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『圧倒的な勝利者』ジェシー・ペンルイス著、オリーブ園より(黒字は筆者追記 *誤字のため意味が通らない箇所がいくつかありましたので、訂正しました5/14。)

これらすべてのことの中にあっても、
私たちを愛して下さった方によって、
私たちは圧倒的な勝利者となるのです。
ローマ人への手紙9:37

 

カルバリの勝利


「恐れには刑罰が伴います」(1ヨハネ4:18)
。カルバリの成就された働きは、死の恐怖(ヘブル2:14, 15)と死の君に対する恐怖を終わらせます。

キリストは十字架上であなたの罪を取り去られました。ですから、あなたのすべての罪は、彼の血を通して消し去られました。サタンのあらゆる悪霊も、あなたに罪をもたらしたり、投げかけたりすることはできません。神ご自身が罪を消し去って、
「私はもはや、彼らの罪を思い出さない」(ヘブル8:12)と語られました。それは、罪の意識と罪の刑罰からの救いです。

しかし、神が罪を消し去られる時、神は、あなたが罪を放棄するという条件でそうされるということを、理解するのは決定的に重要です。あなたが放棄しようとしないものを、神は消し去ることはできません。

(昨今、クリスチャンの間で広く広まっている大いなる誤った考えは、クリスチャンがどんなに罪を犯しても、十字架がすべてを清算してくれると誤解して、十字架をかえって肉を甘やかし、無条件な自己正当化のための手段として悪用することです。それはとんでもないことです。

「もしも私の心にいだく不義があるなら、主は聞き入れてくださらない。」(詩篇66:18)人が自分の犯した罪を認めようとせず、また、罪の中に依然としてとどまりながら、神は自分の罪を赦して下さったと考えることは偽りです。罪を赦されるには、罪との関係を絶つことが前提となります。私たちが自力で罪を離れるのではなく、罪から離れ去る力を私たちに与えてくれるのは御言葉ですが、それでも、私たち自身の心に罪を悔い改め、心から罪を憎み、大いなる嘆きをもって罪に(もしくは肉に)支配されることを拒むことが、主が私たちの内で働いて下さるための前提条件であり、私たちが願っていないことを主は私たちの上に成就されないのです。)


あなたが、自分の罪が消し去られ、新しいいのちの分与により神から真に生まれたことを知る時、あなたが理解しなければならないことがあります。それは、十字架を通して得られる勝利の生活の三つの面についてです。

1. 罪に対する勝利


キリストの死を通して救われた罪人には、罪と関係を断つ権利があります。彼は、勝利者であるイエスの御名の中で、「いかなる罪も、私を支配する権利はありません」と言うことができます。例えば、あなたはローマ人への手紙6:6に立って、「いかなるいかがわしい習慣も、私を支配する権利はありません。私は、私のために死んで下さった主の御名の中で、それに束縛されることを絶対的に拒否します」と言うことができるでしょう。

贖われた人であるあなたは、このように言う権利があります。なぜなら、十字架の働きはあなたのためであり、あなたは、キリストがあなたのために獲得されたすべてのものを、捕らえ、自分のものとするべきだからです(ローマ6:13)(罪からの自由だけでなく、主がキリストを通して私たちのために十字架でどれほど偉大なものを勝ち取って下さったか、私たちは真に知っているでしょうか? あまりにもわずかしか知らないのではないでしょうか? キリストの命にある全ての性質を、私たちはもっと願い、受け取るべきではないでしょうか? 「あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。」(ヤコブ4:2-3)

(しかし)このような方法で罪に勝利することは、あなたの栄光ではありません。なぜなら、それはあなたの人間的な意志や、人間的な力を通して獲得されるものではなく、十字架上でキリストが成就された働きを通して獲得されるものだからです。彼はあなたのために罪の赦しを獲得されました。彼はあなたのために罪と死に対する勝利を獲得されました。

孤独な十字架、それを考えなさい! そこで小羊
(ヨハネ1:29)を見なさい!ムーディは言いました、「神はほふられた小羊(黙示録5:6, 9, 12)によって、地獄のライオンを征服されました」。そして、そこで御業がなされました。ああ、教会が贖い主であるイエス・キリストの御名の中で立ち上がり、罪やサタンの束縛を拒否しますように。教会はキリストの御名の中で立ち上がるべきです。そして、教会に対する悪魔のすべての働きを滅ぼすことができると、宣言するべきですなぜなら、キリストが現れたのは、それらを滅ぼすためだからです

カルバリの勝利という事実、サタンが征服された敵であるという事実を、しっかりと握りましょう。キリストはカルバリで彼を征服されました。ローマ人への手紙第6章の立場に立って、古いいのちが十字架につけられたことを認める時、あなたの霊はキリストと結合されます。
「主に結合される者は、主と一つ霊です!」(1コリント6:17)。あなたは、一人で出て行って、強くて恐ろしい霊の敵に立ち向かうのではありません。あなたの霊は「主と結合されて、主と一つ霊」です。キリストは勝利者であり、あなたは一つ霊の中で勝利者であるキリストと結合されているのです

神は、あなたによってあなたに勝利を賜るのではありません。彼は、あなたが霊の中で勝利者に結合されることによって、あなたに勝利を賜るのです「あなたがたのうちにおられる方が、この世のうちにいる、あの者よりも力があるからです」(1ヨハネ4:4)。私たちは、一つ霊の中で勝利者、征服者と結合されているというのに、敵の前で怖じ気づいて震えるのでしょうか? 

しかしあなたは、カルバリに来て、古いアダムのいのちがキリストと共に十字架につけられたという事実に堅く立つまでは、その「結合」を知ることができません。なぜなら、「古いいのち」は邪魔をして、何らかの「戦い」をしてしまいがちですが、それは敵に対して何の役にも立たないばかりか、あなたを支配する立場と力を敵に与えてしまうからです。

それゆえ、古いアダムのいのちは十字架につけられたことを認めなければなりません。なぜなら、それはサタンの道具であり、
もし古いいのちが絶えず死の立場にとどめられるのでなければ、それはサタンが「火矢」(エペソ6:16)を放つ道具となるからですサタンは全旧創造に対して完全な権利を持っています彼は、あなたの中にある「十字架につけられていない」古いいのちのその部分を知っており、火矢をすべてその部分に向けて放ちますこれらの矢の先端にはゲヘナの火(ヤコブ3:6)が燃えています。矢があなたに突き刺さると、燃え上がり、炎を上げて燃え、あなたを「炎」にしてしまいます

あなたがクリスチャンの中に「炎」を見る時はいつでも、それがどこからやって来たかを知るでしょう。それは

「地獄の炎で燃やされた」古いいのちから来るのです。

神の子供よ、あなたは「かっとなって」、言うべきではないことを言うことがあるでしょうか?あなたは不親切な事柄にかっとなって、サタンによって「火で焼かれる」のでしょうか?これは勝利する「戦い」ではなく、常に敗北する戦いです。

(しかしながら、サタンが燃やすことのできるのは、私たちの天然の人から出て来る「怒り」だけではないのです。怒りが悪しき結果に結びつきやすいことは、信仰を持たない人でさえ否定しません。しかし、クリスチャンにとって非常に分かりにくい事実は、私たちの天然の魂にとっていかにも「良さそう」に思われるさまざまな善良な感情、私たちが自分では正当だとさえ思っているさまざまな思い(アダムの命を擁護しようとするさまざまな感情)も、それが天然の魂の命から出て来るものであれば、神の御前に腐敗し、汚れているということなのです。

たとえば自己憐憫、自己正当化、自己保身の思い、世への気遣い、その他、天然の魂から出て来る他者への憐みや、愛といった、いかにも人の目に良さそうに見える感情、世間ではヒューマニズムとして認められている主張、生まれながらの人間を惜しみ、擁護しようとするさまざまな主張も含め、アダムの古い命から出て来るものは、すべてサタンが火矢を放つための十分な土台となるのです。今日、クリスチャンが一般的に「愛」や「憐れみ」と呼んで正当化しているものの中に、しばしば、このように、アダムの天然の命を擁護しようとするさまざまな思いが含まれていること(むしろそれが大勢を占めているかも知れないこと)はすでに指摘しました。このように間違った「愛」や「憐れみ」の概念には、人に肉の恐ろしさを知らせず、天然の人の腐敗をかえって覆い隠し、むしろ罪を巧みに擁護しようとする願いが隠されています。しかし、人間がどのような美名で呼び、それが、人間にとってどれほど道徳的に聞こえたとしても、アダムの命への「愛」を主張して、天然の命を擁護しようとすることは、神が十字架上で人間に下された刑罰に逆らうものであり、神の御前には、それは十字架を曲げようとする悪しき主張であり、その結ぶ実によって、その主張が真実でないことが人の目にもいずれ明らかとなります。)


あなたはローマ人への手紙第6章の重要性を理解しておられるでしょうか? ローマ人への手紙第6章の立場に立たずに、あなたがサタンを攻撃したと仮定しましょう。彼はどんなに嘲笑うことでしょう! 彼は言うでしょう、「なぜ私に属する『持ち物』がそこにあるのか。彼らは私の『物』をたくさん持っている」。
あなたは「強い人」を縛る(ルカ11:21-22)ことができませんなぜなら、彼の物があなたの中にあり、あなたの周りにもあるからです

それゆえ、あなたはカルバリの立場に立って、常に古いいのちが十字架につけられたことを認めなければなりません。そうするなら、ゲヘナの火があなたを縛ることはないでしょうし、「人生の車輪」を焼く
(ヤコブ3:6)こともないでしょう。それはすでに、エデンの園で蛇が人を打ち負かしたことを通して、蛇の毒で毒されています。

地獄のライオンとのこの戦いのためには、小羊の霊、小羊-ライオンの霊
(黙示録5:5-6)、イエスの霊(使徒16:7)そのものがなければなりません。火矢があなたに向かって放たれる時、あなたの中には小羊の霊がなければなりません。人々がどんなにあなたを踏みつけ、虐待し、しかめつらをしても、あなたの中に炎――それをあなたは「義憤」と呼ぶかもしれません――があってはなりません。カルバリの解放が必要であり、カルバリの小羊の霊が必要です。

2. 苦難における勝利


勝利の生活のこの面は、ローマ人への手紙8:35-39に見いだされます。使徒は言います、「私たちはほふられる羊とみなされる。………しかし、私たちは、私たちを愛して下さった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです」。あなたが虐待される時、あなたがキリストのために、キリストと同じようにただほふられるだけの羊と見なされる時、あなたは「圧倒的な勝利者」になります。「あなたのために………死に定められている!」

ほふられる羊と思われることは、素晴らしいことではありません。それは「威厳」のあることではありません! ここには誇ることのできる余地はまったくありません。主キリストのカルバリの死には、「威厳」があまりありませんでした。彼が茨の冠をかぶり、御顔に血を流しながら、道を引いていかれ、その夜、七マイル歩いて、所々へと移動させられた時、あまり「威厳」はありませんでした。そこには、
「私たちが慕うべき美しさはありません」(イザヤ53:2)でした。それは「威厳ある」死ではありませんでした!彼はさらしものにされたのです!

神の子供たちに関して、彼らを最も深く傷つけることは、彼らの威厳に触れることです彼らは神の前でさらしものにされても気にしませんが、人々の前でさらしものにされることを大いに気にしますなんと彼らは、自尊心を傷つける事柄を恥じることでしょう

(もしくは、私たちは天然の魂の愛ゆえに、身近な人に裏切られ、傷つけられ、笑われることをあまりにも悲しみすぎるのです。特に、兄弟姉妹を私たちは惜しみます。愛する兄弟姉妹が私たちを苦しみの時に裏切ったり、孤独のうちに見捨てたり、私たちの苦しみを他人事のように嘲笑するのを見る以上に、私たちを深く傷つけることはないかも知れません。ダビデの詩篇にこうあります、「まことに、私をそしる者が敵ではありません。それなら私は忍べたでしょう。私に向かって高ぶる者が私を憎む者ではありません。それなら私は、彼から身を隠したでしょう。そうではなくて、おまえが。私の同輩、私の友、私の親友のおまえが。私たちは、いっしょに仲良く語り合い、神の家に群れといっしょに歩いて行ったのに。」(詩篇55:12-14)

このような時、
私たちは本当に悲劇の渦中にある人のように振る舞います。私たちの心は悲しみでいっぱいになります。手を伸ばし、兄弟姉妹を取り戻し、自分の無実を理解して欲しいと願います。なぜこんなにひどい裏切りを耐えなければならないのかと自分を憐れみます。しかし、このことでも、主は私たちが被害者となることを願っておられません。主は私たちを試みておられるだけなのです。しばらくの間、主は私たちの天然の魂の愛と、私たちの自己憐憫が尽きるまで、私たちを完全な裏切りと孤独の中に置かれるでしょう。ちょうど主イエスが弟子たちに試練のときに見捨てられ、一人とされたように。しかし主イエスは御父を信じたのです。ですから、)

しかし、信者が本当に、

キリストと共に苦しんでいること

を実感する時、それらすべては消え去ってしまいます。それは「あなた自身のために死に渡される」ことではなく、「キリストのために死に渡される」ことです。それは、あなたが悪かったから、叩かれ、むち打たれることではなく、あなたが義しかったから、叩かれ、むち打たれることです。もしあなたが善を行って、そのために苦難を受け、耐え忍ぶなら、それは恵みです。しかし、あなたが悪を行ってそのために苦しみ、耐え忍んだとしても、あなたにどんな感謝があるというのでしょう(参照、1ペテロ2章)

これが勝利であり、キリストのための苦しみにおいて勝利者となることです。あなたが悪を行って、「そのために苦しむ」なら、それを「キリストと共に苦しむ」ことであると言ってはいけません。「あなたのために………死に定められている………これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです」。これが、「イエスのための」苦難における、小羊の霊の勝利です。そしてこれが、この世に対する勝利です。

3. サタンに対する勝利


サタンに対して勝利を得ることでは、あなたはまったく別の方法で征服するのです。忍耐と愛する霊をもって、悲しみと不当な迫害を耐え忍ぶことは、キリストと結合されている人が持つ真の霊のいのちです。それは、苦難の目に見える直接的な原因である人間に対する姿勢においてです。しかし、これが悪魔に対する姿勢であってはなりませんあなたは悪魔に対して「小羊」であってはなりません。人々に対しては「小羊」であり、忍耐強く、愛の心を持ち、小羊の霊を示すことによって「圧倒的な勝利者」でありなさい。しかし同時にあなたは、ペテロ第一の手紙5:8-9ヤコブの手紙4:7にしたがって、悪魔に抵抗しなさい。

<…>エペソ人への手紙第6章は、敵に抵抗することにおける、勝利の生活のこの最後の面を描写しています。主イエスは、人に対しては「小羊」でしたが、悪魔に対しては「ライオン」でした。彼はもろもろの支配や力を払い落とし、彼らをさらしものにされました(コロサイ2:15)
。人々の目には敗北だったことが、神の目には勝利でした。人々の目には「恥」だったことが、神の目には栄光でした。サタンとそのすべての邪悪な軍勢に対して、キリストはライオン、ユダ族から出たライオンでした(黙示録5:5-6)

エペソ人への手紙第6章において、私たちは、暗闇の力に対する何か霊的な戦い、ライオンのいのちを見ます。私たちはここに、戦士の霊を持つ戦士を見ます。「ですから、強くありなさい」

人間の立場では、キリストは「弱さを通して十字架につけられ」ました
(2コリント13:4)。しかし、彼は「強い」方であり、「強い人」(ルカ11:21-22)よりもさらに強い者でした。彼の名前は「強い者」です。「もっと強い者が襲って来て彼に打ち勝つ」。ですから、「キリストの中に」立ってサタンに立ち向かう信者に対するメッセージの言葉は、「強くありなさい」です。あなたは今、「弱さ」について話してはいけません。あなたは、あなたの人間性や、あなた自身においては弱いかもしれません。しかしあなたは、

「主にあって強く」あらねばなりません。

悪魔の策略の一つは、「十字架の弱さ」(2コリント13:3-4)のゆえに、神の子供たちに弱さを受け入れさせることです。しかし「十字架の弱さ」は、人に対する人間的な側面のことです。霊の領域における奮い立たせる言葉は、「強くありなさい!」です。地的な側面では、「私は自分の弱さを誇る」とパウロは言いました
(2コリント12:9)しかし、敵に立ち向かうことにおいては「強くありなさい!」

「今からは強くありなさい!」。「強くあるよう努めなさい」と言っているのではありません。「強くあれ」と言っているのです。神が「………あれ」と語られる時、彼はそのための力を与えます。神が「光あれ」と語られると、そこに光がありました(創世記1:3)
!ですから、神があなたに「………あれ」と語られる時はいつも、「アーメン、私は………です」と言いなさい。すなわち、それはそうなるのです!

神は御言葉を語られ、あなたはそれを自分のものとします。そして、あなたがそれを実行する時、それは事実となります。神がそれをなされます。神は「強くあれ!」と言われます。
「弱い者に、私は強い!と言わせなさい」(ヨエル3:10)。なぜあなたはそのように言わなければならないのでしょうか? それは、霊の領域では、言葉が創造するからです。キリストは言われました、「その言ったことは必ず成ると、心に疑わないで信じるなら、その通りに成るであろう」(マルコ11:23)

霊の領域では、空しい言葉は一つもありません。あなたの言うことが、その通りに成るのです。ですから、あなたは自分の言葉に注意する必要があります。あなたが
「生まれながらの人」(1コリント2:14 )として地的な領域を歩いている時、あなたは効力の乏しい言葉を語るかもしれません。しかし、あなたが霊的な領域を歩いているなら、自分の言葉によって自分の信仰を否定しないように、警戒する必要があるでしょう。

もしあなたが、「神は私に『強くあれ』と言われます。ですから、

彼の力によって、私は強いのです」と言うなら、

力があなたの中にやって来ます。悪魔は霊の領域の法則を知っています。彼はあなたに「ああ、あなたは今日具合が悪いですね」とささやきます。するとあなたは、「私は具合が悪い!」と言ってしまいます。しかし、神は「強くあれ」と語られます。するとあなたは、「信仰により、神にあって私は強い!」と言います。サタンは「あなたは失敗するでしょう」とささやきます。するとあなたは、「私は失敗すると思う」と言ってしまい、自分が本当に「失敗する」のを見いだすことになります。これが霊の領域における法則です。しかし、その領域における言葉の力を理解している人は少ないのです。「弱い者に、私は強い!と言わせなさい

強くありなさい!あなた自身にあってでしょうか?いいえ。「主にあって」です。それが立場です。それは主の外でではなく、「主の中で」です。「主にあって」立ちなさい。決して他の立場に立たないように注意しなさい。あなたの信仰を

「私はキリストの中にある」

という事実と、「キリストが私の中におられる」という事実の上に置き続けなさい。私は一人で物事を対処するのではありません。私は個人的には弱いですが、キリストは強いのです。私は無力ですが、キリストは全能です。私はキリストにあって強いのです。私は彼の力、彼の活力を持っています。「私は主にあって立ちます!」。

神の子供たちの多くがこんなにも「弱い」のは、彼らがキリストにある自分たちの立場を忘れ、自分たちが「キリストと共に神の中にある」ことを忘れているからです。あなたが彼らを戦いにおいて無防備な場所に置くなら、彼らは逃げ去ってしまいます。あなたは彼らに、祈りによって征服しなければならない事柄について告げることができません。なぜなら彼らはおびえきってしまっているからです。神が持っておられるのが、こんなにも弱い教会――罪やサタンとの戦いにおいて弱く、この世に対する姿勢において弱い教会――であるとは、とんでもないことです。それはすべて、教会が十字架の内なるメッセージを学んでこなかったためです。

その大能の力この御言葉を用いて地獄のライオンを対処しましょう神は言われます、「強くありなさい。その大能の力にあって立ちなさい」そうするなら、恐れはまったく取り除かれるでしょう。それは「大能の力」です。

パウロはエペソ人への手紙第1章で、まったく同じ言葉を用いています。「キリストは、神の『力』、『彼の大能の力』によって、死者の中からよみがえらされました」。ですから、主が来られて、私たちが共に彼へと集められるまで、私たちは絶えず勝利の中で神と共に前進しましょう。

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「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)

「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。

しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」

こういうわけで、兄弟たちよ。 私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」
(ガラテヤ4:28-31)


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