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オリーブ園より、オースチンスパークス著、『人とは何者か』第五章 「キリスト教界が欺かれる領域」より引用

オースチンスパークスは、この論説の中で、キリスト教界と多くのクリスチャンが欺かれている理由は、彼らが神秘主義と真の御霊の働きや性質を区別できないで混同しているためであると述べています。神秘主義とは何でしょうか。それは人の生まれながらの自己が何らかの方法で神と字合一できるという考えであり、それはとどのつまり、グノーシス主義と同じ、自己高揚、自己覚醒の教えです。

東洋のヨガや、中国の道教や密教や、さまざまな神秘主義の教えは、人が自己修練することにより、より高度な自己へ変化することができる(神のようになれるか、もしくは神と一体化できる)と告げています。しかし、今日の多くのクリスチャンに見られる風景が、それに非常に類似した特徴を持っていることに私たちは気づかないでしょうか。

多くのクリスチャンが、実にさまざまな精神修養を通せば、世から切り離されて、神に近づけると考えています。それは人の自己を心地よくし、「霊的」な雰囲気にさせてくれるメッセージや音楽の伴う、高揚感溢れる日曜礼拝から始まり、献身や、祈祷会や、各種の書物を読むことや、十字架を負うという名目で、世間とのつながりを断ち切り、ひたすら世を避けて禁欲主義的な生活にいそしむことなど、形式は多岐にわたります。

しかし、このような方法を通して、人がキリストとの結合に達することは決してできません。なぜならば、キリストとの結合は、人の生まれながらの自己の完全なる死を土台としなければ成り立たないからです。御言葉によらずして、人が肉や、自己や、世に対して死ぬことはできず、この世の方法によって、生まれながらの肉なる人が、御霊に継ぎ合わされることは決してありません。

ですから、信者とキリストとの合一を実現できるのは人の作り出すあれやこれやの修行ではないのです。それを実現できるのは、御言葉だけであり、ローマ6章、ガラテヤ2:20に大胆に述べられているように、御言葉に基づいて、私たちがキリストの十字架の死を、自分自身の死として信じて受け取り、御言葉が信仰を通して実際となって、キリストの死が私たちの生まれながらの自己に霊的な死をもたらすことによります。

私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのですそれは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえらされたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。」(ローマ6:4-5)

これは御言葉を通して働く神の力によるのであって、私たちが自分で自分を滅却し、死に至らしめようとするあれやこれやの努力によるのではありません。そのような努力は、いかなる種類のものであっても、私たちを微塵も世から隔てることはできず、私たちの生まれながらの自己をより強化するだけであり、霊的な死の下に置くことができません。御言葉以外のいかなる精神修養も、自己修練も、世からの隔絶の努力も、私たちを微塵もキリストの復活の力にあずからせることはできません。

ところが、今日、キリスト教の名で呼ばれる宗教においては、御言葉を介さず、十字架を介さず(神の御力によらず、御言葉や十字架をただ見せかけの飾りとして用いながら)、人が十字架において生まれながらの自己の死を経ようとすることもなくして、生まれながらの人が自らの方法で自己追及、自己修練していくことにより、神に到達することができるかのような教えが公然と説かれているのです。これは単に人に心地よさを与える礼拝から始まって、人が霊的な知識を積み、キリストのようになれると説くところまで、段階は色々なのですが、とどのつまり、これは神秘主義であり、それは人を受動的にすることによって、神の霊ではない別の霊の影響に対して自分を開かせ、それを繰り返すことにより、生まれながらの自己を死の下におくどころか、より肥大化させ、より高慢にさせ、最も執拗に神の真理に逆らわせるために立ち上がらせるような影響力を持つ、真理に最も敵対する教えなのです。

これは人の造り出した宗教であり、カインの礼拝と本質的に同じものです。そして自分では熱心に神を信じて、神に従っているつもりのクリスチャンこそが、実に多くの場合、最も激しく欺かれ、このような偽りの教えのとりこにされているのです。以下では、オースチンスパークスが、このような人の生まれながらの魂によって作り出された偽りの影響力がいかに今日のクリスチャンの間で主流を占めているか、いかにそれが人を生かさず、死に至らしめるものであるかを述べて、それらをはっきりと、御霊に偽装した、悪魔の模造品であると指摘しています。

サタンの働きは全て神の霊のなすことの模倣であり、今日のクリスチャンの多くが陥っている誤りは、御霊の領域に属する事柄を模倣して、人の魂の領域に作り上げようとすることです。これが神秘主義であり、たとえその人が意識していなかったとしても、生まれながらの人が自己の魂の力で神に到達しようとすることは、神に対する最も悪質な反逆となり、決して神に至ることのない、破滅を運命づけられている試みなのです。

…実に、自分をクリスチャンと見なしている人々の圧倒的大多数は、一方の(美意識にこだわる)神秘主義や禁欲主義(自己否定の実行)と、他方の霊性とを区別することができないのです。実際のところ、これらは二つのまったく異なる領域に属しており、神の御言葉は両者を区別して明確に切り分けています

カインと「カインの道」について話す時、私たちは嫉妬と悪意から発した彼の殺人行為をすぐ思い浮かべてしまいます。神に対する彼のいらいらした、気むずかしい、短気で不機嫌な態度や、無礼ですらある態度を思い出してしまいます。しかし、思い出すべき別の面があります。私たちはカインに対して公平でなければなりません。さもないと、要点をすべて見失ってしまいます。

カインは神を排除したり、無視したりしませんでした彼はいわゆる不敬虔な人ではありませんでした彼は神を認識していました次に、彼は神に祭壇を造りましたさらに彼は間違いなく、重労働で得た最上の収穫を神にふさわしいものとして選んで持ってきました宗教上の信心深さがそこにありました

カインは自分の美意識で礼拝しました。それなのに(いやだからこそ!)、弟を殺害したのです! キリストの時代、ユダヤ人も同じことをしました

キリスト教界――その建物、儀式、音楽、飾り、照明(または暗がり)、口調、雰囲気、衣服など――は大部分この美意識によって構成されていますすべて魂に属しています

しかし、カインは神に至りませんでした! ユダヤ人もです! 霊的な死がこの領域をしるしづけています。決心と「高尚な」考えや願いを生み出す激しい感情があるかもしれませんが、当事者の性質には真の変化が何もなく、心地よく感じさせる魂の自己満足をいくらかでも維持するために何度も繰り返さなければなりません

宗教はみな、この魂的な特徴を多かれ少なかれ共通して持っています。この点で、多くの宗教的な人々が致命的な間違いを犯してきました。彼らは、「他の宗教も間違いなく信心深く誠実なものですから、それに干渉すべきではありません。むしろ、その中の長所を認めて受け入れるべきです」と主張します。これは聖書が「霊的である」と言っているものと宗教との混同です。

宗教は高い水準に上ることもできますし、恐ろしい堕落に陥ることもできます。どちらにしても同じことです。しかし、宗教は決して人間の水準を超えて上ることはできませんし、決して神に至りません。サタンの最高の欺きのゆえに、宗教は神の真の御思いに対する最大の敵になりえます

禁欲主義は唯美主義と同じく、真に霊的なものではありません。厳格さ、自制、断食、堅苦しい冷ややかさなどは、その反対のものと同じく、神に訴えるものではありません。単純さは神に機会を与えるかもしれませんが、必ずしも霊的ではありません。それは好みの問題かもしれません。詩や音楽や芸術の中の崇高な思想や観念が、道徳的退廃や不品行を伴うことがしばしばありうるのです!

神秘主義者の認識や解釈は何と真理に迫ることができることか! 想像力は何と素晴らしいものを見ることができ、聖書の中にさえ見ることができることか! 一人の支配的な魂が聴衆や会衆全体に、何という恐れ、驚き、陶酔の感動を与えることができることか! しかし、これはみな神聖な永遠の結果を伴わない偽りの世界かもしれません

そのようなものがこの地上の生活を構成し、地上の生活の単調さを和らげるかもしれませんが、この地上で終わります。私たちは何という人工的な世界に生きているのでしょう! 音楽が流れ、ロマンチックなもの――ドレスや金ぴか物――があり、人の個性が行進している時、高慢や敵対心がどれほど現れるか、また、信じさせようとする力がどれほど状況の中に入り込むか見なさい! まさに、人工的な世界です。私たちはその中におり、その後の反動を知っています。

何とうつろで空しい死海の実でしょう! この通俗劇の悲劇は、多くの人にとってこれが「実際の生活」であることです。この魂の世界は悪魔の模造品です。それがどこでみつかったとしても、また宗教と関係があってもなくても、それはすべて偽りです。

私たちの中でこの世の泉から味わったことのある人たちは、あの魂の性質に関する限り、そこにあるものと宗教の中にあるものとの間の類似性を認識しています。それは領域の違いの問題であって、性質の違いの問題ではありません。世の音楽や劇が一方で生み出すもの――魂の鼓舞、高揚、渇望:情熱、涙、軽蔑、憎しみ、怒り、憂鬱、喜びなど――はすべて同じであり、後援者と舞台が異なるだけです。

実のところ、それは過ぎ去って行き、私たちはそれ以上進めません。少しましな音楽、説教者の交代、不慣れな場所、少し多めの感動は、おそらく私たちの魂を刺激するでしょう。しかし、私たちは結局どこにいるのでしょう? サタンは仮面の下でどれほど笑っていることでしょう! ああ、実際が必要です、永遠の実際が必要です!

ああ、この世に関する限り、美と崇高さに対する鋭い感覚を持つ高い教養のある魂の方が、卑しい者よりも遙かに好ましいのですが、これは必ずしも、そのような人が神――パースンとしての神――に関する個人的な生ける知識を持っており、本当に新しく生まれているかどうかの基準ではないということを、人々が見ることができますように!

オカルト主義――普通の人よりも深く見通す力、大部分の人が感じないものを感じる力、深遠なものを扱う力、見えない力に触れる力――は、神聖な意味の霊性ではありません。魂の領域は複雑で危険なものであり、多くの人をどん底から引き出すことができますが、次に彼らを道徳的、精神的、肉体的破滅の中におとしいれ、すべての希望を失わせてしまいます

「リバイバル」のために祈る時、自分が何を求めているのか、そしてそれを促進・推進するためにどのような手段を用いるのか、注意しましょう。

 
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「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)

「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。

しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」

こういうわけで、兄弟たちよ。 私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」
(ガラテヤ4:28-31)


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