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高ぶりは滅びにさきだち、誇る心は倒れにさきだつ。 」(箴言16:18)
高ぶりおごる者を「あざける者」となづける、彼は高慢無礼な行いをするものである。」(箴言21:24)


友よ、人の心が神から逸れていくとき、他のどんなことよりも、とりわけすぐにその人に現われる危険の兆候は何でしょう。それは高ぶりではないかと思います。

富が増し加わるとき、強さが増し加わるとき、人は心に高ぶる危険と隣り合わせです。一体、高ぶりとは何なのでしょうか。それはただ他人に対して、尊大に、横柄に、無慈悲に振舞うことだけを意味するのではありません。高ぶりとは、まず何よりも、神が占めておられる地位に自らが立とうとする人間の欲望を言うのです。

聖書に言う高ぶりとは、誰よりも、神に対する高ぶりです。それは神に近いところに立っている者でなければ、生じ得ない誘惑だと言えるでしょう。サタンも、もともとは神によって信任を得、絶大な権威をまかされていましたが、その権威を自らのために悪用したことから、堕落が起こったのです。

同様に、クリスチャンが霊的な知識を追い求めることや、神に近づくことを、自分自身の栄光のために求め始めると、その人はサタンと同じ欲望に支配されることになりかねません。神の権威を盗もうとして神に近づくならば、必ず、その人は霊的な秩序への違反のために倒されるのです。

「ところが彼は強くなるに及んで、その心に高ぶり、ついに自分を滅ぼすに至った。すなわち彼はその神、主にむかって罪を犯し、主の宮にはいって香の祭壇の上に香をたこうとした。」(歴代志下26:16)

ウジヤ王は心に高ぶったとき、何を望んだでしょうか。彼は生まれながらの罪に汚れたままの姿で、神の御前に進み出ようとしたのでした。彼は聖別された祭司たちしか入ることを許されていない聖所に入り、祭司にしか許されていない、主に香をたくという奉仕をしようとして、自分を滅ぼしたのです。

私たちは驚きます、心に高ぶったウジヤ王が最も望んだのは、聖なる者として神に仕えることだったのです! このことは、神のそば近くで祭司として仕えるということが、人にとってどれほどの栄光であるかを示しています。しかし、その栄光を、主は決して肉なる者にお与えになることはないのです。

私たちは主に仕える民として召されました。昼も夜も、神の御前に香ばしい祈りと賛美の香を捧げるという、この栄誉ある働きを、神は私たちに望んで下さったのです。しかし、私たちは土足のままで神の聖所に入ることも、神に近づくこともできないことを忘れてはなりません。「ここに近づいてはいけない。足からくつを脱ぎなさい。あなたが立っているその場所は聖なる地だからである」(出エジプト3:5)

神に近づくという行為が何を意味するのか、考えてみる必要があります。ふさわしくない姿で神の御前に進み出ることがどんなに重い裁きに該当するか、考えてみなければなりません。

神と人との前で、「私は聖なる者だ!」と宣言するがごとくに聖所に入ったウジヤ王は、当時、最も汚れた病とみなされていた病に打たれることによって、神の御前から退けられただけでなく、世の中からも忌み嫌われる者のように隔離されるに至ったのです。それが彼の受けた報いでした。

これはアナニヤとサッピラの例にもあてはまります。ウジヤ王が土足で入ったのは、目に見える聖所であったため、彼はその行いにも関わらず、命を失わずに済みましたが、目に見える聖所よりも、はるかにまさった目に見えないエクレシアの霊的秩序を侵害しようとしたアナニヤとサッピラは、より容赦ない裁きを受けて、ただちに倒されたのです。

何が彼らの違反だったのでしょうか。それはアダムの肉のままで、生まれながらの姿のままで、血潮による罪の赦しを経ずに、主とともなる十字架の死を経ないままで、真実なお方を介さずに、自分自身に頼って、罪ある自分自身のままで、自分を義として主の御前に進み出たことなのです。むしろ、自分の生まれながらの肉を、聖なるものに見せかけようとして高く掲げたことなのです。

私たちは肉によってどんなに主の御前に香をたいても、それは神に受け入れられないどころか、最も呪わしい、高ぶりに満ちた礼拝になってしまうことを思い出さねばなりません。ところが、高ぶった人間には、それが罪であることが分からず、神の聖に対し、自分の肉を聖として掲げて挑戦し、滅びにいたってしまうのです。

友よ、私がとても懸念せざるを得ないのは、主とともなる十字架の死を経ていない自分自身を、エクレシアに公然と持ち込もうとする高ぶりが顕著に見られるようになってきたことです。私がそのような力に抵抗し、それと訣別しないならば、霊と魂との切り分けについて語りながら、自分こそが、その切り分けを曖昧にし、旧創造によって神の御前に立とうとする者になってしまう危険性を感じたのです。

キリストが十字架で流された血潮は、私たちがいつでも主の御前に祭司として恵みの御座の前に進み出ることを許してくれています。私たちの犯した複数形の罪に対しては、常に血潮が用意されています。ですから、私たちは十字架の贖いを受け取るならば、いつまでも罪の意識にとどまる必要はありません。

「もし、罪を犯す者があれば、父のみもとには、わたしたちのために助け主、すなわち、義なるイエス・キリストがおられる。彼は、わたしたちの罪のための、あがないの供え物である。ただ、わたしたちの罪のためばかりではなく、全世界の罪のためである。」(Ⅰヨハネ2:1-2)

しかしながら、アダムの内に潜む罪、生まれながらの人の単数形の罪に対する十字架の取り扱いは、このような複数形の罪の贖いとは別に、私たちが一生涯かけて受けなければならない取り扱いです。そして実は、こちらの方が、複数形の罪の贖いに比べて、よほど人にとっては厄介な問題であり、最も私たちをつまずかせやすい問題かも知れないのです。

友よ、私たちは自分が照らされた光に応じて進むべきであって、神は私たちに一挙に聖を求めることはなさいません(もしそのようなことがあれば、私たちは御前にただちに倒れて死ぬ他ないでしょう)。神は私たちが依然として多くの旧創造を持ち越しているのを分かって、なお、私たちをキリストにあって、新しい人として見て下さいます。

しかしながら、私たちは示された光に対しては、忠実でなければならないのです。神は少しずつ、何が旧創造であり、何が私たちの決して頼ってはならないものであるのか、何が生まれながらの自分に属するものであるかを、私たちに知らせて下さいます。もしもその示された光に忠実でなく、かえって自分自身の何かに頼ろうとするならば、私たちはウジヤ王と同じ過ちを犯すことになるでしょう。

友よ、あなたは自分が握っていたものを手放すのがどんなに苦しかったかを話してくれましたね。同じことが、私にも言えます。私たちはこの手の中に、この自分の心の中に、自分が「何者か」であろうとする欲望をしっかりと握っているのです。それは私たちの砕かれていない心であり、私たちの触れられることを拒む弱さであり、私たちが自分の行為に頼り、自分自身から出た善によって、神の御前に進み出ようとする心の武装、神の御前に「私の正しさ」を持って進み出ようとする心の武装なのです。

しかしながら、神は私たちの自己から出て来た善を、どんなものであれ、決してお受け取りになりません。私たちには色々と心によりどころがあり、色々な自負があり、神のためにと言って捧げて来たあれやこれやの善行があり、自分には愛があり、善良な思いがあり、霊的な知識があり、真実があるとさえ思っているかも知れません。とにかくも、私たちは自分はウジヤ王ほど愚かではないと思っています。ところが、主は私たちに示されるのです、自分は正しいという高ぶりによって神の御前に進み出ることは、結局、ウジヤ王の行為と何一つ変わらない行為なのだと。

神は決して霊と魂との線引きを私たちに都合よく譲るようなことはなさいません。もしも私たちが何であれ、十字架を経ていない、自己から出て来たものを「聖なるもの」とみなそうとし、「自己の正しさ」を持って神の御前に進み出て、神と人との前で、神の定められた線引きを侵そうとするならば、アナニヤとサッピラ同様、私たちも非常に厳しい裁きを受けて倒れることでしょう。私たちがまだ倒されていないのは、ただひとえに神の憐れみによります。しかし、神はいかに憐れみ深くあられても、決して霊的な秩序を曖昧になさることはありません。

「まちがってはいけない、神は侮られるようなかたではない。人は自分のまいたものを、刈り取ることになる。すなわち、自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、霊にまく者は、霊から永遠のいのちを刈り取るであろう。」(ガラテヤ6:7-8)

どうか私たちが神の御前で自己がどんなにむなしいものであるか、見ることができますように。どうか主イエスよ、あなたと共なる十字架で私たちの自己が死んだという事実を、今一度、はっきりと見せて下さい。そしてただ聖なる尊い主であるあなただけに頼って、私たちが神の御前に進み出ることができますように助けて下さい。

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「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)

「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。

しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」

こういうわけで、兄弟たちよ。 私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」
(ガラテヤ4:28-31)


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