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「しかし、御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。」(Ⅰテモテ4:1)

「霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。」(Ⅰヨハネ4:1)

サンダー・シングの書物には、多くの奇蹟の物語や、彼が経験したとする天界でのエクスタシー、亡くなった聖人や死者との交流、道徳的な教訓話など、非凡な話が満ちています。これらの内容は人の心を惹きつける、わくわくするような偉大な物語のように聞こえますが、きちんと聖書に照らし合わせずに鵜呑みにすることはあまりにも危険です。

たとえば、死者との交流というテーマ、一体、これは聖書に合致しているのでしょうか。私たちは聖書のどこを調べても、信仰の偉人たちが、信仰を深めるために積極的に死者の霊と親しく交わったという記述を見つけることができません。むしろ、死者の霊と交流できるとされる巫女や、占い師、霊媒などとの関わりは、全て聖書の神の忌み嫌われるものなのです。イザヤ書にはこうあります、「人々があなたがたに、『霊媒や、さえずり、ささやく口寄せに尋ねよ。』と言うとき、民は自分の神に尋ねなければならない生きている者のために、死人に伺いを立てなければならないのかおしえとあかしに尋ねなければならない。もし、このことばに従って語らなければ、その人には夜明けがない。」(イザヤ8:19-20)

また、これら非凡な奇跡の物語の記述がサンダー・シングの個人的な名声を飛躍的に高めるのに役立っている点に注目すれば、この書物が書かれた目的は、神ではなく人間サンダー・シングに栄光を帰すことにあるのだろうということはすぐに予想がつきます。

しかし、今はそのような非凡な体験談の詳細にこだわらず、まずは、サンダー・シングの教えの全体的な構造を把握することにより、彼の教えがどのような点で異端であり、どういう危険性を持っているのかを明らかにしましょう。以下、彼の書物の引用は全て『聖なる導き インド永遠の書』、サンダー・シング著、林 陽訳、徳間書店から行ないます。


1.「神の愛」の誤用と、「神の裁き」の否定

「神または神の民が、罪人たちを天界から締め出し地獄に突き落とすなどと思ってはならない。愛である神は誰一人地獄に落とし給わない永遠にそうである。」(p.210)

まず、この短い文章が、サンダー・シングの教えが決定的に聖書に反する異端であることを明らかにしています。神は愛であるから、誰一人地獄に落とすことはないと、彼は罪人に対する神の刑罰の存在を真っ向から否定しています。これがサンダー・シングの主張の核心であり、この神の裁きの否定という考え方が、彼の全ての主張に影響を落とし、真理と虚偽との切り分けを否定する根拠となっています。

注意すべきことは、このような主張はサンダー・シングに限らず、東洋的に(グノーシス主義的に)歪められた愛の福音(砂糖まぶしの甘えの福音)のほとんどに全て共通していることです。そこでは、「神の愛」を人間に都合良く解釈することによって、生まれながらの全ての人間(=罪人)が避けて通ることのできない神の刑罰としての十字架が否定されているのです。

ところが、この歪められた福音が、今日のキリスト教界において主流となりつつあることについては、今まで多くの人々が警告を発してきました(反カルト運動がその異端化された福音の強い影響を受けて生まれて来たものであることも、すでに述べました。)それは、「神の愛」を人間に都合良く解釈しようとした結果、聖書の御言葉を曲げてでも、人間に脅威にならない福音を生み出そうとし、生まれながらの罪人が決して十字架の死を通らなくとも、御国に到達できるかのように教えるのです。

さて、この書物の冒頭の解説ではこのようにまで極言されています。

「『神は誰をも罰したりはなさらない誰をも地獄に落とされたりはなさらないそのようなことは、キリストが教えられ、十字架上での犠牲によって表された神の愛とは相容れぬものである。罪人自身が自らを裁くのである。欲望の奴隷、この世の奴隷が自らを滅びに定めるのである』 

しかし、地獄の中にさえ神は救いの道を開かれ、たとえ何百万年かかろうと、いつか地獄にいるほとんどの者がキリストの元に引き上げられるよう、聖徒たちを通して導きが与えられている、とも述べている。」(p.21)

なんと神の裁きが否定されるだけでなく、地獄にさえも救いはあると説かれているのです。このような主張が聖書の定める「永遠の刑罰」(マタイ25:46)、「悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火」(マタイ26:41)、「とこしえのさばき」(ヘブル6:2)、「永遠の滅びの刑罰」(Ⅱテサロニケ1:9)、「永遠の火の刑罰」(ユダ7)、「第二の死」(黙示21:8)などの、不従順な者たちへの神の永遠の刑罰に関する全ての記述に違反していることは一目瞭然です。

サンダー・シングの教えの異端性については、これですでにお分かりいただけたと思います。あえて、これ以上、論証する必要はないと言えます。この教えの中にどんなに「愛」や「憐み」といった人間にとって心地よい言葉が溢れていたとしても、この教えが聖書の真理から離れている以上、完全な偽りであり、それに巻き込まれて影響を受けることは大変危険であることはお分かりいただけるでしょう。

しかし、もう少し先へ進みましょう。このような教えを信じると、クリスチャンはどうなってしまうのでしょうか。まず、神の刑罰は存在しないと考えるならば、それは、何よりも、主イエスの十字架の死を、生まれながらの人間すべてに対する神の刑罰ではなかったとみなすことになります。御子の犠牲は尊いものであったかも知れませんが、彼が死ななければならなかった必然性はないということになります(ある意味で、十字架は、罪人に寄り添うための神の愛と善意のボランティアに過ぎなかったということになります)。

そうなると、罪人はどうなるのでしょうか? ただ自分たちのために「死んでくださった」主イエスの深い愛に感動して存分に涙を流し、そして、神がそんなにも愛して下さった自分自身にひたすら満悦して生きていけば良いという結論になります。そこでは、生まれながらの人間はみな十字架の刑罰を受けるべき罪人であるという事実は忘れられ、人が信仰によって御子の死に自分の死を同形化する必要もなくなります。そして、十字架において人が生まれながらの自己を否む必要もないことになります。

そのような教えは、人の生まれながらの自己に十字架の死を回避させて、むしろ、「神はありのままのあなたのために死んで下さるほどまでに、あなたを愛して下さっています、ありのままのあなたが尊いのです、あなたはそのままで生きていけば良いのです」などと教えることにより、生まれながらの自己を名誉回復させてしまいます。そうしてクリスチャンに生まれながらの自己の罪深さ、腐敗を忘れさせるのです。その教えは、人が本来、神の御前でどれほど忌むべき罪深い存在であり、地獄にしか値しない存在であるかという事実を忘れさせるのです。

ですから、それを信じてしまうと、クリスチャンの内側で、生まれながらの自己を抑圧する枷が全て最終的に取り払われてしまいます。なぜなら、その人は自分の生まれながらの自己を警戒せず、むしろ、ありのままで愛し、信頼するようになるため、生まれながらの自己を抑圧する、どのような支配にも服さなくなり、自己が肥大化し、高慢になってしまうのです。聖書に反する自己信頼が、その人の自己を過剰なまでに肥大化させ、頑なにするのだと言えましょう。

また、この教えは、神に対する大いなる侮りとあざけりの心を起こさせます。もし神の裁きが存在しないのだとすれば、どうして罪人が神の裁きを恐れ、罪を離れて身を清く保つ必要性があるでしょう? もしも神の裁きがないのだとすれば、なぜ人は神を恐れ、目を覚まして身を慎んで歩まなければならないのでしょう? もしも神が誰も罰せず、誰をも地獄に落とされないのだとすれば、なぜ人は主イエス・キリストを救い主として受け入れる必要があるのでしょう?

もしもサンダー・シングの言うように、神は愛だから、誰をも罰せず、誰をも永遠の滅びの刑罰に至らしめることがないのだとすれば、当然、人はキリストを信じなくても滅びに至ることはないという結論になります。仏教を信じても、イスラム教を信じても、神の刑罰が存在しないならば、結果は同じです。ですから、このような教えは、そもそも人がキリストを信じなければ救われないという聖書の福音の大前提をすら否定してしまいます。

もしも、どのように生きても、神は誰をも罰しないというなら、人々は大いにこの世を楽しみ、こう言えば良いのです、「あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか。」(Ⅰコリント15:32)、「やって来い。ぶどう酒を持ってくるから、強い酒を浴びるほど飲もう。あすもきょうと同じだろう。もっと、すばらしいかもしれない。」(イザヤ56:12)

ですから、このような教えは、ただ神の言葉を曲げているだけでなく、神を恐れること、そして、神に服することを完全に忘れさせてしまうのです。この教えを信じた人は、もはや神を恐れの対象としては見なくなります。そして、自分に都合の良い、決して人を裁いたり、罰したりすることのない、人類にとって少しも脅威にならない「愛に満ちた神」を自分勝手に思い描き、それぞれ自分の好みに合わせて想像した「神」、もっと言うならば、自分の欲望によって作り出された幻を「神」として拝むということになるのです。それは人間にとっては親切で、親しみやすい「神」のように映るかも知れませんが、結局、人が自分自身(の欲望)を拝んでいるわけですから、これは大変恐ろしいことです。その礼拝の対象は聖書の真実な神ではなく、人の心が作り出した偶像であり、偽りであり、幻なのです。それは神の概念のすりかえなのです。

だからこそ、十字架を骨抜きにしてしまうこのような異端の教えについて、御言葉は次のように述べているのです。

「というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。」(ピリピ3:18-19)

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「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)

「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。

しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」

こういうわけで、兄弟たちよ。 私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」
(ガラテヤ4:28-31)


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