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オリーブ園より、ジェシー・ペンルイス著、『開かれた天』第三章、「神の幻と裁き」 (見出しおよび黒字の部分は筆者追記)


1.主の民に対する神の沈黙

エゼキエル書8章に行くとき、私たちは再度それがどのように「神の幻」の思想と調和するかを見ます。
私たちに対する解放のメッセージがあります。しかし私たちは、主が私たちに話したいことをすべて話し終えられるまで、それを欲しません。主が私たちをさらに深く取り扱われるほど、私たちの心の中には主のための場所がさらに多くあるようになります。

ユダの宗教的な人々が神について学ぶためにエゼキエルのところに来ました。しかし、エゼキエルは彼らの前で黙って座っていました。彼には何も言うことがありませんでした。神がエゼキエルを扱われた方法はとても印象的です。なぜなら、彼は真に神の御手の中にある人であり、これは私たちに真に神の代弁者であることが何を意味するか示しているからです。

(神の沈黙は、私たちの心を試します。御言葉は、終わりの時代には、人々は沈黙のうちに神の厳しい語りかけを待つよりも前に、ただ自分の心を喜ばせてくれるテーマを手っ取り早く求めて、真理からそれていってしまうと警告しています(そのようにして人を欺く教師たちが大勢現れることも警告されています)。

私たちはおのおの自分を喜ばせてくれるテーマに熱中し、それこそが霊的な知識であると思い込み、自分の好むテーマについて語ってくれる教師のもとに足を運ぶかもしれません。そのようなテーマに熱中している間、私たちは自分が霊的に高められたり、正しい知識を増し加えられているかのように錯覚し、自分が神ご自身以外のものに注意をそらされているとは気づかないのです。

しかし、それらのことは、全て神ご自身の周辺にあるものを追い求めることにつながっても、神ご自身を追い求めることそのものではないのです。霊的知識を追い求めることも、心を尽くして神ご自身を愛することにまったく及ばないのです。そこで、初めにはいかにも有用そうで、善良で、魅力的に思われるテーマに没頭しているうちに、私たちの心が神ではない別な何かに奪われてしまい、ついには偽りを信じ込むことさえ起こります。

ある人々は、死後の世界について知りたいと思って書物を読んでいるうちに、真理ではない偽りに誘い込まれていきました。ある人々は終末についての議論に熱中し、ある人々は何が異端かを論じているうちに、すっかり知識に欺かれて、神とともに生きることよりも、自分の知識と議論を愛するようになりました。

今日、神が私たちに語りかけようとしておられるのは、そんな風に私たちの心を喜ばせ、興奮させ、新たな知識を獲得すべく、興味をかきたててくれるような事柄とは全く別のもの――それはむしろ、私たちの罪を厳しく告げて、私たちを厳粛な恐れのうちに沈黙させ、御前にひれ伏させ、どんなに私たちの心が神から遠く離れて、むなしい事柄の間をさまよっていたかをはっきりと示すような内容――ではないでしょうか。ところが、何とメッセンジャーはそのような内容を語りたがらず、人々はそのような内容を聞きたがらないことでしょう。)


神の使者たちは、人々の気に入る楽しいメッセージをすることはできません。神の子供たちが、真に主の御手の中にある使者たちのところに来て、いわゆる「教え」を彼らに求めるとき、神は、ご自分の民の生活の中に何か悪いものがあるのを御覧になっている間は、「教える」ことを彼らにお許しになりません。自分自身の能力に頼り、「期待されている」からという理由で、神から与えられたのではない何かの「話」をすることは、とても大きな誘惑です。


2.神の宮に満ちている悪しきもの

ユダの宗教的な人々は、主の御言葉を聞くためにエゼキエルの前に来ました。そして彼らが座ったとき、主の御手がエゼキエルの上に下り、神は「私はあなたに悪しきものを見せよう」と言われました

(多くのクリスチャンが自分を喜ばせてくれるメッセージを求めて、また、自分が神の目に是とされることを願って、御前に進み出ます。しかし、神が一番、私たちに見せたいと願っておられるものは、私たちがいかに麗しい神の民であるかということではなく、いかに私たちが神の民にふさわしくない民であるか、いかに私たちの心が神ご自身から遠ざかって、神以外のものに向かっているかという事実なのではないでしょうか? エゼキエルに示された幻が告げていることは、主が最も私たちに目を開いて見て欲しいと願っておられるのは、私たちがいかに敬虔で熱心な民であるかということではなく、神の民である私たちの只中で、どれほど悪しき事柄が平然と行われているか、それなのに私たちが忌むべき事柄に平然とかかわり続けていることが、どれほど神を悲しませ、憤らせているか、私たちがどれほど神の聖から遠く離れて、神にふさわしくない、神を侮る民になり果てているかという真実ではないでしょうか。

私たちは焼き尽くす聖なる火であられる神に本当に近づきたいと願うならば、自分自身の罪を徹底的に明るみに出され、自分自身の汚れをとことん示された上で神ご自身にふさわしくない、自分自身から出たものを焼き尽くされる厳しさに直面する覚悟があるでしょうか? それとも、ただ自己肯定、自己義認のために安易に神を利用したいと願っているだけなのでしょうか? 主は私たちの心を探られます。)

次に、神は彼にとてもびっくりするメッセージをお与えになりました。もし、人を恐れる恐れより神を恐れる恐れの方がエゼキエルにとって現実的でなかったなら、彼は神に対して真実であることはできなかったでしょうし、そのようなメッセージを与えることもできなかったでしょう。


エゼキエルは自分の経験を次のように描写しています。「主なる神の御手が私の上に下った。私が見ると、見よ、火のように見える姿があった」(1、2節)

新鮮な神の啓示がこの預言者に与えられました。彼は自分が見たものを描写するのに、どのような種類の言葉を使えばよいかわかりませんでした。彼は、それは火のように見えるものだった、としか言えませんでした。「私たちの神は焼き尽くす火です」

人々のところに来て、「私はこう思う」ではなく、「神はこう言われる」と言うことのできる神の使者たちが今日必要です。クリスチャンたちがやって来て、「あなたの見解はいかがでしょう?」と言うかもしれません。しかし、「こう記されています」と率直に喜んで言う人が、私たちの間にどれくらいいるでしょう? 多くの声のために、世界は混乱の中にあります。ああ、神の慰めの力を持つ、「主はこう言われる」という声を、人々はどれほど切望していることでしょう。

(私たちは聖徒たちの中で悪事や、憎むべき事柄が行われているのを見ても、言葉を濁して適当な批評でそれを曖昧にごまかしてきたのではないでしょうか? 私たちは人の愛を失うことを恐れて、真理を真理とし、偽りを偽りと呼ぶことをやめて、妥協してはならないものにまで妥協し、兄弟姉妹への真実な忠告を控えたのではないでしょうか。

私たちの心は、あまりにも自己安堵、自己義認の思いに満たされており、そこには偽りに対する断固とした拒否もなければ、他者の罪に対する心引き裂かれるような嘆きもなく、真理のゆえに迫害されている兄弟姉妹をかえってさげすんでいるのではないでしょうか。しかし、神が求めておられるのは、人の利益の観点から物事を見る人ではなく、神がご覧になるように、物事を見る人であり、自分の利益に関わりなく、神の聖が侮られていることを嘆くことのできる人であり、たとえ「あらゆる人を偽り者としても、神を真実なものと」する(ローマ3:4)者なのです。)

エゼキエルに対して、「そこで神の御手が彼の上に下り」ました。神の束縛する御手の下ではじめて、彼はユダのすべての長老たちに立ち向かうことができ、与えうる最も恐ろしいメッセージを彼らに与えて、聖なる事柄における彼らの罪を取り扱うことができました

彼らは「自分たちはまったく正しい」と安心していました彼らは神の民だったのです!そしてここに、焼き尽くす火である神について彼らに告げる、この一人の人がいました。

さて、宗教的な人々に話すよう、主がエゼキエルに与えられた言葉を見ましょう。彼のメッセージは第一にイスラエルに対してでしたが、それは今日の私たちに対するメッセージでもあることを、私たちは覚えていなければなりません。


 
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「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)

「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。

しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」

こういうわけで、兄弟たちよ。 私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」
(ガラテヤ4:28-31)


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