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「私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。…そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。…私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」(ローマ7:18-24)

ウォッチマン・ニー著、『キリスト者の標準』、斉藤一訳、いのちのことば社、pp.180-186より抜粋

「日常生活において、律法から解放されたとは、どのような意味を持つでしょうか。それは今後神のために、何ひとつとしてしないということです。神をお喜ばせしようと努力することなど、決してしないということです。

「なんという教義だ!」と言われるかたがあるでしょう。また「なんという誤った考えだろう。あなたは正気ですか?」と問う方もあるでしょう。

しかし、もし私が「肉にあって」神を喜ばせようとすれば、すぐさま私は自分自身を「律法の下に」おくことになります。私は律法を破りました。律法は死刑の宣告を下しました。死刑は執行され、かくて今や私――肉につく「わたし」(ローマ七・一四)――は、死によって律法の要求から全く解放されたのです。

今なお神の律法は存在しています。事実古い律法より無限に厳格な「新しい戒め」があるのです。しかし神は感謝すべきかな、その要求は満たされているのです。なぜなら、キリストがそれらを満たして下さるからです。キリストが私の内にあって、神に喜ばれる働きをして下さるのです。

キリストは「わたし(キリスト)が律法を…成就するためにきたのである」(マタイ五・一七)と言われました。だからパウロは、復活を根拠としてこう言うことができました。「恐れおののいて自分の救の達成に努めなさい。あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起こさせ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである」(ピリピ二・一二、一三)

あなたのうちに働かれるのは神です律法からの解放は、神の御旨を行なわなくてもよいということではありません。それは私たちが無法者になるようなことを、決して意味しているのではありません。その反対です。それが意味するところは、私たちが、神の御旨を自分の力で行うことから解放されているということです私たちは、自分の力で神の御旨を行うことはできないということを十分に納得した以上、古き人の立場から神を喜ばせようとすることを止めます。ついに自己に絶望するという点に到達した結果、私たちは努力することさえ止め、主が私たちの内に復活の命を表して下さるため、主に信頼を置くのです

(筆者追記: ただし、これは私たちが全てをあきらめて消極的になり、自分の肉の罪深さを見ることさえやめて、肉のなすがままになればよいということを意味するのではありません。たとえ自力では神の御旨に従いえないことを知ったとしても、私たちが罪を憎むことをやめ、神の御旨を行うことを願いさえしなくなるべきだということを意味しません。「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起こさせ、かつ実現にたらせるのは神であって…」とあるように、私たちのうちに願いが起こって、初めて、神は働かれます。神は私たちが願わないことを決して私たちの上に成就されません。ですから、私たちはたとえ自力では神に従いえないことを知って、自分の肉なる努力をやめて、生まれながらの古き人に絶望しながらも、ただ御旨だけが私たちの上になるように願い、うちに働いて下さるキリストの力を信じて仰ぎ望むのです。)

…私たちが、やってみようという気持ちを捨てるのが早ければ早いほど結構です。なぜなら、もし私たちがひとりで仕事に手をつければ、聖霊の働く余地は全くなくなるからです。もし私たちが「私は手を出しません。あなたが私のために働いて下さるため、あなたを信頼いたします」と言えば、私たちより偉大な力が、私たちを運ぶのを発見するのです。

一九二三年に、私はある有名なカナダの伝道者に会いました。私は招かれた教会で、大体以上のようなことを話しました。集会が終って一緒にその伝道者の家に帰る途中、彼は私にこう語りました。「ローマ人への手紙七章は、最近ほとんど説教されていません。しばらくぶりで拝聴しましたが、本当によかったと思います。私が律法から解放された時は、まさに地上における天国でした。私は長年キリスト者として生きて来ましたが、いぜんとして神を喜ばそうと全力をつくしていました。しかし努力すればするほど失敗しました。私は、神がこの宇宙での最大の要求者であると思いました。しかし私は、その御要求の最小部分でも果たす力がないことを知ったのです。

ところが、ローマ人への手紙第七章を読んでいる時、突然私は罪だけでなく、律法からも解放されていることを知ったのです。驚きの余り私は飛び上り、『主よ、あなたは本当に私から、何も要求しておられないのですか。では私はこれ以上あなたのため、何もしなくてよいのですね』と叫んだのでした。」

…勝利の生活を努力してから得ようとしたある兄弟が、「どうして私はこんなに弱いのでしょう」と言ったので、私はこう答えました。「問題は、あなたが、神の御旨をなすことができないという点においては弱いが、全部のものを放棄するほど弱くないところにあります。だからあなたは、まだ本当に弱いとはいえません。全く弱くなった時に、すなわち何ひとつとしてできないことを心から納得した時に、神はすべてをなさるのです。私たちは一人残らず『主よ、私はあなたのために、何一つすることができません。しかし、あなたがた私の内にあって、すべてをなして下さることを信頼します』と言えるところまで行くべきです。

かつて私は中国で、二十人ほどの兄弟と一緒にいたことがあります。宿泊している家には、全員が入浴できるだけの設備がなかったので、私たちは毎日川へ水浴に行きました。ある時一人の兄弟が足にけいれんを起し、急に沈み始めました。それを見た私は、水泳の達者な兄弟に、早く助けに行くようにと伝えました。しかし驚いたことに、彼は身動き一つしないのです。

そこで私は心配になって、「おぼれているのがわからないのですか」と大声をあげました。他の兄弟たちも私同様にいらいらし、同じように叫びましたが、彼はなおも動きません。彼は落ち着いて、じっとそのまま立っていました。明らかに、この面白くない仕事を敬遠しているという仕草でした。その間に、おぼれている兄弟の声はますます弱ってきました。そして彼の動きも目に見えて衰えてきました。私は心の中で「なんという憎い男だ! 目の前で兄弟がおぼれるのを見ながら、助けに行かないとは!」と思いました。

しかし、その兄弟が本当に沈み始めた時に、彼はすばやく泳いでそばに行き、その兄弟をつれて無事に岸に帰ってきたのです。私は彼と話す機会ができた時に、自分の意見をまくしたてました。「君ほど自分の命を愛するクリスチャンは、まだ見たことがない。自分のことを思わないで、もっと早く兄弟を助ければ、もっと早く兄弟を苦しみから救えたのに。

しかし彼はこう答えたのです。「私がもっと早く行っていれば、彼は私を力いっぱいつかみ、そのため二人とも沈んだでしょう。おぼれる者が全く疲れ果て、自分を助けようともがく力が全部なくなった時に、初めて救うことができるのです

おわかりでしょうか。私たちが努力をあきらめる時、神は御手をさしのべられるのです。神は、私たちの力が尽きて、自分自身のために何一つできなくなるのを待っておられます。神は古い創造に属するすべてのものに対して刑罰を宣告し、それを十字架につけられました。肉は益するところなしですもし肉において何かしようと努力すれば、私たちは、キリストの十字架を実際的に拒絶することになります神は私たちが、ただ死のみに適する者であると宣告されましたこれを心から信じる時、私たちは、神をお喜ばせしようとの肉による一切の努力を放棄することにより、神の宣告を確認するのです

御旨をなすためのあらゆる努力は、私たちが全く無価値なものであるとの十字架による神の宣告を、拒否することになります。私たちの継続的な努力は、一方では神の要求を誤解し、他方では、それを満たす源泉を誤解していることを意味します。

私たちは律法を見る時、その要求を満たさねばならないと思います。しかし、律法はそれ自体正しくても、間違った人に適用された時には大きな間違いを生じるということを、覚えなければなりません。ローマ人への手紙七章「みじめな人間」は、神の律法の要求を自分の力で満たそうとしました。それが彼のトラブルの原因となったのです。同章の「わたし」という繰り返しで出てくる小さな言葉が、失敗の手がかりを与えています。「わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている」(ローマ七・一九)

この人の頭には、根本的な思い違いがあったのです。彼は、神が律法を守ることを彼自身に求めておられると思い、それを守ろうと努力しました。しかし神は、そんなものを要求しておられなかったのです。結果はどうでしょうか。神をお喜ばせすることを行うどころか、かえって神をお喜ばせしないことを行っていると気づいたのです。神の御旨を行おうとするその努力において、御旨と思われることに反したことを行っているのに気づいたのです。」


「肉にある者は神を喜ばせることができません。けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。…もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。…ですから、兄弟たち。私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいませんもし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのですしかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。」(ローマ8:8-13)

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「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)

「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。

しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」

こういうわけで、兄弟たちよ。 私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」
(ガラテヤ4:28-31)


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