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4.原罪の否定

サンダー・シングがサタンの悪は永久不変ではないと主張することにより、サタンを名誉回復させようとしていることはすでに述べましたが、これと同じ論理を彼は人間にもあてはめ、サタンの罪ばかりか、人間の原罪も否定します。「悪は、神の創造したいかなるものにあっても生得の性質ではない」という彼の主張を読めば、彼が人間も生まれながらにして悪であるはずがないと考えていることは明白です。サンダー・シングが人の原罪を認めていないことは、次の文章にはっきりと表われています。

「火打ち石の中に火があるように、人の心の中にも神と交わることへの憧れがある。このような願いは罪と無知という硬い火打石の下に隠れているかもしれないが、神の人と近づきになり、あるいは神の聖霊に触れられるときに、ちょうど火打ち石が鉄で打たれたときのように、即座に火を放つ。<…>

人がどれほど悪く曲がった生き方をしていようとも、人の性質の中には、決して罪に傾かない聖なる火花、聖なる要素が存在する良心と霊的感覚が曇り働かなくなったとしても、この聖なる火花は決して消えることはない。どんな極悪人にも多少の善がみられるのはこのためである。残虐極まりないやり方で殺人を重ねた人間でさえ、貧乏人や虐げられている者たちに援助の手をさしのべるといったことが、よく起こる。

この聖なる火花が不滅のものであれば、どんな罪人にも絶望することはない。それが滅ぼしうるものであるとすれば、罪によって神から離れたときの悲しみ、地獄の苦しみといったものは決して感じられることはないだろう。悲しみや後悔の念を感じるというのは、ほかならぬこの火花が人間の中にあるからである。この感覚がなければ、地獄は地獄足り得ない。人がそのような痛みを感じるのであれば、その苦しみがいずれは人を神の御元へ回復させることになる。」(p.295-297)


これは事実上の原罪の否定です。サンダー・シングはどんなにひどく堕落した罪人の中にも、「決して罪に傾かない聖なる火花」があって、それが必ずや罪人を神の御元に回帰させるはずだと主張します。彼はここでキリストの十字架だけが神と人とを和解させる唯一の道だとは言っていません。彼はむしろ十字架を介さねば生まれながらの人は誰一人として神と和解できないという事実を否定して、人間が自力で神に立ち戻る道があると提唱しているのです。つまり、人の行いがどんなに悪くとも、人間の中に残っている「聖なる火花」が、必ず、彼を神に回帰させると彼は言うのです。

私は以前の記事の中で、サンダー・シングの言う「聖なる火花」が、グノーシス主義における「神的自己」、「本来的自己」に相当することを説明しました。これは神秘主義です。生まれながらの人間が、御子キリストの十字架を信仰によって受け入れなくとも、本来生まれながらにして持っている自己の何らかの性質や力に目覚め、それを利用することによって、自力で神と結合できるとする教えです。サンダー・シングの教えもこの点で神秘主義に属しており、これが正統なキリスト教でありえないことは言うまでもありません。

さて、サンダー・シングの言う「聖なる火花」とは具体的に何を指すのでしょうか。あまりはっきりと書かれていないので、文脈から判断するしかありませんが、彼は人間に生来備わっている良心(のとがめ、すなわち罪悪感)のことを指しているのではないかと思われます。

つまり、サンダー・シングは生まれながらの人の内に宿っている良心こそ、罪人を神に引き戻す「聖なる火花」に当たると主張しているのです。この聖なる不滅の火花がある限り、人は行いの如何に関わらず、本来的には罪のない聖なる性質を内に保存しているのであって、この聖なる要素を利用することによって、人は神に回帰できるはずだと主張しているのです。

しかし、たとえ罪人に多少なりとも良心の呵責が存在したとしても、だからといって、それは人を神に引き戻す力を持ちません。人の堕落とともに、人の良心さえも深く麻痺し、堕落し、神に対して死んだ状態で、サタンと暗闇の軍勢に引き渡されたのです。その良心は、人に罪悪感を感じさせ、苦しめることはできるかも知れませんが、人を神に引き戻す橋渡しにはならないのです。もしも生まれながらの良心によって、人が義とされ、神に受け入れられるのだとすれば、人は自分自身の良心だけによって救われることができ、パウロが次のように叫ぶ必要はなかったでしょう。

私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。…私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっていますもし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住むです。そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです

すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」(ローマ7:18-24)


パウロは律法の上では落ち度のない人でしたので、彼は自分の正しさを誰より誇って良いはずであり、彼の良心が彼を潔白とみなしたとしても不思議ではありませんでした。にも関わらず、そのパウロの良心が彼を罪に定め、彼の内には「善が住んでいない」と叫ばざるを得なかったのです。彼は自分の中には「決して罪に傾かない聖なる火花がある」などとは言いませんでした。彼はどんな人よりも罪から遠ざかっていると胸を張って言えたにも関わらず、彼が自分の中に見出したのは、「聖なる火花」とは正反対の「悪」、すなわち、「私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこに」する、私に悪が宿っているという原理だけだったのです。

聖書は言います、「肉によって生まれた者は肉です。」(ヨハネ3:6)「肉にある者は神を喜ばせることができません。」(ローマ8:8)と。人は堕落して罪深い「肉」となりました。すなわち、生まれながらの人は誰一人として、肉に働く罪と死の法則から自力で逃れられる人はいません。どんなに努力しても、肉には一切の改善の余地がないからこそ、主イエスは言われたのです、「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。」(ヨハネ3:5)と。

人が神に受け入れられる者となるには、信仰によって、主イエス・キリストの十字架の死を自分自身の死として受け入れ、彼の肉の死を自分自身の肉の死として受け取り、肉に働く罪と死の法則に死んで、御霊によって神に対して生きる者とされる以外にはありません。キリストは「肉において罪を処罰」するために「罪深い肉と同じような形で」「罪のために」遣わされたのです。

「肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。」(ローマ8:3-4)

私たちの生まれながらの自己、アダムの古き命には何ひとつとして神に受け入れられる聖なる要素はありませんし、また、肉にはいかなる改善の余地もありません。どんなに月日が経っても、どんなに改善の努力を重ねても、肉から生まれるものは肉でしかありません。信仰によって、御子の十字架の死を自分自身の死として受け入れ、古きアダムの命に死に、キリストのよみがえりの命によって新しく生かされなければ、誰一人として神に受け入れられ、神に対して生きることはできないのです。そのために、御子はすべてのアダムを着て十字架に向かわれました。私たちは信仰によって彼の死を自分自身の死として受け取ることを通してのみ、罪と死の法則から解放されます。人の生まれながらのアダムの命、そして生まれながらの自己はサタンの座でありこすれ、そこには何ら神を喜ばせる聖なる要素はないのです。

にも関わらず、サンダー・シングは人の生まれながらの自己の中に「聖なる火花」を見出し、それゆえに御子の十字架の死を信仰によって経ずとも、その「聖なる要素」によって人は自力で神に回帰できるとしているのです。これは恐るべき教えであり、完全に聖書に反しています。これは肉を栄化し、アダムの命を栄化し、生まれながらの人間を神化し、生まれながらの人を神とすることに等しいのです。

次の文章の中で、自らの教えの究極的な目的は何であるか、サンダー・シングはまたとないほどにはっきりと明言しています。

「人は自由な行為者であり、自由の誤用によって自分をも人をも大きく傷つける。だが自分という存在や内なる神の火花を滅ぼしてしまえるほど自分を傷つけられる人はいない。そのような力は、創造主以外、誰ももってはいないのである。また、創造主さえ、滅ぼしたりはなさらないだろう。そのようなことをお望みなら、初めから創造などされなかったはずである。滅ぼすということになれば、神は結果もわきまえずに行動したことになる。このようなことは神にあってはありえないことである。

人は自分の魂を造りえなかったし、それを滅ぼすこともできない。創造主は、どのような生き物もある特殊な目的のためにお造りになった。自分の魂、内在の聖なる火花を滅ぼすことが人間にもできず、神もなさらないというのは、人の創造された目的が、いつの日か必ずや成就するからである迷いに導かれる者は多くとも、いつかは自分が、似せて造られた神に戻るのである。それが人間の究極の目標なのだ。」(p.297)

ここでサンダー・シングは、神の刑罰は存在しないという独自の主張を何度も、何度も、まるで自分に言い聞かせるがごとく念押ししています。彼は罪人に対する神の刑罰の存在を何としても否定せずにいられません。そのことだけを取っても、どれほど彼が内心では神の刑罰を恐れているか分かろうというものですが、しかし、そのことは今は置いておきましょう。

サンダー・シングにとっては、神が昔も今も、ご自分に不従順な者たちを滞りなく罰しておられるという聖書の記述もまるで意味をなさないようです。ノアの時代に、地に満ちている暴虐をご覧になって、神はノアにこう仰せられました、「すべての肉なるものの終わりが、わたしの前に来ている。…それで今わたしは、彼らを地とともに滅ぼそうとしている。」(創世記6:13)

また、「…主は、自分の領域を守らず、自分のおるべき所を捨てた御使いたちを、大いなる日のさばきのために、永遠の束縛をもって、暗やみの下に閉じ込められ」、「…ソドム、ゴモラおよび周囲の町々も…好色にふけり、不自然な肉欲を追い求めたので、永遠の火の刑罰を受けて、みせしめにされてました(ユダ6-7)

さらに、再臨の日には、「…主イエスが、炎の中に、力ある御使いたちを従えて天から現われ」、「…神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に報復され」るのです。彼らは「主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受けることが定められています(Ⅱテサロニケ1:7-9)


「…天は古い昔からあり、地は神のことばによって水から出て、水によって成ったのであって、当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ不敬虔な者どものさばきと滅びの日まで、保たれているのです。」(Ⅱペテロ3:5-7)

しかし、サンダー・シングはこれら全ての記述を無視してでも、罪人に対する神の裁きや、滅びの刑罰はないと主張します。彼は言います、人は断じて滅びにしか値しない罪人などではなく、神は人を絶対に滅ぼしたりなさらないと。人の生まれながらの魂は不滅であり、「内在の聖なる火花」を滅ぼすことは誰にもできないと。もし自ら創造したものを滅ぼすとすれば、それは神が後先考えずに行動したことになり、それでは神の名折れになるではないかとさえ彼は言います。(それでは神が御子の十字架を通して、信じる者たちを滅びから救い出してくださったこの永遠の計画の意味はどうなるのでしょう? 御子の贖いがなくとも人は救われ得ると言うのでしょうか? それこそ、神の御心を最もないがしろにし、傷つけることではありませんか!) 

彼は言います、「というのは、人の創造された目的が、いつの日か必ずや成就するからである」と。

ここで彼は、自分の偽りの教えの究極目的が何であるのかはっきりと明言しています。「いつか自分が、似せて造られた神に戻る。それが人間の究極の目標なのだ」と。

やれやれと私たちは大きな溜息をつくしかありません。原初回帰、全てのグノーシス主義者の主張は必ずここに帰着するのです。「いつか自分が似せて造られた神に戻る」、すなわち、人類が自力で創造された当初の罪のない存在に立ち戻り、神の似姿としての自分を取り戻すと、自力で「神のようになる」と! 人が神になるのだと! アダムの古き命のままで、肉のままで、人は神になれるのだと! これがすべての福音を歪める者たちの究極目標なのです。彼らはどうしてもこの目的を告白せずにいられないようです。

彼らは言います、今は人類は自由意志を乱用したがために自分を傷つけ、互いを傷つけ、無知の中、地を這いずるように生きているかも知れないが、本来、神に似せて造られた者である以上、人の内には誰にも滅ぼすことのできない「聖なる神的火花」が宿っているのだと。そうである以上、いつかきっと人類は自分の力で、似せて造られた神に戻ってみせると。いつか自力で神のようになってみせると。いつかきっと「私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう。密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。」(イザヤ14:13-14) それが人間の究極的目標だと!

このような教えがどこからやって来たものか、それでもまだ分からないという人がおられるでしょうか?

「それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」(創世記3:5)

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「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)

「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。

しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」

こういうわけで、兄弟たちよ。 私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」
(ガラテヤ4:28-31)