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本当に名残惜しいのですが、都会に戻って参りました。西日本では、黄砂が飛んでいるとのことで、美しい新緑の山並みがうっすらと煙って見えました。短い数日であったとはいえ、こうして豊かな田園の自然をのびのびと味わい、我が家の平和をゆっくりと享受できたのは、何とありがたい休養だったでしょうか。関東にはまだ活気が戻りませんが、西日本ですっかり充電されて戻ってきたような感じです。



この頃、モア・ザン・イナフという言葉の意味を思い知らされています。主の御業の完全さ、主が十字架でご自分の命を投げ出してまで、私たちに開いて下さった自由の道、その愛に満ちた御約束、その真実の深さを知らされています。

正直に言って、これは私の理解力をはるかに越えていて、説明する言葉もありません。ただ主の憐れみが雨のように降り注ぎ、主が一方的に始められた御業を完成に向かっているとしか言えないのです。我が家に関してもそうであり、私の力では何一つ変えられることはなかったのに、主は何とご自分の御約束に忠実なお方でしょう、私の想像をはるかにこえた御業を着々と成し遂げておられるのです。


「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(使徒16:31)

ここではただ「主イエスを信じなさい」、と言われているだけで、あれをしなさい、これをしなさい、とは書いてありません。伝道しなさいとも、説教しなさいとも、書いていないのです。そして、私は信じただけです。天地の創り主であり、私たちのために十字架にかかられた主、御言葉なるお方の真実、誠実さを、これからも信じ続けるだけなのです。

(以下の写真はいつも夜行バスが出発する倉敷駅前バスロータリー。今回は父母が出発の瞬間まで愛犬とともに一緒にいて手を振って見送ってくれました。そしてもう一つは昨年亡くなった文鳥のお墓。ようやく故郷の大地に移すことができました。)



初めは不確かで、ぐらつきやすいもののようにさえ思われた十字架の御業が、時とともにますますゆるぎない、堅固な、不動のものとなって姿を現しつつあり、しかも、それが想像をはるかに越えた結果へと発展しようとしているのを感じます。

ああ、いのちとは、自ずから生長するもの、いのちとは、独自に発展していくもの、いのちとは、生長し、何らかの目的へと至りつくもの、主は私の思いをこえたことをすでに始めておられる。しかし、ここまで来るのにどれほど時間がかかったでしょうか――。

以前、ある人が私に言いました。

「キリストの復活の命には完全な健やかさがあります。この健全さについて思い巡らしてみてはどうでしょう。聖書には何度も、『健全さ』という言葉が使われているでしょう?(テトス1:9 2:2テモテⅡ1:13 4:3他)

クリスチャンは、キリストの命の完全な健やかさを追い求めるべきなのですよ。それなのにどうしてこうクリスチャンの中には十字架、十字架と言いながら、かえって不健全な生活に陥ってしまう人々が多いのでしょうか。(それはキリストの命によりたのまずに、自分自身のあれやこれやの努力によって十字架を達成しようとするからなのです。人が自分の古い命によりすがってまことの命に達しようとすることはできず、自らの努力によって義を達成することはできないので、善悪の路線で生きるならば、さらに束縛され、不自由となり、罪定めされるだけなのです。)

しかし、キリストの復活の命は私たちを自由にします。この自由、健全さというのは、ある人がどのくらいキリストのまことの命を実際に生きているかを客観的に判断する指標の一つになりうるわけです。

人は議論においてならば、いくらでも正しさを装うことが出来ます。善悪の議論を戦わせるならば、人はどんなに病的で、歪んだ、悪いものにさえも、理屈をつけて、正しそうに見せかけることが出来るでしょう。しかし、健全さについては、ごまかしは難しいのです。病気の人に健康を装うことはそもそも無理です。病気の人には自覚症状がないかも知れませんし、潜伏期間もあるかも知れませんが、一般的に、健康な人が病人を見れば、彼が病人であることは一目瞭然なのです。

これは身体の病気だけでなく、霊的な健康状態にも同じようにあてはまります。キリストの復活の命は必ずその命によって生きる人を健やかにします。自由にします。しかし、病的なものには必ずその歪んだ特徴が現れるのです。キリストのまことの命ではないもの、あるいはそれに見せかけただけのものには、必ずその特徴が現れます、アダムの古い命には特有の特徴があり、アダムの命の結ぶ実は緩慢な死です。

あなたは人の主張と生き様がどれくらい正しそうに響くかではなく、そこに真の自由があるかどうか、真の健全さがあるかどうかを基準に判断してみたらどうでしょう。そして、あなた自身も、キリストのまことの命にある健全さを目指したら良いのです。」

友よ、このような主張は、とても重要なものの考え方を私に提示してくれたのです。しかし、このような内容について初めて耳にした時には、私は健全さからはほど遠いところにいました。人生の大きな挫折を経験したばかりで、私の思いの中にも、生活にも、健全さと呼べるものはほとんどなかったのです。「肉の思いはであり」(ローマ8:6)、まさに私はその地点にいたのです! 全ての生きがいは失われていました。そんな状態にあって、キリストのまことの命の健全さというテーマについて聞かされるのは、つらく感じられたのを覚えています。

しかし、それでも、私は信じました。当時、どんな苦境の中にいたにせよ、人にはできないことも、神には出来ると。主はどんな絶望の淵からでも、私を助け出して下さることができると。神でなければ、助け出すことができないほどの深みにいるがゆえに、私は全てをかけて、主の真実と憐れみにすがる道を選んだのです。その時、私の力では、もうできることはありませんでしたから、私はただ砕かれ、屠られることに同意するしかありませんでした。しかし、その中から主に向かって叫びました、死んだものを再び生き返らせ、立て直してくださることは、主の領域の仕事であると信じたのです。

時間はかかりました。しかし、主は本当に私の思いをはるかに超えて、今も忠実に約束を果たしてくださっているのです。ただ苦境から私を救い出して下さっただけでなく、徐々に全てを建て直しておられ、さらに、ただ建て直すだけでなく、それ以上に何かの御業をなさっておられるのです。何か未だかつてない圧倒的な命の力がここに働いており、誰も想像したことのない結果が現われるまで、主がずっと働いておられることを私は感じています。

さて、苦境から助け出されるためには、私の側でも果たさねばならない責任がありました。それは、主の御言葉の真実が実現するのを妨げるような、不健全な思考の全てと訣別することでした。以下の二つの例を引用します。

「イエスがエリコに近づかれたころ、ある盲人が、道ばたにすわり、物ごいをしていた。群集が通って行くのを耳にして、これはいったい何事ですか、と尋ねた。ナザレのイエスがお通りになるのだ、と知らせると、彼は大声で、『ダビデの子イエスさま。私をあわれんでください。』と言った。

彼を黙らせようとして、先頭にいた人々がたしなめたが、盲人は、ますます、『ダビデの子よ。私をあわれんでください。』と叫び立てた。イエスは立ち止まって、彼をそばに連れて来るように言いつけられた。彼が近寄って来たので、『わたしに何をしてほしいのか。』と尋ねられると、彼は、『主よ。目が見えるようになることです。』と言った。

イエスが彼に、『見えるようになれ。あなたの信仰があなたを直したのです。』と言われると、彼はたちどころに目が見えるようになり、神をあがめながらイエスについていった。これを見て民はみな神を賛美した。」(ルカ18:35-43)

「ペテロとヨハネは午後三時の祈りの時間に宮に上って言った。すると、生まれつき足のきかない男が運ばれてきた。この男は宮にはいる人たちから施しを求めるために、毎日『美しの門』という名の宮の門に置いてもらっていた。彼はペテロとヨハネが宮にはいろうとするのを見て、施しを求めた。

ペテロは、ヨハネとともに、その男を見つめて、『私たちを見なさい。』と言った。男は何かもらえると思って、ふたりに目を注いだ。すると、ペテロは、『金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。』と言って、彼の右手を取って立たせた。

するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くない、おどり上がってまっすぐに立ち、歩き出した。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮にはいっていった。人々はみな、彼が歩きながら、神を賛美しているのを見た。」(使徒3:1-9)

この二つの例に共通することがあります。それは、二人の病人がともに健康になることを願って、主が癒して下さることを信じて、病をきっぱり捨て去って立ち上がった、ということです。

さらにもっとはっきりとした例があります。ルカ第5章では、屋根からつりおろされた中風をわずらっている病人に向かって、主イエスは「友よ。あなたの罪は赦されました」(ルカ」5:20)と言われました。さらに、あなたに命じる。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」(ルカ5:24)と命じられました。(この文脈から、この人の病は罪と何らかの因果関係を持っていたと想像されます。)「すると彼は、たちどころに人々の前で立ち上がり、寝ていた床をたたんで、神をあがめながら自分の家に帰った。」(ルカ5:25)

実は、ここに一つの困難があります。主はどんなに深刻な被害からでも、私たちを回復して下さることがおできになります。私たちの罪のゆえに招いた苦難からさえ、助け出して下さることができます。しかし、主に働いていただくために、私たちの側でも、果たさねばならない責任があるのです。それは、「病の床を取り上げて、立ち上がり、歩き出す」という行動に象徴的に表されています。

私たちが健康になることを真に願っており、主がそうして下さることを信じているならば、私たちは自ら不健康の中にとどまり続けることを拒む必要があります。これはどのような意味でしょうか? 自明の理だと笑わないで下さい。これは、自分が不健康であって、不完全な者であって、何らかの理不尽の犠牲者であり、特別な弱さを抱えた者であるという意識を捨て去らねばならないということです。

私たちは、病気の人は誰でも健康になりたいと願っているに違いないと想像します。心の病に陥った人でも、当然のごとく、健康になることを願っているに違いないと安易に考えるのです。ところが実際には、そうではない場合があるのです。

長く病んだ人、もしくは心身に何らかの深刻な被害を受けた人にはありがちなことですが、時折、病気や、何らかの被害体験といったものが、その人のアイデンティティの一部にまで深く浸透し、偽りの生きがいを作り出し、その人の存在理由にさえなってしまっている場合があります。その人が自分の弱さを盾にとって、他人の同情を乞うたり、弱さを理由に特別な利益を得て生きることに慣れてしまっており、どんなに主がその人に強さをお与えになりたいと願っておられたとしても、それまでの生き方を変えたくないばかりに(その利益を手放したくないばかりに)、弱さを手放すことを願わない場合があるのです。

私たちを強くしてくださるのは神の仕事ですが、弱さの中にとどまることを拒否するのは私たちの側の仕事です。もしも私たちが自分の弱さを利用して人の同情を乞う生き方に味をしめ、被害者意識にいつまでもとどまり続け、自己憐憫、自己耽溺にふけり、自分の弱さや、病や、欠乏に愛着をさえ感じ、この弱さのゆえに自分は不幸であると考えたり、人の同情に値すると考えたり、もしくはこの弱さをばねにして逆に成功しようなどと考えているならば、私たちは弱さの中にとどまり続けることを自ら選んでいるのです。

そのような人々にとっては、「弱さ」がかえってキリストの御業を妨げる肉の誇りとなってしまっています。弱さや、被害体験をふりかざせば、それがどんなことに対しても免罪符となるかのように思いこんでしまって、弱さがかえって肉の自信にすらなっている場合があるのです。弱さのゆえの特権、それは彼らが弱さを手放し、自立することをとても難しくしているのです。

上記のくだりに出て来る盲人と、足の不自由な人は何をして生きていたでしょうか? 「物乞い」です! この職業を象徴的にとらえましょう。「物乞い」とは、自分の弱さを逆手にとって、人の同情を求め、それをよすがに生きる人々を指しています。物乞いという職業は、弱さがなければ成り立ちません。

今日、あからさまな物乞いをする人はクリスチャンにはあまりいないでしょう。しかし、象徴的な意味で、クリスチャンが精神的に「物乞い」となってしまう危険性は大いに存在するのです。

友よ、主が私たちに何らかの深刻な打撃を与え、弱さの中を通ることをお許しになるとき、ある時点まで、私たちは主の懲らしめの御手の下に同意してへりくだらなければなりません。私たちが砕かれ、弱さを知らされ、自分の強さにより頼まないようになること――それは御心にかなったことです。人々は私たちが大きな困難や病の中にありながら、信仰を捨て去らずに忍耐していることを知って、私たちに同情し、賞賛さえしてくれるかも知れません。

しかし、強さが砕かれたその後に、今度はかえって「弱さ」を武器にしようとの誘惑がやって来るのです。まことにその弱さは私たちを美しい悲劇の主人公のように見せかけてくれます。私たちの信仰をさも立派そうに見せかけてくれます。しかし、そのようにして自分の「弱さ」を後生大事に抱え込み、自分の欠かせない一部のようにみなすのはとても危険なことです。強さであろうと、弱さであろうと、生まれながらのアダムの命から出て来る特徴に依存してはならないのです。たとえ自分たちの見かけ上の弱さが、自分に有利な効果を及ぼしたとしても、あるいは一生涯、それを取り除くことができないことが明らかだとしても、不完全さの中にとどまり続けるという選択を、私たちはきっぱり拒絶する必要があります。そして、主が必ず私たちの弱さを、神の強さによって覆って下さり、誰の同情にも依存する必要のない、真に自立した、自由な人として下さることを信じる必要があります。

御言葉はこう言っているのです、「私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」(ピリピ4:12-13)

パウロは私が弱いときにこそ、私は強いからです」(Ⅱコリント12:10)と大胆に言えました。彼が自分の弱さを誇ったのは、神の強さが自分を覆うことを知っており、弱さの中にいつまでもとどまる必要がないことが分かっていたからです。「わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」(Ⅱコリント12:9)
、だから、パウロはその弱さにも関わらず、主の強さに覆われて、自由であり、自立しており、力強くいられたのです。

友よ、神の強さにより頼まず、自分の肉の弱さをいつまでも武器にして握りしめて生きるということは、キリストが私たちに望んでおられる完全さに相反するのです。たとえ見かけ上の弱さは生涯、取り除けないものであったとしても、私たちが心の弱さのうちに安住し、自分が不完全な者であることを理由に、絶えず誰かの同情を集め、それを糧に、物乞いのような人生を送ることを、主は決して願っておられません。ですから、私たちは自分の弱さや、被害体験や、病などによりすがって、その弱さを巧みに利用して有利な人生を生きようとすることをやめるべきなのです。そうでないならば、私たちは、主の御業を逃してしまうことになるでしょう。

友よ、命の道と死の道はどちらかに一つであり、一方を選ぶならば、一方を捨て去らねばならないことをご存じでしょうか。私たちは物乞いであり続けながら、同時に自立した人となることはできないのです。私たちはキリストのよみがえりの命の圧倒的な力を信じるならば、アダムの命の不完全さの中にとどまることを拒む必要があるのです。主イエスが御名を通して私たちに語って下さっていることは、私たちが病の床を取り上げて、力強く立ち上がるように、ということです。病の床とは、目に見えるものばかりではありません、私たちの自己憐憫、自己耽溺、自分は不幸であるという意識、自分は他に比べて劣っており、何らかの理不尽の犠牲者で、悪いのはいつも他人ばかりで、自分は一方的な被害者であるという意識、だから自分には反省すべきことは何もなく、自分は同情だけに値するというような意識、そのような自己正当化と自己憐憫の思い、それもまた捨て去らねばならない「病の床」を象徴しているのです。

目に見える病の中には必ずしも治らないものもあります。しかし、どんなに見かけが弱いからといって、心まで病に伏せって弱くされる必要はないのです。私たちが闇(病み)のうちを生きることを拒絶して、病の床を取り上げて、力強く立ち上がり、主の光に照らされて目を開かれ、主のまことの命によって大胆に光のうちを歩むことを選び取るとき、その信仰を通して、神の御力が力強く働くことを信じようではありませんか。

上記に引用した二人の病人は、主イエスの御名に出会った時に、物乞いという職業をただちに捨て去って、病の床を捨てて、もはや弱さのゆえに人の憐れみに依存せず、神の命によって自立して生きる道を選んだのです。物乞いを続けたいならば、健康になる必要はありません。逆に健康になりたいなら、物乞いを廃業しなければならないのです。

友よ、私たちはキリストにあって完全な者とされることを願いつつ、歩き出そうではありませんか。自らをいつまでも「被害者」とみなし続けて、自己憐憫にとどまり、周囲にも自分への憐みを当然のごとく求めるような、愚かで、浅ましく、厚かましい人になることを拒絶しようではありませんか。十字架を通して主が私たちにお与え下さった本当の自由、本当の健やかさを大胆に受け取り、自由とされて生きようではありませんか。「病人」や「被害者」という名前が、私たちに与えてくれる偽りの美名をきっぱり拒み、弱者の美名という人に優しそうな響きが私たちのアイデンティティの欠かせない一部にまで浸透したり、もはや取り除くことが不可能なまでに人生の一部となったりすることを拒んで、キリストの命にあるまことの健やかさを受け取ろうではありませんか。

どんな束縛からも、一足飛びの解放というものは考えられません。回復の御業は、一歩ずつかも知れません。私たちは何度も、「病の床」を取り上げて、歩き出すことを求められるかも知れません。その度に、足元はおぼつかなく、転びそうになり、しかも、昔の乞食仲間がどこかに待ち伏せしていて、健康になろうとする私たちを裏切り者と呼んで、集団で袋叩きにし、再び重症な病や、新たな深刻な被害の中に追い込もうとするかも知れません。しかし、たとえそんなことがあったとしても、自分を被害者と考えてはなりません、絡みつく自己憐憫の思いと、被害者意識を、その度ごとにきっぱりふるい落とし、主が必ず私を完全に自由な者として下さり、すべての束縛からの解放を実際として下さり、私たちを安息に導きいれるというその御約束を必ず実現して下さることを信じて、前へ向かって歩き続けようではありませんか。

初めは自分でも思うでしょう、こんな足取りでどこまで歩いて行けるのだろうか?と。一体、どこを目指せば良いのかと。今まで門の前に座して、ひがな人の憐みを乞うて目的のない人生を送るだけであった人が、急にどこかを目指すことができるでしょうか? 目の見えなかった人が急に見えるようになったからといって、すぐに見えているものの意味が分かるでしょうか? 健康に慣れないがゆえに、初めはさらなる苦しみに遭うかも知れません。全くそれは水の上を歩くことと同じです。けれども、信仰によって、その歩みを確かに積み重ねていくとき、見渡すと、かなり高い丘(岩)の上に自分が立たされていることに気づくのです。

「それは、主が、
 悩みの日に私を隠れ場に隠し、
 その幕屋のひそかな所に私をかくまい、
 岩の上に私を上げてくださるからだ。

 今、私のかしらは、
 私を取り囲む敵の上に高く上げられる。
 私は、その幕屋で、喜びのいけにえをささげ、
 歌うたい、主に、ほめ歌を歌おう。」(詩篇27:5-6)


もう大丈夫だ――と、内側から起こってくる確信があります。道のりは長かったかも知れません、反対者はあまりにも多かったかも知れません、しかし、初めはあれほどおぼつかなかった足取りが、今はしっかりしたものへと変わって来ています。初めはあれほど私たちを脅かした者たちさえも、今や岩の下です。初めはただ歩くということだけでいっぱいであったのが、今は目的地があるということについて考えるようになっています。この岩はキリスト、私たちの隠れ場です。

人が立ち上がって歩くのは、ただ自由になるためだけには終わりません、自由を行使して向かうべき目的地があるからなのです。物乞いには目的地はありません。しかし立ち上がって歩いている人には目的地があります。私たちは何を望むのでしょうか。いつまでも不自由の中にとどまり続けることでしょうか、行く当てもなく、自分を哀れな者として提示して、右や左のだんな様に憐みを乞い続けることでしょうか? それとも、主にあって自由にされることでしょうか?

もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」(ヨハネ8:31-32)

「神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。<…>今日に至るまで、古い契約が朗読されるときに、同じおおいが掛けられたままで、取りのけられていはいません。なぜなら、それはキリストによって取り除かれるものだからです。<…>人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。

主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(Ⅱコリント3:6-18)
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「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)

「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。

しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」

こういうわけで、兄弟たちよ。 私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」
(ガラテヤ4:28-31)


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