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閑話休題。

友よ、このところかなり厳しい内容の記事が続きますが、それでも、日々の暮らしは不思議なほどに穏やかです。故郷の母から手紙が来て、家族がますます伸びやかに、自由にされていっているらしい様子に、改めて心打たれています。

今この時になって、両親からの愛に満ちた配慮を上から賜ることには、深い感動があります。もう子供ではないので、失ったときを取り返すことはできませんし、彼らに甘えるわけでもないのですが、それでも、肉親の気遣いがどれほど嬉しいでしょう。すべては主の働きであって、人間の働きではありません。これから我が家がどうなっていくのかがとても楽しみです。

私は今までにも、「宗教」を離れる決意をし、実際に離れて来ましたが、このことは何度も、何度も、繰り返されます。離れることにより、失うものがあったとしても、惜しいとは思いません。まことに真理は人を自由にします。もし人が何かを信じているつもりであったとしても、長期的に見て、そのせいでその人の生活がますます不自由になり、貧しくなり、実生活が苦しく、矛盾に満ちた、喜びの伴わないものになっているとするならば、やはりそれは何かがおかしいのです。それは本当の信仰では有りえず、真理でもないため、人を生かす力がないと気づくべきなのです。

しかし、一つの束縛から抜け出るときには、必ず、大きな反動があります。そこで関わっていた身近な人々から反対が来ます。これまで偽りを見抜けずにいたか、それを見逃していた間は、私たちを愛してくれていた多くの人々が、敵対者に変わります。懇願、哀願、情に働きかけるいくつもの訴えによる引き止めがなされ、それが功を奏さないと分かると、今度は疑いに満ちた不満の眼差しが向けられ、罪定め、非難、脅しが起こるかも知れません。それでも決意を翻さないならば、今度は言質を取ろうとして数々の不愉快な議論がしかけられ、さらに、もしも私たちが真実な証言を行なうならば、信用を落とすために陰でネガティヴ・キャンペーンが張られ、最後には大々的なバッシングさえも起こるかも知れません。

それらは全て私たちの魂を圧迫することにより、再び、以前と同じ拘束の中に引き戻そうとするものです。以前には、ほんの些細な波風が起こる度に、私はいたく心を痛めて、後ろを振り返り、もと来た道を一目散に駆け戻って、愛する人々の手を取って、「誤解を解こう」としたものでした。私はその頃、誤解されることや、中傷されることや、孤立することに少しも耐えられなかったのです。

しかし、今は決して、それらの事柄を恐れるべきではなく、また、後ろを振り返ってはいけないと分かります。もしも魂の愛によってそこに引き戻されてしまうと、事態はさらに悪化するのです。私たちの生まれながらの魂から出て来る様々な思いが、ますます偽りから抜け出ることを難しくします。(これはすべての偽りの教えとそれに関わっている人々に共通して言えます。)

主は弟子たちが必ずそのような事態に遭遇することを見越した上で言われました、

「弟子がその師のようになれたら十分だし、しもべがその主人のようになれたら十分です。彼らは家長をベルゼブルと呼ぶぐらいですから、ましてその家族の者のことは、何と呼ぶでしょう

だから、彼らを恐れてはいけません。おおわれているもので、現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはありません。わたしが暗やみであなたがたに話すことを明るみで言いなさい。また、あなたがたが耳もとで聞くことを屋上で言い広めなさい。

からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりませんそんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(マタイ10:25-28)


ですから、今はたとえどんなに私の魂の愛する人々を通して、霊的な敵が予想を超えた圧迫を行なったとしても――後ろを振り向くことはできません――ただまっすぐに前に進んで行くだけなのです。何が真理であり、何が偽りであるかは、必ず主が証明されます。

キリストは全ての敵を十字架上で打ち破られ、さらしものとされました。私たちが立ち続けるべきはただそこだけです。この十字架は私たち自身をも死に定めました。今や私たち自身も水の下です。私たちの内に何の義があるのでしょう? もしも自分の義により頼んで敵の偽りに立ち向かおうとするなら、立ちおおせるすべはありません。しかし、彼の義に立つ者を誰も攻撃できないのです。

友よ、偽りに立向かうためには、私たちは主からの強さをいただかなければなりません。その強さとは、肉の強さではなく、主の揺るぎない霊によるものであり、どんなことがあっても、神の真実を信じ続ける信仰から来ます。エリヤはたった一人で450人ものバアルの預言者に立ち向かいました。450人の預言者はさぞかし彼をあざ笑ったことでしょう。

しかし、その時、エリヤは何をしたでしょうか? 彼はバアルの預言者たちにまず機会を与えたのです。彼は偽預言者たちが主張できる限りの主張を提示し、やれる限りの行動を尽くす時間を与えました。モーセがパロと交渉したときも、やはりそのようだったのです。敵は主のご計画をつまずかせるために、考えられる限りのすべての作戦を仕かけ、主の民もそれらすべてにあえて機会を与えたかも知れません、それは長い、忍耐を要する戦いになるかも知れませんが、しかし、主は一つ一つの偽りの作戦を全て打ち破られるのです。

「神、その道は完全。
 主のみことばは純粋。
 主はすべて彼に身を避ける者の盾。
 まことに、主のほかにだれが神であろうか。
 私たちの神を除いて、だれが岩であろうか。
 この神こそ、私に力を帯びさせて
 私の道を完全にされる。」(詩篇18:30-32)

「主のみことばは混じりけのないことば。
 土の炉で七回もためされて、純化された銀。」(詩篇12:6) 

私たちは、自分がより頼んでいるものが何であるかをわきまえておく必要があります。もしも私たちがより頼んでいるものが正真正銘の真実であるならば、それは必ず、全ての検証に耐えうるはずです。それなのに、私たちはまるで不良品を売買している業者のように、検査を怖がるのでしょうか? いいえ、恐れてはなりません。私たち自身は、肉なる者として、神の焼き尽くす火の下に置かれるとき、損失を受けずにはいない存在かも知れませんが、どのような耐火テストにも耐えうることが証明されているのが、神の御言葉なのです。

土の器は試練の中で欠けたり、ひび割れることがあるかも知れません。しかし、その弱さの中で、かえってその中にあるはかりしれない力に満ちた宝が、私たち自身から出たのではなく、神から出たものであることが証明されるのです。その宝は燃え尽きることもなければ、消失することもなく、神の命じ送ったことを必ず成し遂げます。私たちがより頼んでいるのは、この御言葉なるお方なのです! ですから、霊的な敵が吼えたけったとしても、妨害を恐れる必要はないのです。

話は変わりますが、私は少し前から転職活動をしています。職場では最大の危機は過ぎ去りました。私の心には次の計画があります。友が私の経済生活のために祈ってくれています。しかし、今の職場でも、不思議なことに、これほど波乱万丈な中でも、いつも主の守りがあり、困難の中にあっても、学ぶことは多く、良い同僚を得ることができたのです。(もしかしたらまだすべきことが残っているかも知れません。)

私は仕事を自分が栄光を受ける手段とは考えていません。仕事は生活のために必要ですが、私の存在証明の手段ではありません。ですから、どんな困難の中にあっても、与えられた持ち場で、誠実を尽くすことに変わりありません。しかし、願わくば、今後、仕事を通しても、神がキリストを通して私たちにお与え下さった満ち満ちた命の豊かさの何であるかを知ることができますようにと祈るのです。

かつては家庭や、家や、将来の夢、友人、交わり、その他、色々なものを私は我が手に握りしめていました。その時には、自分が握りしめているものすべてのものについて、私なりの夢と理想があり、それらを自分の願いに合致させたかったのです。その願いが御旨にかなわないことを私は知りませんでした。そこにはどれほどの嘆息と、魂から出て来る愛と、憐みと、悲しみと、涙と、痛みと、叫びがあったでしょう? 自分の心の底から出て来る最も誠実な願いならば、天に届き、神に受け入れられるに違いないと私は思っていました。

確かに、主は私の叫びを聞き届けてくださいましたが、しかし、主が来られたとき、私の願いは断ち切られたのです。握っているものは剥ぎ取られ、願いは焼き尽くされ、私の望みは神の御心に合致しないことが分かりました。というよりも、主の御旨は私の願いをはるかに超えて高かったのです。私の願いは十字架の死に服するしかありませんでした。それは役に立ちませんでした。しかし、その代わりに示された主の御旨が私を救いました。それは何と正しく知恵に満ちていたでしょう。十字架の死を経由した時に初めて、人は初めて神の御旨に対して目が開かれるということが分かったのです。

私たちが欺かれるのは、私たちがこの手に、キリストではない何かを握っているからです。その握っているものを十字架で手放すよう求められる時――それは愛する兄弟姉妹かも知れませんし、誰かの教えかも知れませんし、私たちを高みに上らせてくれ、栄光をもたらしてくれる奉仕かも知れませんし、ただ平和に暮らしたいという望みかも知れません、それは何よりも、恐らく私たち自身の自己であるでしょう――それらが失われることはとても身を切られるようにつらく思われますが、自己が十字架の死に完全に服した後で、自由がやって来るのです。十字架を通らされる前には、私たちはそれらのものの奴隷になっていましたが、死を経由した後では、もはや自由なのです。そして、私たちは何らかの願いを持つかも知れませんが、それは私たちが成就するのではなく、キリストの成就された御業が、それを実際とすることを知っています。キリストの中にこそすべてがあります。全てを自分の力で達成しようとする、生まれながらの古き人から出て来る願いを拒み、ただ彼の中だけにとどまるときに、私たちの以前は盲目だった目に、御霊が、主の御旨が何であるか、少しずつ、少しずつ、教えて下さいます。

ウォッチマン・ニー著、『キリスト者の標準』より抜粋、pp.300-302

「私たちは、死と復活が、わずか一時間のうちに一緒にされるようにと望みます。神が私たちを、長い間わきにおいたままにしておかれるということは、考えたくありません。私たちは待つことに耐えられないのです。私の口から、神がどれぐらいの時をとられるかということを申し上げることはできませんが、原則的に考えて、このことだけは安心して言えると思います。それは、神があなたをそこに置かれるのは、はっきりした一定の期間であるということです。

その期間には、まるで何事も起ってはいないように見え、あなたが価値をおいたすべてのものが、にぎりしめている手の中からすべり落ちて行くように思われるでしょう。そこにおいてあなたは、ドアのない壁にぶつかります。・・・ しかし静かに横たわっていなさい。すべては暗黒の中にあります。しかし、それはただの一夜です。まる一晩経過しなければなりません。しかし、それだけです。その後、すべてのものが、栄光ある復活の形において帰ってくるのです。しかもあなたの以前の状態と、以後の状態とは、とうてい比較することのできないほどの相違があるのです。

ある日、私は一人の若い兄弟と夕食を共にしました。主はこの若い兄弟に対して、生来の力に関するこの問題について話しておられたのでした。彼は私にこう言いました。『主があなたに会って、根本的にあなたに触れ、そのためあなたが無能力者となったということは、本当にさいわいなことですね。』

私たちを隔てるテーブルの上には、皿に入ったビスケットがありました。私はその一つを取り上げ、それをあたかも食べるかのように三つに割りました。それから注意深くもとのように合わせて、こう言いました。『これは、見た目には異常はないようです。しかし、このビスケットは決してもとのままではありません。ひとたびあなたの背骨が折られると、それ以後あなたは、神からのちょっとしたタッチにも砕かれるようになるのです。』

主は、御自分のものをどのように扱うべきか十分ご存じです。そして主は、十字架において私たちの根本的に必要とすることを、余すところなく成し遂げて下さったのです。神の御子の栄光が、そのことによって、多くの子らのうちに表されるためです。」


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「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)

「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。

しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」

こういうわけで、兄弟たちよ。 私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」
(ガラテヤ4:28-31)


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