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さて、ヨナ書の冒頭には、ただ次のように短く述べられているだけです。

「アミタイの子ヨナに次のような主のことばがあった。『立って、あの大きな町ニネベに行き、これに向かって叫べ。彼らの悪がわたしの前に上って来たからだ。』

しかしヨナは、主の御顔を避けてタルシシュへのがれようとし、立って、ヨッパに下った。」(ヨナ1:1-3)

なぜヨナが「主の御顔を避け」たのか、その理由はここでははっきり説明されていません。しかし、私たちはそれを十分に想像できます。多分、ヨナはニネベの街に滅びを告げたくなかったのでしょう。なぜなら、彼が託されたメッセージは、人々の平安と喜びに水を差すような内容であり、多くの人を不安に陥れ、憤らせ、彼に対する敵意を呼び起こすような、反人間的なメッセージだったからです。

ヨナは一人の弱い人間として、神がニネベの街全体に滅びの宣告を下されたとき、ニネベの街の人々に同情したのかも知れません。人間の代表として、同じ人間に死刑を宣告するような役割を、彼は担いたくなかったのでしょう。もっと人の心を安心させるような、喜ばしいニュースを神から託されたのであれば、彼は飛んで行って伝えたことでしょう。しかし、たった一人で、ニネベの全人口を敵に回すような恐ろしい滅びのメッセージを語ることを考えると、二の足を踏んだのだと思われます。

私たちは聖書を見るならば、主によって遣わされた歴代預言者たちのほとんど一人ひとりが、ヨナと同じ役割を担わされたことを知ります。彼らの役割は、金の子牛を拝んだ同胞を、涙を飲んで剣で刺し通さなければならなかったレビ族とほとんど同じでした。

「たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです。それは、『あなたが、そのみことばによって正しいとされ、さばかれるときには勝利を得られるため。』と書いてあるとおりです。」(ローマ2:4)

神がお選びになった預言者は、神の側に立つことを余儀なくされ、もはや生まれながらの人間の利益の代表者として立つことはできませんでした。彼らはたとえ全ての同胞から憎まれ、のけ者にされたとしても、忠実に神の言葉を人々に伝えねばなりませんでした。彼らの役割のほとんどは、あなた方は祝福されていますとか、あなた方の罪は赦されたので喜びなさいと、人の耳を喜ばせるような、甘く、心地よいニュースを告げることではなく、むしろ、民の背信の罪の重さをありのままで示し、たとえ彼らの面目をどんなに損なったとしても、神がどれほど彼らの堕落した状態に心痛め、彼らの悪行をお怒りになっているかを率直に告げて、悔い改めを促すことでした。彼らは民の憎しみを買い、危害を加えられる恐れがあったとしても、民の罪をありのまま包み隠さずに指摘しなければなりませんでした。そして、そのままでは彼らが滅びることを警告し、厳しい警告によって、神に立ち帰るよう促さねばならなかったのです。

その結果として、預言者らは民によって憎まれ、迫害され、中傷され、追いつめられ、殺されました。ヘブル書には、預言者たちが民からどんな扱いを受けたかが克明に記されています。

「また、ほかの人たちは、あざけられ、むちで打たれ、さらに鎖につながれ、牢に入れられるめに会い、また、石で打たれ、試みを受け、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊ややぎの皮を着て歩き回り、乏しくなり、悩まされ、苦しめられ、――この世は彼らにふさわしい所ではありませんでした。――荒野と山とほら穴と地の穴とをさまよいました。この人々はみな、その信仰によってあかしされましたが、約束されたものは得ませんでした。」(ヘブル11:36-39)

この記述は、預言者らに託された神の言葉が、どれほど彼ら自身にとっても重い代償を伴うものであったかを示しています。人は自分のありのままの罪深い状態を誰かから指摘されることを好みません。生まれながらの人は自分の面目を失うことを嫌い、自分の罪が光の下に暴露されることを憎むのです。

「光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである。悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。しかし、真理を行なう者は、光のほうに来る。その行ないが神にあってなされたことが明らかにされるためである。」(ヨハネ3:19-21)

悪い時代には、悪い預言者、悪い教師たちが横行します、彼らは、罪に対する人々の鋭敏な良心の感覚を鈍らせ、罪を罪とせず、悪事を悪事とせず、民の心を真摯な悔い改めから遠く引き離して、むしろ自己安堵させるような、人の耳に甘く、都合の良い言葉ばかりを並べて、人の心をますます尊大にわがままにさせていきます。そして、主が本当に人々に伝えようとしておられる厳しい警告の言葉を嘲笑い、覆い隠し、踏みにじり、主が遣わされた預言者らを罪に定めて迫害します。

「というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。」(Ⅱテモテ3:3-4)

私たちはエレミヤの時代の偽預言者たちの語った内容と、現代のクリスチャンの間に横行している「歪められた愛の福音」が、人の心を喜ばせ、人の罪を覆い隠すという点で、共通した基盤を持っていることに気づかないではおれないのです。

「万軍の主はこう仰せられる。
あなたがたに預言する預言者たちのことばを聞くな
彼らはあなたがたをむなしいものにしようとしている
主の口からではなく、自分の心の幻を語っている

彼らは、わたしを侮る者に向かって
主はあなたがたに平安があると告げられた。』としきりに言っており
また、かたくなな心のままに歩むすべての者に向かって
あなたがたにはわざわいが来ない。』と言っている。」(エレミヤ23:16-17)

偽預言者たちは民の罪を覆い隠すために、主の御名によって、「神の愛」や、「平安」や、「祝福」や、「安全」を語っていました。確かに神は愛です。確かに神は憐み深い方です。神は一人として人間が滅びることを願っておられません。しかしながら、神の憐み深い性質を罪に対する隠れ蓑として利用することはできません。それは神を侮ることを意味します。神は愛でありますが、大いなる裁き主でもあられ、妬む神、報復される方、正義を曲げないお方、不義を罰せずにはおかないお方、全ての汚れたものを焼き尽くす火であられます。

ですから、私たちは神の正しい裁きを曲げて、人類の罪を覆い隠すために、しきりに「神の愛」や「平安」や「喜び」や「祝福」などを強調し、人にとって都合の良い言葉ばかりを並べる「砂糖まぶしの愛の福音」が、どれほど主の御前に忌むべきものであるかを知るのです。

ある牧師は、不当に追いつめられたクリスチャンが、神に正しい裁きを求めて叫ぶことさえも罪であると非難して、罪人を擁護しました。その牧師は、悪事によって不当に追いつめられた人が、悪者たちの脅しから、神が身を守って下さり、罪人に対して正しい裁きをなして下さるようにと神に向かって叫び求めたその願いさえも、「人を呪う」ことだと言って罪に定めたのです。こうして、神の言葉を預かる教師でありながら、無実の弱い人を罪に定め、その口を封じ、追いつめられた人が神に向かって助けを求めることさえも罪として非難し、悪事を犯した罪人の罪を公然と擁護し、無罪放免し、罪人らを祝福する側に回ったのです。

さらに、その人は、聖書がはっきりと、「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着け」る(エペソ6:11)ようクリスチャンに命じ、「…御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい」(エペソ6:17)と命じているにも関わらず、悪しき暗闇の霊的な軍勢に立ち向かうために、神の子供が御言葉の剣によって武装することを「悪事」として非難したのです。これはとんでもないことです。

主イエスは、裁判官とやもめのたとえを使って、不当に虐げられた弱い人々が、神に向かって正しい裁きを求めて叫ぶことが決して間違っていないことを示されました。なぜなら、報復と裁きは神がなさる重要な仕事だからです。

「主は言われた。『不正な裁判官の言っていることを聞きなさい。まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうかあなたがたに言いますが、神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをして下さいます。」(ルカ18:6-8)

聖書がこう語っているのですから、私たち聖徒らは、夜昼、神に正しい裁きを求めて叫び求めることを禁じられていないのです。創世記においては、大地に流されたアベルの血が神に向かって叫んだと(創世記4:10)書かれています。黙示録では、「神のことばと、自分たちが立てたあかしとのために殺された人々のたましい」が、大声で叫んで言います、聖なる、真実な主よ。いつまでさばきを行なわず、地に住む者に私たちの血の復讐をなさらないのですか。」(黙示6:9-10) 

このように義なる裁き主であられる神は、不当に罪に定められた聖徒らの叫びに耳を傾けておられ、彼らのために正しい報復をして下さいます。全ての聖徒らは、神に正しい裁きと報復を求めて叫ぶことが許されています。自分で報復することはいけませんが、神に報復を求めることは禁じられていないのです。

ですから、間違っているのは、神に裁きを求めて叫ぶことではなく、裁かれるべき罪人を不当に擁護して、正しい人の訴えを封じようとすることであり、神の裁きを公然と語らねばならない場面においてすら、罪人に対する甘い祝福の言葉ばかりを並べて、人の罪を覆い隠し、弁護することなのです。神の正しい裁きを曲げて、無実の人を罪に定めて、人間の罪を擁護することは大いなる悪事なのです。

律法の教師を自称していながら、罪のない者を罪に定め、義人の血をためらいなく流してまで、人類の罪を擁護するような偽善者らに対して、主イエスがどれほど厳しく宣告されたかを思い出さねばなりません。

「忌まわしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは白く塗った墓のようなものです。墓はその外側は美しく見えても、内側は、死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいなように、あなたがたも、外側は人に正しいと見えても、内側は偽善と不法でいっぱいです

忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは預言者の墓を建て、義人の記念碑を飾って、『私たちが、先祖の時代に生きていたら、預言者たちの血を流すような仲間にはならなかっただろう。』と言います。こうして、預言者を殺した者たちの子孫だと、自分で証言しています

あなたがたも先祖の罪の目盛りの不足分を満たしなさいおまえたち蛇ども、まむしのすえども。おまえたちは、ゲヘナの刑罰をどうしてのがれることができようだから、わたしが預言者、知者、律法学者たちを遣わすと、おまえたちはそのうちのある者を殺し、十字架につけ、またある者を会堂でむち打ち、町から町へと迫害して行くのです

それは義人アベルの血からこのかた、神殿と祭壇との間で殺されたバラキヤの子ザカリヤの血に至るまで、地上で流されるすべての正しい血の報復があなたがたの上に来るためです。まことに、あなたがたに告げます。これらの報いは、みな、この時代の上に来ます。」(マタイ23:27-36)


この文脈を通して私たちは、一人の無実の聖徒を罪に定め、一人の罪なき者の血を不当に流すことが、主イエスを十字架につけた罪と一つにつながっており、それは義人アベルの血からこの方、地上で流された全ての正しい聖徒らの血の報復を我が身に招くことにつながりかねないことを理解するのです。誰がそんな恐ろしい責任を我が身に負えるでしょうか。ですから、私たちは神の裁きを否定したり、真理を否定して、義人を罪に定めることの恐ろしさを考えてみなければなりません。罪人に対しては、神の正しい裁きと報復があることを語り、神の裁きを厳かに恐れて、罪を離れるように勧めなければならないのです。

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「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)

「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。

しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」

こういうわけで、兄弟たちよ。 私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」
(ガラテヤ4:28-31)


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