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アダムとエバは自分を喜ばせてくれるサタンの方法を選択することによって神に近づこうとしましたが、その結果、彼らに分かったのは、自分たちが神と断絶しているという事実だけでした。善悪を知ることができても、分かったのは、自分が罪に定められているという最も恐ろしい事実だけでした。この事実を知ったとき、彼らは自分たちの背信が神に与えた悲しみの深さを思うよりも前に、自らの罪を直視させられ、自分の裸の恥を思い知らされて面目を失い、自分の美が損なわれたという衝撃に耐えられず、神ご自身から逃避し、事実から逃避し、自己正当化することを選んだのです。

「神である主は、人に呼びかけ、彼におおせられた。『あなたは、どこにいるのか。』 彼は答えた。『私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」(創世記3:9-10)

アダムの返答の中には、自分の裸の恥を全て知っておられる神に対する非難のニュアンスがこめられています。なぜ私がこのような目に遭わなければならないのですか?という非難の響きがあります。人は自分が背信を行なったことを知っていましたが、それでも、その罪を悔い改めるよりも、自分の美が損なわれたことをむしろ嘆いたのです。

サタンの嘘を内側に取り込んでしまったとき、人の心からはへりくだりが失われ、サタンと同じ高慢さ(神への反逆の心)が芽生えました。それは、真実な神を罪に定めてでも、自分を義としようとする高慢さでした。そこで、人は神の判決の正しさを認めて、御前に恐れをもって膝を折り、ひれ伏すということができなかったのです。彼らは神から逃げました。自分の罪からも逃げました。そして、いちじくの葉という、色々な「良さそうなもの」で身を飾ることで、自分で自分を義としようとしました。このアダムとエバの神からの逃避が、カインの礼拝に、人が自分を義とするために造り出した今日の偽りの宗教にそのままつながっています。

人間の造り出した宗教としてのカインの礼拝は、今や、ひとつの完成された体系にさえなろうとしています。それは神の概念そのものを捻じ曲げ、すりかえてでも、生まれながらの人間の対面を擁護し、生まれながらの人間を傷つけない、自分たちにとって優しい「神」を作り出し、その「神」の助けを借りて、生まれながらの人間を神に等しい高みにまで祭り上げようとしています。これは表向きにはまだ「神」の概念を用いていますが、その本質は、最も神に敵対するものであり、決してキリストの十字架の死を経ずとも、人は自らの力に力によって救われることができるという、人にとってまことに都合の良い、人間本位の偽りの宗教です。

しかし、それは欺きであり、偽りなのです。今日、まさにクリスチャンに対してこそ、このような偽りと惑わしの力が最も激しく働いていると感じざるを得ませんが、いずれにせよ、主を信じた人が偽りに身をゆだねることは、神に対して霊的姦淫を犯すことであり、重い罪に相当します。主が姦淫を憎まれることを私たちは知っています。そこで、もしも万が一、たとえ一時的に私たちが欺かれて偽りを受け入れることがあったとしても、それが偽りだと分かったならば、悔い改めの宣言と共に、一旦受け入れてしまったパン種を、ことごとく自分の外へ投げ捨てるべきなのです。私たちはそれと手を切ったことを公に宣言し、これらの偽りを憎むことを告白すべきです。もしそのようにして、その影響力を捨て去らないならば、一旦受け入れた偽りの教えは、ずっと私たちの内側に足場をもうけ、サタンの働きを続行するでしょう。

私たちはダビデの姦淫の結果を知っています。バテ・シェバを見たとき、彼女は美しく、彼にはいかにも好ましく見えました。「…まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった」。ダビデの感覚が彼を裏切りました。彼は彼女を見て、欲しいと思いました。気づくと、彼はすでにあらゆる策略をめぐらして、彼女をわがものとするために呼び寄せ、ウリヤを殺していたのです。それはほとんど無意識の行動だったに違いありません。

ダビデのこの罪にはどんなに厳しい刈り取りが伴ったでしょう。多くの人々は、ダビデの悔い改めにより、神は彼の罪を赦して下さった、という部分にばかり注目したがります。しかし、私たちが決して忘れてはいけないのは、たとえ罪が赦されたとしても、人は自分の犯した罪の報いを、必ず、人生で刈り取らなければならないということです。罪が大きいならば、刈り取りも大きいのです。

「主はこう仰せられる。『聞け。わたしはあなたの家の中から、あなたの上にわざわいを引き起こす。あなたの妻たちをあなたの目の前で取り上げ、あなたの友に与えよう。その人は、白昼公然と、あなたの妻たちと寝るようになる。あなたは隠れて、それをしたが、わたしはイスラエル全部の前で、太陽の前で、このことを行なおう。』」(サムエルⅡ12:11-12)

隠れたことを明らかにされる神! 私たちは、暗闇で起こっていることは人には知られないと思っています。私たちが神ご自身の真理を曲げて、不正を行なったとしても、そのことは誰も知らないし、とがめられることはないと思っています。私たちは目に見える人間の弱さのゆえに、自分が踏みにじった相手が自分を訴えることはないと思って自己安堵しています。自分は罪を犯しても、「神は愛」なので、決して厳しい報いを与えられることはないなどと思っています。いいえ、その報いは主がなされます!

「主はねたみ、復讐する神。
 主は復讐し、憤る方。
 主はその仇に復讐する方。
 敵に怒りを保つ方。
 主は怒るのにおそく、力強い。
 主は決して罰せずにおくことはしない方。
 …
 だれがその憤りの前に立ちえよう。
 だれがその燃える怒りに耐えられよう。
 その憤りは火のように注がれ、
 岩も主によって打ち砕かれる。」(ナホム1:1-6)

どんなに人が否定したくとも、神が報復される方であるという事実は打ち消すことができません。隠れたところでウリヤの面目を辱め、真理を踏みにじったダビデの罪の報いは、ダビデ自身が、太陽の下で、誰もが見ている前で、公然と面目を辱められるという結果になって現われました。ダビデの家には争いが絶えず、バテ・シェバの子は死に、彼の美しいそばめたちと彼との間には容赦なく隔てが置かれました。

「王は、王宮の留守番に残しておいた十人のそばめをとり、監視つきの家を与えて養ったが、王は彼女たちのところには通わなかった。それで彼女たちは、一生、やもめとなって、死ぬ日まで閉じ込められていた。」(Ⅱサムエル20:3)

これは何と悲しい結末でしょうか。ダビデは妻たちとの間に信頼を失いました。彼のそばめたちは、生涯、奴隷のように監視され、やもめとして孤独な生活を送らなければならなかったのです。ダビデの罪は、彼自身にだけでなく、彼の家族全体にふりかかりました。彼は結婚生活の最も美しく幸福で純粋な部分を永久に失ったのです。これが彼が他人の結婚を踏みにじったことの報いでした。

ダビデは生涯、神の愛を失うことはありませんでしたが、目に見えるものに心誘われて、大きな失敗を犯した若き日のことを決して忘れることはなかったでしょう。そのゆえに人生に降りかかった恐ろしい苦難のことも、忘れなかったでしょう。晩年のダビデは、もはや自分の感覚を信じず、自分自身を信頼しなかったものと思います。彼はもはや目に見えるものを信じず、彼の心はどんな女性の最高の美によっても、もう動かされることはありませんでした(列王記Ⅰ1:4)

彼はもはや美しいものを見ても、それを手に取ろうとはしませんでした。それは恐らく、彼が自らの感覚の内に潜む罪を知っていたためではなかったかと思うのです

世をも、世にあるものをも、愛してはなりませんもしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。すべてこの世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。」(Ⅰヨハネ2:15)


ダビデは自分の内に世が入り込んでいることの意味を知りました。そこで、晩年のダビデは、まるで独身者のように、外側のものへは向かわずに、ただ一心に、ますます見えない主ご自身だけに向かっていったのではないかと思われるのです。ダビデと彼の家族との断絶は、彼の罪のゆえでしたが、それを通して、彼はますます主ご自身に目を向けたのです。ただ神だけが彼の心を占有されました。

私たちクリスチャンが地上で寄留者であるということの意味は、私たちは地上ではまるで独身者のように歩むべきということを指しているように思います。神は私たちの心の全てを求めておられるからです。もちろん、この地上の生活では、私たちには家族があり、配偶者もあるかも知れません、結婚生活を通して、キリストと花嫁エクレシアとの関わりについて知らされることがあるかもしれません。しかし、霊的な意味では、私たちにはまだ夫がない(ルカ1:34)のです。花婿を待ち望む花嫁は、独身であり、彼女にとっては、花婿を喜ばせるために身支度を整えることが全てです。

なぜ黙示録では淫婦バビロンが厳しく裁かれているのでしょうか? 彼女の主要な特徴とは何だったのでしょうか? それは彼女が独身でもなければ、やもめでもなく、むしろ、「沢山の夫」があることを誇っていた点にあるのです。大いなるバビロンは、自分を喜ばせてくれるあらゆる影響力に安易に身をゆだねた結果、霊的なさまざまな影響力の交差点のようになりました。そのようなことの結果、それは「悪霊の住まい、あらゆる汚れた霊どもの巣くつ、あらゆる汚れた、憎むべき鳥どもの巣くつ」(黙示18:2)になったのです。

バビロンはただ一人の主人だけを忍耐して待ち望まなかったのです。彼女は孤独に耐えられず、主が来られるまでの間、主に対する貞節を保つことができませんでした。彼女はただ神だけを待ち望む代わりに、手っ取り早く自分を豊かにしようと、「良さそうに」見えるあらゆる影響力を我が物とし、霊的姦淫を行ないました。

神がまだ彼女を訪れていないのに、彼女はすでに豊かな者となっていました。神が彼女をまだ恵んでおられなかったのに、彼女はすでに幸福になっていました。神がそばにおられないのに、彼女は「夫ある者」となっていました。彼女は世の恋人たちとの心地よい交わりを楽しみ、自分を喜ばせるもので満ち足り、自分の美と豊かさに慢心して、聖徒らの前で「自分を誇り」(黙示18:7)ました。

彼女は困難の中で主を待ち望む聖徒らの苦しみや忍耐を蔑んで言いました、私は女王の座に着いている者であり、やもめではないから、悲しみを知らない」(黙示18:7)と。

彼女は主のもので身を飾り、栄光の高みにあり、恵みに満ち溢れていたかも知れませんが、主のために苦しみと恥を耐え忍び、花嫁として身を慎み、やもめのように心砕かれて、ただ一心に主だけを待ち望むことを嫌ったのです。そして主がまだ来られていないのに、自分一人、女王の座に着いてしまったのです。何が彼女にそんなに高い地位を与えたのでしょうか? 世です。彼女が結婚した相手は世だったのです。

ここで言う世が、決してキリスト教と無関係なものだと思ってはなりません。これは何よりもキリストのまことのいのちに偽装しているだけの、世から来た偽りの教えを指しているのです。

パウロは言います、「私はあなたがたを、清純な処女として、ひとりの人の花嫁に定め、キリストにささげることにしたからです。しかし、蛇が悪巧みによってエバを欺いたように、万一にもあなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真実と貞潔を失うことがあってはと、私は心配しています。」(Ⅱコリント11:2-3)

さて、聖徒らのうちでキリストに対する真実と貞潔が失われるのはどのようなときなのでしょうか? パウロは続けます、それは「ある人が来て、私たちの宣べ伝えなかった別のイエスを宣べ伝えたり、あるいはあなたがたが、前に受けたことのない異なった霊受けたり、受け入れたことのない異なった福音を受けたりするとき」(Ⅱコリント11:4)です。

キリストに対するクリスチャンの真実と貞潔が失われるのは、主の御霊を装ったこの世の霊の影響力にクリスチャンが自分を開放し、偽りや異端を信じて受け入れ、神を裏切って、自分を喜ばせてくれる偽りの教えと霊的姦淫を行なうときのことなのです。

全ての偽りの教えの誘惑は、初めは人の自己を刺激し、自己を高め、自己を喜ばせるものとしてやって来ます。それはまことに人の耳に心地よく響き、生まれながらの人の思いに合致し、人間に優しく聞こえ、人にとっていかにも好ましく、魅力的に響くでしょう。それだけでなく、それは人を「神のように」高めてくれるように思われるのです。しかし、クリスチャンはただキリストのためだけに聖別された民であり、私たちにはただ一人の花婿があるきりなのです。私たちはこの花婿を待ち望まなければなりません。

ですから、私たちは主の御名を使って外側からやって来る偽りの影響力を見抜き、それがいかに私たちの感覚に働きかけたとしても、それを受け入れるのを拒まなければなりません。クリスチャンが真理を捨てて偽りを信じることは、決して「ちょっとした間違い」などでは済まされない、重大な逸脱、いや背信であり、破滅的な報いを人生にもたらします。ですから、もう一度、思い出す必要があります。キリストはどこにおられるのでしょうか? 私たちはどこへ向かって耳を傾けるべきなのでしょうか? 

パウロは書いています。「私は、あなたがたのために神からゆだねられた務めに従って、教会に仕える者となりました。神のことばを余すところなく伝えるためです。これは、多くの世代にわたって隠されていて、いま神の聖徒たちに現された奥義なのです。

神は聖徒たちに、この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを、知らせたいと思われたのです。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです

私たちは、このキリストを宣べ伝え、知恵を尽くして、あらゆる人を戒め、あらゆる人を教えています。それは、すべての人を、キリストにある成人として立たせるためです。このために、私もまた、自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しています。」(コロサイ1:25-29)

パウロはキリストを宣べ伝えましたが、それは自分のメッセージに人々を惹きつけて、自分のとりこにするためではありませんでした。彼の目的は、人々を自分に依存させることではなく、全ての人をキリストにある成人として立たせることにありました。成人とは、完全に自立した、誰にも頼らずに、自分の足で立って歩くことのできる人、全ての物事を自分で判断することのできる、霊的に自立した人のことを指しています。これは、私たちが決して外側の何ものにも依存せず、ただキリストだけにあって、力強く立つことのできる、真の大人となることを意味しています。

神の御思いは、私たちがこのようにキリストにあって真に自由とされ、彼の成人としての身丈にまで成長することです。ただキリストだけが、私たちの全ての生きる力の源なのです。彼のうちにすべてがあります。それなのに、なぜそれ以外のものに頼り、外側から来るものにひっきりなしに身を委ねる必要があるのでしょうか。彼のうちにすべてがあるのです。私たちの心は主のものであり、私たちは神のための生きた聖なる供え物として捧げられています。外側のものに依存する必要はありません。ただキリストのうちにとどまり、キリストのいのちによって生きるとき、彼を通して、神は必要のすべてを必ず私たちに供給して下さいます。

「しかし、私たちはひとりひとり、キリストの賜物の量りに従って恵みを与えられました。…それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためです。ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。

それは、私たちがもはや子どもではなくて人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹きまわされたり、波にもてあそばれたりすることがなく、むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。」(エペソ4:7-15)

従って、どれほどキリストご自身だけを頼りにするかが、私たちの霊的な自立を左右すると言っても過言ではないのです。外側から来るものに目を奪われないでいましょう。今ほど私たちが、次の御言葉にしっかりと立ち帰らなければならない時は他にありません。

私は、あなたがたを惑わそうとする人たちについて以上のことを書いて来ました

あなたがたのばあいは、キリストから受けた注ぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それで、だれからも教えを受ける必要がありません彼の油がすべてのことについてあなたがたを教えるように――その教えは真理であって偽りではありません。――また、その油があなたがたに教えたとおりに、あなたがたはキリストのうちにとどまるのです

そこで、子どもたちよ。キリストのうちにとどまっていなさいそれは、キリストが現われるとき、私たちが信頼を持ちその来臨のときに、御前で恥じ入るということのないためです。」(Ⅰヨハネ2:26-28)

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「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)

「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。

しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」

こういうわけで、兄弟たちよ。 私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」
(ガラテヤ4:28-31)


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