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「彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです。」(黙示7:14)

親愛なる友よ

花婿たるキリストと花嫁エクレシアの結婚というテーマについて書き始めてから、このテーマは決して私の美的感覚を安易に満足させてくれるような浅はかで楽観的なものではないということを感じさせられています。逆に、子羊の結婚を真に理解するためには、その前提として、私たちが徹底的に目に見えるものに絶望し、まどろみから目を覚まさせられなければならないこと、多分、そのために、今まで以上に大きな苦しみを通過しなければならないこと、そのようにして、人から出て来るものに対して真に絶望を味わわねば、キリストの命により頼むということの意味がついに分からずじまいに終わるのではないかと感じています。

よく専門家は言います、現場に戻れ、と。現場こそが、今、何が起きているかを察知できる最前線であり、現場にいれば、苦労は多くとも、これから起こるべきことが何であるか、大方予想がつくと人々は言います。今、私は、主が置かれた一つの現場に立ちながら、これから先、この国にこれから起きることが、とても楽観視できないと感じています。しかし、人々は目を覚まさせられることを嫌い、真実な予測を見ることを望まない人々も多いのです。

最近、ある友に向けて、私は次のように書きました。「安全神話を無意識のうちに推し進めて来た全ての人たちが本当に目を覚ますためには、まだ徹底的に事態がどん底に至らなければならないという感じを受けています。ある人々はこうした見方に、これ以上、意気消沈させないでくれと反発するかも知れません。しかし、悲しいことですが、主が御手を伸ばされた以上、この大切開手術は、行き着くところまで行き着くだろうという予測を私は禁じえないのです。ここはまるで沈没船のようです。逃げられる人はとうに逃げ、一番何も気づきたくない人たちか、もしくは最も虚構の神話に忠実な人々が残っているのです…。
 
残念なことですが、沈没船とは今や、一部の会社や一部の地域や一部の人々にとどまらず、日本丸そのものなのです。日本人は気楽で平和で何も考えたくない善意の国民ですが、生まれながらの善意では乗り切れない数々の事態があることをほとんど知らないのです(というよりも、アダムから出て来る善意はとことん腐敗しているということを認めようとしないのです。この文脈では、善意の人ほど恐ろしいものはないかも知れません)。

たとえば廃棄物の処理という点では、今から先、この国全体が、国際的に悪者の看板を背負って立たなくてはいけなくなります。何しろ、これから地球環境規模で、途方もない作業をしなくてはならないのですから。捨てる場所のないものを一体、どこかに捨てるというのでしょうか。どうして悪者にならずにその作業を完遂できるでしょうか。すでにその「犯行」は始まっており、私たちはみなその共犯なのです。

この状況下で、私たちの誰一人、自分は被害者だと言い切れる立場にありません。ところが、何と人々には加害者意識がないのでしょうか。一部の人々はこんな状況下でも、特定の会社だけをバッシングしたり、あるいは専門家に責任を転嫁したり、反対運動に身を投じたりと、要するに、自分以外のどこかに悪者を見つけて、自分だけは正義の旗をかかげようと熱心になっています。これはどこかで見て来た風景を彷彿とさせます。反カルト運動がちょうどこのようでなかったでしょうか。

しかし、何度も言い続けて来たことですが、人が自分以外のところにどんなに罪人を探そうとしても、結局のところ、事態は何ひとつ改善されないどころか、ますます悪化していくだけなのです。私たちがまず見なければならないのは、この状況を作り出した責任は誰よりも自分自身にあるという点です。

痛ましい被害を受けた地域に同情しないわけではありません。しかし、原子力産業との共存を選んだのは私たちであるという過去をまず見なければなりません。メリットだけを頂戴しておきながら、デメリットについては何も知らなかったということはできないのです。福島第一だけで五つ以上もの原子炉があることを考えても、それを設置した側の責任が問われるなら、それと一緒に、引き受けた側の責任も問われます。専門家はずっと前から、このような選択がどれほどまでに危険をはらむものであるかを、再三に渡って警告して来ました。しかし、その警告を無視してまで、自分に都合の良い話を信じ続けた責任というものが残るのです。

この責任は今や日本という国全体に及んでいます。この国全体が、全世界の前で、自ら危険な賭けを行なった責任を問われているのです。この風景は私の目にはキリスト教界の堕落の風景とどこかしら重なって見えます。自分の耳にとって甘く、優しく、心地の良い響きだけを信じて、真実から目を背け、まどろみの中に自己安堵してきたこの風土が、そこには共通基盤としてあるのです。あからさまな悪意というものはそこにはなかったかも知れませんが、だからといって、真実から目を背けるならば、そこには手痛い責任が残るのです。

今、私たちは、世界の同情を浴びてそれで満足すべき時にはありません。深刻な被害に耐えている人々への支援と慰めは必要なものですが、それとは別個の問題として、売ってはならないものを売ってまで、賭けてはならないものを賭けてまで、目先の利益のために危険なゲームを行なって来た過去の過ちを直視し、意識を180度変えて出直すことが必要なのです。

とにかく、今更のように反対運動に身を投じたり、一部の人々だけに責任追求するような態度には何の意味もありません。犯人探しをする前にまず自分の責任を見なければなりません。しかし、人々はこのような警告を聞きたがらず、他人を糾弾することには熱心でも、自らの責任を素直に認め、それを真摯に謝ろうとする人々がとても少ないのです。」
 
ちょうどこのような手紙を友に向けて書いた翌日、次のような記事が目に止まりました。

原発推進学者が次々懺悔 「国民に深く陳謝する」
J-CASTニュース、4月16日(土)13時22分

東京電力の福島第1原子力発電所の深刻な事故を受け、政府の原子力安全委員会の歴代委員長を含む原発推進派学者の重鎮たちが原発の「安全神話」崩壊に懺悔を繰り返している。特に元原子力安全委員長の松浦祥次郎氏や前原子力委員会委員長代理の田中俊一氏ら原発推進の学者16人がこのほど、異例の緊急提言を行った。

 「原子力の平和利用を先頭だって進めてきた者として、今回の事故を極めて遺憾に思うと同時に国民に深く陳謝する」との謝罪を前面に掲げた提言の内容は政府や東電の発表よりも今回の事故を深刻に受け止めており、緊迫感が伝わってくる。

■大量の放射能を閉じ込めるのは極めて困難、と認める

 「私たちは事故の推移を固唾を飲んで見守ってきた。しかし、事態は次々と悪化し、事故を終息させる見通しが得られていない」「膨大な放射性物質は圧力容器や格納容器内に拡散・分布し、その一部は環境に放出され、現在も放出され続けている」 「特に懸念されることは溶融炉心が圧力容器を溶かし、格納容器に移り、大量の水素ガスの火災・爆発による格納容器の破壊などによる広範で深刻な放射能汚染の可能性を排除できないことである」

提言は、水素爆発などで格納容器が破壊され、放射性物質が長期にわたり国土を汚染する可能性を指摘している。日本を代表する学者たちが、チェルノブイリ原発事故級の最悪の事態を想定していることがわかる。

16人は東京大学名誉教授、京都大学名誉教授、東京工業大学名誉教授など錚々たるメンバーで、原子力安全委員会や原子力委員会の歴代委員長や委員を務めるなどした日本を代表する原子力の専門家たちだけに、発言には重みがある。

特に気になるのは、「当面なすべきことは原子炉及び使用済み核燃料プール内の燃料の冷却を安定させ、大量の放射能を閉じ込めること。これを達成することは極めて困難であるが、これを達成できなければ事故の終息は覚束ない」と述べた点で、有効な解決策を見いだすのが難しいことを自ら認めているとも受け取れる発言だ。

2011年4月1日、会見した田中俊一氏は「原子力の平和利用を進めて、まさかこういう事態、これほど国民に迷惑をかけるような事態は予測していなかった。結果的にこういうことになっていることについて、原子力を進めてきた人間として、国民に謝らなくてはならないという気持ちは、みんな持っていると思う」と心境を明かした。

田中氏は提言をまとめた理由について「(我々は)余計なことを言わなくてもいい年齢だけれども、黙っていられないと。とにかく早くこの状況を抜け出して頂きたいという思いでまとめた」と述べた。学会で地位も名誉もある学者たちが、自分たちのこれまでの仕事を全否定するような今回の提言や会見が、事故の深刻さを物語っている。

■原子力安全委員会では、歴代OB、現役首脳も自己批判

提言は、最後に事態打開策について「当面の難局を乗り切るためには、関係省庁に加え、産業界、大学等を結集し、我が国がもつ専門的英知と経験を組織的、機動的に活用しつつ、総合的かつ戦略的な取り組みが必須である」と指摘する。

提言に加わっていない原子力安全委員会前委員長の鈴木篤之氏(日本原子力研究開発機構理事長)も4月6日、衆議院経済産業委員会に招致され、「国民にたいへん申し訳ない。私にとって痛恨の極みだ。この事故を反省し、よく考えていかないといけない」などと反省の弁を述べている。

原子力安全委員会では、歴代OBに限らず、現役首脳も自己批判に追い込まれている。斑目春樹委員長は、やはり6日の衆議院経済産業委員会で、「今回の事故を深く反省し、二度とこのようなことが起こらないよう指導していきたい」などと弁明に懸命だった。


友よ、これを読んだとき、ああ、まだ過去の過ちを誠実に認める人々がこの国に残っていたのだな、と思いました。地震以後、押し寄せる苦情の前に立たされ、非難されて来た人々とともに、矢面に立とうとする専門家たちの誠意がとても嬉しかったのです。しかしながら、悲しいことは、この反省と謝罪は遅きに失するということです。さらに、これまで原子力産業の安全性を最も訴えてきた専門家らが、意見を180度翻し、これほどまでに悲観的な予測を下しているということは、注目に値します。それは今、私たちが事態をどんなに楽観的にとらえたくても、専門家の目には、それほどまでに事態は深刻に見えているということなのです。彼らが専門家である以上、私たちはその意見に耳を傾けないことはできません。

友よ、私たちは今、何を信じるのか問われているのだと思いますよ。今までと同じように、心地よいまどろみの中で、自分の耳にとって心地の良い神話を信じ続けるのでしょうか? それとも、自分にとってどれほど身を切られるように厳しくつらくとも、自分自身を全否定されるとも、ただ主なる神の真実だけを見たいと望むのでしょうか?

最初に戻るなら、子羊の結婚というテーマを真にとらえるためには、私たちは自分自身の心の願望から出て来たに過ぎない幻影を徹底的に打ち砕かれて、神の真実に対して目を覚まさせられなければならないと思われてならないのです。人自身から出て来た望みではなく、真にキリストから出て来た永遠の望みだけが残らなければならないからです。

「目に見える望みは、望みではありません。…もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。」(ローマ8:24-25)

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「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)

「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。

しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」

こういうわけで、兄弟たちよ。 私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」
(ガラテヤ4:28-31)


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