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なぜ今日、これほどまでに多くのクリスチャンが惑わされるのでしょうか? なぜクリスチャンが十字架につまずき、キリストにつまずくということが起こるのでしょうか? 再三に渡り、述べて来たことですが、私たちクリスチャンを最もつまずかせるものの一つが、天然の魂の愛です。もし私たちが神の愛と、人の生まれながらの魂から出て来る愛を混同するならば、欺かれることになりかねません。

天然の魂の愛とは何でしょうか。それは人が自分の力で善をなしとげようとし、自分自身の力で神を喜ばせようとするだけでなく、生まれながらの人が自分自身の力で他人を救おうとする、人間の自己救済の願望に通じています。それは人間の目にはとても美しく見えるかも知れませんが、生まれながらの魂から、肉から出て来る動機である以上、天に届くことはありませんし、その試みが成功に至ることもありません。

「肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。」(ガラテヤ6:19-21)

このような肉の働きが悪しき行ないであることは、誰も否定しないでしょう。しかし、クリスチャンの多くが考えてみないのは、肉は善をも行なうことができるということです。多くのクリスチャンは神のために絶え間なく善行を行っています。しかし、自分たちの行なっている善行が、肉から出て来ているのに過ぎないことを知りません。

多くの人々は、御言葉を宣べ伝えること、滅び行く人々の救いのために努力すること、神の国の実現を追い求めること、互いに愛し合い、仕え合うこと…、そういった数々の「題目」を、疑いもなく実行しており、それを懸命に実行することが「敬虔さ」だと考えています。しかし、そこに大きな欠け目があります。その行ないは何の力によって支えられているのでしょうか。誰の力で、それは成し遂げられているのでしょうか。誰に栄光をもたらすために行なわれているのでしょうか。人から出て来るものは神に栄光を帰することができません。

今日、「主のために」なされているはずの多くの活動が、人間の手柄となっているのを私たちは見ます。多くの人々は義務感に突き動かされて、神を喜ばせることを自力で追い求め、「主のために」、あらゆる活動を自力で貫徹せねばならないように思っています。そして、ほとんどの場合、その活動に押しつぶされてしまうのです。おのおの気高い理想を心に思い描きますが、それらを全て肉の力で実行しようとして失敗に至るか、もしくは欺かれて、人工的な「宗教」を構築する羽目になってしまうのです。

人は肉の「善行」の良さそうな響きゆえに、それを疑わないかも知れません。しかし、人の贖いをすでに達成して下さった方がおられる以上、その救いを、再び、生まれながらの人の力によって達成することは不可能であるばかりか、神に対する反逆となってしまうのです。たとえどんなに人間の思惑に合致しているように見えても、どんなに御言葉によって飾られていたとしても、生まれながらの人から出て来るものは、神の御霊に一致せず、生まれながらの人の力によって成し遂げられる全ての事柄は、神を喜ばせることができません。

「肉にある者は神を喜ばせることはできません。」(ローマ8:8)

しかし、肉から出た善行ほど、私たちの目にその腐敗が分かりにくいものはありません。さらに言うならば、人間の肉から出て来る善行ほどに、私たちの生まれながらの魂を喜ばせ、高揚させてくれるものは他にはないかも知れないのです。

たとえば、私たちは哀れな罪人を見て、彼らを何とかしてあげなければならないという痛切な憐みを心に感じるかもしれません。不平等と苦しみに満ちたこの世の有様を見て、このまま放っておいてはいけないと感じるかも知れません。私たちはこれが正義だと思うものをおのおのこの手に握りしめています。しかし、生まれながらの人から出て来る正義感や、理想が、人が神に代わって人類と世界を救済しようとする、神に逆らう願望に通じており、決して役に立たないことが分からないのです。

私たち生まれながらの人間には、それぞれの「インドのベナレス」があると私は言います(これはあえて象徴として使うのであり、現実のベナレスを指しているのではありません)、この「ベナレス」は、きっと誰もが人生において一度は通過することになるに違いありません。これはこの世の最大の悲劇の集まる場所、そこを通過する時、世のあまりの惨状に私たちの目は奪われます。それは私たちの自己安堵を徹底的に打ち砕きます。私たちは今までこれほどの惨状に直面したことはありませんでした。これほど滅び行く哀れな人々の有様を間近に見たことがありませんでした。しかし、今、貧しく、苦しんで、見捨てられている、哀れな人々の姿を目の当たりに見た時、いかに自分がこれまで自己安堵に満ちた生活を送って来たかと反省を促されます。

しかし、その時、注意しなければならないことがあります、それは、私たちの心が神に向かわず、現状の悲惨さに奪われてしまうか、もしくは、哀れな人々に向かってしまうことなのです。危険なのは、キリストが十字架で全てを成就して下さったことを忘れ、目に見える世界の悲惨さだけに心を奪われて、それを自分の正義感と自分の願いによって改善しようという欲求にとらわれてしまうことなのです。

キリストの十字架は、すでに人類の全ての負債の問題に解決を出しました。しかし、万物はまだ彼に完全に服してはいませんし、見える世界はまだ巻かれていません。しかし、そうであるがゆえに、私たちは何が真のリアリティであるかを見誤り、目に見えるものの矛盾だけにとらわれ、自分の力でそれを改革せねばならないように思わされることがあります。もしそう考えるなら、私たちは欺かれてしまいます。

生まれながらの人間の情は、現実の悲惨と直面するとき、「この悲惨な現状に対して、私は何かをしなければならない」と語りかけます。この場所にとどまって、このおびただしい数の不幸で哀れな人々のために、自分を捨てて、手を差し伸べてやるべきだと思うのです。私たちの天然の魂は痛切にうめき、彼らの状況を改善してやりたいと願います。彼らを憐れまずに通りすぎるなど、あってよいでしょうか?

ああ、私たちの心はちぎれそうです! 私たちの全ての道徳、人情が、私たちの心に訴えかけます! ああ、私たちは豊かな者ですが、彼らは貧しいのです! これは不公平ではないでしょうか? なぜそもそもこのような苦しみが地上に存在するのでしょうか? 私たちは思います、こんな現状が許されてはならず、彼らに手を差し伸べることにより、彼ら一人ひとりを救ってやるべきではないかと。それこそが御旨にかなった奉仕ではないかと。神はこの哀れな人々を愛さないのでしょうか? この地上の全ての不平等、苦しみ、抑圧に、現実的な解決の方法を示すことが、私たちの信仰の課題ではないでしょうか? 

哀れな貧しき人々の純粋で無垢な姿が私たちの心を打つかも知れません。彼らのへりくだり、忍従が私たちの心を打つかも知れません。私たちは、自分の心がいつも富める人々の方ばかりを向いていたので、かえって、この人々の純粋さが見えず、彼らを蔑んでいたのだと思うかもしれません。ああ、この弱い人々が罪人だなどということがあるでしょうか? 私たちの心は言います、いいえ、私たちはこの人々に説教できる筋合いにはなく、私たちこそが、罪人として、この貧しき人々の前に頭を垂れて立ち、彼らに仕えなければならないと。これは環境が彼らを蝕んだだけであって、この人々が悪いのではないと、だから、この環境の矛盾を解消してやれば、この哀れで善良な人々は救われて、はるかに良い人生を送るだろうと。

私たちの生まれながらの憐憫の情はささやきます、「あなたが彼らを救うために何かをしなければならない」と。私たちはそれが「愛」ではないかと思います。ところが、違うのです、断じて、そうではないのです、この私たちの生まれながらの魂から出て来る強い憐憫の情が、私たちに感じさせているのは、「愛」ではなく、「負い目」の意識なのです。すべての負債は罪から出て来るものであり、負い目とは、罪意識そのものに他なりません。

「だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことについては別です。」(ローマ13:8)

私の言うことがお分かりならないかもしれません。これを論理的に説明することはとても難しいのです。真の愛は、自由に裏打ちされたものであり、それは決して義務関係から生じるものではなく、貸し借りや、負い目の意識からは生じ得ません。真の愛は、罪が感じさせる負い目の意識とは全く別のものなのです。神の愛は私たちの自由意志を決して拘束しません、ところが、負い目は常に私たちを束縛します、負い目はこうささやきます、「あなたは彼らに対して借りがある、だから、あなたはここにとどまらなければならない、そして、彼らのために~~しなければならない。あなたは彼らに対して負債を返さなければならない」と。

負い目は常にこうささやきます、「あなたは~せねばならない! ~せねばならない! ~せねばならない!!」!! しかしどれほどその義務を追求しても、決して私たちは基準を満たすことなく、その責めから自由になれません。

私たちには、基本的に二つの生き方が与えられており、そのどちらかを選ばねばなりません。一つは、キリストが全ての負債を十字架で完済され、私たちを全ての負い目から解放して下さったという事実を信じ、この事実に立ち続け、キリストの全額返済を頼りに、そこから神の満ち満ちたいのちの豊かさを引き出して生きる道。もう一つは、人間の罪という、大きすぎる負債を自らの力で返済しようと、生まれながらの人類への「愛」や「憐み」の美名の下、生涯、人が罪の負債の奴隷として、自分では返しきれない借金を永久に返済し続けるという、負いきれないくびきを負って生きる道。

実に多くの人々が、生まれながらの哀れな罪人への憐憫の情から、地上の不幸、病、抑圧、苦しみを自らの力で解決することが、信仰の課題であると誤解して、自分を捨てて、貧しき人々を救済しに出かけて行くのです。ちょうど19世紀に「人民の中へ」の運動を担ったナロードニキのように、彼らは罪人たちや、貧しき人々と同化するために、喜んで自分を捨てるのです。彼らは人生の全てをその事業につぎ込み、貧しさに甘んじ、困難に甘んじ、迫害に甘んじ、職業も捨て去り、家族や、社会的立場や、教養もかえりみず、自分の魂の愛する人々を助けようとつとめます。彼らはそのようにして自分を投げ出すことこそ、信仰の課題だと信じているのです。

私たちはそのような自己犠牲の証を聞くと、つい、それを賛美したい思いに駆られます。しかし、その中のどれほどのものが、実際には、愛ではなく、負債に基づいて行なわれたのでしょうか。もしその自己犠牲が、負い目の意識から、負債の返済のために行なわれたのだとすれば、それには決して人を生かす力はないのです。借金を抱えた人が借金を抱えている他人を助けられるでしょうか? 罪悪感に基づいて、救済事業にいそしむことはできないのです。さらに、私たちは一体、何に自分を同形化し、何に自分を捧げれば良いのでしょうか? 目に見える対象物でしょうか? 目に見える誰かでしょうか? いいえ、私たちが同形化して良いお方はただお一人しかありません。

「あなたがたのからだはキリストのからだの一部であることを、知らないのですか。キリストのからだを取って遊女のからだとするのですか。そんなことは絶対に許されません。…「ふたりの者は一心同体となる。」と言われているからです。主と交われば、一つ霊となるのです。」(Ⅰコリント7:15-17) どうしてただ一人の花婿なるキリストに自分を捧げた者が、彼以外の目に見える対象と同化して良いものでしょうか。

ですから、ナロードニキがそうであったように、貧しい人々を虐げて来たという罪悪感に突き動かされて、その負い目を解消するために、自分の立場を捨てて、貧しい人々と同化しようとしても、そこには滅び以外に、どんな救済も決して見いだせないのです。まして、すでにキリストに捧げられた聖なる生きた供え物であるクリスチャンが、神以外の見える対象に自分を同形化しようとすることは欺きであり、神の生ける宮である自分を自分で滅ぼすことに他なりません。

人々の罪のためにご自分を投げ出された方はすでにいます。それがキリストです。「もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の御前で弁護して下さる方があります。それは、義なるイエス・キリストです。この方こそ、私たちの罪のための、――私たちの罪だけでなく全世界のための、―― なだめの供え物なのです。」(Ⅰヨハネ2:1-2)

全世界のためにすでに死なれた方がすでにいます、私たちには彼を宣べ伝え、彼のもとへ人々が行くよう促すことはできても、自分が彼の代わりを務めることは絶対にできません。盲人が盲人を手引きしたり、物乞いが物乞いを助けることはできないように、私たちには誰一人として、人間を罪から救い出したり、その苦難から救ってやる力がないのです。

しかし、生まれながらの人間の魂から出て来る衝動は、神の御力にたのまず、自分自身の力によって、自分が罪人を救う救世主になろうとします。私たちの心の奥深くにあるアダムから来る思いが、人の罪と腐敗を認めず、かえって罪ある人々を、罪あるままで擁護し、彼らが悔い改めも、十字架も経ないままで、罪あるままで、自己義認できるような道を探そうとするのです。生まれながらの人間には、それこそが救済であるかのように見えます。自分が決して罪に定められないことが、人にとっては救いに見えるのです。しかし、この方法では決して罪の負債は返済できません。人には死を経ずに救われる道はないことが、キリストの十字架によって証明されているのですが、このことが、生まれながらの人間には受け入れられないのです。

たとえクリスチャンになっていても、私たちの心の中にあるアダム来の感情は、罪人を十字架に導かずに、むしろ、彼らをそのままで愛し、救ってやる道がないかと模索しようとします。これは私たちの心の奥深くにある神に対する反逆の思いです。それは罪ある他者の中に、罪ではなく、美を、理想を、義しさを見ようとします。罪人の中に、自分を投影することにより、他者を救うことで、自分を救おうとします。それは人類の自己義認と、自己救済の願望です。ナロードニキがそうであったように、自らの強者としての負い目を解消するために、虐げられた人々に同化し、彼らを美化し、「貧しき民衆」を高みに祭り上げることによって、自分自身の罪の意識をやわらげ、自分自身を救済しようとしているのですが、自分ではその忌まわしさに気づかないのです。

しかし、私たちは思い出さなければなりません、私たちは一体、何に身を捧げるために召し出されたのでしょうか? 私たちが救われたのは何のためだったのでしょうか? 被害者運動や、貧しき人々の救済や、その他の無数の虐げられた哀れな人々を自力で救済してやり、現実の世界のあらゆる矛盾を解消するために幾多の社会的運動に身を捧げるためでしょうか? そのようにして、延々と終わりなく、人の罪という借金を自力で返し続けるためだったのでしょうか? いいえ、「…あなたがたも、キリストのからだによって、律法に対しては死んでいるのです。…私たちが肉にあったときは、律法による数々の罪の欲情が私たちのからだの中に働いていて、死のために実を結びました。しかし、今は、私たちは自分を捕えていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。」(ローマ7:4-6)

「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」(ローマ12:1)

私たちは、外からやって来る欺きの非常に深いことを知る必要があります。目に見える世界は、地上で最高の栄耀栄華を提示することによって、人を誘惑することもできますが、同時に、私たちの心が引き裂かれそうになるような、地上で最も悲惨な、哀れな人々の苦しみに直面させることによって、私たちの心を罪の負債に釘づけにしてしまうこともできるのです。私たちは支配欲や名誉欲や金銭欲については警戒するかも知れませんが、地上で最も虐げられた人々を救済するために憐みの涙を注ぎ、自分を無にして投げ出すことによっても、人は神に成り代わって自らが救済者になろうとすることがあるという点については、あまり警戒していません。しかし、もしも私たちが、神が成し遂げられたことを人が代わって行なうという、自己救済の道を選ぶならば、それはどんなに人の目に良く映っても、必ず私たちの人生を破滅へ導き、苦い代償を残すのです。

私たちがキリストの十字架を通して、罪の奴隷状態から解放されたのは何のためでしょうか? 再び、「哀れな貧しき人々を助ける」という名目で、この地上のとりことされ、人間の力で人々を救済するという、見込みのない運動に身を捧げるためなのでしょうか? 地上でのさまざまな混乱は、絶えず私たちの目を引き、私たちに負い目の意識をもたらそうとするかも知れません。しかし、私たちの目は、目に見えるものにとらわれず、むしろ、この世に対して、すでにキリストの十字架を通してはりつけにされたという事実に立ち戻り、人と地上の全ての問題に対して、神ご自身が御子を通してすでに答えを出されたという事実を思い出すのです。御子が全てを完了されました。ですから、私たちの心の中には、目に見える世界に対するどんな借りもあってはならないし、また、実際、ないのです。ですから、この世のどんな悲惨を見たとしても、それに連帯責任を負わされてはなりません、この世を理想的に改革せねばならない責任が私たち自身にあるわけではないことを宣言してよいのです。

神の達成された御業に安んじること、決して自分の力で負いきれない罪の負債の問題に立向かおうとしないこと、それが、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからある。」(Ⅱコリント12:9)という御言葉の意味でもあります。

あらゆるユートピア主義運動が、生まれながらの人間の魂の憐憫の情、生まれながらの人の魂の愛という負い目の意識に突き動かされて、世を改革し、人類の罪という返しきれない負債を自力で返そうと、人類による自己救済の偽りの道へ踏み込んで行きました。しかし、どんなに美しい青写真がそこに掲げられていたとしても、人類が自己救済しようとすることの容赦のない結果は、歴史を見れば明らかです。

私たちは生まれながらの憐憫の情に身を任せて、「ベナレス」にとどまってはならないのです。もしそうするならば、目に見えるこの世が完全に私たちをとらえ、支配することになります。不幸な人々を助けることが私たちの人生最大の使命となり、目的となります。神ご自身に自分を捧げるのではなく、貧しき人々に身を捧げることが、私たちの課題となります。そして、そのビジョンが私たちを拘束し、私たちの人生から自由を奪うでしょう。私たちの心の内に、彼らに対する負い目がある限り、その負い目は私たちを支配し続けるでしょう。たとえ主が私たちに望んでおられることが別にあったとしても、私たちは自分のベナレスにとどまるしかありません。そして、私たちは、自分の持っている全てのものを、自分の魂の愛する人々のために投げ出し、捧げつくさなければならなくなります。

しかし、私たちが「ベナレス」でどんなに死力を尽くしても、病、貧困、苦しみ、抑圧はなくならず、私たちはその無限に連なる罪の連鎖から一歩たりとも外に出られないことだけが分かります。どんなに必死になって善行を積み、目の前にある人々を苦難から救い出そうと最大の努力を払っても、それはまるで大海からスプーンで水をすくって捨てるのと同じく、人類の巨額すぎる罪の負債、巨大すぎる闇の力に対して、何ひとつ効果がなく、むしろ、ただ(霊的な)敵の笑いものとなり、人生の浪費となる他ないのです。

その上、何か恐ろしい逆説的な力が働いて、私たちの「善行」がことごとく失敗に終わるのを見ることになります。ああ、「なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと願うことをすることができないのです。」(ガラテヤ6:17) 

私たちの肉から出て来た願いは、至極善良に見えるかも知れません。生まれながらの人から出て来る最高の望みは、全ての生まれながらの人が苦しまずに、傷つけあわずに平和に暮らすことのできる、地上の幸福社会の建設なのです。しかし、このテーマが人に何をもたらすか、私たちは知っています。生まれながらの人類の幸福社会の建設! それこそが、最も神の御怒りを引き起こすバベルの塔の反逆の精神であったこと、人が御霊によらずに、御子の十字架を介さずに、罪と死に定められることなく自己救済しようとする試みは、必ず失敗に終わることを私たちは知っています。

人の罪の問題は、生まれながらの人間の最善の努力によっても、何ら解決することができません。それは、人の内側から信仰を通じて働くキリストのまことのいのちである御霊以外の力によっては、決して解決されえません。ですから、私たち自身も、死を経由せずに、生まれながらの人から出て来る力によって、目に見えるものに正しく関わることはできないのです、もしも十字架の死を経由しないで目に見えるものに関わろうとするならば、私たちは必ず罪の負い目によって束縛されることになるでしょう。「ベナレス」が私たちを圧倒し、それが私たちを支配することになるでしょう。ただキリストと共なる十字架の死だけが、私たちをこの目に見える世界に対する一切の負債から隔て、切り離し、解放し、自由にするのです。

「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」(Ⅱコリント4:18)

生まれながらの人から出て来る思いは、人が自分自身の力によってこの地上に理想郷を打ち立てることを願います。人は人の利益が損なわれないこと、人間が侮辱されないこと、人間が恥をかかず、存在を否定されないことこそが、最も望ましい解決であると夢みます。生まれながらの人の「愛」は、人間が脅かされることに耐えられず、矛盾に満ちたこの世を見て、悩み、悶え、苦しみ、嘆きます。それは常に現状に対する不満に突き動かされて、「我ら何をなすべきか」と問いかけ、人間の利益を守るために立ち上がるように促します。

しかし、キリストの十字架の御業は、これとは決定的に異なって、見えない世界において、彼こそがすべてを「完了した」(ヨハネ19:30)ことを私たちに告げ知らせるのです。そして、私たちがその見えない都を見るようにして全てを忍びとおし、その都を仰ぎ望み、その都に安息するようにと促します。人の生まれながらの愛は、私たちに常に自分自身の力で負債を返すようにと駆り立てますが、神の愛は、神ご自身がすでに全ての負債の返済を完了して下さったことを告げるのです。

神はノアに命じて箱舟を作らせたように、キリストにより十字架を用意されました。そして、彼を通して、目に見えるこの世から、神の御霊によって秩序立てられる、見えない世界に私たちを連れ出されたのです。誰が考えたでしょう、ノアの一家8人をのぞいて、他の全ての人々が、神ご自身が用意された方法を否定して、罪に定められるなど。人の生まれながらの思いは、ノアの一家こそ罪に定められてでも、その他大多数の人々の命が救われるべきだったと主張するでしょう。人の生まれながらの思いは、ノアの一家だけが救われたのは不公平であり、それは人類に対する残酷であり、冒涜であり、圧倒的多数の人々が罪に定められ、ノアの一家だけが救われることが、神の御旨であったなど、そんな狭すぎる救いには耐えられないと抗議するでしょう。

ああ、今、私たちの周りで起こっていることも、それと同じなのです。あまりにも多くの人々が、見える世界をそのまま救おうとして、この世の問題を解決するために、自らの手腕に頼って、十字架以外の救済の道を模索するのです。それらが全て失敗に終わることを考えてみないのです。彼らは目に見える世界をそのまま救おうとして、十字架を取り払うか、もしくは押し広げて、決して人間が罪に定められることのない、人間に優しい「広き門」を造ろうとします。

しかし、私たちはすべての信仰の先人たちが、目に見える地上を通過して行ったこと、決して彼らの「ベナレス」にとどまらなかったこと、その中に都を建設しようとしなかったことを見ます。彼らは地上では寄留者であり、彼らが待ち望んだのは、この地上に都を建設することではなく、上なるエルサレム、天より来る永遠の自由の都だったのです。神のご計画は、この滅び行く世界をそのまま救うことではなく、御子の十字架を通して、被造物を贖い、人を暗やみの圧制から救い出し、彼の支配下に置くことであったのです。そして御国はキリストを通してすでに私たちの只中に来ているのです。

神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。」(コロサイ1:13-14)

「御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。」(コロサイ1:15-16)
★ ★ ★

「信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。

信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だとあかししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。…

信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです

信仰によって、ノアは、まだ見ていない事がらについて神から警告を受けたとき、恐れかしこんで、家族の救いのために箱舟を造り、その箱舟によって、世の罪を定め、信仰による義を相続する者となりました。

信仰によって、アブラハムは、相続財産として受けるべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。

信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしました。彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です。・・・

これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。

もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました
。」(ヘブル11:3-16)

このように、信仰の人々は決してこの地上に彼らの心にかなう理想郷を実現しようとはしませんでした。彼らは常に見えない都を仰ぎ望み、ただ見えないお方だけに目を注いだのです。人はこの地上で色々な土台の上に家を建造するかも知れませんが、しかし、何が永遠に残る、朽ちないものであるかは、神ご自身が証明なさるのです。ですから、もしも人がこの地上のものを用いて、生まれながらの自己から出て来るものを用いて、肉のものを用いて建物を建てるならば、かの日に、そのすべては焼き尽くされることでしょう。それによって、それが偽りであったことが証明されるでしょう。その人が救われていることに変わりはないかも知れませんが、その人が神の神殿である以上、神は必ずご自分に属さないものを滅ぼさずには置かれないのです。朽ちるものは神の焼き尽くす火のテストには耐えられません。神は聖なる方だからです。私たちの都はこの地上にはないのです。

「…だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現われ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。

もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。もし、だれかが神の神殿をこわすなら、神がその人を滅ぼされます。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたがその神殿です。」(Ⅰコリント3:11-17)




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「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)

「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。

しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」

こういうわけで、兄弟たちよ。 私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」
(ガラテヤ4:28-31)


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