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キリスト教界を覆う背教のことについては、もはや繰り返す必要がないほどに書いて来ました。しかし、今日、偽りの影響はさらに個人的なレベルにまで浸透していると感じています。何度も述べてきたことですが、キリスト教界を離れさえすれば、欺かれる危険は去ると思うことはあまりにも愚かです。

「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。

というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです

しかし、あなたはどのようなばあいにも慎み、困難に耐え、伝道者として働き、自分の務めを十分に果たしなさい。」(Ⅱテモテ3:2-5)

この御言葉は、信仰生活に困難が伴うことを予告しています。特に、悪しき時代になると、より一層、人々は健全な教えに耳を傾けなくなることを予告しています。今がその時代です。信仰が現実逃避の手段となり、信仰が人の自己実現の手段として利用され、人が自分の人生で直面したくないさまざまな困難や苦労を避けて通るための隠れ蓑として信仰を利用し、また、生まれながらの自己を建て上げることが、神を喜ばせることであり、すなわちエクレシアを建て上げることでもあると多くの人が思いこむような時代が来ています。

人が自分の耳に都合の良いことを言ってもらうために、気ままな願いを持って、教師たちのもとに通い、真理からは耳を背けて、空想話に熱中する時代が来ています。これは世のことではなく、まさにクリスチャンのことに他なりません。こうして、神の事柄と人の事柄が混同され、生まれながらの人を喜ばせるものが、あたかもまことの礼拝であるかのように、あたかも神の真理であるかのように唱導される日が来ているのです。

キリスト教界を出たときに、私は一つの大がかりな偽りの城を去って自由を得ました。それまで長らく慣れ親しんできた一つの体系が完全な偽りであるという決断を下すまでには、相当な出来事が必要でした。ですが、またその行く先でも、悲しむべきことに、キリストにある私たちの自由を好ましく思わない暗闇の勢力により、何度も、何度も、偽りに遭遇することになりました。

このような事柄は、聖書のうちに何度も警告されています。まず、にせ兄弟が現われること、彼らは「私たちを奴隷に引き落とそうとして、キリスト・イエスにあって私たちの持つ自由をうかがうために忍び込」(ガラテヤ2:4)むこと。そして、このような人々に欺かれて、私たちがキリストにある自由を奪われることがないようにと、パウロは警告しています、キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。」(ガラテヤ5:1)

私は個々のクリスチャンたちとの交わりを通して、キリスト教界のみならず、個々人のレベルでも、クリスチャンに対して、今日、霊的な敵がどれほど深い惑わしと偽りをしかけるかを感じざるを得ませんでした。規模に関わらず、観察しているうちに、一つや二つでない多くの交わりが、あるいは一人ひとりのクリスチャンの人生が、ほとんど同じような経過を辿って変質していくのを見たのです。初めはとても美しく見えたその始まりの様子からは予想もつかないほどに、御霊の働きによって始まったように見えることが、ついには肉によって完成されて終わるということが、何度も起こってきたのです。

しかし、その一部始終を振り返るならば、必ず、転機というものがありました。多くの場合、偽兄弟は初めから偽兄弟と分かる形で現われるわけではないのです。彼らは非常に敬虔そうであり、御霊の性質としてのある種の霊的な輝きさえ放っているのですが、途中でつまずきが起こり、その時に、選択を誤って、真理を退けて偽りを選びとってしまうのです。その転機とは、彼らがどこかの時点で、「キリストかセルフか」の選択を迫られたのに、それに対して誤った答えを出し続け、自己を喜ばせることを選びとってしまったことにあります。その自己のパン種が時間をかけてその人の内側で醸造され、拡大し、内側からその人を腐食していき、ある日、それが誰の目にも否定し得ないような残酷性か、もしくは滅びとなって現われるのです。

すでに書いたように、真理から逸れていく人に対して主は必ず警告を送られます。それは多くの場合、身近な兄弟姉妹の口を通してなされ、その人が今、どんなに危険なところに立っているのか、必ずと言って良いほど、再三に渡り、警告がなされます。

主イエスが語られた、あの不正なぶどう園の農夫たち(マタイ21:33-43)を覚えておられるでしょうか。ぶどう園の農夫とは、主のために収穫をもたらすための働き人、つまり、神の子供たち、主のための働き人に他なりません。これはただユダヤ人を指しているだけでなく、ここには神を信じる全ての人々、クリスチャンも該当します。この悪行は世々限りなく、罪人たちの間で続いていることなのです。

農夫たちの罪とは何であったでしょうか。それは怠慢のゆえに、真理に対して忠実であることを怠ったことにありました。彼らが行なったのは、自分たちに貸し与えられたぶどう園の横領でした。つまり、神に栄光を帰するために、彼らに任されたはずの仕事を通して、彼らは自らが栄光を受けてしまったのです。彼らは主に任せられて、神の事柄に奉仕していたのに、それを横領し、あたかも、それが自分のものであるかのように装い、それを自分を富ませ、自分が栄光を受け、自分を喜ばせるために利用し、主人に栄光を帰さなかったのです。それで、主は彼らの不正を知っていたので、僕を遣わして再三、警告を送られました。今日も、主は、御旨からそれて行く子供たちがあれば、彼らが偽りをきっぱり放棄し、初めの教えに戻るように警告を送られます。

しかし、ぶどう園の農夫たちは警告に対し、どのような反応をしたでしょう? 「…農夫たちは、そのしもべたちをつかまえて、ひとりは袋だたきにし、もうひとりは殺し、もうひとりは石で打った。」(マタイ21:35) 石で打つとは、罪に定めることです。これはユダヤ人たちが、自分たちを悔い改めに導くために主によって遣わされた預言者たちを罪に定めて殺したことを指しているだけでなく、同様に、今日、罪を犯しているクリスチャンに対して、その罪を離れるように主が遣わす僕らが、同様の酷い扱いを受けることを暗示しています。

農夫たちは、自分たちこそが罪を犯していたのに、その罪を頑なに認めようとはせず、むしろ、悔い改めるように警告した人を、逆に罪に定めて、袋叩きにして追い払い、あるいは、殺し、陵辱しました。彼らはあくまで自分を義とするために、自分を罪に定める全ての人たちに残酷な反撃を加えました。彼らの残酷さは、次第にエスカレートし、規模が大きくなって、多くの人々に知れ渡るようになります。「そこでもう一度、前よりももっと多くのしもべを遣わしたが、やはり同じような扱いをした。」(マタイ21:36) 

そして、ついに、農夫たちは、主の僕たちを袋叩きにするだけでは満足せず、主人の跡取り息子(主イエスご自身)を否定するに至るのです。このことは、ただユダヤ人がキリストを十字架にかけたことを暗示しているだけでなく、今日、異端に逸れて行った者たちの最終目的が、十字架を否定し、御子を否定し、神ご自身を否定することに帰着することを指しています。それは言い換えれば、人が自分自身を神とすることであり、私たちは、再三に渡って警告を拒み、真理から逸れて行った兄弟姉妹の言動を注意深く見守る中で、彼らが必ず、このような手順を辿って下降していくこと、ただ自分たちに耳の痛い警告を行った聖徒らに対して憎しみと残酷性を表すだけでなく、最後には、十字架をも否定し、神ご自身に逆らい、自分自身を神とするところまで行き着くのを見るでしょう。

しかし、その逸脱のきっかけは、小さな警告を退けることから始まります。罪を犯しているにも関わらず、自分の誤りを認めず、無実の人を罪に定めてまでも、自分を義としてしまったとき、しかも、その自己正当化を、主の御名においてしてしまったときに、その人は引き返すことが非常に難しい悪しき逸脱の中に足を踏み入れてしまうのだと私は感じています。

「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。」(マタイ26:40)

小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きいことにも不忠実です。…しもべは、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、または一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」(ルカ16:10-13)

ここで言う「富にも仕える」ということは、「自己に仕える」ということとも同義だと言えます。神に仕えるといいながら、同時に、自己に仕えることはできないのです。私たちは、十字架において自己を否むということの意味を、ただ言葉だけでなく、実際に知らなければなりません。

これは私たちが、生まれながらの人間の自己から出て来るものには、何ひとつ、神を喜ばせるものはないということを知ることです。自己の腐敗を認めずに、かえって生まれながらの自己を高めようとしながら、神に仕えることは決してできないのです。それを認めるような教えが、どんなに危険な偽りであるかを知る必要があります。

私たちが信仰生活に足を踏み入れたばかりの頃は、主は私たちが礼拝を通して自分を喜ばせようとすることをまだ寛容に許しておられるかも知れません。しかし、どこかの時点で、私たちは自分の満足のために、あるいは自己を建て上げるために、あるいは自分をさらに美しく麗しくするために、さらに自己を偉大に見せかけて、自己実現を果たすために、主の御名を利用することを拒まなければならない時が来ます。そのようなことがどれほど主の忌み嫌われることであるか、主が警告を送られ、選択を迫られるときが来ます。

それでもなお、光を退け、神の事柄を己が栄光と満足のために利用し続けると、ついにその人の信仰生活は、もはや信仰生活でなくなり、神に対する反逆へと変わっていくのです。人はそれでも、それを正当な礼拝のように偽装するかも知れません。自分は神に正しく従っているのだと見せかけるかも知れません。しかし、そのようなものが、最後にはその本質がどれほど悪しきものであるかを暴かれて、神の焼き尽くす火によって、焼き尽くされずに終わることはありません。

神の事柄と生まれながらの人の事柄は決して混じり合いません、これを混ぜ合わせようとすることは不可能であるだけでなく、非常に危険なことです。神は私たちが無知であるがゆえの失敗はお許しくださるかも知れませんが、私たちが意図的に霊と真理をもって行なわれるべき礼拝の中に、生まれながらの自己の腐敗を持ち込み、それを主の御名によって正当化しようとするとき、主からの激しい御怒りが下るのです。主がそれを退けられないことはありません。それは必ず、忌むべき礼拝として、何らかの厳しい刈り取りを招かずにはおかないのです。

神の事柄については、ただ神だけに栄光が帰されなければなりません。人が自分の人生を楽しむことは、非難されるべきことではありませんが、本来、「自分のため」であるはずの事柄に、「神のために」という大義名分をつけて、それを信仰の名で呼び、肉に属する事柄を、御霊に属する事柄であるかのように見せかけるとき、その事業は決して平和な結末では終わらないのです。

カインの礼拝は主に受け入れられませんでした。彼は「地の作物」を主へのささげ物としようとしましたが、これは人が生まれながらの自己から出てくるものを、主に捧げ、それによって主を喜ばせようとすることを象徴しています。しかし、主は地に属するもの、肉に属するもの、生まれながらの人から出て来るものを決してお受け取りにはなりません。そこで、カインの礼拝はどんなに敬虔そうに見えたとしても、不義として退けられるのです。

今日、どれほど多くのクリスチャンが、自己による礼拝、肉による礼拝、カインの礼拝を捧げているでしょうか。カインの礼拝にも、さまざまな魅力があります。そこには、人を喜ばせてくれる沢山の要素があるでしょう。深く、霊的で、魅力的なメッセージがあるかも知れませんし、もしくは、愛と憐れみに満ちた親交があるかも知れません、人をうっとりさせるような装置があるかも知れません。カインの礼拝も、見た目にはアベルの礼拝と同じほど、敬虔そうな要素が満ちているのです。

しかしながら、カインの礼拝は人が自分で自分を義とし、人の自己を建て上げるためのものであり、どれほど真理めいたものによって飾られていたとしても、それはしょせん、生まれながらの人間に栄光を帰するために行なわれるものに他なりません。それは人間の最善の努力と知恵を結集したものかも知れませんが、決して天に届きません。神に栄光を帰することのない、神に受け入れられることのない礼拝なのです。別な言い方をすれば、そこにある美しいものは全て、人間の裸の恥を覆い隠すための隠れ蓑として存在するだけなのです。それは、自分の礼拝が罪に定められた時のカインの態度にはっきりと明るみに出されました。

もしもカインが本当に心から神に喜ばれることだけを願って礼拝を捧げたのであれば、彼はたとえ神によって自分自身が罪に定められ、自分の礼拝が神に退けられ、全否定されたとしても、それに抵抗しなかったでしょう。むしろ、彼は神が喜ばれるものが何であるかをわきまえて、へりくだって、自分の中に何か間違いがあったことを認められたはずなのです。そして、どうすれば、神に喜ばれるのかを考えて、全てをやり直したはずなのです。しかし、カインは自分の礼拝が受け入れられなかったとき、神を義とするよりも、むしろ、自分自身を義とし、自分が神によって否定され、自分の美が損なわれ、自分の対面が失われたことを憤ったのです。

はっきり言うならば、カインは神を逆恨みしたのです。そして、神に対する彼の憤りは、神に受け入れられている他の聖徒への嫉妬と逆恨みに火をつけました。カインは、ただ神に対して憤ったのみならず、その憤りを、神が喜ばれた聖徒らに向け、彼に残酷な仕打ちを加えることによって、自分が勝利をおさめようとしたのです。

この残酷な行為は、カインの礼拝が、たとえどんなに表面的には美しく、敬虔そうに見えたとしても、それは真に本質的に神のために捧げられたのではなく、彼が自分を建て上げ、自分の面目を守り、自分をさらに美しく築き上げ、自己肯定するために捧げられた礼拝だったことを、他のどんなことよりも、はっきりと物語っているのです。


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「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)

「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。

しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」

こういうわけで、兄弟たちよ。 私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」
(ガラテヤ4:28-31)


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