忍者ブログ

5.アダムの神格化という誤った考えについて(補足)

「このようなわけで、ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように、こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類にはいり込んだのである。」(ローマ5:12)

以前の記事の中で、私はグノーシス主義の多くの教えがアダムを神格化し、アダムを神に等しい者(=神に勝る)とみなしていることについて触れました。

「いつか自分が、似せて造られた神に戻る。それが人間の究極の目標なのだ」、
というサンダー・シングの言葉からも、彼が多くのグノーシス主義者と同じように、堕落以前の「アダムは神であった」と考えていることが分かります。なぜなら、サンダー・シングはわざわざ「神に戻る」と言っているからです。もしも人が最初に神であったと考えていないのなら、神に戻るという表現を彼は用いなかったでしょう。

このようなアダムを神とする考えがどれほど聖書に反し、誤っているかを確認するために、私たちはもう一度、きちんと聖書に照らし合わせて、アダムとは何者であったのかを振り返ってみたいと思います。

(6/28 今回は相当に長く込み入った説明となってしまいましたが、補足説明ということで、分割しないで以下にそのまま掲載します。一部、正しく表示されなかった部分を修正しました。「続きを読む」ではなく、以下、本文に掲載し直します。)


 
①創造された当初のアダムの不完全性
②今や堕落して肉となったアダム
③全き人である第二のアダム、キリスト
④アダムにある地位とキリストにある地位の比べものにならない違い
⑤ キリストの十字架の死と復活 新創造に至る唯一の道
⑥ アダムの命と神の永遠の命との違い
⑦ 人の魂の危険性と、自己(魂の命)を否んでキリストのうちにとどまる必要性

①創造された当初のアダムの不完全性

アダムとエバは神の御旨に従って、全地を統べ治めるために創造されました。創造された当初、人類に罪はありませんでした。しかし、アダムは神ではありませんでした。聖書が述べているのは、アダムが神にかたどって、神のかたちに似せて造られたという事実だけです。

「神はまた言われた、『われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう』。神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。」(創世記1:26-27)

私たちの神はこう言われます、「私は初めであり、わたしは終わりである。わたしのほかに神はない。」(イザヤ44:6)と。このように、天地の造り主はただお一人です。神はただお一人です。人は神に造られた被造物に過ぎません。被造物を神とすることは、創造主を否定し、唯一の神を否定することを意味します。

さらに、第一の人アダムは、第二のアダムであられるキリストと比べるならば、全き人ではなかったことが分かります。オースチン・スパークスは『人とは何者なのでしょう?』の中で、アダムの不完全性についてこう説明しています。

「創造された時、アダムは罪がなく純真でした。神は彼が完全になるよう定められましたが、創造された時はまだそのように完全ではありませんでした。これを理解することが重要です。彼が神の御旨に完全に到達するには、彼の性質と目標の中に何かが加えられなければなりませんでした。人の霊を通しての神とのつながりには、一体化への潜在性や可能性はありましたが、絶対的かつ決定的な一体性はありませんでした。ですから、彼は戒めや命令という線に沿って神に従わなければならなかったのです――それは息子として以上に、僕としての地位においてでした。あるいは、新約聖書における「子供(child)」と「息子(son)」の区別を用いると、「この違いは生まれた者と成熟に達した者との間の相違である」と言えます。アダムの場合、子供から息子へ、外的統治から内的統治へ、不完全から完全へ、この地位を飛躍的に向上させたであろうものは、信仰の従順による永遠のいのちでした。」

アダムは毎時、自分の外側にある命の木を選び取ることによって神に従い、神への従順を通して、完全な存在に至ることが望まれていました。しかし、人は魂の領域に働きかけられることにより、欺かれ、神に背いて善悪を知る知識を選んで罪を犯したことにより、神の御旨を成就することに失敗しました。


②今や堕落して肉となったアダム

今やアダムの罪を通して全人類に罪と死が入り込みました。人は生まれながらにして「自分の罪過と罪との中に死んで」おり、「生まれながら御怒りを受けるべき子ら」となりました(エペソ2:1-3) 

アダムは不名誉な堕落によって、肉の象徴、朽ちる命の象徴、罪と死の象徴となりました
。「あなたは、ちりだから、ちりに帰る」(創世記3:19)、これが第一の人であるアダムに対する神の宣告です。

「罪から来る報酬は死です。」(ローマ6:23)「…私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。」(詩篇51:5)

生まれながらの人は「肉にすぎない」(創世記6:3)者となりました。「肉によって生まれた者は肉です。」(ヨハネ3:6)、「肉の思いは死であり…、肉の思いは神に対して反抗するもの」であり、「それは神の律法に…服従できないのです。」(ローマ8:6-7)、「自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り」(ガラテヤ6:8)、「肉にある者は神を喜ばせることができません。」(ローマ8:8)

何という惨めな宣告でしょうか。アダムに属し、肉にあって歩んでいる限り、誰一人として、神を喜ばせることはできず、永遠に至る実を結ぶこともできません。そればかりか、私たちはもっとひどい風景を見ます、人の堕落により、目に見えるこの世界や、他の被造物までも、人類の罪の影響を受けて堕落したのです。

「土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。」(創世記4:17)。神は人ばかりか、目に見える世界も、罪による堕落のために、もはや廃棄されるしかないことを決定されました。

人の罪が目に見える世界に悪影響をもたらすものであることは、聖書が随所で述べている通りです。(たとえば、ホセア4:1-3を参照下さい。)

罪による堕落のゆえに、アダムのみならず、アダムもろともに万物も、滅びを免れることができなくなりました。神は見えるものすべてに対し、全面的な廃棄を決定されました。神が創造された当初、「非常によかった」(創世記1:31)全ての見える世界が、人の罪のゆえに、むなしくなり、滅びを宣告されたのです。

「万物の終わりが近づきました。」(Ⅰペテロ4:7) 目に見えるものはこうして滅びへ向かう一時的なものとなったのです(Ⅱコリント4:18)


③全き人である第二のアダム、キリスト

神はアダムをあきらめられ、アダムを廃棄することを決定されました。しかし、アダムが失敗したことをもう一度、なし遂げて、御旨を成就させるため、そして、全世界を滅びから救い、被造物を贖うために、神は愛する御子を人として地上に遣わされました。神は人が受けるべき刑罰を、御子に身代わりに受けさせることによって、かつてノアの箱舟を通して、人々を目に見える世界の滅びから救いだされたように、御子の十字架を通して、信じる人々を見える滅びから救い、堅い基礎の上に建てられた都(ヘブル11:10)、震われない国(ヘブル12:28)、見えない天のふるさと(ヘブル11:16)、来たらんとする永遠の都(ヘブル13:14)へと連れ出そうとなさっておられます。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)

「というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。」(Ⅰコリント15:21-22)


「この方こそ、私たちの罪のための、――私たちの罪だけでなく全世界のための、――なだめの供え物なのです。」(Ⅰヨハネ2:2)

「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。」(エペソ2:14-16)

神はアダムにもはや何の期待もしておられません。アダムの命に属するもの、旧創造は滅びにしか値せず、神の御前に何の価値も持ちません。第二の人であるキリストだけが、神の御心を満足させました。ですから、信仰によって御子の十字架の贖いを受け入れ、彼とともに死と復活を経て、キリストのよみがえりの命によって新創造とされたものだけが、神に対して生き、永遠に至る実を結ぶことができるのです。アダムの命に属するものではなく、キリストのまことの命に属するもの、キリストの十字架を経て、新創造とされたものだけが神の目にかなう、神を喜ばせるものなのです。

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)

こうして、目に見える滅びゆく世界と、目に見えない永遠に至る来るべき世との間には、主イエスの十字架という隔てが永遠に置かれました。この御子の十字架を通らずして、神の国に至ることのできる人は一人もいません。


④アダムにある地位とキリストにある地位の比べものにならない違い

私たちは堕落以前のアダムが持っていた地位と、クリスチャンが現在、キリストにあって受け継いでいる地位とが比較にならないものであることに注意を払う必要があります。

「…神である主は、土地のちりで人を形作り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きたものとなった。」(創世記2:7)

この記述は、アダムが神と交わることのできる霊を持っていたことを示していますが、しかし、アダムが生かされていた命は、私たちクリスチャンが御子にあって、賜物として与えられている永遠の命――キリストのよみがえりの命、神の非受造のいのち――ではなかったことに注意しなければなりません。アダムは当初、罪なき者として創造されましたが、彼は神の子ではありませんでした。もう一度言いますが、アダムは(グノーシス主義者の言うような)神でなかっただけでなく、アダムは私たちクリスチャンのように神の命によって生かされる神の子供でもなかったのです。

メアリー・マクドゥーノフは、
『神の贖いのご計画』の中でこう説明しています、「最初のアダムは神の子ではありませんでした。その理由は生物学的に明らかです。彼は、神のいのちと同じ種類のいのちを持っていませんでした。

贖いは、最初のアダムの堕落以前の水準に人を回復する』という誤った考えがありますこの誤りの原因は、子たる身分に関する無知にあります。これは実に悲しむべきことです。私たちは贖いによって、堕落以前のアダムとエバよりも高い身分――神の子としての身分――を受けました私たちは永遠の御子を通して神の子にされました

このように、御子の贖いによって、私たちクリスチャンは堕落以前のアダムよりもはるかに高い身分、神の子としての身分(ローマ8:15-16)を受けているのです。私たちは神の永遠の命(ローマ6:23)を受けています。これはアダムが持っていなかった命です。

アダムは生きた魂でしたが、彼は血肉に過ぎませんでした。彼は土で造られ、地に属する者であり、神の国を相続できませんでした。私たちは第二の人であるキリストによって、命の御霊を受け、神の子とされ、天に属する者とされ、神の国を受け継ぐ約束の保証を受けているのです。御子を通して与えられている賜物のはかりしれない大きさを少しでも理解するなら、誰も、創造当初のアダムに回帰することが人類の目標だなどと思わないでしょう。

「聖書に『最初の人アダムは生きた者となった。』と書いてありますが、最後のアダムは、生かす御霊となりました最初にあったのは血肉のものであり、御霊のものではありません。御霊のものはあとに来るのです。

第一の人は地から出て、土で造られた者ですが、第二の人は天から出た者です。土で造られた者はみな、この土で造られた者に似ており、天からの者はみな、この天から出た者に似ているのです。私たちは土で造られた者のかたちを持っていたように、天上のかたちをも持つのです

兄弟たちよ。私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。…朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。…朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、『死は勝利にのまれた。』としるされている、みことばが実現します。

死のとげは罪であり、罪の力は律法ですしかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。」(Ⅰコリント15:45-57)


ですから、アダムへの回帰を主張している人々は、二つの点で完全に誤っているのです。一つは、罪のゆえにアダムの命は腐敗し、神はアダムに属するものを永遠の滅びに定められ、旧創造にはもはや何の改善の見込みもなくなったという事実を否定していること。もう一つ目は、神がキリストを通して、私たちにお与え下さっている永遠の命、神の子として神の国を受け継ぐ保証という、はかりしれない絶大な恵みを無視していることです。



⑤ キリストの十字架の死と復活 新創造に至る唯一の道

少し話が横に逸れますが、今日、クリスチャンにはもろもろの罪の贖いとしての十字架は語られますが、新創造に至るためのキリストの十字架の死についてはほとんど知らされていません。この地上での生涯において、新創造とされることの意味を知るためには、私たちはキリストの十字架の死について知ることを避けて通ることはできないにも関わらずです。

十字架で流された子羊の血潮は、私たちのもろもろの罪(複数形)を赦すことができ、それを通して私たちは神との和解を受けます。しかし、十字架の贖いの働きはそこで終わりません。血潮によってもろもろの罪に対する赦しを得ることは、私たちの旧創造、単数形の罪を対処することとは別のことです。旧創造を対処するのは、血潮ではなく、十字架です。

たとえ血潮によって何度、もろもろの罪を赦されたとしても、もろもろの罪を生み出す源となっている「罪と死の原理」(ローマ8:2)が私たちの肉のうちに、この罪のからだの内に働いている限り、私たちは依然として罪に支配され、そこから一歩も抜け出すことができません。それはちょうど悪習慣に支配されている人が、何度、悪い行ないをやめようと決意し、努力を重ねても、目に見えない強力な力によって、再び同じ悪い行ないに引き戻されていくのに似ています。一つ一つの行ないは目に見えない法則性の結果に過ぎず、その法則性が断ち切られない限り、何度でも同じ結果が現われるのです。

私たちの生まれながらの命、アダムの命の中には、ただ挫折あるのみです。肉に従って歩いている者は、肉の原理に支配されるしかなく、決して神に従い得ないのです。肉の内に、朽ちるからだの内に働く罪と死の原理が有効である限り、それは私たちに何度でも罪を犯させ、滅びという結果を刈り取らせるだけなのです。

ですから、私たちがからだの内に働く「罪と死の原理」から解放されるためには、死によって、肉の支配から解放されるという方法しかありません。それを実現するために、キリストは、(彼に罪はありませんでしたが)罪深い肉と同じようなさまで地上へ遣わされ、全てのアダム(肉)を着て十字架へと向かわれ、十字架上で肉において罪を罰せられ、ご自分の死によって罪深い肉を永遠に廃棄されたのです。私たちが信仰によって彼の死を自分の死として受け取るとき、キリストの十字架は私たちの罪深い肉に対して霊的な死を及ぼすのです。

「キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。」(ローマ8:2-4)

「私はキリストとともに十字架につけられました」(ガラテヤ2:20)――信仰によって、この事実を受け取り、彼の刑罰を、私たちは自分自身の刑罰として受け取ります。信仰によって、私たちは彼とともに十字架につけられました、そこで私たちの厭うべき罪深い肉が処罰され、この罪のからだは、彼とともに十字架につけられて死んだのです――。「それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです」 キリストの死を通してのみ、私たちはもはや「肉に従って歩まず」とも良くなります、そして、彼のよみがえりの命を通してのみ、「御霊に従って歩む」者とされます、アダムの命は挫折しか招きませんが、キリストの命だけが、死に至るまでの神への従順を私たちの内側に成就することができます、聖書は言います。「あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。」(コロサイ3:3)

キリストとともに十字架で死んだ――この事実に信仰によって立ち続け、彼とともに彼の十字架を通して、肉に死んで、アダムの命に死んで、彼の命によって生かされることにより、私たちは「肉に従って生きる責任」(ローマ8:12)から解放されて、それとは全く異なる新しい原理であり、神の御旨に反することのない「いのちの御霊の原理」(ローマ8:2)によって生かされるのです。

「もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。」(ローマ8:13)

主イエスの十字架の死以外のどんなものも、私たちを罪と死の原理から解放できません。主イエスの十字架以外のどんなものも、私たちをアダムの古き命から解放し、キリストのよみがえりの命に至らせることはできません。旧創造は何の役にも立たず、ただキリストにあって、新しく造られた者、新創造だけが、神の御前に価値あるものなのです。第一の人アダムは失敗し、何の価値もなくなりました。第二のアダムであるキリストだけが、今や神の御心を満足させます。第一の人アダムは不完全で、自分の外側にある行ないによって神への従順を表わさなければなりませんでしたが、それに失敗し、神に従順であることができませんでした。しかし、第二の人キリストは死に至るまで従順であることにより、神の御心を完全に満足させる、完全な人となりました。今や、このキリストが内に住まわれ、彼の命によって生かされ、彼の内にとどまることを通して、人はこの栄光の望みであるお方によって、神の御旨を成就することのできる、神の御心にかなう者とされるのです。

「もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださるのです。」(ローマ8:11)

信仰によってキリストの十字架の死と復活の力を知ること、それは一度限りではなく、生涯かけて追い求めるべきものであることをパウロは述べています。(ピリピ3:10-12) 地上にあって、この贖われない肉体の幕屋の中にあって歩んでいる限り、私たちは完全な贖いに達することはできませんが、彼の死と復活をより深く知ることにより、霊・魂・肉体の全ての面に渡って旧創造の滅びの縄目から解放されて、新しい人とされることが許されているのです。これが御子が十字架において肉体を裂かれ、死の刑罰を受けられ、また、死を打ち破ってよみがえられたことにより、私たちのために切り開いて下さった新しい人への道です。この十字架の働きは信仰者が生涯かけて信仰によって追い求めるべきものです。


⑥ アダムの命と神の永遠の命との違い

このように、神の永遠の命はただキリストを通してのみ得られ、キリストのうちにのみあります。それは賜物であり、人が生まれながらに持っているアダムの命とは何の関係もありません。前述の『人とは何者なのでしょう?』の中で、オースチン・スパークスは、キリストの贖いを通して、人が神の永遠の命を受けて新生され、信仰によってキリストとの真の結合に至る道と、人が生まれながらのアダムの命、すなわち、自己の魂の内にある何らかの力に目覚めることによって、神と融合できると教えるグノーシス主義の偽りの教えとの違いを明確に区別して、次のように述べています。

「…永遠のいのちは賜物であることを心に留めなければなりません。<…>新生に関する二つの解釈があります。一つは真実であり、他方は真理をくつがえす美しい嘘です。

この(誤謬である―筆者)後者の解釈によると、霊のいのちは復興の類のものであり、神秘的な力の働きによって引き起こされる内なる活性化です神秘的な力が魂を取り囲み、春の陽ざしが眠れる種子を目覚めさせるように魂を昏睡から目覚めさせ、すでにあるけれども眠っている力を活動させるというのです――私たちがすでに持っているものを高い水準、満潮へと引き上げ、その結果、これまで及ぶことなく活性化していなかった領域にも満ちあふれ、抑圧されていた力と機能をただちに解放し、内側の意識と外側の奉仕に効力を及ぼすというのです。

他方の真実な解釈によると、新生は全く新しい別のいのちを受けることであり、キリストのように神聖な受胎という特別な働きによって上から生まれるために必要です――私たちの人間生活の中にそれまで存在していなかった全く新しい独特なものを賦与されることであり、元々私たちの内には備わっていない、ユニークで奇跡的な誕生による、全く別のいのちであり続けます。」

 
オースチンスパークスがここで「真理を覆す美しい嘘」と述べているものが、まさにグノーシス主義に相当することを私たちは見ます。グノーシス主義の教えは、神の「霊のいのちは復興の類」であると解釈します。つまり、人のアダムの生まれながらの命の中に眠っていた何らかの要素が「復興」されることにより(もしくは「覚醒」されることにより)、人の自己のそれまで活動していなかった領域が活性化されて、人の自己がより高次の水準に引き上げられ、「抑圧されていた力と機能をただちに解放」し、神と融合し、神のようになると主張するのです。グノーシス主義は、生まれながらの人の自己の「神秘的な力の働きによって引き起こされる内なる活性化」こそが、人を神の命に至らせる道であると主張するのです。

マービン・マイヤー氏はこのようなグノーシス主義の立場を説明して次のように言います、「神とはおのれのなかに存在する魂であり、内なる光である」(『原典 ユダの福音書』、p.9)と。

キリストの十字架を介さなくとも人が神に至れるとしている点で、このような考えが決定的に誤っていることはすでに説明しましたが、その他の点でも、グノーシス主義は神の命というものを、人間の生まれながらの魂の内に見いだそうとし、人の命と神の命の性質を混同している点で、完全に誤っているのです。

オースチン・スパークスは新生によって人が受ける神の命についてこう説明します、「新生は全く新しい別のいのちを受けること」であり、「私たちの人間生活の中にそれまで存在していなかった全く新しい独特なものを賦与されること」、つまり、神の命とは「元々私たちの内には備わっていない、ユニークで奇跡的な誕生による、全く別のいのち」であると。

神の永遠の命は賜物であって、人自身が生まれながらに持っている命とは全く性質が異なります。アダムには神の永遠の命はありませんでした。今日、クリスチャンがキリストの贖いによって受ける命は、アダムの命とは全く別の、それまで人の内には存在したことのない、ユニークで、新しく、力強い、永遠に至る命なのです。生まれながらの人の命の中にあるどんな要素からも、神の永遠の命を作り出すことは決してできません。

しかし、グノーシス主義者は、人の生まれながらの命の中に、神の命に至る何らかの要素を見つけ出すことができると主張します(これは錬金術のようなものです)。彼らの言う人の自己の中にある「神的火花」の内容は、それぞれの説によって異なっており、サンダー・シングの主張する「聖なる火花」が、生まれながらの人の良心を指しているかと思えば、解放神学者らは、人の「社会的弱者性」の中に、神性を見いだそうとします。

すでに紹介したように、解放神学者ジェームズ・コーンは、「神の国は、社会の反逆児、見捨てられた人々、弱者のものであって、自称義人のものではない」(『解放神学 虚と実』、p.45)と述べました。このことは彼が「貧しき者たち」や「虐げられた人々」など、生まれながらの人の「社会的弱者性」のうちに「神」に至る要素を見いだそうとしたことを示しています。今日のクリスチャンの間にも同じように、聖書を歪曲して、生まれながらの人の「弱者性」や「被害者性」のうちに「神が宿っておられる」と主張する危険な考え方が広まっています。このような異端的思想が、反カルト運動を支える理念となっていたことはすでに幾度も指摘しました。

聖書によれば、私たちは確かに、貧しい者たち、虐げられた人々、心砕かれて、へりくだった者たちの信仰に、神が特別な憐れみと配慮をもって応えて下さることを知ることができます。たとえば、「あなたはみなしごを助ける方」(詩篇10:14)、「みなしごの父、やもめのさばき人は聖なる住まいにおられる神」(詩篇68:5)、第146篇他をご参照下さい。しかし、そのことは決して、人間が、信仰によらず、生まれながらの自己に属する何らかの要素――たとえば、貧しさや、弱さや、苦難や、抑圧されていることなど――によって、神に至ることができるということを全く意味しません。

救いはあくまで神の一方的な恵みであり、神の御業であり、永遠の命は賜物として与えられるものであり、人自身の内にある何かによって達成されるものではないのです。ダビデが上記の詩篇で歌ったような貧しい人々は、福音書を見るならば、ただ信仰によって、主イエスを救い主として受け入れることによって、神の御業によって救われたことが分かります。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:6)と言われる主イエスが彼らを救われたのであって、人自身の弱者性が彼らを救ったのでは全くないのです。


⑦ 人の魂の危険性と、自己(魂の命)を否んでキリストのうちにとどまる必要性

オースチン・スパークスは言います、「人の魂は複雑で危険なものであり、けたはずれなことを行うことができます。後で見るように、それは私たちを完全に誤らせることができ、私たちを何度も欺くことができます。」

「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。」(エレミヤ17:9)、この箇所は口語訳ではこうなっています、「心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。だれがこれを、よく知ることができようか。 」 ダビデは書いています、「人の内側のものと心とは、深いものです。」(詩篇64:6)と。人の生まれながらの魂は、偽りに満ちており、甚だしく悪に染まっており、とても深くて危険なものなのです。にも関わらず、グノーシス主義のように、人の生まれながらの魂のうちに「神性」を見いだし、人の生まれながらの自己を触発して、その内に眠っている何らかの力を目覚めさせることによって、人をより高次元な存在へと導こうとするような教えは、魂を肥大化させるという点で、大きな危険性をはらんでいます。そのような教えは人を欺いて神に逆らわせることができるだけでなく、人の魂を肥大化させることによって、その人の内なる秩序を覆し、その人の自己を崩壊に導くことさえできるのです。

「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」(詩篇51:17)

クリスチャンの内に「キリストが形作られる」(ガラテヤ4:19)過程は、グノーシス主義者が魂を肥大化させる過程とは全く異なります。私たちは、生まれながらの自己を十字架で否み、アダムの命を主とともなる十字架で死に渡すことによって、自分自身の生まれながらの魂や、アダムの命から来る肉の力によって歩むのではなく、信仰によって、キリストのまことの命によって歩む新しい人とされるのです。

「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子の信仰によっているのです。」(ガラテヤ2:20)

私たちに与えられている神の命は、私たちが神を離れて所有したり、独立して行使したりすることのできる類のものではなく、「依然として神のパースンの中に保たれます。「神は私たちに永遠のいのちを与えて下さいました。このいのちは御子の中にあります」(ヨハネ第一の手紙5章11節)。」

アダムは自分の外にある命の木を選び取ることによって、神への従順を表明しなければなりませんでした。堕落の後、人は律法を守ることによって、神への従順を表明しなければなりませんでした。しかし、人はそのような外的表明に決して成功することはありませんでした。それはただ人がいかに不完全であって、神に従い得ない者であるかを証明したに過ぎません。

御子の十字架を経て、今や、従順は外面的行為ではなく、信仰によって、内なるキリストによって達成されるようになりました。完全さはキリストにのみあります。私たちは外側にあるものに手を伸ばすことによって完全になろうとするのではなく――命の木はキリストご自身です――ユニークなパースンとして私たちの内に住んで下さるキリストを通して、全ての必要の供給を受けるのです。「見えない神のかたち」(コロサイ1:15)である御子との結合にとどまり、彼の与えられた戒めを守り、御子のパースンとの生き生きとした交わりの中に、御子のうちにとどまること、それこそが私たちが御霊によって導かれる神の子供であり続けるために必要なことなのです。「あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望み」(コロサイ1:27)

グノーシス主義においては、人の生まれながらの自己のうちに神性が宿っているとしながらも、グノーシス(知恵)の啓示を受けるのには、結局、目に見える導師や導き手といった仲介者の存在が不可欠とされているのに対し、聖書の御言葉は、私たちが信仰によってキリストの死と復活と一つにされ、彼の内にとどまるとき、目に見える仲介者は不要であり(神と人との仲保者はただお一人キリスト・イエス以外にはないのですから(Ⅰテモテ2:5))、私たちは外側の何にも頼らずとも、キリストにあってすべてを得ており、私たちの内に与えられた見えない油塗りである御霊こそが必要な真理を私たちに教えて下さることをはっきりと示しています。

「あなたがたのばあいは、キリストから受けた注ぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。彼の油がすべてのことについてあなたがたをお教えるように、――その教えは真理であって偽りであはりません。――また、その油があなたがたに教えたとおりに、あなたがたはキリストのうちにとどまるのです。そこで、子どもたちよ。キリストにとどまっていなさい。」(Ⅰヨハネ2:27-28)

わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びますわたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」(ヨハネ15:4-5)

「…キリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。私がこう言うのは、だれもまことしやかな議論によって、あなたがたをあやまちに導くことのないためです。」(コロサイ2:3-4)

キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。」(コロサイ2:9-10)

まことの命の供給者、知恵の供給者は、見えない神のかたちである御子ご自身であり、私たちのアダムの命の内には何もありません。私たちは内なる塗り油にとどまり、内におられるキリストにとどまり、彼の頭首権に服し、彼に従うことにより、神の御心を満足させる神の子供となるのです。私たちの内におられるキリストこそ全ての全てであられ、私たちの栄光の望みなのです。




▼続きを読む

この記事へコメントする








絵文字:
Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字









「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)

「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。

しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」

こういうわけで、兄弟たちよ。 私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」
(ガラテヤ4:28-31)