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さらに、私たちは今日の世の堕落が、教会の堕落と同じ有様を見せているという点に、無関心であってはなりません。腐敗した教会とこの世が合わせ鏡になっているという主張は正しく、私たちは決して世の動向に対して不注意であってはならないのです。

今、私たちは世にあるのと全く同じ偽りが、エレミヤの時代から今日に至るまで、腐敗した会堂に共通した夢幻であったことを見ないではいられません。「安全だ」、「安全だ」と言い続け来た世と、「平安だ」、「平安だ」と言い続けて来た教会とは一つなのです。そこには、人々が自分にとって厳しい現実から目を背け、自分に都合の良い夢幻、すなわち、自分の思い描いた嘘を「現実」にすりかえて来たという同じ共通点があるのです。

私たちは今日の政治や社会の状況が、信仰とは無関係な事柄だなどと思うべきではありません。あるクリスチャンは、聖書の御言葉だけに没頭することが正しいと思い込み、世からの情報の一切をシャットアウトしています、文学にも、政治にも、経済にも、芸術にも、何の価値もないと思い、注意を払おうとしませんが、そのような考えは甚だしい誤りです。

主は言われたのです、「いちじくの木から、たとえを学びなさい。」(マタイ24:32)と。聖書は私たちが今の時代の様相から、自分たちがどういう時に直面しているのかをきちんと目を覚まして、注意して読み取るように勧めています。私たちが時代から取り残されて、世俗から一切切り離された所で、ただ御言葉だけに埋没して暮らしなさいとは言っていません。文学は関係ないとか、経済は関係ないとか、政治や社会には関わってはいけませんなどとも言われていません。むしろ逆です。私たちは世に遣わされています。私たちは世が今、どのような危険にさらされているのかを見ることによって、自分たちの信仰がどのような試みにさらされているのかを理解する手がかりを得、そして、積極的に世に出て行くことによって、私たちの持っている光を世に輝かせるのです。私たちはクリスチャンだからと言って、世の事情に疎くあるべきではありません。

この国においては、これまで、ある人々が巨大な利権を失うまいとして、現実の目の前にある危険を否定して、呪文のように繰り返し「安全」を唱えては、人々に危険を忘れさせ、自分たちにとって都合の悪い事実を押し隠し、夢幻をひたすら信じ込ませて来ました。そして、そのような世の偽りに対し、一つの刑罰とも言える時がやって来ているのを私たちは見ています。

同様に、今日、健全な福音から逸れてしまった教会は、しきりに罪人に対する「愛」や「憐み」や「平安」や「祝福」ばかりを強調し、人間本位に歪められた愛の福音を語ることによって、クリスチャンに神の裁きに対する恐れや、ひいては神に対する恐れそのものを忘れさせ、クリスチャンを深い偽りの霊的なまどろみの中に陥れています。そこで語られている歪められた福音の内容は、エレミヤの時代の偽預言者たちの語った内容とほぼ同じです。どうしてこのような偽りの福音に対して神の御手が置かれないことがあるでしょうか?

「私(エレミヤ)は言った。『ああ、神、主よ。預言者たちは、『あなたがたは剣を見ず、ききんもあなたがたに起こらない。かえって、わたしはこの所でまことの平安をあなたがたに与える。』と人々に言っているではありませんか。』

主は私に仰せられた。『あの預言者たちは、わたしの名によって偽りを預言している。わたしは彼らを遣わしたこともなく、彼らに命じたこともなく、語ったこともない彼らは、偽りの幻と、むなしい占いと、自分の心の偽りごとを、あなたがたに預言しているのだ

それゆえ、わたしの名によって預言はするが、わたしが遣わしたのではない預言者たち、『剣やききんがこの国に起こらない。』と言っているこの預言者たちについて、主はこう仰せられる。『剣とききんによって、その預言者たちは滅びうせる。』 彼らの預言を聞いた民も、ききんと剣によってエルサレムの道ばたに投げ出され、彼らを葬る者もいなくなる彼らも、その妻も、息子、娘もそのようになる。わたしは、彼らの上にわざわいを注ぎかける。」(エレミヤ14:13-16)


ここで預言者エレミヤの時代の民の状態が、今日、私たちのこの国における現状と非常に重なって見えることに注意して下さい。危険に対して目を覚ましていることを忘れ、自分に都合の良い薔薇色の夢幻のゆりかごの中で、深いまどろみに陥ってきたこの国の状態が、重なって見えることに注意を払ってください。

「…それは、わたしがこの国の住民に 手を伸ばすからだ
――主の御告げ。――
なぜなら、身分の低い者から高い者まで、みな利得をむさぼり、
預言者から祭司に至るまで、みな偽りを行なっているからだ

彼らは、わたしの民の傷を手軽にいやし、
平安がないのに、『平安だ、平安だ。』と言っている


彼らは忌みきらうべきことをして、恥を見ただろうか。
彼らは少しも恥じず、恥じることも知らない

だから、彼らは、倒れる者の中に倒れ、
わたしが彼らを罰する時に、よろめき倒れる
。』と
主は仰せられる。」(エレミヤ6:12-15)


本当は、罪によって生じた民の傷は重いものであり、手軽にいやしてはいけなかったのです。もしも痛みを直視するならば、それが目を覚ますきっかけを与えたかも知れません。ところが、偽預言者らは「平安だ、平安だ」と呪文のように言い聞かせることによって、民に傷の痛みを忘れさせ、犯した罪と悪事の重さを忘れさせ、そうすることによって、危険から目を背け、彼らが決して罪と悪事を離れて、悔い改めて神に立ち戻らないようにしたのです。良いことづくめの教えを語り聞かせることによって、民に自分たちは悪くないのだと自己安堵させ、神の御前で自分たちがどれほどまでに堕落し切っているのか、どれほど自分たちが神から遠く離れてしまったのか、どんな滅びの危険が忍び寄って来ているのかに気づかせないようにし、民に決して現実を直視させないように仕向けたのです。

今日の私たちの置かれている状況と、偽預言者たちの唱える偽りの「平安」の夢によって民が眠らされていたエレミヤの時代には、ほとんど何の変わりもないことを私たちは見ます。

聖書はそのようなものを人の心から出て来た「夢」と呼んでいます。それは「偽りの幻」、「むなしい占い」、「自分の心の偽り」です。偽りの福音は、人の耳には子守唄のように心地よく響くでしょうが、それに安堵して、目を覚ましていなければならないときに寝入ってしまうならば、滅びが待ち受けています。罪人にとっては砂糖菓子のように甘く優しいその教えは真実ではなく、人間の欲望によって作り出された幻であり、欺きであり、滅びへと通じる広き門なのです。

わたしの名によって偽りを預言する預言者たちが、『私は夢を見た。夢を見た。』と言ったのを、わたしは聞いたいつまで偽りの預言が、あの預言者たちの心にあるのだろうかいつまで欺きの預言が、彼らの心にあるのだろうか。彼らの先祖がバアルのためにわたしの名を忘れたように、彼らはおのおの自分たちの夢を述べ、わたしの民にわたしの名を忘れさせようと、たくらんでいるのだろうか。

夢を見る預言者は夢を述べるがよい。しかし、わたしのことばを聞く者は、わたしのことばを忠実に語らなければならない麦はわらと何のかかわりがあろうか。――主の御告げ。――

わたしのことばは火のようではないか。また、岩を砕く金槌のようではないか。――主の御告げ。――それゆえ、見よ、――主の御告げ。――わたしは、おのおのわたしのことばを盗む預言者たちの敵となる

見よ。――主の御告げ。――わたしは、自分たちの舌を遣って御告げを告げる預言者たちの敵となる見よ。わたしは偽りの夢を預言する者たちの敵となる。――主の御告げ。――彼らは、偽りと自慢話をわたしの民に述べて惑わしているわたしは彼らを遣わさず、彼らに命じもしなかったかれらは この民にとって、何の役にも立ちはしない。――主の御告げ。――

この民、あるいは預言者、あるいは祭司が、『主の宣告とは何か。』とあなたに尋ねたら、あなたは彼らに、『あなたがたが重荷だ。だから、わたしはあなたがたを捨てる。』と言え。」(エレミヤ23:25-33)


私たちは、福音の中から人間に都合の良い部分だけを切り取って、その部分だけを押し広げようとの誘惑をきっぱり退けなければなりません。何でも愛して赦すべしと主張し、すべてを「愛」という美名の下にごちゃまぜにし、真理と虚偽との区別を否定し、人の罪の存在を否定し、神の裁きを否定し、十字架の切り分けを否定する教えを拒否しなければなりません。私たちは聖書の言葉を曲げずに、忠実に伝えなければなりません。自分に都合の良い、自分の見たい夢を「現実だ」と主張するのではなく、主が本当に私たちに見せたいと思っておられる現実とは何なのか、神の真実とは何なのか、神がご覧になる私たちの本当の姿とはどのようなものかに注意を払い、神がご覧になられるように、事実を知らせていただきたいと願う必要があります。私たちは神を恐れなければなりません。もしそうでなければ、私たちは自分で作り上げた夢幻に欺かれてしまうことになるでしょう。

ですから、私たちは聞いたことを、ますますしっかり心に留めて、押し流されないようにしなければなりません。」(ヘブル2:1) 自分に都合の良いことを言ってもらうために、真理から耳を背け、空想話に逸れていくようであってはなりません。しっかりと目を覚まして、全聖書が共通して述べている警告に注意を払いましょう。

「兄弟たち。それらがいつなのか、またどういう時かについては、あなたがたは私たちに書いてもらう必要がありません。主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです

人々が『平和だ。安全だ。』と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかりますちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません

しかし、兄弟たち。あなたがたは暗やみの中にはいないのですから、その日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもだからです。私たちは、夜や暗やみの者のようではありません。

ですから、ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まして、慎み深くしていましょう。眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うからです。しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの望みをかぶととしてかぶって、慎み深くしていましょう。神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。」(Ⅰテサロニケ5:5-7)


悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。しかし、真理を行なう者は、光のほうに来る。その行ないが神にあってなされたことが明らかにされるためである。」

「あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。――光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実なのです。―― …実を結ばない暗やみのわざに仲間入りしないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。」(エペソ5:8-11)

光の中にいると言いながら、兄弟を憎んでいる者は、今もなお、やみの中にいるのです。」(Ⅰヨハネ2:9)

まだしばらくの間、光はあなたがたの間にありますやみがあなたがたを襲うことのないように、あなたがたは、光がある間に歩きなさいやみの中を歩く者は、自分がどこに行くのかわかりませんあなたがたに光がある間に、光の子どもとなるために、光を信じなさい。」(ヨハネ12:35-36)



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「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)

「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。

しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」

こういうわけで、兄弟たちよ。 私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」
(ガラテヤ4:28-31)


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