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「モーセは一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上につけた。もし蛇が人をかんでも、その者が青銅の蛇を仰ぎ見ると、生きた。」(民数記21:9)

今日は素晴らしい天気で、休日の散歩を楽しみました。至るところで花々が咲き乱れ、目を楽しませてくれます。さて、ゴールデン・ウィークには愛鳥を連れて故郷へ旅立つ予定です。ほんの少しの間ですが、関東を離れて、ゆっくりと心と身体の休養を取りたいと思います。3月以来、どんなに多くの苦労があったでしょう。どうか主が全ての準備を整えて下さり、ともにいて下さいますように祈ります。

先日、職場で驚くべきことが起こりました。主の栄光の御名を賛美する他ありません。3月の給料明細を受け取って開いたとき、そこには欠勤ゼロと表示されていたのです!

私の今勤めている職場では、仕事上のミスだけでなく、遅刻や欠勤も処罰の対象に定められています。地震のあった月も、遅刻や欠勤は従来通り、いや通常よりもさらに重い処罰の対象となることが発表されました。私は、このような措置が地震以後、どれほど時代にそぐわないものになっているか、どれほど人々の心を離れさせるものであるか訴えましたが、だからといって制度そのものが変わろうはずがなく、今回、職場で給料明細を受け取るときまで、私の心は重かったのです。何しろ、交通機関の麻痺や地震後の疲労のために、3月は特に欠勤と遅刻が目立ち、大幅な給料削減につながるはずでしたから。

ところが、今回、手渡された給料明細によれば、皆勤したのと同じように給料が全額支払われていたのです。一般の会社ならともかく、派遣会社として、これがどれほどの例外的な温情措置であるかはお分かりになるでしょう。ここに憐れみが含まれていないはずがありません。取るに足りない人の意見にも、誠意を持って対応してくれた誰かがいるのです。正直に言って、私はそのような誠意を期待していなかったのですが、結果はモア・ザン・イナフ、未だかつて一度ももらったことのない、完全な給料明細だったのです。

この結果を見たときに、私は主の御前に膝をかがめて感謝を述べずにはいられませんでした。ここには上部の采配を越えて、主の采配があるように思われてならなかったからです。このような取るに足りない者の意見を聞き入れて下さった主に、感謝を述べずにいられませんでした。また、この出来事を通して、「勝ち得て余りある」ほどの「完全さ」というものは、ただ上からの力によってしか、憐れみによってしか達成されえないということを思うのです。たとえば、私にはこれからも皆勤の達成は難しいでしょう。私の努力によっては、今もこれからも、職場の定めている「最低限度」の水準に達することさえほとんどできません。どんなに必死の努力をしたとしても、私の力ではただ「基準に満たない」として、「処罰の対象」となる他ないのです。

これは律法を思わせます。そこには罪と死の法則があります。私たちの努力によっては、ただ失格者になるしかありません。肉の努力によっては、私たちは罪に定められることしかできないのです。人間の最善の努力さえ、私たちをより一層罪に定めるだけなのです。この法則を乗り越える術は私たちにはありません。その上、私たちはこの世では最も無力な者、捨てられた者、哀れな者かも知れません。しかし、「あわれみは、さばきに向かって勝ち誇るのです。」(ヤコブ2:13) 罪の奴隷として売られ、死に定められている私たちの叫びを主は聞き届けて下さり、キリストを通して、私たちが死ではなく、いのちに至る道を切り開いて下さったのです。

私はこれまで過酷な時代を生きてきました。それは弱肉強食の時代であり、一切のものが死へ向かっているような時代でした。どんなに学習を積んだとしても、どんなに優れた能力があったとしても、世において上手く立ち回ることに失敗したなら、自分の価値が、値引きの上にもさらに値引きされていき、ついには生きていることさえも多額の負債につながるような時代です。クリスチャンとの交わりにおいてさえ、力のない、弱い者はどれほど容赦なく踏みつけられ、当然のごとく利用され、濡れ衣を着せられ、あざけられ、追いつめられて来たことでしょうか。

このような恐るべき時代の中、世がどれほど悪しき者の配下にあったとしても、どれほど悪しき者たちが、声の限りに正しい者を罪に定めようとしたとしても、神は真実な方であられ、私たちとの約束を誠実に守って下さる方であることを信じ、キリストがすでに世を打ち破られ、私たちのために十字架上で義を勝ち取って下さったことを信じ、この方に向かって叫び、この方を見上げるのです。

揚げられた青銅の蛇、私たちのために十字架にかかって下さったお方、ご自分の死によって死の力を持つ者を滅ぼし、律法の終わりとなって下さったお方。この方を信じて見上げる時に、私たちの肉体は罪のゆえに死んでいても、私たちの霊は主の義のゆえに生きるのです。

こうして何度も、私は自分の「ヨルダン河」を渡らせられます。それは傍目にはどうということのない、とても小さな川かも知れません。しかしそれでも、渡る度ごとに、私の哀れな自己は、自分には何もできないことを知って、一旦、水の下に沈み、死に服さねばなりません。最低限度、人として脅かされずに生きていたいという、最も正当な願いさえも、まるで聞き届けられないかのようです。しかし、憐れみ深い主ご自身が、水の下に沈んでいる私を死から救い出し、いのちに至らせてくださいます。花婿が花嫁を抱きかかえるように、主イエスがペテロに優しく手を差し伸べられたように、主がその聖なるすまいから降りてきて、無力な私を力強く救い出して下さるのです。

今、時代が未曾有の困難にさしかかっているこのような時だからこそ、ただ主を信じて見上げる以外に、人には生きる道がないという事実が、もしかすると誰の目にも明らかになるまでに証明されているのかも知れません。しかし、主の真実であられることを信じることに、どんなに大きな報いが伴うかをも、私たちは知らされるでしょう。いいえ、それだけでなく、私たちは主の完全さにより、私たち自身が主の完全さへと引き上げられることの意味をも知らされるでしょう。

神は私たちを、私たち自身の努力によっては決して達成できないところへ導かれようとなさっておられると感じます。しかし、そうなるまでに、私たちは何度も不信を打ち砕かれ、主の御思いが私たちの思いをどんなに超えているかを知らされなければならないでしょう。

その道のりは簡単ではないと思います、それでも、私は言いたいのです、主よ、来たりませと。花婿なる主よ、来たりませと。主よ、私たちはあなたを待ち望みたいのです。主よ、どうか私たちの盲目を癒し、目を開いて下さり、私たちをあなたにふさわしいものに造り変えてください。あなたの御旨が私たちの思いを超えてはるかに尊く、その御旨に従って生きることが私たちのいのちであることを知らせて下さい。私たちは自分の冠を投げ捨て、その足元にただひれ伏すのです…。
 
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「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)

「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。

しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」

こういうわけで、兄弟たちよ。 私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」
(ガラテヤ4:28-31)


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