忍者ブログ

straysheepさんの記事、あなたがたは知らなくてもよい(オースチンスパークス著)より転載

いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。(新約聖書 使徒1:7)

私たちは生活の環境や条件が変わり、今おる地位より別の地位につくなら、何かが起こり、神様の目的は実現へと向き始めるだろうと思いがちであります。しかし、主は「いいえ、環境や条件でも、全然ありません。問題はあなたですよ」とおっしゃることでしょう。

一部の人は卒業や按手礼や儀式が問題であり、自分たちが正式な地位につき、承認されれば、その時人生の目的は実現に向かい始めるものと思っています。だからこそ彼らは自分たちが仕事に任職されることや指名されるまで待っているのです。しかし、主は「儀式ではありません。任職でもありません。地位でもありません。あなたですよ。あなたが鍵なのです」とおっしゃいます。

それと平行して、多くの人が組織、社会、宣教団体、自分たちが関与している教会を見て、そこで始められる新しい日や、たとえどんなであろうともその機構が働き始めるなら自分たちの生き甲斐のある仕事が始まるであろうと期待しています。すると、主はおっしゃるのです。「教会でも、宣教団体でも、組織でも、社会でも、機構でもありません。大切なのはあなたです」

(新約聖書の)使徒1章に登場する人々は、自分たちの外側で起こることになる何ものかを期待していました。彼らはそのことを御国の再興と呼びましたが、それは、国民的な、というよりは恐らくは国際的な運動となる秩序を意味していました。それは、彼らが自分たちの立場をそこに見つけ、その任務が割り当てられ、指名され、任務につくことになるという彼らにとっては外形的な新しい秩序だったのです。すると主はすべての彼らのその考えを一蹴されて言われたのです。「いいえ、大切なのはそんなことではないのです。大切なのはあなたです。」…私たちはそれぞれ個々人で神様のご計画のうちにあってあらゆるものの鍵となりうるのです。

(今日の文章は "But Ye..." の抜粋引用訳です。原文は http://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003202.htmlです。)

* * *
人生で初めて十字架の御業とは何かを知り、内住のキリストを生き生きと知ったとき、私に初めて分かったのは、キリストが内におられるがゆえの、本当の意味での再生された人の「中心性」、すなわち、内にキリストがおられるがゆえに外側のものから完全に自由とされて、誰にも助けを求めて奔走しなくてもよいキリスト者の自由でした。

キリストこそ全ての全てであり、このお方がともにおられるということは、全ての全てであられ、全ての中心であられる方が、私たちの内に住んで下さるということです。ですから、このお方により頼む限り、たとえ私たち自身がどんなに弱く、貧しく、知識が不足していたとしても、私たちはキリストにあってすべてを得ているのであり、どこにも助けを求めて奔走する必要はないのです。たとえ幾多の困難があったとしても、私たちへの神の恵みは常に完全であり、十分であることを信じ、このお方によって全てを満たしていただく限り、外側の何ものにも依存する必要がないのです。

しかし、私は自由というものをそれまでの人生でほとんど味わったことがなく、むしろ不自由に慣れていたがゆえに、私の内なる人はまだとても弱かったのです。そこで、私は外部のものにとても依存しやすい傾向にあり、自由とされた後も、依然として、簡単に外側のものに逸らされていく危険の中にありました。

たとえば、主が私を望んでいた地へ移住させて下さったのは、「兄弟姉妹の交わりに連なるため」であると、私は考えていました。その交わりのためにこそ、私が召されたのだと考え、これから交わりの中で起こることに期待していたのです。しかし、それは大きな誤りであることが分かりました。そう考えることによって、私は自分自身の価値を、キリストにではない、外側のものにおいていたのです。今だから分かるのですが、それは何らかの教会組織や機構の設立といった外的現象の中に主が働かれると思って、それをひたすら待ち望むのと同じほど、愚かな考えだったのです。

分かったことは、主はご自分だけに仕えさせるために私を召し出されたのであり、兄弟姉妹も含め、誰の道具として私を召したのでもないということです。誤解しないで下さい、これは兄弟姉妹の交わりを軽視するがゆえに言うのではありません、このことを的確に表現することは難しいですが、主は私に完全な自由を与えておられ、決して、私をどんなものの道具にもなさるおつもりはないということなのです。

ところが、今日、多くのクリスチャンのものの考え方は完全に本末転倒になっています。主は言われました、安息日のために人があるのではなく、人のために安息日があるのだと。ところが、多くの人々が、今日も、安息日の奴隷となっているのです。同様に、交わりのために人があるのではなく、人のためにこそ交わりがあります。愛のために人があるのではなく、人のために愛があるのです。それなのに、クリスチャンは実に多くの場合、全く逆のものの考え方をし、自分の望む交わりを地上に建て上げるために、人を手段にしたり、自分の考える理想的な愛を実現するために、人を手段にしたりしています。そのようにすることによって、神の働きをかえって台無しにしてしまっていることに気づかないのです。

私たちは、自分が何らかの神の働きを地上になしとげるための手段に過ぎない、と思ってはいけないのです。もしそのようなことが正しいならば、神は私たちとの人格的な交わりを必要とはされなかったでしょう。肉体労働者としての私たちの存在があれば十分だったでしょう。いいえ、神は私たちの全人格を尊重しておられ、何よりも、私たちの自由意志を尊重しておられます。神は私たちを地上で御国を建設するための労働者として必要としておられるのではないのです。

もう少し分かりやすいように説明を試みましょう――この世、この地上の社会は、人を徹底的に道具化する傾向にあります。私たちも、それにならって、自分や他人を道具としておしはかることにあまりにも慣れすぎています。この社会では、道具としていかに有用性があるかないかが、私たちの存在価値を決定すると言っても過言ではありません。それは相対的な評価です。道具というものは、自分自身で自分の価値を決めることはできず、それを使う側からの評価があって、初めて価値が生じます。つまり、道具には、他者に依存しない、完全に自立した、誰によっても動かされない価値はないということです。そのような考えに立つならば、社会で何かの用途がない人間は無価値な存在ということになります、人は自分ひとりだけでは全く意味をなさないということになります。これはとても残酷なことですが、この世はますます人をそのような観点で評価するようになっています。

クリスチャンがそのようなこの世的な考え方を御霊の働きの中に持ち込むと、大変なことになります。目に見える評価がすべてになり、最後には、営利目的の株式会社とほとんど変わらない価値観で、御霊の働きを推し量ろうとする誤りに陥ります。

しかし、神はそのような相対的な基準で、人をご覧になることはありません。主は、何らかの偉大な組織や、大義を達成するための道具として、人間を造られたわけではなく、そんなことのために、一人ひとりのクリスチャンを道具として召し出されたのでもありません。

主が私に教えて下さっているのは次のことです、「あなたの自由を決して他の誰にも与えてはなりません。私があなたを召し出したのは、ただ自由の中であなたを私に仕えさせるためであって、あなたが他の何かの道具となったり、奴隷となるためではないのです。私の中に自由があります、私にとどまる限り、あなたは外側のものの奴隷になることはありません。しかし、もしもあなたが私以外の何か目に見えるものを求めて出て行くならば、あなたはそれらのものによって拘束され、支配されることになります。ですから、あなたは目に見えるどんなものにも心奪われてはなりません、ただ私の内にだけとどまりなさい」

主が与えられたこの自由の意味が十分に分かるまで、どれほどの紆余曲折を私は経なければならなかったでしょう。私はなかなか、主が目に見える領域で何か偉大なわざをなして下さるだろうとの期待を捨て切れなかったのです。それが主を待ち望むことの意味であると誤解していたのです。そうであるがゆえに、私は「兄弟姉妹との交わり」の中に、きっと主が働いて下さるに違いないと考えて、交わりを求めて出かけて行ったのですが、そのほとんど全ての結果は、ただ手痛い損失に終わったのです。私が外側のものに望みを置いたためにこそ、敵は私の望みを担保にとって、再三に渡り、私を欺くことができたのだと分かったのは、多くの失敗を重ねた後のことでした。

サタンが私たちを欺くことができるのは、私たちの心の内に彼の足場がある時です。言い換えると、私たちの心の中に、キリストではないものを頼みとする思いがあればあるほど、彼はそれを足がかりとして、私たちを欺くことができます。もしも足場がなければ、彼には働く余地がありません。今日、クリスチャンに対する欺きは、「神の国」や「兄弟姉妹の交わり」といった言葉を巧みに用いて、クリスチャンの心が内なるキリストから逸れて、外側のものに向かい、私たちが外側のものに誘い出されるように仕向けることにあります。一旦、私たちが外側のものに望みを置くようになると、それが私たちの心を支配するようになり、やがて私たちの存在そのものを左右するようになります。

私が「兄弟姉妹の交わり」という外側の事柄に望みを置いて、その中に主の御業を見ようとしていた間中、霊的な敵は、その偽りの望みを通じて私を圧迫することができました。「この素晴らしい兄弟姉妹とともにいれば、必ず、主が何かをなして下さるに違いない」というような思いは、決して、報われることはありませんでした。そのような期待は、やがて浅はかな現実逃避に他ならない、ということだけが判明して終わります。そのようなことが幾度も繰り返された後で、ようやく初めて、鈍感な私でも、主権は私の内におられるキリストだけにあるのであって、兄弟姉妹の交わりも含めて、決して、私の外側にある何かにはない、という事実を理解したのです。

聖書は何度も言っています、「愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。」(Ⅰヨハネ4:1)

今日の霊的な敵の大きな欺きは、目に見える教会という地上的な領域に、あたかも神の国があるかのように見せかけたり、交わりの中に、もしくは、あれやこれの現象の中に、主がおられるかのように思わせ、目に見える領域に、あたかも神の国が実現するかのようにクリスチャンに思い込ませることにあります。何を分かりきったことをと思われるかも知れませんが、この種類の欺きは非常に深いのです。それを信じてしまうと、私たちはむなしい望みのために人生を浪費することになります。

暗闇の勢力は、目に見えない御霊の領域に属することを、目に見える領域(魂の領域、肉の領域)にすりかえることにより、私たちが本当の望みではあり得ないものに目を注ぎ、この世の領域に属する現象に望みを置くように仕向けます。彼らは私たちが自分ひとりでは決して立てない無力な存在であるかのように思わせ、内におられる主だけに信頼せず、何か色々な外側にある良さそうなものによって、絶えず自分を補強するよう仕向けます。しかし、主ご自身だけに信頼を置くことをやめるとき、私たちは御霊の導きの外へ連れ出され、人生を奪われ、自由を失っていくのです。

暗闇の勢力の目的は、霊→魂→肉体の順序を逆にすることにあります。御霊の働きは人の最も内側から始まり、人の自由意志を強めこそすれ、決して侵害しませんが、サタンの働きは、まず外側のものに私たちの心を従属させることにより、私たちがそれらのものに支配され、自由意志を手放すように仕向けます。最終的に、望みを置いているもの自体が偽りであることに気づいて、自由意志を取り戻して抵抗しない限り、敵は何度でも私たちに打撃を加え、私たちの人生が全く自由を失うまで抑圧することができます。それが欺きであったことが分かるのが早く、そこから離れるのが早いほど、損害も軽く済みます。

真理には一貫性がありますが、偽りには一貫性がありません。偽りとは、言い換えれば、支離滅裂、首尾一貫性のなさ、真理とそれ以外のありとあらゆるものの混ぜ合わせです。クリスチャンが一旦、欺かれて外部のものに依存するようになると、そこからあらゆる偽りが流入するようになります。そうして、その人の主張から首尾一貫性が失われていきます。よく観察すると分かりますが、色々な影響力のとりこにされて欺かれているクリスチャンの主張には全く首尾一貫性がありません。彼らは時に素晴らしい真理を語ります。しかし同時に、どんなに互いに矛盾する主張であっても、平気で引用します。そのようにして主張が支離滅裂となり、首尾一貫性を失っていることから、私たちは、彼らがもはや真理だけに忠実であることをやめて、その他もろもろの、外側から来るさまざまな影響力に、心の扉を無条件に開放してしまっていることを理解するのです。

「汚れた霊が人から出て行って、水のない地をさまよいながら休み場を捜しますが、見つかりません。そこで、『出て来た自分の家に帰ろう。』と言って、帰って見ると、家はあいていて、掃除してきちんとかたづいていました。そこで、出かけて行って、自分よりも悪いほかの霊を七つ連れて来て、みなはいり込んでそこに住みつくのです。そうなると、その人の後の状態は、初めよりもさらに悪くなります。邪悪なこの時代もまた、そういうことになるのです。」(マタイ12:43-45)

今日、暗闇の勢力の最大の策略の一つは、神の国が、あたかも目に見える領域にさも実現するかのようにクリスチャンに思い込ませ、それによって、目に見える領域に神の国を建設するという、見込みのない作業に人生を費やさせることです。そのようにして、人々の内側にある霊的な主権を奪い取って、この世の領域にあるものに従属させて、主の御名のもと、神の国という名目のもと、本人は気づかないまま、決して天に届くことのない、神に反逆する活動にひそかに従事させるのです。

しかし、主ははっきりと言われました。

「さて、神の国はいつ来るのか、とパリサイ人に尋ねられたとき、イエスは答えて言われた。『神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。『そら、ここにある。』とか、『あそこにある。』とか言えるようなものではありませんいいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」(ルカ17:20-21)

「イエスは弟子たちに言われた。『人の子を一日でも見たいと願っても、見られない時が来ます。人々が『こちらだ。』とか、『あちらだ。』とか言っても行ってはなりません。あとを追いかけてはなりません。」(ルカ17:22-23)

この御言葉は、私たちが神の国を建て上げるために、どこかへ行き、誰か優れた指導者や、優れた兄弟姉妹とともに、何らかの建設作業に従事しなければならないとは全く教えていません。むしろ、その逆です。この御言葉は、全ての見えるものからの完全な自由を私たちに与えてくれています。それは私たちがどんなに優れた目に見える交わりにも、どんな優れた人の主張にも、決して、従属する必要がないこと(むしろ、依存してはいけないこと)をはっきりと教えてくれています。

この御言葉は、内にキリストがおられるがゆえの、私たちの揺るぎない内的な中心性を表しています。仮にどんなに優れた兄弟姉妹がいるにせよ、神の国は、彼らのもとにあるのではありません。仮にどんなに優れたメッセージがあるにせよ、それを通してキリストがご自身を私たちに現されるのではありません。御言葉を手引きしてくれる誰かがいたとしても、それをキリストご自身に置き換えるようなことはしてはならないのです。神の国は「あそこにある」とか「ここにある」というものではなく、私たちのまさに「ただ中にある」と、御言葉ははっきりと告げてくれているのです。これは偉大な事実です。

次の御言葉もやはり同様のことを述べています。

あなたがたのばあいは、キリストから受けた注ぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それで、だれからも教えを受ける必要がありません彼の油がすべてのことについてあなたがたを教えるように、――その教えは真理であって偽りではありません。――また、その油があなたがたに教えたとおりに、あなたがたはキリストのうちにとどまるのです。そこで、子どもたちよ。キリストのうちにとどまっていなさい。それは、キリストが現われるとき、私たちが信頼を持ち、その来臨のときに、御前で恥じ入るということのないためです。」(Ⅰヨハネ2:27-28)

もう一度言いますが、神の国は、あの教会、この指導者、あの兄弟姉妹、この交わり、あの集会、この山から始まるとは、聖書は全く言っていません。むしろその反対です、全ての鍵は、私たち自身にあります。ええ? 本当ですか? そんな不遜なことがあって良いのですか?と問い返したくなるようですが、これが事実なのです。もちろん、肉なる私たち自身に価値があるのではありませんが、キリストが内におられるがゆえに、私たち自身が鍵となるのです! 他の兄弟姉妹が重要なのではなく、あの先生、この先生が重要なのでもありません。あなた自身、私自身、そして、私たちの内におられるキリストこそすべてにまして重要なのです。

私たちを導かれる方はただお一人、私たちが耳を傾けるべき方は一人しかいません。そのお方はすでに全てを達成されたのです。ですから、私たちは外側の何にも依存する必要はなく、また、依存してはいけないのです。外側からの評価によって、自分自身の価値を判断するのではなく、内におられる方に耳を傾けなければならないのです。

もしも御霊に聞くなら、もはや外側のものの奴隷となる必要はありません。キリストは私たちに外部のどんなものの評価にも頼らなくて済む、内心の本当の自由をお与えになりました。(これがⅠコリント2:15の意味でもあります、「御霊を受けている人は、すべてのことをわきまえますが、自分はだれによってもわきまえられません。」

さて、時は縮まっています。自由はただキリストの内だけにあり、キリスト以外のものに頼ることがどんなにむなしいことであるか、時とともにますますはっきりと証明されるようになっていると感じます。たとえ目に見える領域でどれほどの成功を収め、どんなに人の間で上手く立ち回ることができたとしても、生ける水の源である主以外のところからは、誰も命の水を汲むことはできないのです。「そむく者は罪人とともに破滅し、主を捨てる者は、うせ果てる。」(イザヤ2:28)。「あなたの悪が、あなたを懲らし、あなたの背信が、あなたを責める。だから、知り、見きわめよ。あなたが、あなたの神、主を捨てて、わたしを恐れないのは、どんなに悪く、苦々しいことか。」(エレミヤ2:19)

「邪悪なこの時代もまた、そういうことになるのです。」 

でずから、私たちは今こそ内なる油塗りにとどまろうではありませんか。私たちの真の礼拝の場所は、あの山、この山ではないのです。私たちの中では往々にして、目に見えるものと目に見えないものの順序が逆になり、そうして、私たちは目に見える地上のものの奴隷となってしまうのです。しかし、それはあってはならないことです。

今、私たちはキリストにあるまことの自由の意味を学び、彼にあってのまことの自立を理解し、また、あらゆる束縛に対抗して、その自由の中にとどまることのできる人にならなければならないと感じます。ただ彼のいのちの中に生き、彼の内にとどまる自由を知り、他の何ものにも従属しないこと、全ての信仰の先人がそうであったように、外側のものに心奪われず、ただひたすら見えないお方にだけ目を注ぐこと――、それを学ぶことが、私たちの内にキリストが形造られることの重要な意義の一つであると思われてなりません。

「…神を知らなかった当時、あなたがたは本来は神ではない神々の奴隷でした。ところが、今では神を知っているのに、いや、むしろ神に知られているのに、どうしてあの無力、無価値の幼稚な教えに逆戻りして、再び新たにその奴隷になろうとするのですか

あなたがたに対するあの人々の熱心は正しいものではありません。彼らはあなたがたを自分たちに熱心にならせようとして、あなたがたを福音の恵みから締め出そうとしているのです

私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。」(ガラテヤ4:8-19)

「あなたがたは、代価をもって買われたのです。人間の奴隷となってはいけません。」(Ⅰコリント7:23)


PR


【無題】
アーメン アーメン
【Re:無題】
ムベさん、ありがとう!
この記事へコメントする








絵文字:
Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字









「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)

「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。

しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」

こういうわけで、兄弟たちよ。 私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」
(ガラテヤ4:28-31)


(07/17)
(05/14)
(05/09)
(05/07)
(05/07)
(05/02)
(03/20)
(03/05)
(02/28)
(02/22)