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偽りの教えの分析は膨大な量にのぼっており、整理が必要なため、公開まで少し時間がかかります。今は分析作業はさておいて、神の国とその義について、再び無意味な議論が起こらないために、以前にはっきりと述べた結論をもう一度繰り返しておきます。

「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」(Ⅱコリント4:18)

「私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。」(ローマ8:19-25)


最近、私は今までに属していた全ての兄弟姉妹の交わりを一旦、離れ去ったことを家人に告げました。主の導きにより、交わりに属することを願いつつ、心躍らせてこの地にやって来てから、交わりはどれほど変わり果てていったことでしょう。確かに、当初は、御霊の働きがあったのではないかと思いますが、今は、いかなる角度から見ても、また、どのような点で聖書に照らし合わせても、もはやそこにとどまる理由が見つからないため、ここで一区切りをつけて全ての交わりから一旦離れようとの決意を固め、それを家人に告げたのです。

以前、私の母は大変熱心に教会に通うクリスチャンでした。私がキリスト教界の偽りに気づいて教会を離れようとしたときにも、大きな反対があったのです。その頃の記憶がまだ鮮明にあるため、今回も、もしかすると、兄弟姉妹の交わりを離れるつもりだと話すと、罪定めされるのではないかと思いました。

ところが、今回、家人から帰って来た返事は驚くようなものだったのです。「あの人たちからきっぱり離れ去ると聞いて、本当に安心しました。ずっと心配していたのです。」

この返事は、私にとって大きな衝撃となったと同時に、深い安堵感ももたらしました。私が喜んで関わって来た交わりについて、家人は私とは違う考えをずっと前から持っていたことが分かったからです。彼らは「その人たちの目指している方向性は、何かがおかしい」という危惧を以前から直感的に感じていたようでした。そして、大事に至らないうちに私が早くそこを離れ去るようにとずっと前から願い続けていたことが判明したのです。

以前には、あれほど私が教会を去ることを望まず、そこにとどまるよう促した母でさえ――主の恵みに感謝します!――今はもうそのような考えからはすっかり自由にされていました。母は心の底から私の身を案じるがゆえに、おかしいと感じた交わりからはすぐに離れ去るようにと、私の決断に同意してくれたのです。これはとても嬉しい事実でした。

このことは、私たち一家が、以前に教会で受けた思考統制の縄目から、どれほど解放されつつあるのかを物語る出来事でしたが、それと同時に、あれほどかつては教会に熱心なクリスチャンであった母でさえ、私のいた交わりや、私の関わって来たクリスチャンについて、深い危惧を当初から持っていたという事実は、私を驚かせました。

実は、私は最近、職場の同僚にも、同じインタビューをしてみました。親しくしていた交わりのみならず、反カルト運動などに関わっている「自称クリスチャンたち」がどれほど異常な出来事を私に対して行なったか、また、それに対する一般的なクリスチャンの反応も、やはりどれほど考えられないものであったかを挙げて、世間はこのような「クリスチャン」について総合的にどんな印象を持つかを率直に聞いてみたのです。

同僚の答えは家人のものと一致しました、「それは本当に異常です、そういう『クリスチャン』の集団からは早く離れ去るべきだと思います。私は個人の信仰は認めないわけではないですが、人々が集まって集団を形成し、宗教を作ると、それはもう絶対に最初の信仰とはかけ離れた別の何か、しかもとても恐ろしい何かになると思わずにいられないのです。それは宗教であって、もはや信仰ではない。そういうものはとても危険なものだと私は思っているので、私なら関わろうとは思いません」

信仰者ではないにも関わらず、この同僚の言葉は核心を突いていました。さらに検証していくうちに、交わりから健全さが失われるとともに、異端化された福音がそこに流入して来ていることも分かりました。しかし、人々は互いの名誉を気遣って口を閉ざすばかりで、危険に対して警告する人もいません。キリスト教界の危険に対してはあれほど声を大にして語った人々が、親しい知人を取り巻く危険となると、口を閉ざすのです。このような風景を何度も見ました。さらに、警告した人は、かえって「愛がない」、「礼儀に欠ける」などと非難をこうむり(そもそも愛という言葉を人を罪に定める材料に用いること自体がどれほど異常か分かりませんが)、あまつさえ、偽預言者、危険人物のレッテルを貼られ、会堂から追放されるという始末にさえなりかねないのです。こうなるともはやこれはカルトに等しい、相当に重症なレベルまで来ていると言わざるを得ません、彼らは自分たちの意にそぐわない信徒を積極的に会堂から「追放した」ことをはっきり言葉の上で認めているのです、これは非常に恐ろしいことです。

「人々はあなたがたを会堂から追放するでしょう。事実、あなたがたを殺す者がみな、そうすることで自分は神に奉仕しているのだと思う時が来ます。彼らがこういうことを行なうのは、父をもわたしをも知らないからです。」(ヨハネ16:2-3)

どんなに神の御名を用いて、御言葉を語っているように見えたとしても、神を知らない世間の人々でさえ、そのような会堂が異常であることを察知し、そのような場所を直感的に恐れて近寄りません。人々は黙ってすべての経緯を冷静に観察し、判断を下しています。彼らはネット上にまことしやかに造り上げられた「クリスチャンの世論」や、表向きの美辞麗句にごまかされずに、その言葉の裏にどんな内実があるかをよく見ています、そして、うわべと内実が全くかけ離れているもの(偽善)には近寄らないようにしているのです。

さて、もう一度ここに、私がキリスト教界をエクソダスする際の大きなきっかけとなったある兄弟の言葉を引用したいと思います。その兄弟との交わりの如何に関わらず、この言葉は今でも私にとって当時と少しも変わらず事実だからです。

"エクレシア、コイノニヤの時空における現れは
臨機応変、伸縮自在、そして神出鬼没であるべきです。
何故でしょう、それは復活したキリストが正にそうであるからです。

そのような現在のキリストと聖徒達を、この世の何者も(そして多くの
キリスト者でさえも)捕らえることは出来ません。そしてまた決して
誰も自分のものとして所有することも不可能です


このような エクレシア、コイノニヤの姿には神の無限の知恵が
隠されています。この最後の時代 神はそのような復活の中の
隠された知恵を隠された方法で行使されるでしょう。
そのような有様のエクレシアのみが 遂には次の時代 
極めて圧倒的かつあからさまな王国の到来を招致出来るのです。

あなたがある固定された箱の中へ、固定された時間に行って見る時、
もしも 決まってある同じ人物が登場し、その人を見るために「お客」が
集まって来ると言う風景に固定的に出会うのであれば、そこには復活、
不死、無限の性質はなく、健康な人間性も見ることは出来ません。

そこで見られるのは
四隅を区切られた時空の中の限りある朽ち行く物質の性質です。
なぜなら その固定、制限、区別と言う箱(時空)によって限定された
ひと時内でのみ活動を許されている王は かつてのルシファー、
永遠の苦悩と恥辱と破滅の運命が既に固定確定されている
今現在のサタンであるからです。

私達は
敢えて時空内に留まり 時空の中で勝ち誇って 
復活の中の永遠のリアリティを「彼」に見せつける、
と言う「宇宙最高の」役割を楽しむためにこそ
今ここで生きているのです。 "

------------------------------------------------------------------------------------
"人は「キリストに似て非なる あるセンター」を持ちたがります。
先ずは ある人間を中心とする「自分達のワンセット」をある場所に固定し 
その上に安定的で堅固なものを建て上げようとします。

即ち人にある宗教性には ある時間と場所を定め そこに「立派な礼拝」を
構築したいとする強い願望があるのです


更に言えば そこには
「神への礼拝」を獲得した上で この地上に自分達を根付かせ自分達の名を
高く掲げたいと言う 人本来の宗教本能
が働いている
のです。

その達成の時には あの「大バビロンと言う名の女」は安心し誇って
言うでしょう、私は乏しい「やもめ」ではない、
拠り所がある 安定があると


<中略>
これこそが、全聖書が首尾一貫糾弾するバベルでありバビロンなのです。
そして現代 全世界のキリスト教宗教はかつて無かったほどの
「大いなるバビロン」構築に向かってまい進していると言ってよいでしょう。

そこにあるのは 神の言葉・黙示録が再三にわたって警告する
「地に住む」(原文では「地に座る」)と言う人の奥底に居座る根深い
願望なのです。それは今この瞬間でさえ私達の心にも存在し得るのです。



教会はただ「迫害の中、ゆくえ知れない旅のさなかに」初めて
出現するのです。あなたが死に向かう その途上にのみ現れるのです。

教会がこの地に居座ることなどありません。
教会に安定や固定などあり得ないのです。私達は単に 寄る辺無き 
何も持たない「やもめ」でなければならないのです。

わが民よ、この女から離れなさい。」(黙18の4)
「あなた方はシオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、
無数の御使い達の大祝会に近づいているのです。」(ヘブル12の22) "

ああ、惜しむらくは、理屈の上ではこのことが全て分かっていたとしても、それでも人が「地に住む」という深くアダムの肉に根ざす自己保存の願望から逃れられるかどうかは分からないということです。ソドムを脱出しながら、出て来た街を振り返ってしまったロトの妻のように、言葉の上でどんなにその街を拒否していても、本当に行動が一致するかどうか、それはきわめて個人的な選択となるのです。

「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。…真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるのです。」(ヨハネ4:21-23)

「この山でも、エルサレムでもない」と、主がはっきりと言われた言葉に反して、礼拝のために自らを中心として据えてしまった人々、地に固定された「ワンセット」を造り上げ、その箱の中にとどまり、自らの義、自らの威信を誇るために、また人々をいかにも宗教的な気分にするためにさまざまな目に見える装置を編み出し、それによって生まれる効果を「礼拝」と考える人たちは、最後まで、その装置によって自分が束縛されていること、自由を奪われていること、それが霊ではなく、魂の領域に作り出された模造品であり、自分たちの行なっていることが、神の国を打ち立てることではなく、まさにその正反対の神に対する反逆であるという事実が分からないかも知れません。

しかも、これは人工的に作り出された目に見える礼拝装置にちりばめられた宗教的バビロンに働く共通の法則性であると私は思いますが、人が御霊によらず、人工的に神の国を地上に作り始めると、必ず、それと一まとめになって、人間の恐ろしい自己懲罰が行なわれるようになるのです。誰かがまず神の御名を用いて、自分たちに都合の悪い一人の人を会堂から追放します。すると、粛清の歯車は自動的に回り始めるのです。時とともに追放される人々の数はますます多くなっていきます。そこでは、見せかけの「愛」や「憐み」の美辞麗句とは裏腹に、断罪、粛清、追放が当たり前となり、それはやがてダモクレスの剣のように、そこにいる全ての人の頭上に迫るようになり、人々は恐怖の中でおびえながら集会に集うようになります。この粛清とは、本来、十字架が果たすべき霊的な役割を、人の力によって成し遂げようとする偽りの十字架に他なりません。主イエスの十字架は、真に霊的なものであるので、人の内側からその人の自主性を侵害しない形で働き、その人の同意のもとに、信仰によって彼の肉、古き人を死に至らせます。

ところが、御霊によらず、人間が自らの威信と力によって地上天国(神の国)を打ちたてようと試みると、人間が人間の力によって肉を殺し、そうして人間の力によって人間を浄化しないわけにはいかなくなるのです。人類の肉の力による自己浄化の試み(肉による肉の殲滅)、肉の力によって「新しい人間」を造り出そうとする絶望的に不毛な試み――それが粛清(もしくは監視機構といった何らかの抑圧機関)の存在を不可欠にしてしまうのです。なぜなら、どうにかして古い人間を罰し、新しい人間を造り出さないと、そこにはユートピアは生まれないからです。これを人間の力でやろうとすることは、本当に恐ろしいことです。

かくて人工的なユートピアと秘密警察(監視機構などの懲罰・抑圧機関)とは切り離せない関係にあります。十字架の死の働きがなければ、復活がなく、神の国が成就しないのと同じように、サタンの誘惑に基づいて、人が神の国の模造品を地上に作り出そうとするその試みにおいては、真の十字架の代わりに、人によって作り出された擬似十字架としての抑圧機関が存在しないわけにはいかないのです! だからこそ、人類の力で地上天国を打ち立てようとの試みは、必ず、一つの例外もなく、逆説的に、歯止めのきかない抑圧と追放を生み、地上天国になるどころか、最も反人間的で、人類にとって悲惨な結末をもたらすことになるのです。そのような不健全で恐ろしい場所が、断じて、御霊によって支配される神の子供たちの健やかな交わりや、神の国であろうはずがありません。

ところが、嘆かわしいことに、キリスト教界だけでなく、その偽りを告発してきたまさにその人々の多くさえも、地に深く根ざしたバビロン――地上天国の建設の夢――を手放せなくなり、自らが王または女王となってその中心に座すという夢に欺かれて熱中しているのです。自らが地に座して、宇宙の中心となり、麗しい聖徒らも含め、神に属する全ての輝きあるものを自分自身のもとに集めて身を飾りたいという欲望――、それが「『神への礼拝』を獲得した上で この地上に自分達を根付かせ自分達の名を高く掲げたいと言う 人本来の宗教本能」なのです。それは人がキリストの中心性を否定して、自分自身を宇宙の中心に据えようとすることであり、キリストの頭首権に人がすすんで服するのではなく、キリストを人に服させようとする試みなのです。にも関わらず、その恐ろしい過ちの意味が人には分からないのです。このようにして、私は二度目のエクソダスを決行したのです…。

聖書は、私たちクリスチャンはこの世では寄留者であり、やもめであり、地に住むこともできなければ、目に見えるものを追い求めてもいけないことをはっきり述べています。それなのに、クリスチャンが自分ではあたかも天にあるものを求めているように思い込みながら、実際にはその眼差しを地上に注ぎ、神の国を目に見える地上の領域内に建設しようと試み、また、目に見える集会に神の現われを見いだそうとし、目に見える領域に自らの奉仕の成果を打ち立てて、自らの威信を誇ろうとするために、大変な混乱と悲惨が巻き起こるのです。

世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます。」(Ⅰヨハネ2:15-17)

御霊はすべての物事を目に見えない領域から始められます。神の国とその義、それは決して目に見える地上にある何かではありません。はっきりと聖書に書かれています、私たちは「この地上に永遠の都を持っているのではな」いと。目に見えるものは、目に見えないものから生み出される結果に過ぎず、目に見えるものが本当のリアリティではないのです。

ところが、サタンの順序はそれとは逆です。サタンは目に見えるものこそ真のリアリティであるかのように人間に思いこませ、人が目に見えるものに心奪われ、そこにあるものに束縛されていくよう仕向けるのです。ですから、御霊を知らない、生まれながらの人の目には、今目に見えているものこそが、現実と映るのです。そのような考え方を究極まで推し進めたものが、唯物論です。そこでは、見えないものはリアリティではなく、非現実的空想であると言われ、目に見えないものは目に見えるものによって作り出された幻のような産物に過ぎず、それらは目に見えるものを離れては別個に存在せず、結局、目に見えるものだけが真のリアリティであり、全ての根源であると謳われるのです。ああ、これはどれほど冒涜的な考えでしょうか。しかし、それが肉にあっての人間のものの見方です! これは偽りなのです!

今日、どれほど多くのクリスチャンが、こうして目に見えるものに欺かれ、目に見える地上に神の国としての教会を打ちたてようとし、目に見える交わりに拘束され、目に見える指導者、耳に聞こえるメッセージ、目に見える組織化されて、地上に固定化された「ワンセット」を神の現われとして追い求めているでしょう!これは神の国の唯物論化と言っても差し支えない状況なのです!

真理はそれとは逆です。聖書は目に見えるものではなく、目に見えないものこそが真のリアリティであることを告げます。この目に見えないものとは、レーマとしての神の言葉であり、見えない神のかたちである御子キリストご自身のことです。

信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。」(ヘブル11:3)

御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方ですなぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。」(コロサイ1:15-16)


私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」(Ⅱコリント4:18)

「私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。」(ローマ8:19-25)

私たちは見えるものに望みをおかず、来たらんとする見えない都を待ち望む民です。私たちは地に座して、地のさまざまな富と栄光に満たされて、「私は女王の座に着いている者であり、やもめではないから、悲しみを知らない」(黙示18:7)というバビロンを憎み、離れ去るのです。バビロンは常に自分が中心に座し、自分が権威となり、自分のもとへすべての人々を集めようとします。ところが、私たちキリスト者の立場はこれと正反対で、私たちは遣わされて出ていく者であり、自分のもとへ人々を集めるのではないのです。私たちは地上のどこにも座を持たず、地に拠り所がありません。主は言われました、「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」(マタイ9:20)と。これがキリスト者の道です。私たちは、宿営を後にし、門の外に出て、キリストのはずかしめを身に負いつつ、信仰によって見えない方を仰ぎ望み、まだ見ぬ安息の地へ向かって歩んでいくのです。

「…イエスも、ご自分の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受けられました。ですから、私たちは、キリストのはずかしめを身に負って、宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか。私たちは、この地上に永遠の都を持っているのではなく、むしろ後に来ようとしている都を求めているのです。」(ヘブル13:12-14)

さあ、私たちも主の辱めを身に負うて、営所の外へ出て、みもとに行こうではありませんか!

 


 

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「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)

「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。

しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」

こういうわけで、兄弟たちよ。 私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」
(ガラテヤ4:28-31)


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