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とても重い反駁の作業の第一段階が終わった。筆者が、聖書の正しい教えを守り、悪魔から来た誤った教えを退けるためには、論戦が必要だと書いているのを見て、そんなのは嘘だと思っている人間がいるかも知れない。

しかし、私たちの発する言葉は、すべて霊的な論戦の材料なのだ。そして、敵(暗闇の勢力)の発する言葉には、いつも自己矛盾があって、そこには、嘘や、呪いが込められている。

私たちは、敵の理論のほころびを見つけ出し、これに丁寧かつ根気強く反論することで、彼らの蒔いた嘘を無効化できる。

以前から書いている通り、嘘は嘘たる所以を明らかにすることで、効力を失う。反論とは、単なる否定ではなく、敵の論を無効にするための作業なのだ。 
 
この先、隠れたところで行われることを見ておられ、明らかにされる神が、何をどう明るみに出されるかに注目したい。

地道な論証作業の積み重ねの必要性はいくら強調してもし足りないし、判断が下されることで、初めてその理論のほころびや、次に踏むべきステップが見えてくる。全てのことが極めて貴重な実地体験であり、それがあって初めて前進が可能となる。 

だが、筆者の論証作業だけが物事の真相を明るみに出すわけではない。隠れた事柄を明らかにして下さるのは神ご自身であるから、神の御業に信仰を持って期待したい。
 
 
* * *

さて、前回、Dr.Lukeの教説の異常性について触れたが、彼は最近、「エロヒムの増殖」なる非常に気持ちの悪い言葉を使うようになった。

神の増殖を増殖する-エロヒムとはスピリチュアル・ドメイン-」
2019-03-05 |  by drluke 

上記の荒唐無稽な記事内容には深く立ち入らないが、この記事に欠けているものがある。

それは、やはり、キリストの頭首権に服すること。すなわち、御言葉の掟を守ることだ。

御言葉の中にとどまらない者、その掟を守らない者は、神の国の住人ではない。

その視点が、Dr.Lukeの教説からは完全に欠けている。

いわば、自分は御言葉に服さないまま、恵みだけを受け取るという、いいとこどりの御都合主義の福音である。

Dr.Lukeが「エクレシアとはキリストだ」と言っていることについては、これは首のない体であるということを説明した。

エクレシアはキリストの体であって、頭ではない。そして、頭(かしら)なる方こそがキリストであるから、Dr.Lukeが主張しているものは、首のない体なのである。

ヘッドのないボディ。司令塔なくさまよう体。斬首された罪人の体。

それが「増殖」するとは何を意味するか。

自己増殖である。

頭なるキリストなしに、体だけが自己増殖するのだから、そこには「二人」ではなく「一人」しかいない。だから、自己増殖である。

グノーシス主義において、単独で神を知ろうとしたのはソフィアである。彼女は最下位のアイオーンであったが、父なる神からの承認がないのに、神のDNAを盗み、自ら神となろうとした。その結果、ソフィアの堕落(転落)が起きる。

「父」が、自分の生んだ子でないものを、自分の子と認知するはずがない。だが、神から神の性質をを盗んだそのトリックを正当化するために、ソフィアとその子孫たちは、「神の御国の後継者」を名乗り出て、正当な後継者を追い出し、自分たちこそが神の子孫だと詐称する。それがグノーシス主義である。

Dr.Lukeはこんなことも言っていた。

ジーザスがニューエイジを始められた-我々こそが真のニューエイジャーだ
2018-06-16 |  by drluke 

これは、類人猿は人類の親戚だから、人類の兄弟だと言っているのにも等しい。

Dr.Lukeは、以上のようなタイトルを通じて、イミテーションが本物を模して作られたからと言うだけで、イミテーションを本物と巧妙にすり替えようとしているのだ。

聖書とニューエイジは何の関係もなく、ニューエイジはどこまで行っても、聖書の悪しき模倣でしかない以上、キリストとは何の関係もないイミテーションに過ぎない。

ところが、本物とイミテーションをごちゃまぜにし、すり替えてしまうのである。

Dr.Lukeの記事のタイトルは、「人類と類人猿は似たDNAを持っているから、人類こそが真の類人猿だ!!」などと叫んでいるに等しい。

一体、なぜ、我々が尊い人類であることを捨てて、「真の類人猿」などという蔑称にも近い呼称を受け入れなければならないのか。

そこに巧妙なすり替え、ディスカウントがあるのに気づかなければならない。

あなたは類人猿が人類と似たDNAを持っているからと言って、類人猿があなたの親戚として名乗り出ることを認めるだろうか。ある日、類人猿があなたの家庭にやって来て、自分はあなたの兄弟だから、自分にも相続財産を分けろと言えば、それを認めるだろうか。

絶対に無理だろう。

ところが、ニューエイジは聖書のパクリだと強調することによって、キリストはニューエイジの元祖だと論旨をすり替え、キリスト教徒がニューエイジを受け入れることは罪ではないとする。

これは、全く性質の異なるものを混ぜ合わせようとするとんでもない論法であって、キリストを人間のレベルに引き下げることによって、彼から聖なる神の独り子としての性質を失わせてしまう、ペンテコステ運動にありがちな「養子論的キリスト論」と同じトリックである。

要するに、そのような教えを信じる人々は、自分たちが聖書の「まことの父」から生まれたと勝手に詐称しているだけで、実際には、そこには異なるDNA(異なる福音)がごちゃ混ぜにされており、彼らは誰から生まれたのか、誰が父なのかも分からず、結局、その教えは、父を持たない「みなし子の福音」なのである。

さらに、Dr.Lukeは、人類は地上に生きている限り、完全な贖いに達することはできず、従って、完全な聖化も有り得ず、すべての面で新創造とされることはない、という事実さえ見失っている。

スピリチュアル・ジャーニーは神との同意から始まる
2018-06-29 |  by drluke  ではこう書いている。

「私が最近強調しているニュー・クリーチャー、エロヒム属。アダムにある私たちはすでに終わり、キリストにある新創造とされた事実(2Cor 5:17;Gal 6:15)。これって、けっこう抵抗があるようだ。あるいはこの聖句を単なる文学的表現と思っているむきもかなりある。

いわく、自分のうちを見ると罪的なものや汚れているものばかり。それを無視して、新しい人類と言ってしまっていいのか? 私たちは罪ゆるされた単なる罪人にすぎない1)、だからへりくだって、自我が砕かれる必要があるし、もっと罪の告白やデボーションや修養により聖化される必要がある・・・。ところがそのような人はたいてい次から次へと問題を抱える。

大脳辺縁系の問題はもう繰り返さないが、真理は私が今現在どのような状態であるとかないとか、一切関係ない。神がキリストにあってそれをなされたゆえに私たちはすでに新創造、ピリオド。スピリチュアル・ジャーニー、すなわち神とともにスーパーナチュラルな歩みをするためには、まず神と同意する必要がある。問題を次々に抱える人は、実は真に神と同意してしないのだ。

ふたりの者が同意することなしに一緒に歩めるだろうか。-Amos 3:3

神は言われる、あなたはすでに聖であり完全である。新しい生命体であり、ニュークリーチャーであると。あなたはこれに同意するか?

サタンはすでに私たちに対して何らの権威も有していない。が、彼は私たちのマインドに接触できる(Eph 2:1-3;Col 2:20)。私たちのマインドに彼が語りかける偽りに同意するならば、彼のパワーが私たちに働くようになる。つまり自ら敵の権威の下に服することになるのだ。」

非常に危険なのは、Dr.Lukeがかねてより「魂と肉体の堕落」という聖書的事実を無視しながら話を進めている点である。

Dr.Lukeはここで、地上にある限り、私たちは堕落した魂と肉体を持ち、体が贖われない限り、地上において、完全な新創造とされることはない、という事実に言及していない。

Dr.Lukeはかねてよりボディビルで鍛え上げた自分の肉体を自慢するなど、肉体が堕落したものであって、そこに働くのが罪と死の法則であることを無視した教説を唱えて来た。

そしてついに、肉体の堕落(+魂の堕落)という事実を無視したまま、自分たちは新創造だと言い始めたのである。

これは、危険極まりない教えである。
 
パウロは言った。

「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意思はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。

それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則性があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。

わたしはなんという惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。」(ローマ7:18-25)

このように、罪と死の法則が絶えず働く堕落した肉体の中にありながら、命の御霊の法則に従って善をなそうとして生きる、パウロの言ったその葛藤が、Dr.Lukeの教説には、存在しないのである。

聖書は、肉(魂と肉体)が堕落していると言い、私たちは罪と死の法則に縛られながら、霊によって善をなそうとしてもがいている状態にあるという。

その葛藤に終止符を打つのは何か。肉に対して十字架の死が適用されることである。
  
聖書は言う、

肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。」(ローマ8:13)

これは、人の堕落した肉の領域には、十字架の霊的死が絶えず適用されなければ、人は肉に従って生き、すなわち、罪と死の法則に支配されることを免れられないことを意味する。

ところが、Dr.Lukeは、肉に対して十字架の死が適用される以外に、人が罪と死の法則に対して死ぬ方法がないという事実から目を背け、人が霊によって体の仕業を死に渡すのではなく、自らの「マインド」すなわち、思考パターンを変えることによって、魂の領域に働くサタンの脅威を排除できるかのごとく教える。

彼は上記の記事の中で、このように言う、「人は自分で自分を罪深いものだとみなして、くよくよ悩むから、実際にそうなるのであって、自分で自分の思いを変えて、自分はすでに新創造とされたと信ずれば、サタンの脅威に翻弄されることはない」と。
 
このような考えには、ある種のトリックがある。すでに幾度も書いて来た以上、私たちが新創造とされているのは、霊だけであって、魂と肉体は、この地上に生きている限り、新創造とはされず、逆に十字架の死に服さなければならない。

このように、魂と肉体は常に主と共なる十字架で死に渡されなければならないのに、「思考パターンを変える」ことによって、サタンの働きを排除できるとなれば、その霊的死の必要性は忘れ去られる。

そうした考えに陥ると、結局、サタンの攻撃というものは、人の外側から来るものでなく、内側に存在するものであって、人の考え方が悪いから、サタンの攻撃を受けるのだ、という結論に至り、サタンの罪が免罪される。
 
たとえば、肉体というものの堕落を認めない考え方に立つと、「病気になる人は、肉体の筋力が衰え、免疫低下が起きているから、病気に罹患するのであって、健全な肉体を持ちさえすれば、病気にかかることはない」などという考えが生まれる。

そうして、肉体を増強することで、病に打ち勝とうと、ボディビルに励んだりすることになる。しかし、どんなにボディビルに励んでも、人は病どころか、死を克服することもできず、どんなに鍛えた体も、滅びに向かって行くこととなり、そのようなやり方で、人間の肉体を永遠にまで高めようと試みるものは、逆説的に、自分で自分の肉体を滅ぼすという、三島由紀夫と同じ最期に行き着く。
 
そのような理論を、同じように魂の領域に当てはめた場合、魂そのものの堕落という事実は否定され、「人が悩んだり、苦しんだりして、精神の働きが低下したり、精神を病んだりするのは、魂(精神)の筋力が衰え、魂(精神)の免疫低下が起こるからだ。だから、マインドを鍛えれば、悩み苦しみは去る」などという理論が生まれる。

その結果、人々は、自分の「マインド」を何とかして改造し、弱みを取り除き、強い「マインド」を作れば、悩み苦しみは去って、幸福になれると考え、魂のボディビル(自己改造)にいそしむ。「マインド・セット」によって、心の筋力増強に取り組んで行くことになる。

だが、そのような考え方は、魂と肉体そのものが堕落しているがゆえに、すべての罪が生まれるのであって、これらの肉はどんなに改造しようと、良いものにはならず、死に渡される以外に結論はないという聖書的事実を否定している。

自分で自分の思考改造を行うことによって、悩み苦しみのない幸福に到達し、サタンの攻撃を免れられるなどというのは、真っ赤な嘘である。

それは「病気なんてない。病気があるのではなく、ただ人の体が弱くなった結果、病気に似た現象が起きるだけだ」と言うのにも似て、「サタンの攻撃なんかない。人の精神が弱くなるから、そういう状態が生まれるだけだ」と言っているに等しい。

サタンは、存在を隠すことによって、聖徒らからの攻撃を免れようとする。多くの人たちは考えている、「悪魔なんていない。そんなのは想像の産物だ。」と。

そのようして、悪魔は脅威ではないと思わせ、堕落した肉に働く罪と死の法則を軽視・無視することで、悪魔は逆に人々に対するステルス支配を行うことができる。

その足場を排除するためには、魂と肉体が堕落している事実を認め、それを十字架において死に渡し、体の仕業を絶つこと、自己を否むことから始めねばならないのに、罪による堕落を否定し、死に渡されなければならないものを改造することによって、あたかも悪しき働きから逃れられるかのように教えることは偽りである。
 
こうして、サタンの脅威を否定し、肉の堕落を否定し、サタンの働きを人があたかも自己努力によって克服・排除できるかのごとく教えることが、悪魔による支配の第一歩なのである。

それに対して、私たちが知らなければならないことは、「どんなに自己改造をしようとしても、人間の魂と肉体は堕落しており、人がこれを自分自身で改良することはできない」という聖書の事実であり、「これらのものは、十字架で絶えず死に渡されるしかない」という結論である。

だからこそ、人は自己を否み、自分の十字架を取って、イエスに従わなければならないのである。
 
  <続く>

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「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。

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こういうわけで、兄弟たちよ。 私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」
(ガラテヤ4:28-31)


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