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ここで少し記事を中断して、人の生まれながらの魂から出て来る愛がどんなに腐敗しており、それが神の愛とどれほど合致しない、むしろ神の愛に執拗に敵対し、相反する、希望のないものであるかということについて補足しておきたいと思います。クリスチャンがこの点について誤解し、天然の魂の愛と、神の愛とを混同することは、その人の人生に巨大な失敗と浪費を招きかねません。

このことについては、straysheepさんの記事「あなたはわたしの邪魔をする者だ!」がとても参考になるので勧めます。主イエスへの「生まれながらの人間の愛」ゆえに、ペテロは彼が十字架へ向かわないようにいさめました。これが、生まれながらの人間の魂の愛の姿です。人間の生まれながらの愛には一つの共通する特徴があります、それは神への愛よりも、人間への愛を優先すること、それは神の十字架の死の刑罰を受け入れないし、決してそれに耐え得ないということです!

人の生まれながらの魂から出て来る愛は、世の不正を憎み、不正に虐げられている隣人を憐れみ、他者の苦難に同情し、それを見殺しにするに忍びず、その人を何とかしてその苦難から救い出したいと願うかも知れません。それはとても「善良そうな感情」に思われるかも知れません。なぜなら、それは人の幸福を願っているのですから。人々が自分を大切にして、もっと苦しまずに平和に暮らせる世の中を願うのです。それはまことに「善良そうな願い」であり、「公共の福祉」に合致しています。しかし、その「愛」には盲点があります、それは神の事実に立脚していないのです! 

人間の生まれながらの魂から出て来る愛には共通した特徴があり、それは、どんな人であれ、生まれながらの人は全て根本から罪に腐敗しており、神の目には、誰一人として、十字架の刑罰に値しない人間はいないという事実を否定しています。むしろ、それはこうささやきます、「十字架の死だって? 人間はすべて罪人だって? とんでもない。そんなものは人間に対する冒涜だ。人はもっと同情を受け、もっと尊敬されてしかるべきだ。人の生まれながらの自己は気高く、決して罪に腐敗してなどおらず、まして、死の刑罰に値する存在などではない。私たちは自分の価値を知らなさすぎるのだ、人はもっと大切に扱われてしかるべきだ!」

人の天然の魂の愛は、生まれながらの人間が自分を惜しみ、神の十字架の刑罰を避けて――決して自分の罪を認めず、十字架の死を介さずに――、そのまま自分で自分を保って、神の命の領域へ入り、神の御前に自分を義とし、聖とすることができるかのように提案します。それはとどのつまりこう言っているのです、生まれながらの人間には価値があり、それは正しく、清く、決してサタンと暗闇の軍勢のとりこになどされておらず、腐敗しておらず、神によって罪に定められる理由がないと。

しかし、これは嘘なのです! この提案は、人を高く掲げるので、人の耳には心地よく響きますが、最も悪質に真理に逆らう嘘なのです! ですから、もしも私たちクリスチャンが、「神の愛」の概念を誤解して、このような「生まれながらの人間を肯定する魂の愛」によって互いに連帯し、愛し合うことが「互いに愛し合いなさい」ということの意味だと誤解するならば、最も神のご計画に悪質に逆らい、執拗に敵対するような、恐ろしい教えが出来上がってしまうことになるのです。

それに対し、ペテロの提案を容赦なく断り、彼の「人間的な愛」をサタンに由来するものとして完全に否定して、主イエスは十字架へ向かわれました。これが神の愛です! 人はそれを聞いてこう感じるかも知れません、"冷たいですね、イエス様は…。なぜ公然とペテロの面目を辱められたのでしょう? ペテロが彼をどんなに慕い、愛しているかを知っていながら、彼を振り切って、イエス様はたった一人で十字架へ向かわれたのです。イエス様はよほど孤高な人だったに違いありません、彼はきっと愚かな弟子たちとの交わりの中にいつまでもとどまりたくなかったのでしょう…"。しかし、断じてそうではありません、主イエスはペテロを愛さなかったのでしょうか? いいえ、決してそうではありません。はっきりと言えます、彼以上にペテロを愛されたお方は他にいないと。彼は弟子たちとの交わりに愛想を尽かしていたのでしょうか? いいえ、断じてそうではありません。彼は地上を去る前にこう言われるほどに、人々との交わりを愛されたのです、「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)

しかし、ここに一つの特徴があります。主イエスの愛は、自分の命を保つことによって、自分を救おうとする種類の愛ではなく、自分の命を失うことによって、多くの人に命を分け与える愛であり、それが、神の愛であったということです。この愛をまっとうするために、主イエスは、人としての生まれながらの愛を完全に拒み、それを断ち切って、神の刑罰としての十字架の辱めと死を完全に受ける道を選ばれたのです。そのことの意味は、次の御言葉にはっきりと表われています。

「わたしが自分のいのちを再び得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。」(ヨハネ10:17)
「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠の命に至るのです。」(ヨハネ12:25)
「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」(ヨハネ15:13)

主イエスは友のために命を捨てられました。しかし、それは誤解される道、嘲られる道、人には捨てられる道でした。世は、彼が命を捨てたのは、まさに彼らのためであることを知ろうとしませんでした。しかし、こうして、次の御言葉が成就したのです。

「聖書に「最初の人アダムは生きた者となった。」と書いてありますが、最後のアダムは、生かす御霊(口語訳では「命を与える霊」)となりました。 」(Ⅰコリント15:45)

ペテロには当初、主イエスが十字架に向かわれ、そこで命を失おうとしておられるのが、まさに彼自身のためであることが分かりませんでした。人間の生まれながらの情愛は、常に人が自分自身を守り、決して人の利益が損なわれないようにと願います。それは人の威厳を守ろうとし、人が十字架の辱めになど耐えなくて済むようにと願います。多くの人がそれが本当の愛だと思っています。その「愛」は言います、人が追いつめられ、死に定められるなど、理不尽だ、私は人の威信が傷つけられることを絶対に願わないと…。

しかし、その愛をどんなに貫いたとしても、それはただ自分一人を愛することができるだけであり、何ら他者を利するものにはなりません。それだけでなく、ノアの洪水の時代から、神は人に対する刑罰を定めておられました。ですから、人の威信はすでに存在しないのですが、神の刑罰を回避してでも、人が自分を憐れみ、自らの命を保とうとすることは、神の真理に逆らうことを意味し、その結果として、人は保とうとした自分の命を失う羽目になるのです。

現に、ペテロの主張した人間としての愛の腐敗は、十字架の場面で決定的に明らかにされました。彼は自分では主イエスを真剣に愛しているつもりでしたが、彼の愛は、主イエスがゲッセマネの園で最も苦しんで祈っておられるときに、眠りこけてしまうような愛であり、主イエスが十字架に向かうその時に、この世の力(剣)を振りかざして彼を救おうとする愛であり、それに対して、主イエスがこの世の権勢を利用せず、この世に対して最も弱くなられたとき、彼とともに弱さを担うことを恥と思い、彼を見捨て、自分だけ助かろうとするような愛だったのです。ペテロは人間を憐れみましたが、神のご計画を見ませんでした。ペテロの魂の愛は、主を愛するという自分の理想をさえ全うできませんでした。そして、それが分かった時に、ペテロは打ち砕かれ、それまでずっと自分では正しいと思ってきた自分の愛が、根本的に間違っていたこと、彼が「愛」だと思っていたものが、その実、神ではなく、人間を喜ばせようとする感情であり、神のご計画に最も逆らう悪質な動機がその中にあったことに気づいたのです。

「人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」(マタイ21:28)

ペテロの天然の魂から出て来た愛は、人間を高く掲げ、人間の利益が損なわれることを嘆きましたが、「多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与える」神の愛を蔑んだのです。

主は人に命じられました、「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」、それと同時に言われました、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」と。(マタイ22:37-39、レビ19:18他)

この第二の戒めも、第一と同じくらい大切だと主イエスは言われました。しかし、今、隣人を愛することの意味を真剣に問うてみる必要があります。これを誤解するならば、人への愛が私たちをつまずかせるでしょう。

主イエスが語られた「隣人を愛する」ことは、決して「生まれながらの魂の愛で隣人を愛せよ」という意味ではないのです。人の生まれながらの魂の愛によっては、決して神の愛に到達することもできず、隣人を愛することも不可能なのです。

しかしながら、今日、この天然の魂の愛、この天然の魂の憐憫の情が、神の愛と混同され、人間の愛が、大手を振って唱導されて、多くの人々を偽りに導きいれています。人間がヒューマニズムとして誇っているこの括弧つきの愛が、どれほど悪しき腐敗を含んでいるか、一つ、二つの例を出しましょう。

新興宗教にとらわれていく若者たちには大体共通した特徴があります。それは、彼らが世の中の不正に対してとても敏感で、不正に対する強い憤りを持っており、さらに、弱者の痛みに敏感で、強者のおごりと世の腐敗を心から憎み、そのような不正な世が改善されて、いつか彼らの理想に反しないような世の中が来ることを願っているということです。

彼らの魂は潔癖な敏感さを持っており、不正に対して鈍感でないという点で、非常に「純粋」な心の持ち主だと言えるのです。彼らは「善良な」人々です。彼らには自分なりの正義感があり、強い美意識を持っています。彼らは世の悪と不正を鋭く認識する力があり、人間に対して優しく、弱者に優しいのです。そして彼らは、自分の理想をとても良いものだと思って、それを愛しています。しかし、その彼らの心にある正義感、美しい夢、弱者救済の理想こそが、(サタンと暗闇の軍勢によって)担保とされて、彼らが偽りへと取り込まれていく最も大きな原因となるのです。

なぜそのようなことが起こるのでしょうか? なぜペテロの美しい人間的な愛が、主を裏切るという惨めな結果に終わったのでしょうか? なぜ世の不正に憤り、弱者に同情せずにいられない若者たちの気高い心が、彼らを破滅へ導く異端へ誘い込んだりするのでしょうか? それは、そこには共通した一つの盲点があるからなのです。

彼らは世の不正を認識します、弱者が追いつめられているのを見て不当だと憤ります。彼らを救わなければならないと感じます。しかし、そう考える自分自身も、その悪しき世の体系の一部であることを認めないのです。彼らは、自分の内にも、世と同じように悪が入り込んでいるという法則を見ません。むしろ、彼らは不正を憎み、善を欲している以上、自分たちは正しいのだと思い込み、「…私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだす」(ローマ7:21)ことを嫌うのです!彼らは自分たちの思い描く潔癖な理想のゆえに、自分たちは義(ただ)しく、世の中を改革する資格があると思ってしまうのです!

サタンはこのような種類の、生まれながらの人から出て来る正義感、生まれながらの人から出て来る憐憫の情を最も激しく嘲笑うでしょう。それは何よりサタンの好む家財だからです。

実は、神の愛に最も執拗に逆らうものの一つが、私たちの「道徳性」です。今、世は高齢化の道をたどり、バリアフリーなどがしきりに強調され、ますます、人が社会的弱者に対して憐み深く、優しくなるように促しています。虐げられている人に対する思いやりの気持ちを持つこと、弱い人々に対する憐みの心を持つことが、高い道徳性であるかのように奨励され、知らず知らずのうちに、私たちはこのような世の道徳観念を内側に取り込んで、それが、神の戒めにもそのまま合致するものであるかのように思い込んでいます。しかし、世に属するものはあくまで世に属するものであり、それがすなわち御霊の導きでは全くないのです。

今日、キリスト教界でも、世と足並みを合わせ、罪人や弱者など、生まれながらの人間に対する「愛」や「憐み」がしきりに強調されるようになり、人間の耳に厳しい事実は、それが聖書の語っていることであっても、片隅に追いやられるようになっています。こうして、生まれながらの人間への愛が、神への愛にすりかわってしまいました。カルト被害者運動などは、この生まれながらの人間を惜しむ思い、生まれながらの人間が十字架を避けて自己肯定しようとする願いが結晶化して出て来たものです。

それは「愛」や「憐み」の美しい言葉で飾られているかも知れませんが、結局のところ、人間の天然の魂が作り出す腐敗した愛の副産物に過ぎません。弱い人々を憐れむべきだ、と言われたときに、私たちはその「良さそうな」響きのゆえに、すぐに反駁することができないかも知れませんが、弱者への憐みが、弱者救済という理念に結びつき、それが「イズム」になっていったときに、どのような恐ろしい結果が現われるかは、歴史を振り返れば、すぐに分かることなのです。

そこには形を変えたマルクス主義があります。そこにあるのは、弱さを軸にして弱い者たちが連帯して立ち上がり、弱さを理由に自分たちを義とし、聖とし、自分を抑圧して来た強い者たちを逆に罪に定め、彼らに君臨して、これまでの支配構造を転覆しようという秩序転覆の願い、逆転の構図なのです。

社会で虐げられたプロレタリアートを救済するために、ブルジョアジーは抑圧されなければならないというその主張とほとんど同じものを、私たちはいわゆる被害者運動の中に見ることができます。そして彼らは実際に、弱さを足がかりにして、強い者たちを屈服させようとしています。断じて、そこにあるのは、表向きに掲げられている「愛」でも「憐み」でもなく、ただ自分たちを虐げて来たものに対して復讐を果たし、誰からも支配されずに自らが支配する者になりたいという、生まれながらの人間の自己保存、自己拡大、自己義認の願いでしかないのです。

それらの運動は初めからその悪しき正体を現しているわけではなく、最初は美しい理想を掲げて始まるのですが、時間の経過と共に、ますます破壊的な本質を現していくのは、そこで唱えられている「愛」や「憐み」が、生まれながらの人間が自分で自分を救おうという願いに過ぎないからです。それは、彼らが、生まれながらの人間はすべて神の十字架の刑罰の下に定められているという神の事実を受け入れないからです。それは「公共の福祉」の美名の下に容易に正当化されるかも知れませんが、究極的には、神の愛には合致せず、さらに、彼らがあれほど称えた公共の福祉にさえも破壊的作用を及ぼし、神と人に対して悪質な敵となってしまうのです。それは何も生み出しません! 彼らの自己肯定の思いはかえってサタンに利用され、神に逆らう足がかりとなるだけであり、その運動は、それ自体、掲げている理想とは裏腹に、人間を愛するどころか、最も人間を痛めつける反人間的な運動へと変わるのです。その末路は悲惨なものです。

話が急に変わるように思われるかも知れませんが、ディベートという競技では、人は二つの組に分かれて互いに議論を戦わせます。主題は一つですが、それに関連して、何十という細かい論題が提示され、どちらの陣営からも、それについて、さまざまな意見が出され、最終的に、どちらの言い分が正しいかが争われます。そこで戦いに勝つためには、論敵のしかけるすべての議論を論破しなければならないというルールがあります。たとえ100のうち99の議論を打ち破ったとしても、1の議論についてきちんとした答えが出せないままならば、相手の言い分を認めたことになり、敗北するのです。

ディベートはゲームですが、サタンが私たちを告発する方法もこれと同じです。サタンに打ち勝つためには、私たちは完全なる義を持たなければならないのですが、それは私たちのうちにはありません。私たちは言うかも知れません、”世の中に不正が満ちて、悪がはびこっているのは、サタンよ、おまえの責任だと、私はおまえを告発する、おまえは裁かれるべきだ”と。私たちは、不正に甘んじて無感覚に暮らしてきた人々に比べて、自分には相対的な義があると思うかもしれません。なぜなら、私たちは不正を見逃さず、弱者が虐げられているその痛みを感じ、憤ることができるのですから。私たちはそれを自分の義だと思うかもしれません。

しかし、サタンはそのような「人間的な正しさ」、「相対的な正しさ」をあざ笑います、そして私たちを指差して言うのです、私たちが自分の内に入り込んでいる悪を認め、私たち自身の内在の罪の問題を対処し、自分自身が根本的に何の価値もない死罪に値する存在であることを認め、この問題を解決しない限り、私たちがどんなに自分を正しいと思っても、実際にはただの死刑囚であって、彼を告発することもできないし、彼に対して義をふりかざすこともできないと。むしろ、私たちのふりかざす”正義”が、ますます私たちを罪に定めるだけであると。

つまり、どれほど私たちが生まれながらの人としての義憤に基づいて、悪事や不正に憤り、あるいは生まれながらの魂の愛や憐みの気持ちから、どれほど虐げられている弱者のために涙を流し、彼らの権利を声高に主張したとしても、たとえ私たちが99%まで正しい論議を展開することができ、不正を証明したとしても、残りの1%、まさに私たち自身の内に悪が入り込んでいるという点が解消されない限り、私たちは敵の主張の前に、完全に敗北するしかないのです。

「割礼を受けるすべての人に、私は再びあかしします。その人は律法の全体を行なう義務があります。律法によって義と認められようとしているあなたがたは、キリストから離れ、恵みから落ちてしまったのです。私たちは、信仰により、御霊によって、義をいただく望みを熱心に抱いているのです。」(ガラテヤ4:3-5)

これは私たちのうちにはいかなる義もないということをはっきりと物語っています。私たちは立脚点を変えない限り、決して、霊的な敵に勝利できないということを知るべきなのです。自分自身の中にあるものに立脚しているうちは、それが愛であれ、憐みであれ、義であれ、何ひとつ霊的な敵の前で功を奏するものはありません。

勝利をおさめるために、私たちは自分の義に立つのではなく、生まれながらの人から出て来る「愛」や「憐み」に立脚するのでもなく、それらを拒んで、それらに対して死んで、ただキリストの義に立ち、彼の血潮の中に立ち、キリストがまっとうされた神の愛に立たなければならないのです。神の御前に一人残らず死の刑罰に定められている人間の問題を打ち破られたのは、ただ一人、人となられた神の御子キリストだけだからです。しかし、キリストの義に立つ前提として、私たちは自分で「愛」や「正義」だと思っているものも含めて、自分自身の義に対して完全に死に、自分の道徳や、自分の理想によりすがるのをやめねばなりません。ただし、これはただ御霊の啓示によってのみ可能です。人は自分の力では、生まれながらの人に属するものの腐敗を見ることができないからです。

私たちは、生まれながらの人間から出てくるすべてのもの――私たちにとって最も気高い道徳、最も優しい思いやりある感情に思われるもの、最も崇高な理想に見えるものでさえも――ただ神の御前には死にしか値しない、腐敗しきったものであり、それこそが、最も神に悪質に逆らう偽りであるという事実を、御霊によって実際に見せていただく必要があります。そうなるまで、私たちはなぜそれらのものに死ななければならないのか分からず、ただキリストのみを立脚点とすることの意味が分かりません。言い換えるならば、天然の魂の愛がはりつけにされない限り、私たちには、神の愛とは何であるかを知ることができず、神の愛で、隣人を愛することもできないのです。私たちが天然の魂の愛に立脚して努力している限り、むしろ、それは絶えずサタンの足がかりとなって、私たちを偽りに導き、つまずかせ続けるでしょう。

私たちの愛には十字架の刻印が押されなければなりません。どんなに「良さそう」に見えても、古き人から来るものは全て十字架ではりつけにされなければなりません。私たちの道徳は何の役にも立ちません。古き人に死んで、初めて、新しい人が生まれるのであり、すべてはそこから――下からではなく、ただ上から――御言葉を通じて働く神の愛に満ちた偉大な力から――始まらなければならないのです。
 

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「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)

「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。

しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」

こういうわけで、兄弟たちよ。 私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」
(ガラテヤ4:28-31)


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