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語っておられる方を拒まないように注意しなさいなぜなら、地上においても、警告を与えた方を拒んだ彼らが処罰を免れることができなかったとすれば、まして天から語っておられる方に背を向ける私たちが、処罰を免れることができないのは当然ではありませんか

あのときは、その声が地を揺り動かしましたが、このたびは約束をもって、こう言われます。『わたしは、もう一度、地だけではなく、天も揺り動かす。』

この『もう一度』ということばは、決して揺り動かされることのないものが残るために、すべての造られた、揺り動かされるものが取り除かれることを示しています

こういうわけで、わたしたちは揺り動かされない御国を受けているのですから、感謝しようではありませんか。こうして私たちは、慎みと恐れとをもって、神に喜ばれるように奉仕をすることができるのです。

私たちの神は焼き尽くす火です。」(ヘブル12:25-29)

もしも私たちが自分の人生において、「決して揺り動かされないものが残るために、すべての造られた、揺り動かされるものが取り除かれる」という経験を味わったことがないならば、上記の御言葉はあまりよく理解できないかも知れません。もしも私たちが人生において、激しい「焼き尽くす火」であられる神の「ねたむ愛」によって、神のねたみを引き起こすすべてのもの(私たちの心が愛している神以外のもの)を容赦なく暴かれ、焼き尽くされた経験がないならば、この御言葉の意味を我が事のように知るのは難しいかも知れません。

しかし、私たちの魂のしがみついている目に見える望みを剥ぎ取られ、ただ主にのみ一心に向かうことを、何度も、何度も求められる過程で、いつしか私たちは、「目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。」(ローマ8:24-25)との御言葉に心からアーメンと言うことができるようになります。

私たちは自分の心がしがみついている主以外のものが何であるか、自分で分かっていません。むしろ、私たちは自分は神を信じているのであって、それ以外のものを信じて頼りにしているのではないと思っています。しかし、実際にはほとんどの場合がそうでないのです。

私たちはそれを望みであるとか、兄弟姉妹との交わりであるとか、愛であるとさえ呼んで、とても大切にしています。しかし、そのように私たちが大事に握りしめているものの中に、どれほど主の御旨に反するものが含まれているか、それは私たちの望みが「震われる」日が来て初めて分かるのです。

私はかつて信仰を離れて暮らしていた時代に、自分で立てた色々な計画と夢を持っており、それらに愛着を感じていました。その夢は、どれをとっても、人の目にはまことに他愛のないものに思われたでしょう。たとえば、私は快適な家を見つけてそこに住んでおり、どこにも引っ越したくないと思っていました。その家は私の夢の象徴のようであり、そこを拠点として、私の将来が、私の幸福な生活が展開されるはずだったのです。

しかし、主がそれらすべてのものを焼き尽くされる日が来ました。それ以前から、その人生計画が御心に合致しないことにはうすうす気づいていたのですが、ついに私がそれを認めざるを得ない日がやって来ました。その時、主は私の同意を得て、私の愛していた全ての望みを、容赦なく震われ、倒され、焼き尽くされ初めたのです。

まるで私の人生は解体現場のようになりました。すべてのものが全壊しました。それを見たとき、かつては善良なものだと考えた「夢」が、実際にはどんなにむなしいものであったか、しかも、主が憎まれるものに私がしがみついていたことがはっきりと分かったのです。それは結局、私だけの思いに基づいて建てられたものであり、主の御旨に合致しない、憎むべきものだったのです。そうである以上、それらの夢が、震われる日に残らないのは当然でした。

私は神にささげられた生きた聖なるささげ物となるはずだったのですが、その頃、私の心の中には、あまりにも多くの偶像があったのです。しかし、主は根気強く私を呼び戻しておられました。こうして、試みの日に、私の心は、よすがとしていた全てのものを剥ぎ取られて、ただ一心に主に向かわされたのです。それは痛みを伴う体験でしたが、とにかくも、偶像が焼き尽くされ、全てのものが震われる中で、ただ一つ、震われないものが何であるかが、ようやくはっきりと明らかにされたのです。

しかし、このようにして焼き尽くされる中で、私の威信は完全に失墜し、それまで信仰だと思っていたものさえも含めて、それまで進んできた人生の道が根本的に誤りであったことを告白して、私はそれを放棄しなければなりませんでした。が、この恐るべき霊的「震災」の日々にあって、ようやく主を知るとは何であるかがはっきりと分かり、ただ一つ揺るぎないやぐらであり、避け所である主の懐に私は逃げ込んだのです。

こうして私が主に立ち返ったその後で、再び、平和が訪れました。主は私に失われたものを全て返して下さり、今や安全で平和な暮らしがあります。それはあたかも、私が昔、愛着を感じ、手に入れたいと考えていたさまざまなものが戻りつつあるかのようです。しかし、それらはもう以前のようではありません。一旦、目に見える全ての望みが激しく震われた後では、たとえどれほどの恵みが私を取り巻いたとしても、もう私の心は、それらにとらわれることはできません。恵みに感謝しないわけではありませんが、私の心はもうそれらにしがみつくことはできないのです。
 

  


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「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)

「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。

しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」

こういうわけで、兄弟たちよ。 私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」
(ガラテヤ4:28-31)


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