それが独特の美意識をまとって教義化されたものであると言って差し支えないのです。

このような主張は、表面的には神の愛を語ってはいますが、神の愛を本当に知りたいという動機から出て来たのではありません。むしろ、神が全ての旧創造を滅ぼされることに対する根強い不満がそのような教えを作り出すのです。ペテロが主を脇に呼んでいさめ始めたとき、彼の言葉には、あたかも、主に対する美しい愛があったかのように聞こえたことでしょう。それでも、人間的には美しい同情で飾られていたペテロの主張は、神の御前に悪しき動機から出て来たものとして罪定めされたのです。それは彼の述べた思想が、人間にとって都合が良くとも、神のご計画を否定し、妨げようとするものだったからです。

ですから、神の愛を口実にして、旧創造に定められた滅びを否定してはいけないのです。そのような教えの背後には必ず、目に見える全てのものに対する神の滅びの宣告を否定して、自分自身が滅びに定められていることを決して認めたくない暗闇の世の主権者の思惑があります。

聖書の記述から、私たちは邪霊や悪鬼たちが人知を超える知性を持っており、キリストが来られる時に、自分たちがどうなるかを知っていたことを見ます。(たとえば、ルカ4:34参照。)

汚れた霊でさえ、御子の権威を前にして、自分たちの支配がもはや成り立たず、自分たちが滅ぼされる他ないことを知っていたのです。まして、御言葉を曲げる偽預言者たちが、自分たちに対する聖書の永遠の滅びの宣告を知らないはずがあるでしょうか。偽りの教えを語る者たちが必死になって、神は愛だから人を滅ぼしたりなさらないと、神の刑罰を再三に渡り、否定せずにおれないその理由はそこから明らかなのです。それは彼らが神が自分たちに下された判決を知っており、自分たちがどこへ行かなければならないかを知って、それが成就するときが来るのを、心底、恐れているからなのです。

「しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。強い人の家にはいって家財を奪い取ろうとするなら、まずその人を縛ってしまわないで、どうしてそのようなことができましょうか。そのようにして初めて、その家を略奪することができるのです。」(マタイ12:29)

「神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。」(コロサイ2:15)

「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神の全ての武具をとりなさい。」(エペソ6:12-13)


「…彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。そこは獣も、にせ預言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。」(黙示20:10)


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「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)

「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。

しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」

こういうわけで、兄弟たちよ。 私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」
(ガラテヤ4:28-31)