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同様のことが、兄弟姉妹との交わりにも起こりました。私は主にあって、まことの命の自由を知った後で、兄弟姉妹への強い憧れと賞賛の気持ちを抱いていました。一人ひとりの兄弟姉妹の存在は、いつも私に多大な尊敬を起こさせました。一人ひとりがどれほどの好感を私に抱かせたでしょう。

私はこの感情がとても良いものであると信じ、私の見ている彼らの姿が真実であると思っていました。私はいつも思っていたのです、きっとこのような優しい愛の延長線上に、エクレシアが建て上げられていくのに違いないと…。

ああ、美しく、麗しい主の民! とにかく、私は聖徒らの交わりをとても愛していたのです! 一体、どうしてその感情が悪いはずがありましょう? 世間はこのような人間賛美の主張に拍手喝采を送るでしょう。クリスチャンであっても、これこそが御心に合致する麗しい感情に違いないと思うでしょう。そこにどんな問題があるのでしょうか?

ところが、事実は全くそうではなかったのです。実は、私の中で最も取り除かれなければならないものは、まさにこの私を喜ばせてくれるこの最も善良そうな感情、私たちが愛と呼んでいるもの、交わりへの愛着、生まれながらの魂の思慕だったのです。それは常に、私の心を主ではなく、人々の方へとひきつけ、目に見えるものへと誘い出し、主に栄光を帰するよりも、人に栄光を帰させようとしました。

とにかく、私は常に目に見える交わりを愛し、人に傾倒しすぎたのです。私はいつも人々に深い関心を抱き、人々の苦難は常に私の憐みを誘いました。幾多の手痛い経験を重ねるまでは、自分でも善良な感情であると思っていた兄弟姉妹への愛着や、交わりへの思慕の中に、どれほど主の御心に反するものが混じりこんでいたか、知ることはありませんでした。しかし、交わりに対する私の愛着も、兄弟姉妹に対する私の愛着も、「震われる」ことによって、さらに試されなければならなかったのです。

主は、私の知らなかった交わりの「真の姿」を見せられました。人の心の内幕を徐々に見せられました。そこにはどんなに主の忌み嫌われるものが満ちていたでしょうか! どれほど私の心を喜ばせない、失望落胆するものが満ちていたでしょうか! 人々の心の内側にあるものを直視するよう促されたとき、そこに、主の嘆きと怒りを引き起こすものがどんなに満ちているかを知って、私は驚き、憤慨しました。

私は知っています、以前から実に多くの人々がこれらの罪に気づき、それに関わっている人たちに、親身になって忠告してきたことを。彼らを愛するがゆえに、警告した兄弟姉妹がいたのです。しかし、警告は聞き入れられなかったのです。それどころか、ある人々は、ただ警告を退けただけでなく、警告を行った人を心から憎むようになりました。

このようなことを通して、私は自分の心を取り扱われなければならなかったと同時に、クリスチャンに働く惑わしの力が予想を超えて深く、もはやそれが手に負えないレベルにまで浸透してきていること、警告がほとんど意味をなさないような時代がやって来ていることを改めて思い知らされたのです。

「というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。」(Ⅱテモテ3:3-4)

私は兄弟姉妹への魂の愛のゆえに、事態がそこまで深刻になっているとは、理解していませんでした。というよりも、身近な兄弟姉妹であればこそ、そう考えなかったのでしょう。これはどこかの宗教団体の話ではなく、私の魂の愛する人々、私の親しく交わって来た人々、見も知らないどこかの人々ではなく、主にある小さな交わりなのです。私は誰をも黙って滅びに委ねたくありませんでした。

しかし、今ここで言えることは、人々を愛するにせよ、失望するにせよ、その感情が、自分自身の古い魂の「良かれ」から出て来るものであれば、どちらにしても、それはほとんど功を奏することはないということです。たとえ親身になって警告したとしても、それが私たちの生まれながらの人の思いから出て来たものであれば、かえって人々への愛着が、サタンの家財とされて、それが霊的な敵に私たちを支配する権限を与えることになりかねません。

このような経験を幾度か味わうことを通して、私は、いかに愛する身内のような兄弟姉妹であったとしても、偽りや、不義に関わっている人々に対しては、彼らをただ祈りに委ねなければならない場合の方が多いと分かりました。生まれながらの魂の愛着を通して、安易に関わるべきではないのです。この種類の惑わしの力に打ち勝つためには、言葉による説得をはるかに超えた、上からのさらに大きな力が必要です。どうかその力を知って行使する人が現われますように!

ですから、なぜテモテⅡ第3章の警告が次のように言っているかを今は理解します。「見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。こういう人々を避けなさい。」(Ⅱテモテ3:5) 

はっきりと書いてあるのです。うわべは敬虔そうに見えても、行ないによって、その実を否定する者たちが現われること、このような人々を避けなさいと。「こういう人々を避けなさい!」 これは強い警告であり、このような偽善には打つ手がないので関わってはいけない、と言っているのと同じです。この人々を改善したいと思って安易に関わることが危険であることが読み取れるのです。

「これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがつまずくことのないためです。人々はあなたがたを会堂から追放するでしょう。事実、あなたがたを殺す者がみな、そうすることで自分は神に奉仕しているのだと思う時が来ます。彼らがこういうことを行なうのは、父をもわたしをも知らないからです。」(ヨハネ16:1-3)

時は縮まっており、何事についても、結果が出るのがとても早くなっており、しかも、その結果が非常に極端な傾向を伴って現れるようになっていると私は感じています。小さなパン種がパン全体を巨大に膨らませるように、一人ひとりが何に基づいて生きているのか、それはいつか誰も否定できないような結果になって現われます。 

「この書の預言のことばを封じてはいけない。時が近づいているからである。不正を行なう者はますます不正を行ない、汚れた者はますます汚れを行ないなさい。正しい者はいよいよ正しいことを行ない、聖徒はいよいよ聖なるものとされなさい。」(黙示22:10-11)

「良い木が悪い実をならせることはできないし、また、悪い木が良い実をならせることもできません。良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。こういうわけで、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです。」(マタイ8:18-20)

ですから、私たちはどんな不正に直面したとしても、必ずしも自分たちの手で物事の是非を証明しなければならないという思いにとらわれる必要はありません。人の心の内側に隠れているものを、時とともに、主ご自身が明るみに出されます。罪の支払う報酬は死であり、行いの結ぶ実を隠すことはできず、その罪の報酬の刈り取りから逃れることもできません。

「…おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行なう者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である。」(黙示21:8)

さて、話を戻せば、このようにして私は自分の心の思いを震われなければなりませんでした。兄弟姉妹の交わりにおいて、前述のようなことが幾たびも起こるうちに、それまで私が交わりに抱いていた夢が、きわめて浅はかなものであったこと、そこで取り扱われているのは、まさに私の生まれながらの心であることを思わずにいられないのです。何とそこにあったのは楽観的で浅はかな思いだったことでしょう! 神の御思いは人の思いとはいかに異なっているかを思わずにいられないのです。

出エジプト記32章の、レビ族がどのようにして始まったのかが書かれているくだりを思い出します。そもそも、レビ族が聖別された理由は何だったのでしょうか。彼らが他の民を置いて、神に選ばれた理由は何だったのでしょうか。それは、彼らが自分の魂の愛を拒んででも、神への愛を選び取り、自分の利益を放棄してでも、神の真実を擁護したことにありました。

モーセがシナイ山に登っているうちに、彼の帰還を待ちきれなかった主の民は、金の子牛像を造って踊り戯れていましたが、それを知って憤ったモーセは、民の中には一人でも、この背信が主の御心をどんなに痛ませているかという事実に目を留める者はないのかと思い、次のように召集をかけました。

「モーセは、民が乱れており、アロンが彼らをほうっておいたので、敵の物笑いとなっているのを見た。そこでモーセは宿営の入口に立って、『だれでも、主につく者は、私のところに。』と言った。するとレビ族がみな、彼のところに集まった。

そこで、モーセは彼らに言った。『イスラエルの神、主はこう仰せられる。おのおの腰に剣を帯び、宿営の中を入口から入口へ行き巡って、おのおのその兄弟、その友、その隣人を殺せ。

レビ族は、モーセのことばのとおりに行なった。その日、民のうち、おおよそ三千人が倒れた。そこで、モーセは言った。「あなたがたは、おのおのその子、その兄弟に逆らっても、きょう、主に身をささげよ。主が、きょう、あなたがたに祝福をお与えになるために。」(出エジプト32:25-29)


主につくためには、真理の中にとどまらなければなりません。不義なる生活を送り、偽りを信じ、霊的姦淫を犯し、御名が侮られるのを許しておきながら、どうして真理の内にとどまっていると言えるでしょうか。罪と訣別し、神の聖を選び取る決意なくして、どうしてキリストのうちにとどまることができるでしょうか。

私たちは次の御言葉を知っています、「たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです。それは、『あなたが、そのみことばによって正しいとされ、さばかれるときには勝利を得られるため』と書いてあるとおりです。」(ローマ3:4)

しかし、現代のヒューマニズムの観点から見るならば、レビ族のような厳しさで、神の真実のうちにとどまろうとすることは、かえって「人類への冒涜」、「非人間的行為」として非難されるでしょう。なぜなら、神を真実な方とすることは、時に、本当に全ての人を偽り者とすることを要求し、それは人間にとって少しも優しくない、むしろ大多数の人々の名誉を損なうような事柄だからです。しかし、他の誰でもなくクリスチャンこそが、そのようにして生まれながらの人間を擁護するために、真理を否定して叫ぶ、そんな時代が迫って来ていると私は感じています。

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「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)

「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。

しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」

こういうわけで、兄弟たちよ。 私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」
(ガラテヤ4:28-31)


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