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今日、クリスチャンに対する欺きはきわめて巧妙で分かりにくい形で始まります。サタンの誘惑は必ずと言ってよいほど、「善良そうな」見せかけを伴ってやって来ます。私たちは、サタンがエバを誘惑した時、彼の言うとおりにすれば彼女が「神のようにな」れる(創世記3:5)と言ったことを思い出す必要があります。

このくだりを読むとき、私たちは自分には関係ないことだと思って心の中で笑うかも知れません、人が神のようになれると思うなど、まあ、エバは何と不遜な願いを抱いたのだろうかと。しかし、この種類の誘惑の巧妙さを私たちはほとんど理解していないのです。

「人が神のようになれる」とはどのような意味なのでしょうか? それは人が完全な死の刑罰に服することなく、神のみそばに近づけるという意味です。

蛇がエバに近づいたとき、エバは神との交わりの只中にいませんでした。ある意味で、彼女は孤独だったようにも思われます。エデンの園で、神はひっきりなしに人のもとを訪れておられたわけではないようです。そして、どういうわけか、アダムもその時、彼女のそばにはいませんでした。エバは恐らく神の訪れを待ち望んでいたのでしょうが、きっと何かの寂しさも感じていたに違いありません。

その時、蛇がやって来ました。(現代のクリスチャンに対する言葉としては)彼はこうささやきます、何かがおかしいと思いませんか? 神はどこにいて何をしておられるのでしょう? あなたは何をしているのですか? どうして神の御声に耳を傾けるために、こんな寂しいところに一人ぼっちでとどまっている必要があるのです? 

あそこへ行けば、正しい教えに出会えます、あの本を読みなさい、実に深い真理が書いてあります、あそこに魅力的な交わりがあります、あの尊敬すべき兄弟のメッセージを聞けば、霊的な進歩を得られます、この愛すべき姉妹に会いなさい、かれこれの働きをしなさい、そうすれば、・・・あなたはもっと神に近づけますと。

サタンは二つの要素を用いました。一つ目はまず、人の「敬虔さ」という動機を悪用することでした。「神のようになる(言い換えるならば、神に近づく)」とは、ある程度、敬虔な人々でなければ決して願わないことです。神のようになること! 神のご性質を身につけること! 神ご自身との親しい交わりを少しでも知っており、神のご性質をもっと知りたいと願っている者に対してでなければ、この誘惑は何の効果も持ちません。

第二に、サタンは人が神に近づくために、決して十字架の死を通さずに済む、偽りの方法を提示しました。その方法は、生まれながらの人にとって、まことに好感の持てるものでした、「…まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった」(創世記3:6)

今日、キリストのまことの命を模倣した一つの人工のいのちの体系が、さまざまな装置を駆使して人々をとりこにしています。今日、クリスチャンに対する誘惑の多くは、礼拝、交わり、メッセージ、霊的な知識、そういった全ての神の事柄のように見える模造品を通してやって来ます。この宗教体系の中には、いかにも「霊的」で、「神から来た」ように見える、「良さそう」なメッセージが満ち溢れています。それらはクリスチャンを非常に心地よい状態に置くことができます。しかし、決して、それらのものは、キリスト者一人ひとりの内におられる御霊の働きに置き換わることはできないのです! 

ところが、今日、多くのクリスチャンが「信仰生活」の名で呼んで行なっているのはまさにそういうことです。彼らは神を知るために、自分の外側にある「良さそうな」ものにならば、何でも手を伸ばします。しかし、彼らはそのようにひっきりなしに外側の影響に身をゆだねても、決して、内なるお方に耳を傾けようとはしないのです。

ある人は、年がら年中、さまざまな指導者のメッセージを聞いています。多くの信仰者の証を読み、さまざまなキリスト教の書物を読み、宗教的なテレビ番組を見て、自分に好ましく感じられるあらゆる影響力を内側に取り込んでいます。彼らは「神から来た」ように見えるさまざまなもので身を飾っているため、外側は、いかにも敬虔そうに見えるかも知れません。しかし、その教えのどれ一つとして、彼らの内面に達することはありませんし、彼らを内側から変えることもできません。それは本質的に御霊の働きではないからです。彼らは自分は真理を追究しているのだと信じていますが、実際には、外から来る影響力の中毒状態、もろもろの霊力のとりことなっていることに自分で気づいていないのです。

クリスチャンが自分の目に「良さそう」に見えるもの、自分を喜ばせて、高みに上らせてくれそうなものに疑いもなく身をゆだね、それらが全て「神から来た」ものであると考えて、受動的に従っていくことは大変な危険です。そのようにして外側の影響に自分を委ねれば委ねるほど、その人の内なる人はますます弱くされていきます。

このような中毒状態が続くと、やがてその人はあらゆる悪しき霊的影響力の集まる病院のようになります。もはや、外側からの影響という松葉杖なしには歩けない弱い人になります。しかし、沢山の松葉杖で補強されているうちは、その人がそこまで弱くされていることは、外側からは分かりにくい場合があります。しかしそれでも、その人の実生活がますます貧しくなり、荒廃していくことから、何かがおかしいと気づくことは可能です。

しかも、さまざまな影響力を受け入れているうちに、どこかの時点で、必ず、異端が入ってきます。しかし、本人は自分自身の意志によって、真理と偽りとを識別することをやめているので、それに気づきません。その人はやがて、真理と真理ではない事柄を同時に語るようになります。主張に一貫性がなくなります。周りの人々は、その矛盾に気づきますが、しかし、本人は気づきません。彼らは自分を喜ばせてくれるアイテムを神から来た真理だと思い込み、全面的にそれに依存しているため、その偽りを指摘して、彼らから松葉杖を取り上げようとする人々が現われると、激しい憎しみと敵意さえ示すようになります。周囲はその態度を見て、彼らの人格が豹変したこと、彼らが何か見えない外部の影響力に操られて自由を奪われているに違いないことを察知します。

それでも、彼らがその偽りの影響力のなすがままになるならば、それは彼らの内側深くに浸透して、彼らの自己の一部のようになります。完全に偽りがその人の心をとらえた時点で、サタンによる猛攻撃が始まります。初めは彼らをあれほど喜ばせ、栄光の高みに上らせてくれた霊的影響力が、彼らを今度はどん底に突き落とす時が来ます。その時、彼らは霊的な事柄については、あれほど高邁に雄弁に語ることができたのに、実生活はあまりにも荒廃し、徹底的に自立を奪われて、普通に生きていく力さえも残らないほど、自分が弱くされているのを見るでしょう。しかし、自分たちがこうむった災難は全て「主のための苦難」であると思い込んでいたため、自分の人生が不当に奪われたことに気づかなかったのです。よほどのどん底に突き落とされない限り、彼らはその束縛が偽りであったことに気づいて、そこから自由になることを神に求めません。あるいは、どん底に来た時にはもう遅く、もはや現実を直視して人生をやり直す力がないほどに弱くされているのです。

エバは、自分の目に「良さそう」なものを見たとき、知らず知らずのうちに、それに手を伸ばしていました。気づくと、それをもう手にとって食べていました。それはサタンから来たものでしたが、彼女の目にはいかにも「良さそう」に見えたのです。それは彼女を喜ばせ、いかにも「神々しく」に見えたので、それを食べたら死ぬ(創世記3:3)と言われている警告は、念頭から消え去ってしまいました。エバの目がまず彼女に罪を犯させ、次に彼女の「欲しい」という気持ちが罪を犯させ、気づくと手を伸ばし、それを食し、自分の内側に取り込んでいたのです。

今日、多くのクリスチャンをとりこにしているのは、ただ人の説く魅力的な教えやら、心躍らせる礼拝やら、兄弟姉妹との親しい交わりといった、外側の事柄だけではありません。何よりも彼らに訴えかけるのは、生まれながらの人間の魂から出て来る憐憫の情、愛と憐みの情なのです。彼らはある意味で潔癖な利他主義者で、自分のための利益にやすやす心を動かされることはないかも知れませんが、他者の利益のためならば容易に心を動かされるのです。彼らは「神の国」の実現とか、「滅びゆく人々の救い」とか、「弱者への憐み」といったテーマを用いれば、容易に心を動かされるのです。彼らは不正を憎むかも知れません。世の中の理不尽を憎み、それが改善されることを願い、虐げられた弱者を助けるために勇敢に行動し、滅びゆく魂のために涙を流して祈るかも知れません。そして、何とかしてこれらの苦しむ人々を助け、救うことができないかと思案するのです。

しかし、生まれながらの人の憐憫の情を通しても、サタンは働くことができます。サタンは、十字架につけられていない人の魂の情愛を入口にして、そこから、生まれながらの人間を神の十字架を抜きにして救おうとする偽りの教えを忍び込ませることができるのです。すでに述べたように、なぜ人々は新興宗教や、異端へと誘われていくのでしょうか? それは彼らが、生まれながらの人間を天然の魂の愛で愛するがあまり、また、生まれながらの人間を惜しむゆえに、生まれながらの人間が、神の容赦のない刑罰を免れて、そのまま自らの力で苦悩から救われる道を探そうとするからなのです。彼らは罪人を愛し、罪人を「あるがままの姿」で救おうとします。彼らはそれを「愛」や「憐み」と呼んで、それを至極善良な願いだと考えます。それは生まれながらの人間には、いかにも正しそうに見え、人間的に感じられ、優しい感情のように思われるかも知れません。しかし、その根底には、十字架という刑罰はそもそも人間にふさわしくないという、神に対するおごりと反逆と不満の思い、そして人間の自己救済の願望があるのです。ですから本当は、それは愛などではなく、むしろ、神に対する不満に基づいた、生まれながらの人間を神に逆らってでも名誉回復させようとする悪しき欲望なのですが、生まれながらの人間がその「愛」のうちに潜む腐敗に気づくことはありません。

もしもクリスチャンが、このような天然の魂の愛や憐みを担保に取られて、偽りの教えに手を引かれて行くことがあると、彼らはやがて、人間に対する神の刑罰をあからさまに否定するような発言を行なうようになります。たとえば、神は愛なので、人を罪に定めるような残酷なことはされないとか、悔い改めがなくとも、全ての罪人は救われているとか、地獄は存在せず、永遠の滅びの刑罰などは存在せず、サタンや地獄や火の池や暗闇の勢力やこの世などといったものは、全て人間が造り出した概念に過ぎない、などと言うようになります。これは御子の十字架を否定することですから、非常に重い罰に相当します。このような異端は、たとえどんなに人間の耳に心地よく響いたとしても、クリスチャンが決して関わってはならない死の教えです。
 
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「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)

「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。

しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」

こういうわけで、兄弟たちよ。 私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」
(ガラテヤ4:28-31)


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