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今日クリスチャンの間に流行している「歪められた愛の福音」(=「砂糖まぶしの福音」)に対し、私は非常に深い危惧を持っています。ある人々は、考えすぎだろうと一笑に付すでしょうが、そのように軽く考えるべき問題ではないことは順を追って説明します。この種の偽りは、まるで何度、切断しても、その度ごとに、また形を変えて新たに現われて来る根深い病気のようなものです。しかも、その都度、以前よりも強力で、より高度な形式を伴って、新たな脅威として登場して来るのです。

恐らく、その起源がグノーシス主義にあるであろうこと、もっとさかのぼるならば、バビロン化されたユダヤ教にあるかも知れないこと、またサンダー・シングなどにも同じ構造が見られること、それが今日のキリスト教界に大きな影響を与えている偽りの霊的な惑わしの力であり、最終的には大いなるバビロンへとつながる、人類の肉の力による地上天国の建設という、バベルの塔建設以来の人類の見果てぬ夢を支えるイデオロギーであることについては今後、詳しく解説したいと思います。

誤解のないように言っておきますが、私は神が愛であることを否定しているのではありません。私自身が、神の愛によって支えられなければ、生きることのできない人間であり、神の愛の最高の表れである御子の十字架が罪の赦しのためであることも否定しません。それを否定すれば、罪人である私に救いは残りません。

しかし、そのような福音の否定できない根幹とは別に、罪人に対する愛と赦しを一方的に強調することにより、生まれながらの人の罪を大目に見、人に罪の恐ろしさを忘れさせ、神の裁きを恐れることを忘れさせてしまうような歪められた福音には、あまりにも大きな危険性があると言わざるを得ないのです。今まで再三に渡って述べてきたので、今はその教えの構造にはふれません。むしろ、それを語ることによって、一体、どんな効果が生まれるかを考えてみます。このように「神の愛」をしきりに強調し、神の裁きに触れない福音がなぜ非常に悪いものであり、福音の異端化へつながっていくのでしょうか? 

神は憐み深い方であり、慈しみ深い方、怒ること遅く、憤りをいつまでも持続されない方です。私たちは神の愛の深さ、神の憐みの深さを知っています。御子の十字架は神の愛の最高の表現です。それがなければ、私たちのうち誰一人として、滅びを免れうる者はありません。しかし、だからといって、私たちは決して神を侮って、主の憐みを自己弁護のために都合良く悪用したりしてはならないのです。神の憐みを、人間の罪を覆い隠したり、罪人をありのままで弁護したり、悪事に加担して神の正しい裁きを否定するために用いてはなりません。また罪人を神に等しい高みにまで祭り上げるために利用してはなりません。そのようなものは偽りの方便であって、福音ではありません。

もしも私たちがそのような方便を語るようになって、聖書の言葉を人間に都合良く曲げていくならば、私たちは神の言葉を曲げる偽預言者として、こう言われることになるでしょう。

「わたしはこのような預言者たちを遣わさなかったのに、
彼らは走り続け、
わたしは彼らに語らなかったのに、
彼らは預言している。

もし彼らがわたしの会議に連なったのなら、
彼らはわたしの民にわたしのことばを聞かせ、
民をその悪の道から、
その悪い行ないから立ち返らせたであろうに。」(エレミヤ23:21-22)


さて、注意して下さい、ここには預言者の本来の役割とは何であるかが明記されています。

彼らはわたしの民にわたしのことばを聞かせ、民をその悪の道から、その悪い行ないから立ち返らせたであろうに」

これが預言者が果たすべき役割です! 民にその悪を離れさせるために、罪を罪とし、悪事を悪事として明るみに出し、主の御言葉によって、光と闇とを切り分けることが預言者の仕事だったのです。このことから、預言者には人の耳に心地よい言葉を語ることはほとんどできなかっただろうことが想像できるでしょうか?

光は、それが当てられなければ決して暴露されなかったであろう、人の奥底に潜む罪の恥と汚れを容赦なく明るみに出します。残念ながら、光の照らしによって、生まれながらの人が栄光を受けることは決してありません。むしろ、真理の光がやって来るとき、人は自分自身がいかに腐敗、堕落した存在であるかを示され、深く恥じ入り、塵灰の中で嘆き、心砕かれて悔い改めずにいられません。この光の照らしは、人が再生された後も、生涯に渡って続きます。

主イエスは世の光であられますが、旧約時代の預言者たちは、世の光である御子の型として、また、神の光を世にもたらす神の子どもたちの型として、光と闇を切り分け、何が真理であり、何が虚偽であるかを区別するために、神によってイスラエルの民のもとに遣わされました。彼らの仕事は、聖なるものとそうでないものとの分離、切り分けでした! 今、私たちは律法と預言者の時代には生きていませんが、世に光をもたらす神の子供たちとして、かつての預言者たちと同じように世に遣わされているのです。

さて、光がやって来るとき、二つのうちどちらかの道を人は選ばねばなりません。光によって暴露された自分自身の本当の姿――惨めで、裸で、盲目の自分――が現実であることを認めて、神の御前に心砕かれ、悔い改め、助けを求めるのか、それとも、そのように堕落した自分の姿を認めたくないばかりに、光を拒んで現実を拒否し、むしろ、自分は富んでいて、豊かになり、何の不自由もなくなったと自己正当化をはかるのか。そうして、自分の見たい夢幻を「現実」と呼びかえ、偽りを信じて生きていくのか。

たとえ人がどのように隠したとしても、神の光が暴露する人の真の姿、人の罪と腐敗に堕落したその姿が私たちのリアリティであることは否定できません。私たちは、自分自身が神の御前に全く無価値であり、滅びの刑罰にしか値しないというその現実を、まず啓示によって見せていただかなければ、主の十字架の必要性と、その意味を知ることもできないのです。もしも私たちが生まれながらの自己の腐敗や罪を直視することから逃げてしまうならば、それは光から顔を背けることとなり、自分の思い描いた夢の中に生きることを意味するでしょう。

私たちは主の光の照らしを受ける時、自分の本当の姿から目を背けず、そこからきちんと出発しなければなりません。「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。」(Ⅰヨハネ1:8) 私たちが義とされるのはただ子羊の血によるのであって、自分自身の何かによるのではありません。私たちは進んで行けば行くほどに、罪(単数形)が取り扱われる必要性をより深く知るようになるでしょう。それなのに、私たちが信仰の道の途上で、自分を何者かであると思い、自分を誇るようになるなら、それは出発点を否定しているのですから、そんなことでは決して目的地にまで至る正しい地図を書くことはできないでしょう。


さて、ヨナのことを考えてみましょう。ヨナがニネベに遣わされたとき、彼が街の人々に伝えなければならなかったのは、喜ばしいニュースではありませんでした。彼には次のように語ることは許されなかったのです、「平安があなた方にあるように。主の御名によって私はあなた方を愛し、祝福します。神は憐み深い方ですから、すでに皆さんの罪を赦して下さいました。ですから、皆さんは神の滅びの刑罰など全く恐れる必要はありません。むしろ、赦されたことを喜んで、平安のうちに生きて行けば良いのです。神はあなた方をとても愛しておられ、あなた方を全く罪のない者としてご覧になり、ご自分の愛する子として迎え、必要としておられます。あなた方は一人ひとりが尊い神の子供たちなのです。神の特別なVIPなのです」

もしもこのようなメッセージを託されたのならば、ヨナには逃げ出さなければならない理由は何もなかったでしょう。しかし、ヨナが言わねばならなかったのは、むしろ、それとは正反対の事実でした、「ニネベの方々、神はあなたがたをひどくお怒りになっておられます。あなたがたの行ないがはなはだ悪いからです。神はあなた方の積もり積もった不義にはもう我慢ができないと言われ、あなた方から御顔を背け、あなた方を憎み、捨てようとなさっておられます。あなた方が自分は正しいと思って、どんなに礼拝を捧げても無駄です。あなた方は自分を正しいと主張していますが、神はあなた方を罪に定めておられます。あなた方は自分たちは敬虔な信徒だと言い張りますが、その心は神から遠く離れています。あなた方は高慢になって神を侮り、様々な偶像に自分勝手に心惹かれて、唯一の主を離れたのです。そのために、あなた方には神の容赦のない刑罰が定められており、非常な苦しみが用意されています。あなた方は自らの恥辱のうちに滅びるでしょう。ですから、神を恐れるならば、今、泣いて、衣服ではなく心を引き裂きなさい、神の燃え盛る御怒りの焼き尽くす火から逃れるために、自分がどんなに堕落して惨めな盲目の状態にあるか、目を覚まして現実を直視し、心からその状態を嘆き、悔い改めて、神に立ち帰りなさい。もしかすれば、神はあなた方に定められた恐ろしい刑罰を縮めて下さるかも知れません、どうすれば御怒りを避けられるのか、真剣に神に助けを求めて叫び、泣いて祈りなさい」
 

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「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)

「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。

しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」

こういうわけで、兄弟たちよ。 私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」
(ガラテヤ4:28-31)


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