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サンダー・シングの教えがあたかもキリスト教の教えのように装って登場して来たとき、私はクリスチャンの交わりの変遷を見ながら、この教えが交わりの中に登場して来たのは決して偶然ではないと思いました。しかし、その教えが偽りであることは分かったものの、これをどのように分析するのかはかなり難しい課題であると思いました。

サンダー・シングに言及するには一つの難点がありました。それは、彼の書物が論理的に書かれていないということです。この書物は、西欧的な論理に基づいておらず、むしろ、東洋的な思考で、物語風に書かれており、子供向けのおとぎ話や寓話のように、深く物事を考えずに、ただ直感的に内容を受け入れるよう促しています。この書物は、内容について深く吟味する事を読者に求めないだけに、多くの人にとって入りやすく、しかもとても良さそうに聞こえるため感化力があり、うっかり引用できません。信仰暦の長いクリスチャンであっても、その内容をそのまま鵜呑みにしてしまいかねない危険性があります。

しかし、この教えに影響を受けた人々と向き合っているうちに、偽りの影響は予想を超えて深く、無視できないものであるため、立ち向かわなければならないことが分かりました。警告後、偽りに気づき、主イエスの血潮によりこの教えと手を切った人もいましたが、かえって教えに深く影響を受けたクリスチャンは、私が観察しているうちに、人格に以前にはなかった変化が見られるようになりました。彼らはこの教えが危険であるから公に撤回した方が良いとの警告の言葉を聞くと、強い反発を示し、彼らにそのような警告を行った私の方が正気ではないと主張し、この偽りの教えを頑なに擁護するようになったのです。いずれも、キリスト教界と深いかかわりのあるクリスチャンでした。この教えがその人の内側でどれほど深く根を張ってしまっているかを感じさせる出来事でした。

今でもこのような分析記事を書こうとすると、大々的なネガティヴ・キャンペーンを行って、決して事実を公表させまいと圧力を加える人がいます。このような人の憎しみの激しさ、敵意の深さ、陰湿さ、執拗さを見る時、私はその人の人格が以前とはすっかり変わってしまったことを思わずにいられず、また、反カルト運動の末路を思い出さずにはいられないのです。

偽りの教えの影響はいつも、クリスチャンの人格を蝕み、変わり果てた姿にしてしまいます。病気が内側から人を蝕むのと同じように、異端というものは、それを信じる人を内側から破壊するのです。それが主に結び合わされた者が、主を捨て、主の霊を離れ、真理を否定し、主以外のものを愛したことの苦い結果なのですが、偽りの教えは、その人がもともと持っていた生まれながらの愛すべき人格の特徴さえも食いつくし、その人の全人格を憎しみと敵意の炎で燃やしてしまいます。そして、神(真理)と聖徒らに対する激しい敵対に駆り立ててしまうのです。偽りに気づいて途中で立ち戻ることができた人は幸いですが、真理に敵対するようになった人々には、主が必ず御手を置かれます。

「…私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。」(ピリピ3:18-19)


偽りの教えを言い広めることや、異端を擁護して正統な教えであるかのように見せかけたり、そのために真理に立つ人を罪に定めることが、どれほど大きな罪に当たるかは、聖書を見れば明らかです。黙示録に登場する預言者イゼベルとは、あたかも教師のごとく振る舞いながら、偽りの教えをクリスチャンに信じ込ませようとするクリスチャンを指しています(必ずしも姉妹ではなく兄弟の可能性もあります)。

異端とは霊的姦淫のことです。クリスチャンが真理を捨てて偽りを信じ、神の霊以外の霊と交わることは、神に対する背信行為です。淫婦バビロンも、イゼベルと同じように、霊的姦淫のゆえに裁きに定められており、バビロンの受ける災害に巻き込まれないように、そこから離れるようにとの警告がなされています。これは異端の教えには決して関わってはならないとの警告ですが、同時に、どんなに警告しても異端を離れ去ろうとしない人からは、ともに災害に巻き込まれないために離れなければならないことも示しています。

クリスチャンには、人間の面目を保つことよりも、はるかに重要なことがあります、それが神の戒めに聞き従うこと、御言葉を決して曲げないということです。御言葉は、足すことも引くこともできません。御言葉を書き換え、骨抜きにする偽りの教えを擁護することは、神の御怒りの結果としての災いをその人にもたらすと聖書に書いてあります。神の言葉を曲げる罪を決して軽く見てはいけないことが分かります。

「私は、この書の預言のことばを聞くすべての者にあかしする。もし、これにつけ加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられるまた、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる

これらのことをあかしする方がこういわれる。「しかり。わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。」(黙示22:18-20)


偽りの教えを拒否し、真理にとどまるかどうかは、私たちの命がかかった問題です。異端の影響とは、私たちの信仰を薄れさせる程度のものでなく、私たちを滅びに引き渡すとはっきり御言葉が述べているのです。これは永遠の命、御国での権利に関わる問題です。ですから、人前でどのように評価されるかを気にするよりも、神の言葉を曲げず、真理のうちにとどまり、神の信頼を損なわないことの方がはるかに重要であることが理解できます。偽りの教えを宣べ伝える者、その教えを離れない者がどのような報いを受けるかは、聖書に記されています。どうしてクリスチャンがそのような末路を辿ってよい理由があるでしょうか。

「しかし、イスラエルの中には、にせ預言者も出ました。同じように、あなたがたの中にも、にせ教師が現われるようになります。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを買い取ってくださった主を否定するようなことさえして、自分たちの身にすみやかな滅びを招いていますそして、多くの者が彼らの好色にならい、そのために真理の道がそしりを受けるのです

また彼らは、貪欲なので、作り事のことばをもってあなたがたを食い物にします。彼らに対するさばきは、昔から怠りなく行なわれており、彼らが滅ぼされないままでいることはありません」(Ⅱペテロ2:1-3)


それにしても、異端というものはなぜ人の人格を変質させ、人を滅び(死)に至らせるほどの恐ろしい影響力を発揮するのでしょうか? それは異端の教えの全ての構造が、真理と虚偽との切り分けを曖昧にすることにより、救いはキリストの十字架にしかないという事実を否定するからです。

箴言の冒頭の章にはこうあります。「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。」(箴言1:7) これは逆に言うと、人が御霊を捨てて、主を恐れることをやめ、真理にとどまることをやめたとき、その人は神を侮ることによって、「知識」を失うことを意味しています。言い換えれば、真理を離れれば、クリスチャンの思考は偽りの影響を受けて支離滅裂となり、矛盾のない首尾一貫した健全な思考が失われます。真理に逆らっては誰も正常な意識を保ち得ないのです。

異端は、あたかも十字架を語っているようでありながら、そこに巧妙に何かを付け加えることにより、十字架を介さなくても、人が生まれながらの姿のままで救われるかのように教えます。結論から言えば、多くの異端の教えは、罪人に対する神の裁きの存在を公然と否定し、人間の原罪を否定しています。それは生まれながらの人間を十字架の死にのみ値する罪ある存在としてとらえず、むしろ、十字架を回避して、生まれながらの人間を神の高みにまで至らせようとするのです。

さて、以下では、サンダー・シングの教えの何が聖書に反しているのか、誰にでも分かるよう詳しく説明していきます。
 

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「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)

「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。

しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」

こういうわけで、兄弟たちよ。 私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」
(ガラテヤ4:28-31)


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