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ところで、レビ族は、自分の兄弟、友、隣人を手にかけることを悲しまなかったのでしょうか? 悲しまなかったはずがないと私は思います。レビ族は、罪を犯した同胞を剣によって刺し通しながら、まさに自分自身の心をも刺し通していたのではないでしょうか。

彼らは自分の魂の愛をはりつけにして、人間としての利益を捨て去って、ただ神の御心に従ったのです。彼らは自分たちの名誉を建て上げることではなく、神の名誉が守られることを優先しました。自分たちの願望が満たされることではなく、神の御心が満足することを選びました。自分たちの交わりが正当化されることではなく、神の掟がないがしろにされないことを選びました。

彼らは文字通り、「すべての人を偽り者としても、神を真実な方である」としました。神を真実な者とすることが、自分たちの平和で安全な生活を根底から揺さぶり、自分の愛する対象を失うことを意味したとしても、ためらいませんでした。主に従う過程で、いつか、私たちもこのような地点を通される時が来ます。だから、御言葉は次のように言うのです。

「わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。さらに、家族の者がその人の敵となります。

わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。」(マタイ10:34-38)


旧約のレビ族は、まことの大祭司なる主イエスご自身の予表であり、そして、新約における神の祭司たちをも予表しています。レビ族と同胞との間に剣が置かれたことは、今日、私たちと世との間に剣が置かれていること、私たちが世に属するすべてのものと敵対関係に置かれることを象徴しています。この剣は、しばしば、兄弟姉妹との間にも置かれます。私たちが望まなくとも、そのようなことが起こるのです。

「剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。それは多くの人の心の思いが現われるためです。」(ルカ:35)

今日、私たちが腰に帯びているのは、目に見える剣ではなく、「御霊の剣」(エペソ6:17)です。しかし、剣というものには、いずれにせよそれなりの用途があり、それは敵を攻撃して勝利を取るか、もしくは何かを切り分けるために使われるのです。

御霊の剣は、ただ世と私たちを切り分けるだけでなく、私たち自身の心にあるものをも鋭く切り分けます。何が神に属する永遠のものであり、何がそうでない一時的なものか、何が霊に属するものであり、何が私たちの魂から出て来たむなしい幻に過ぎないかを、この剣ははっきりと切り分けて証明します。私たちは、この剣によって自分自身も刺し通され、私たちの魂の愛が刺し通されて、自分のむなしい夢に過ぎないものが、剥ぎ取られ、偽りとして切り分けられていくことに、同意する必要があります。この剣は、ただ一つ永遠に残らないものが何であるかを証明するために、力強く働き続けているのです。

この剣は、兄弟姉妹の交わりの間をも行き巡っています。この剣が、兄弟姉妹と私たちを隔てるとき、私たちの魂の愛は震われます。身近な兄弟姉妹が私たちを敵のようにみなしたり、私たちを苦しみの日に見限ったり、真摯な警告をしたがゆえに、私たちを憎み、踏みつけ、退けるとき、その剣は私たちの心を刺し通すでしょう。

しかし、それでも、自分に問う必要があります、私は交わりを愛する以上に、主を愛するだろうか? 人々を愛する以上に、主を愛するだろうか? なぜ主は私から愛する人々を取り上げられたり、あえて裏切らせたりするのでしょうか? こうなる前から、主は私たちの心の弱さを見抜いておられ、私たちの目が常に神ではなく人に注がれ、私たちの唇が常に神ではなく人に栄光を帰し、私たちの心が常に目に見えるものを愛し、見えない神ご自身に向かわないことを、悲しんでおられたのではないでしょうか? 

ああ、クリスチャンが交わりという名目で、人間を高く掲げ、自分たち人間を誉めそやし、自分たちの力によって一致団結しようとするその願望の根底にあるものは、神の御前に自分を無として投げ出してひれ伏すのではなく、むしろ、神の御心を抜きにして、ひそかに自分たちの名を建て上げ、自分たちだけで自己肯定したいという、人から出て来た思いではないでしょうか?

バベルの塔は、人間の高ぶりのゆえに砕かれ、分裂させられ、追い散らされました。私たちの目が見える交わりに向けられるなら、どんなに小さな交わりの中でも、やはり、同じことが起きるでしょう。主は焼き尽くす火であられ、私たちの心が何者にも奪われることを願っておられません。たとえどんなに兄弟姉妹を愛しているつもりであっても、それがただ私たちの天然の魂から出て来た思いに過ぎないのであれば、それは神の愛と一致せず、どんなに私たちがそれを御言葉によって正当化したとしても、それはいつか焼き尽くされるときが来ます。

互いの栄誉は受けても、唯一の神からの栄誉を求めないあなたがたは、どうして信じることができますか。」(ヨハネ5:44)

私たちが問われているのはいつもいつも、ただ一つのことです、「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」(マタイ22:37) 神への愛に比べ、隣人への愛でさえ二義的なものです。

ある人々はこのような信仰のあり方は極端だと考えるでしょう。しかし、ヒューマニズムを奉ずる人々の主張はさて置きましょう。私たちは、生まれながらの人間から出て来るものは、ことごとく十字架において死に渡されなければならないことを知っています。生まれながらの人間から出て来るもの、たとえそれが愛という名で呼ばれていたとしてもです。

こうして、自分の望みが震われる時、私たちは自分がそれまで神の御旨に反しない、正しい思いであると考えてきたさまざまな願いの中に、古き人から出て来た、神を喜ばせない腐敗が確かに存在していたことを知るのです。さらに、それがこれまで度重なる失敗を招いてきたことも理解するのです。そして、それを取り除くことを主が願っておられることを知ります。こうして、偽りの望みが断ち切られる痛みを耐え忍びながら、しかし、同時に、主が私たちをそこから自由にして下さり、真に震われないものは何かをお示しくださっていることを喜ぶのです。

こうして、心を試され、震われるその度ごとに、かつては価値があるように見えたものが、目の前で倒壊していきます。それでも、アーメンと言いたいのです。なぜなら、目に見える有様が過ぎ去るときにこそ、目に見えないものが永遠に続くことの意味が明らかになるからであり、震われないものが何であるかが明らかにされるために、全ての造られたものは震われなければならないのは当然のことだからです。

ですから、アーメン、主よ、来たりませ、と言いたいのです。どんなに美しく見えたとしても、偽りはもう沢山ではありませんか。私たちのちっぽけな魂がどんなに必死になってしがみついたとしても、偽りの望みは私たちを生かすことができないのです。震われることは決して心地よいことではありませんが、たとえ私の望みのすべてが偽りであることが明らかにされたとしても、ただ一つ震われないものが、主よ、あなたの御名だけが高められ、あなたの御国だけが姿を現しますようにと私は願うのです。全ての造られたものは膝をかがめ、ただ主の御名だけが高く掲げられますように。全ての造られたものが震われようとしているこの日に、私たちは大いなる慎みと恐れを持って、御前に額づくのです。まことの大祭司なる主よ、来たりませ、あなただけが何が真実であるのかをお示しになることができます。

『わたしは、もう一度、地だけではなく、天も揺り動かす。』 この『もう一度』ということばは、決して揺り動かされることのないものが残るために、すべての造られた、揺り動かされるものが取り除かれることを示しています。

目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。


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「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)

「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。

しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」

こういうわけで、兄弟たちよ。 私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」
(ガラテヤ4:28-31)


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