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7.偶像に捧げられる礼拝

「彼は私に言われた。『あなたはこれよりも大きな忌み嫌うべきことを見るだろう』。そして、彼は私を主の宮の内庭に連れて行った。すると、(中略)玄関と祭壇の間に人々がおり、彼らは主の宮に背を向け、顔を東の方に向けて、東の方の太陽を拝んでいた」(15、16節)

これは私たちにとって霊的に何を意味するのでしょう? 私たちの礼拝を探る神の光です。私たちの礼拝の中に罪はないでしょうか? 私たちの聖なる事柄の中に冒涜はないでしょうか? ああ、静かで恭しい敬虔な畏れのかわりに、聖なるものに関する軽率なおしゃべりがあります。他の人々の名前を用いるのと同じように、主の御名が軽率に用いられています。これは、主の御名を口にするべきではない、ということを意味するのでしょうか?そうではありません。しかし、主の御名を口にする時、聖なる方の臨在を失わないよう、恭しい静けさが私たちになければなりません。


「至聖所」という言葉を口にする時、それはどんな意味を伝えているのでしょう? 「経験」でしょうか? 断じてそうではありません! それは御使いたちが神の御前で顔を覆う場所であり、主イエスの血がなければ、私たちがあえて足を踏み入れない場所です。

今日欠けているものがあるとしたら、それは敬虔な畏れ、敬虔な恐れです。「私が目をとめる者は、(中略)私の言葉におののく者である」。そうです、神はあなたの中に、彼の御言葉におののく敬虔な畏れを生じさせることができます。どうか主が私たちを、神に属する最も深くて厳粛な事柄に対する冒涜から解放して下さいますように。

(私はこのくだりは、礼拝においてただ主の御名がみだりに唱えられ、軽率なおしゃべりのために厳粛な臨在が失われることだけを意味するのではなく、さらに忌むべきことを示していると考えます。礼拝が実質的に神に対するものでなくなり、偶像へ捧げられるものへ転落することをこれは意味しているのではないでしょうか。「太陽を拝むこと」、それはすなわち、クリスチャンがそれぞれ心のうちに自分の慕う偶像を持ち続けることにより、彼らの捧げる礼拝の対象が、神ではなく人や、それぞれの信徒の好む指導者や、それぞれの好ましいと考える何かへとすりかわり、礼拝が、信徒がおのおの愛するものをあがめることへと転落してしまう状態を指すのではないかと思います。あたかも神を信じているようでありながら、それぞれが自分の勝手気ままに愛する対象をあがめ、勝手気ままな作り話を信じることが礼拝になってしまうこと、礼拝そのものがもはや神に捧げられるものでなくなり、偶像崇拝の罪となること、これは何と忌まわしい状態でしょうか。どうしてそのような礼拝を神が喜んでお受けになることができるでしょうか。)


8.神は主の民の罪を痛みをもって自覚し、嘆き、叫ぶ者を求めておられる

「彼は大きな声で私の耳に叫んで言われた、『この町の責任を負う者たちを近づけさせよ』」(9章1節)

彼はすべてをエゼキエルに示し、「私はそれらを対処しなければならない」と言われます。

「すると見よ、六人の男が上の門を通ってやって来た。おのおの、屠るための武器を手にしていた。一人の人が亜麻布の衣を着、わきに書記の筆入れをつけて、彼らの中にいた。彼らは入って行き、青銅の祭壇のそばに立った」(9章2節)

青銅の祭壇は十字架を象徴します裁きを求める大きな声に応えて、このおごそかな行列が青銅の祭壇に向かうのを見なさい。主は筆入れを持つ人に言われました、

「町の中を行き巡り、この町の中で行われているすべての忌み嫌うべきことのために嘆き、叫んでいる人々の額にしるしをつけよ」(9章4節)

彼は人々のために悲しんでいるすべての人にしるしをつけ、これらすべてのことのために叫び、嘆いているすべての人にしるしをつけました。

「他の者たちに彼は言われた、『彼のあとについて町の中を行き巡り、打て。(中略)しかし、あのしるしのついている者には近づいてはならない。私の聖所から始めよ』」(9章5、6節)

主は罪を裁かなければなりません。彼はたしかに青銅の祭壇――カルバリの十字架――で罪を裁かれましたしかし今、屠るための武器がその働きをしなければなりませんキリストの十字架は屠るための武器です。
キリストの死の力は、聖霊によって振るわれる一本の刀のように、私たちに臨まなければなりません。

主はあなたにしるしをつけられたでしょうか? あなたは、主を告白する今日の教会の中にあって、これらのことのために嘆いている人々の一人でしょうか?

今日、神の子供たちの間に、ねたみを引き起こすあの大きな像は現れていないでしょうか? 彼らは地のはうものに占有されていないでしょうか? 神の宮の中に冒涜はないでしょうか? 主は記録を取っておられ、すべてを見ておられますその記録を携えて主は来られるでしょう。そうです、裁きは今も神の家から始まります。

 
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「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)

「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。

しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」

こういうわけで、兄弟たちよ。 私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」
(ガラテヤ4:28-31)


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