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クリスチャンが神の国を目に見える地上に成立させようとする試みがどれほど危険なものであるかについては、以前に「東洋からの風の便り」の記事『クロイツェル・ソナタ』(レフ・トルストイ著)の分析後編に書きましたので、そこから本文を転載しておきます。

「神の国は、見られるかたちで来るものではない。また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」(ルカによる福音書17:20-21)

1.『クロイツェル・ソナタ』こぼれ話

『クロイツェル・ソナタ』に関するこぼれ話を最初にちょっと。
 トルストイは作品の中で、ベートーヴェンのこのソナタに驚くほど否定的な役割を担わせて登場させたのだが、演奏家自身はこの曲をどのようにとらえているのだろうか。その点で、ヴァイオリニスト五嶋みどり氏による詳細な解説が参考になる。興味深いのは、作曲時のエピソードだけでなく、表題音楽でない限り、演奏家は曲の内容について滅多に限定的なイメージを述べることはないのに、五嶋氏が、第一楽章の終わりに表現されている感情は「激しい怒り」であると明言していることだ。

 さらに、トルストイは極めて教訓的な作家であったことから、作品に登場する人物の名前にはどれも偶然でない意味が込められていたと見て良い。主人公ポズドヌィシェフ男爵(Позднышев)の名は、ポーズヌイ(поздный)「遅い」という形容詞を連想させる。トゥルハチェフスキー(Трухачевский)の名は、トゥルハー(труха)「クズ」を語源としている。従って、この作品は「後之祭之助(あとのまつりのすけ)男爵」と、へっぽこヴァイオリニスト「屑乃屑男(くずのくずお)」君との救いようのない破滅を描いた反面教師的な物語であったとも言えるだろう。

 さて、この作品とさよならする前に、もう一度、総括を述べておきたい。
 この作品には二つの問題提起がなされている。一つ目は、ポズドヌィシェフ男爵家の崩壊は、男爵があらゆる女性を自分の満足のための道具とみなし、自分の妻をも、一人の人格として尊重することができなかったことに原因があるという問題だ。男爵は結婚とは本来、何のためにあるのかを深く考えることなく、世間の風潮に影響を受けて、自分勝手な夢を抱いて、誤った結婚に足を踏み入れ、そして、自分への満足を引き出すことのみを目的としてパートナーに接し、それが失敗して、妻を憎むようになり、ついに家庭が崩壊した。

 男爵の妻は、男爵が彼女を思うがままに支配できる道具へとおとしめようとしたことへの、無言の抵抗、復讐として彼を裏切った。だが、彼女は、男爵を上回る方法で抵抗したのかと言えば、そうではなかった。彼女もまた、男爵と同程度にしか物事が見えておらず、他人を自分の満足の道具として見る視点から脱却できていなかった。そのため、自分に何の満足ももたらさず、自分の人権を蹂躙するばかりの夫に嫌気が差した後、ただもっと自分を満たしてくれそうな別の男性に飛びつくという愚かな手段を取ることしかできなかった。だが、その別人もまた夫以下の卑劣漢であり、またしても、彼女は他人の満足の道具として利用され、蹂躙されただけに終わった。

 男爵との結婚が一種の"身売り"であったことに気づかなかった妻は、何とかして自分の幸せを掴もうと思いながら、再び、何の幸せにも結びつかない愚かな"身売り"に協力してしまった。夫婦の性の問題という枠組みにとらわれずに作品を見るなら、これは、人間の「モノ化」という問題の残酷さ、不毛性を暴き出した作品であると言える。

 現代の物質文明社会では、物質だけでなく、人さえもモノと扱われる。社会の風潮は、人が主体的に生きることを妨げ、むしろ不特定多数の他人を喜ばすために、自分を商品として(モノとして)差し出すことを奨励し、それこそが人が幸せを得る近道なのだと思い込ませる。人は市場で自分が有利に買われていくために、自分に箔をつけてくれそうな様々なアイテムに先を争って手を伸ばす。履歴書を飾る様々な肩書きは、労働市場で有利に自分を売り飛ばすためのもの。外見的な美も、有利な結婚を手に入れたり、世間での評価を上げるためのもの。

 現代社会は、人が市場に自分を少しでも有利な取引道具として差し出すために、どこまで行っても終わらない、どんぐりの背比べのような競争の蟻地獄の中でもがかなければならないような社会だ。

 だが、自分をモノとして差し出すことは、絶えざる自己否定の中を生きることである。多くの人々は、自分が幸せになる目的で自分を磨き、努力しているように錯覚しているが、ほとんどの場合、ただ外面的な評価を失う恐怖に追い立てられているだけであることに気づかない。外からの評価に頼ってしか自己価値を確かめられない人々は、決して現在の自分に満足することができないので、今現在を生きている幸せを感じることができない。また、他人を道具として見るような人間は、道具となった人間から貪欲に無限の満足を引き出そうとするだけであり、他人をどんなに利用しても、決して満足して飽くことがない。

 そこで、人間をモノとして見る視点に立つと、どんな人間も幸せになることがなく、満足して自分自身に安住することができない。人をモノとして扱うような社会では、差し出す側にも、受ける側にも、ただ利用し合い、搾取し合い、傷つけ合うだけの不毛な関係あるのみだ。

 人が自他ともに、人間を道具とみなすことを促進するような世間の風潮、それこそが人間を不幸にしている元凶であるということ、それが、『クロイツェル・ソナタ』が何より告発している問題であると私は思う。


2.「神の国」はどこにある? システムによって作られる人工的な陶酔状態の危険

だが第二に、すでに述べて来たように、作品の中ではもう一つ別の問題が提起されている。それは、音楽によるマインドコントロールの危険という形で提起された警告、つまり、自己を放棄した陶酔状態の中では、人はいかなる幸せをも獲得することができないという警告である。

 蟻地獄のような競争社会の中で、人はどうにかして自分がモノとして乱暴に扱われる苦しみから逃れ出て、ほっと一息つける場所を持てないだろうかと期待する。歪んだ関係から生まれる一切の負の感情、疑心暗鬼、警戒心、不安、嫉妬、憎しみ、恨みなどから、何とかして逃れ、安らかな心の境地に至る道はないだろうかと誰もが願う。

 だが、男爵夫妻の場合、何とかして心を軽くしたいという、なけなしの最後の願いまでが、他人に利用される弱点となってしまった。音楽が与えてくれた解放感やカタルシスは、男爵夫妻の心を一時的に軽くすることはあっても、彼らが現実の問題に真正面から向き合う何の助けにもなってくれなかった。それどころか、音楽は彼らに現実の問題を忘れてさせて心を軽くした代わりに、過度に心を無防備にし、警戒心を鈍らせ、善悪の判断を狂わせ、麻薬のような陶酔感をもたらし、短い夢のような解放感の後で、さらなる破滅の中へ夫妻を陥れたのである。

 このようなことを突き詰めて行くと、人間の幸せとはどこにあるのか、私達が普段、重荷に思っている感情は何なのだろうかと自然と考えざるを得なくなる。私達はいつも自分の心を大掃除しなければならないように感じている。様々な負の感情をゴミ箱に捨ててしまえればどんなに心が軽くなって良いだろうかと願う。だが、そのような心の清掃は、果たして必ずしも良い結果をその人にもたらすだろうか。猜疑心や警戒心、恨みや怒りなど、全ての重荷なる感情を捨て去って、あらゆる心配から逃れて、ただ赤子のような無垢な心境になることが、私達にとって望ましい変化なのだろうか。

 幸福という概念を思い浮かべる時、私たちはそれは争いのない世界のことであり、対立のない世界、憎しみと恨みのない世界、無駄な苦しみのない世界、愛と調和だけのある世界のことだと思いがちである。幸せという言葉を使うとき、私たちはそれが限りなく、自分の感覚を喜ばせてくれるような、心乱されることのない安らかな心境であると無意識のうちに思う。だが、それは果たして人間が先祖がえりして、いかなる免疫抵抗力をも持たなくても暮らしていけるような、安全な無菌室に入りたいと夢見る、非現実的で、身勝手な願望でないと言えるだろうか。はっきり言って、それは世界を自分のための安全な子宮に変えてしまい、子宮に逆戻ることで、この世の全ての苦しみから逃れたいと願う幼児的な逃避願望ではないだろうか。

 十字架と共に、「女のすえ」であるイエスはサタンのかしらを打ち砕いた。だが、サタンの全面的な敗北は終末を待たねばならず、クリスチャンは勝利の前触れを味わいながらも、今まだ善悪二元論の世界に生きている。世界は混乱と苦しみに満ちており、人間関係は汚染されたままで、世界は誰にとっても安全な子宮には成り得ない。

 「だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない」(ルカ18:17)とイエスは言われたが、その「幼な子」とは決して、この世を生きる上で不可欠な善悪の判断すらも忘れ去った、赤ん坊のように、心理的に退行した人間を指してのことではないだろう。

(前後の文脈から判断するなら、ここで言われている「幼な子」の意味は、自分の功績を誇ったり、財産に執着したり、この世の様々なしがらみや人間関係にとらわれるあまり、そのようなものをキリストよりも高く評価しがちな大人たちへの警告であると思われる。)

 だが、昔から現在に至るまで、大勢のクリスチャンが、聖書の言う「神の国」とは、一切の悪が存在しない、何一つ警戒する必要のない至福の境地、人が無垢の心で安らかに眠ることができるような、苦しみのない調和社会のことであると考えてきた。苛立ちも、不安もなく、悪に対する警戒心という最低限の免疫抵抗力すらも持たなくても暮らしていけるような、無菌室のような浄土が、きっと「神の国」のことなのだろうと思い描いた。
 そして、何とかして「神の国」という理想的共同体を地上に実現させようと苦心した人々がいた。そうするのが神の御心だと信じて、エクレシア(教会)の名のもとに、一定の地域にクリスチャンのユートピア村を建設しようとした信徒が日本にも過去にいたし、現在もいるようである。だが、そのような試みが一つとして成功したという話は聞かない。

 今日になっても、そのような「神の国」をプログラムやシステムによって(人工的に)特定の地域や特定の集団全体に導入しようとしている自称クリスチャンたちの試みがある。彼らはそのような試みが、他のどんな支配関係よりも、もっと深く、残酷に、強烈に、人間を「モノ化」しようとする計画であることに気がついていない。
 システムによって人間社会を支配しようと企てることは、私の考えでは、地球上、最も恐ろしい支配の形態であり、個々人の間で結ばれるどんな歪んだ関係や、打算的な利害関係、搾取や、支配をも越える最も深刻な支配である。

 たとえば、「大宣教命令」を盾にとって、会衆を熱狂させて、陶酔状態へ陥れるような集会や、行事、訓練プログラムを盛んに開き、参加した会衆の心に人工的なカタルシスを引き起こし、会衆一人ひとりの自我の殻を打ち砕いて、「覚醒」させ、一人ひとりをプログラムの予定する「神の国」にふさわしい、赤子のように疑うことを知らない、権威者に従順な「弟子」へ変えてしまうことを目指して、今も信徒に熱心に働きかけている集団がある。そして彼らはあわよくば一つの地域、国の住民をまるごとそのような先祖がえりした「弟子」に変えてしまおうとしている。

 これから何度にも分けて、細かく見ていくことになるが、私が主張したいのは、そのような試みが大変危険なだけでなく、信仰的に見ても、根本的に誤っているということである。それは人間をモノ化して支配しようとするマインドコントロールの仕掛けであり、人を罠にかけるようにして、退行現象を引き起こす。非現実的な陶酔感に溺れさせることによって、人の善悪の判断を鈍らせ、上から容易に支配できる無防備な心理状態にしていき、その人を道具のように自在に支配し、破滅的な混乱をその人の人生にもたらすのである。

 たとえ「神の国」という名前が使われていたとしても、そのようにして人工的に人の心の状態を変えようとする計画は、極めて危険であり、人をシステムの中に拘束こそすれ、決して解放に導くものではない。
 予め緻密に計画されたシステムやプログラムを導入することで、人工的に作り出される集団的熱狂や陶酔状態、分かち合いなどの名のもとでの罪の自白の強要、長時間続く礼拝や、異言や個人預言などの霊的現象を伴う連続祈祷、特殊な賛美形態によって引き起こされるカタルシス、エクスタシー等々は、とどのつまりは、人々の心を操作しようとする悪しきマインドコントロールの仕掛けであって、そのようなものを含むプログラムの実行によって、聖書の言う「神の国」を人工的に到来させることは不可能である。

 聖書の言う「神の国」は特定の時空間や、特定の集団、特定の地域社会に限定されて及ぶものではないことは、聖書にはっきりと書かれている。

神の国は、見られるかたちで来るものではない。また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ

 さらにその続きにはこうある、
「あなたがたは、人の子の日を一日でも見たいと願っても見ることができない時が来るであろう。人々はあなたがたに『見よ、あそこに』『見よ、ここに』と言うだろう。しかし、そちらへ行くな、彼らのあとを追うな。」(ルカ17:22-23)

あなたがたは、惑わされないように気をつけなさい。多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がそれだとか、時が近づいたとか、言うであろう。彼らについていくな。戦争と騒乱とのうわさを聞くときにも、おじ恐れるな。こうしたことはまず起らねばならないが、終りはすぐにはこない」(ルカ21:8-9)


 聖書的に言えば、この世は未だ闇の支配下にあり、クリスチャンは闇の中に輝く小さな灯火である。神の国は人の心の中にあるのだから、固定的なものでなく、本来、移動性であるはずだ。神の国は成長して、他の人の心に影響を与えることができるが、決して地上の時空間にとらわれて制限を受けることがない。クリスチャンの勝利とは、時代に対する勝利ではなく、大事業を成し遂げたり、大規模教会を作ったり、奇跡を多数行なったり、より多くの人々を改宗させたりすることにあるのではない。

 聖霊は人の心を宮として住まわれる。教会では、聖書の神が、たとえば仏像や、お地蔵さんや、神社仏閣のような特定の縄張りを住家としてそこに限定して働くということはないと教えられる。従って、神の力がキリスト教会という建物内に限定されて働くこともあり得ないのだ。従って、「教会の外には救いがない」とまで言い切るような教会中心主義は誤りである。

 神の国をこの世のある国や地域(住民)に限定したり、ある時空間内に限定したり、ある建物内に限定したり、あたかも神の国が固定的な領土であるかのようにみなし、一定の国や地域の政策と、神の国を同一視する考えは根本的に誤りである。

2011/6/16追記:
「神の国は、人の目で認められるようにして来るのではありません。『そら、ここにある。』とか、『あそこにある。』とか言えるようなものではりません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」(ルカ17:20-21) 「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」(マタイ18:20)

これを形式的にとらえて二三人運動に還元し、信者が自分ひとりでは神の国が成立しないので、もう一人目の誰かをどこかから探して来なければならないなどと思う必要はありません。これは形式の問題ではないのです。私は確信しています、たとえ仮にそこにあなた一人しかいなかったとしても、あなたが御霊によって再生された信者であるならば、あなたの内にキリストがおられるのです。そうである以上、あなたの只中に神の国が来ているのです。それは知覚の問題ではなく、信仰の問題です。そして、このことは御言葉にもかなっているのです。なぜならば、全ての再生された信者はこう言えるからです、「なぜなら、わたしひとりではなく、わたしとわたしを遣わした方」が私と一緒だからです、と(ヨハネ8:16)。

 

 
 

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「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)

「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。

しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」

こういうわけで、兄弟たちよ。 私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」
(ガラテヤ4:28-31)


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