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3.神の民の中にある自己というねたみの偶像

 「彼は手の形をしたものを伸ばし、(中略)御霊が私を持ち上げ(中略)神の幻のうちに私をエルサレムへ連れて行き、内庭の入口へ連れて行った。(中略)そこには、ねたみを引き起こす、ねたみの偶像の座があった」(3節)

恵みの時代、神の子供たちは今や神の宮です(2コリント6:16)。パウロはローマ人に書き送ったとき言いました、「偶像を忌み嫌うあなたがたが汚すのですか?」。私たちは、異教的であるという理由で外側の偶像崇拝を避けていても、神の宮である自分たちの体を汚しているかもしれないのです

私たちの入口にはどのような像が立っているでしょう? 自己の像でしょうか、それともキリストの像でしょうか? の人々は、神のねたみを引き起こす、あの大きな巨像の「私」を見ているのではないでしょうか? 神はねたみの神です。私たちのうちに住んでおられる御霊は、ねたむほど私たちを慕っており、私たちを彼ご自身のためだけに欲しておられます。

私たち自身の大きな巨像があり、すべての人が見ることのできる入口に立っているのではないでしょうか?それが神の場所を奪って入口を塞いでいるため、神は私たちを通してご自分を現すことができないのではないでしょうか?

(私たちは、口では神を信じているかのように語り、さまざまなもっともらしい証をし、熱心に神を礼拝しているようであるかも知れません。しかし、それは結局一体、何のために行われているのでしょうか? 私たち自身を建て上げ、私たち自身の義を主張するためではないでしょうか? あまりにも多くの事柄が、主のためではなく、人の自己顕示欲と、自己義認、自己肯定のために行われているのです。あまりにも多くの、いや、ほとんど全てと言っても良いほどのメッセンジャーが、神ではなく、自分自身を人々に見させようとしているのです。あまりにも多くの信徒が、立派な自己犠牲の証を述べることで、人に自分を愛させ、自分を自分で肯定しようとしているのです。 

信仰生活が、人々が自分をあるがまま以上に良く見せかけるための隠れ蓑となり、人々が自分の直面したくない現実から逃避する手段にされていないでしょうか。ある人々は自分の罪のゆえに陥った病をさえ、主のための受難であるかのように見せかけて、世から喝采を受けようとします。ある人々は、御言葉に専念するということを建前に、自分の崩壊しかかった家庭から逃避し、ある人は、厳しい世の中と直面しながら手ずから働くことを避けるために、「御言葉のご用」に専念します。このような自己追求は、本来、信仰生活と呼ぶべきものではないのです。

私たちの魂、それはどれほど偽り、欺くものでしょうか。それは神の事柄の中にも入り込み、神聖でなければならないあまりにも多くのことを、ただ自分のために歪め、汚してしまうのです。私たちのうちで取り扱われなければならないのは、神の事柄を通して自分が栄光を受けようとするこの自己、神の真実を歪めてでも、自分に有利な偽りにすり変えようとするこの自己です。

私たちの十字架で対処されていない生まれながらの自己――私たちの天然の魂――これこそが、何よりも神の栄光を盗み、神のねたみを引き起こすあらゆる偶像の温床なのです。私たちがこれを神ご自身が見るように見て、自己を神の御手に委ねないならば、もしも私たちがこの天然の自己に対するキリストの十字架の霊的な死が働くことを信じず、その働く余地をゆるさず、自己を弁護し続けるか、もしくは自分の力で自己を対処し続けようとして握り続けるならば、私たちはクリスチャンでありながら、最も神に執拗に敵対し、最も真理を曲げ、最も神の御怒りを引き起こす者となってしまいかねないでしょう。)

「彼は私に言われた。『人の子よ。あなたは彼らのしていることが見えるか? イスラエルの家はここで大いに忌み嫌うべきことをしているので、私は私の聖所から離れなければならないのではないか?』」(3節)

主は入口にある像を「忌み嫌うべきもの」と呼んでおられます。
(私たちは神の宮とされていると自負していますが、私たちの存在の入り口には主の御名ではなく、私たち自身の名を記した巨大なネームプレートが掲げられているのではないでしょうか。入り口に立ちはだかっている私たちの巨大な自己の肖像が、十字架で対処されない限り、神は私たちのうちに本当にお住まいになることができず、臨在をおあたえになることもできず、私たちをご自分の聖にあずからせることが出来ないのではないでしょうか。)


4.神の民の間にある地に属する忌み嫌うべきもの

「『あなたはなおまた、大きな忌み嫌うべきものを見るだろう』。それから、彼は私を庭の入口に連れて行った。私が見ると、見よ、壁に一つの穴があった。彼は私に言われた、『人の子よ、さあ、壁を掘れ』。私が壁を掘ると、見よ、一つの入口があった。彼は私に言われた。『中に入り、彼らがここで行っている悪い忌み嫌うべきことを見よ』。そこで私は中に入って見た。すると見よ、はうものや忌むべき獣のあらゆる像や、イスラエルの家のすべての偶像が、回りの壁一面に描かれていた」(6~10節)

これはどのように私たちにあてはめることができるでしょう?はうもののあらゆる像!これは確かに、地について、そして地上のものに占有されることについて、私たちに告げています。神は私たちを、走っても疲れず、歩いてもたゆまないようにして下さるというのに、飛ぶかわりに這い、翼をかって上るかわりに四つんばいで這うのです。地上のものが私たちの心を占め、回りの壁一面に偶像が描かれます!

おそらくあなたは、「これは自分とは何の関係もありません。神が私を清め、満たして下さった数年前に、神はこれらのものを対処して下さったからです」と言うことができるでしょう。しかし最も巧妙な方法で、このうちのあるものは今も真実かもしれません

(私たちは、自分には何の誇れるような財産もないので、地的なものへの執着はないというかもしれません。しかし、何もないことが、すなわち、私たちの心が地上のものから解放されていることを意味しないのです。なぜ兄弟姉妹の間で絶え間ないねたみと争いが起こるのでしょうか? 他人の豊かさ、健康、友人、持ち物について聞かされるとき、私たちの心にどんな思いが起こるでしょうか。私たちが富を誇ることのむなしさを語るときでさえ、それがひそかなねたみに基づいて発言されているということがないでしょうか。ああ、私たちの心を地に対してはりつけにできるのは、私たちの持ち物の有無では断じてなく、キリストの十字架だけなのです。)


5.暗闇の中で心に持ち続けられる想像によって作り出された偽りの教え

読み続けましょう――

「彼は私に言われた。『人の子よ、あなたは、イスラエルの家の長老たちが暗闇の中、各々の想像の部屋の中で行っていることを見たか?』」(12節)

想像の部屋! あなたは自分の想像を暴れ回らせたことがあるでしょうか? それは主が対処しなければならない最も困難なものの一つです。不健康な想像から、自己耽溺や非常に多くの悪いものが飛び出す可能性があります。

(今日、これはただ個人の想像力によって生み出されるものだけを指すだけではなく、暗闇の勢力は、書籍や他人のメッセージなどの、いくつもの媒介を通して、敬虔なクリスチャンの心の内に多くの御言葉に合致しない偽りを思いに注入することができるのです。キリスト教を装った多くの書籍が、魅力的な死後の世界や、霊的に高尚な悟りについて語りながら、巧妙に御言葉を曲げる偽りを人々に信じ込ませようとしています。そのような影響力を、私たちは自分で識別した上で、拒否する必要があるのです。どんなに魅力的であっても、御言葉反する事柄を想像をふくらませて受け入れて、自分を喜ばせるためにその教えについて行ってはならないのです。その先に待っているのは滅びであり、死です。)

彼らが暗闇の中で行っていることと主はエゼキエルに言われました。想像の部屋の中では光が不足しています。あなたが主を知るようになる時、次のことを思い出して下さい。すなわち、悪魔が最高に巧妙な欺きをもってやって来て、祝福された霊からのもののように見えるけれども実際は光の天使を装うサタンから来た思いを、あなたの心の中に入れようとする、ということです。

今日の危険を切り抜ける上で、毎日実際的に行動されたイエスを見つめることほど、私たちの助けになるものはありません。絶対的に誠実であること、すべての行いにおいて正直であること、他人に関して不親切な言葉を話さないことを追い求めましょう。隣人たちや彼らの霊的経験さえも、決して噂しないようにしましょう。いかなる状況下でも、決して彼らのことを論じないようにしましょう。そして、神の御言葉に沿ってまっすぐ歩みましょう。

(これは事なかれ主義のことを言っているのではありません。罪を犯している兄弟姉妹にその罪を離れ去るように警告することさえもやめるべきだという意味ではありません。どれほどの悪事が起こっても、見てみぬふりをすべきだと示しているのではありません。これは以下に書かれているように、御霊の与える心砕かれたへりくだりを持って、すべての物事にあたるべきこと、心砕かれた痛み、御霊のへりくだりなしに兄弟姉妹の状態を取り扱うことが非常な危険であることを示しているのです。)

キリストと共に十字架につけられたことを実際に話しておりながら、想像の部屋の中でわずかでも自己耽溺を許しているような人に関して、神は「彼らが暗闇の中で行っていることを見よ」と言わなければならないでしょう。あなたは暗闇の中で何をしているでしょう? あなたはどのような思いを許しているでしょう? 心は、それを治める神の力を必要とします。私たちの多くは「私のは真実です」と言います。そうかもしれません。しかし、新しくされておらず、救いのかぶとをかぶっていない思いから生じる誤解に気をつけなさい

(人の心はよろず偽るものであり、甚だしく悪に染まっている、と御言葉は言うのです、私たちは自分の心が十字架の対処を受けずして神に受け入れられると考えることはできません。自分が他者よりも善良な人間だと自負して高慢に陥ることなく、むしろ、へりくだってただ御霊によって自分の心を照らしていただく必要があります。)

あなたの想像力が昨日に逆戻りするのを決して許してはなりません。今、神と共に単純に真っ直ぐ歩みなさい! 主にふさわしくないと思われる考えや自分の口から出た言葉に気づいたら、その瞬間ただちに、「主よ、尊い血の力を適用して下さい」と言いなさい。<…>


6.自己憐憫、自己耽溺にふけり、自己弁護という罪を離れようとしないこと

「彼は私に言われた。『あなたはなおまた、彼らが行っている大きな忌み嫌うべきことを見るだろう』。そして彼は私を主の宮の門の入口へ連れて行った。(中略)すると見よ、女たちがタンムズのために泣きながら座っていた」(13、14節)


神に対する罪のために流される涙より、悪い行いの結果のために流される涙の方が多いのです。あなたは自分がしたことの苦い涙とともに主のもとに行きました。その涙の背後には何があるのでしょう? あなたは不幸な時間のゆえに自分をあわれんでいるのでしょうか? それとも、キリストの心に痛みを与えてしまったことを本当に悲しんでいるのでしょうか? 

(あまりにも多くの人々が、自分の罪を示されても、悔い改めるどころか、かえって自己憐憫に陥って、決して罪を離れようとしません。ある人々は、罪を犯している人に向かってはっきりと悔い改めを迫ったり、罪に対して神の裁きがあると警告する人を、愛や憐れみがないと言って非難しますが、そうしながら、自分自身は愛も憐れみも持たずに、罪人を擁護して、かえって神の裁きを曲げようとし、正しい人を残酷に罪に定めて、迫害している事実に気づいていません。このような人々は、罪人のためにならばいくらでも涙を流すのですが、神の御前で聖と義を追い求めることをおざなりにしているのです。

罪人への愛や憐れみばかりを強調することにより、人々に罪の恐ろしさを忘れさせてしまい、罪に対する神の裁きさえも覆い隠そうとすることは悪事です。神に正しい裁きを求める聖徒の叫びさえも封じ込めてまで、罪のない人を罪に定めてまで、かえって罪人を擁護することは、主の御前に悪です。生まれながらの人間のために流される涙――生まれながらの人間の弱さや罪を擁護して、神の裁きの正しさを曲げようとする涙、このような自己憐憫と自己耽溺の涙、自己義認の思いは忌まわしいものなのです。生まれながらのアダムを惜しんで涙を流す人間の魂の愛と、すべてのアダムを着て刑罰を受けるために十字架へ向かわれたキリストの愛は両立しないのです。私たちはこの事実を見る必要があります。)

あなたは罪と神の栄光に欠けるすべてのものを、イエスの心を傷つけるものと見なすことを学ばれたでしょうか? 罪が神に対して意味することのために泣くかわりに、苦難で失ったもののために泣くことを、主は「忌み嫌うべきこと」と呼んでおられることに注意してください


私たちは、罪が私たちの神に与える痛みのために泣くことができるほど、罪に対して敏感でしょうか? これは神の他の子供たちに対するあなたの関係を実際上大きく変えます。ご自分の他の子供のために神が悲しんでおられるすべてのことのために、あなたが自分の部屋へ行って泣くよう迫られる時、あなたはあのイエスの心と一つにされたことがあるでしょうか?

神の子供の中にある、神の栄光に欠けるすべてのことは、私たちにも関係します。なぜなら、それはイエスの心を傷つけるからです。どうして私たちはこれを見落とすことができるでしょう? 私たちは御体の他の肢体たちと共に苦しむべきであり、砕かれた心なしに決して彼らの悪い行いについて話すべきではありません。

この女たちは何のために泣いていたのでしょう? 自分たちのためです!
 ああ、主が私たちを、私たちの偏狭で狭量な自己という境遇から、主ご自身という境遇へ引き上げて下さいますように彼の御心と一つにされて、彼の叫びと涙を知ることができますように彼のゲッセマネと彼の十字架を知ることができますように。彼は、「私には受けなければならないバプテスマがある」と言われました。彼の中には、彼を死に向かわせる愛がありました。彼は言われました、「それが成就されるまで、私は苦しみます」。死を通して、彼のいのちが死にかけているこの世に解放されることを、彼はご存じでした。

 
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「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)

「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。

しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」

こういうわけで、兄弟たちよ。 私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」
(ガラテヤ4:28-31)


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