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「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです。」(ヘブル11:6)

* * *

長らく何の関係もなく、彼らが何を言っているのかも知らなかったが、その間にここまで異端化が進んでいたのかと呆れた。

Dr.Luke率いるKFCのことである。

エクレシアとはキリストである」2019-06-25 |  by drluke 

この標題を見ただけで、ああ、またしても聖書にはないことを言っているなとすぐに分かる。
記事の中でDr.Lukeは次の聖句を自分で引用している、

教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」(エフェソ1:23)

教会をエクレシアと置き換えて読んでも、エクレシアはあくまでキリストの「体」。キリストご自身ではないのだ。「体」は「頭」の指令に従って動く。

つまり、エクレシアがキリストの体であることの意味とは、エクレシアは頭(かしら)であるキリストの頭首権に服し、その手足となって動くという意味なのだ。

前述の御言葉の前に次のフレーズがあることを忘れてはならない。

「神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。」(エフェソ1:22)

ところが、この「キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました」という部分は、Dr.Lukeの記事からは都合よく抜け落ちている。

同じエフェソ書には次のようにもある。

「こうして、わたしたちは、もはや未熟な者ではなくなり、人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすることなく、むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。」(エフェソ4:14-15)

これを読む限り、エクレシアは、キリストの体ではあるが、頭ではない、ということがよく分かるだろう。

ならば、Dr.Lukeが「エクレシアとはキリストである」と言っていることの意味は何か。

これは、頭のない体のことを指す。

頭がない体とは、首のない体、斬首された罪人と同じである。Dr.Lukeがしばしば尊敬する人物として挙げている三島由紀夫は、自ら割腹し、首を刎ねられて死んだことを思い出したい。

首を刎ねられるとは、明白に罪人の死を意味する。

以前にも当ブログでは書いた。首を刎ねられた上、割腹するとは、自らの欲望を神として生きた者が、その罪のゆえに罰せられるという意味だと。

首のない体が、地上をうろうろさまよっている光景を考えてみれば、誰しもぞっとするばかりだろう。

首のない体とは、自分で物事を考えることができず、判断することができない体である。そして、自制することもできないので、体に働く欲望に従ってほしいままに罪を犯す。

体は、罪に堕落しており、死が適用されなければならない領域である。
 
キリストに連なり、彼と共なる十字架の死と復活を経て、この御言葉なる方の頭首権に服するからこそ、死んだはずの者が贖い出されて生きるのである。堕落した体にも霊的死が及び、もはや体の欲望の奴隷となって生きることがなくなるのである。

従って、我々を死から救い出して下さった方の頭首権を否定するならば、その人は死刑に処せられたままの首のない体に等しく、それはキリストでないばかりか、エクレシアでさえもない。

そして、首のない体とは、唯物論のことなのである。

フォイエルバッハは唯物論者の父のような存在であり、マルクス、エンゲルスなども、フォイエルバッハの哲学を土台として自らの唯物論を作り上げた。

Dr.Lukeが神学を「人間が考え出したもの」として否定して来たことも知られるが、同氏は「カルバンvsアルミニウスのナンセンス」(2017/01/07 20:41)で言う。

フォイエルバッハは、「神学は人間学である」と喝破した。つまりソレを唱える人の精神病理の反映なのだ。カルバンはサディズム、批判者をあえてとろ火で火あぶりにした。ルターはユダヤ人排斥でヒトラーの思想的根拠となった。ウェスレーは完全癖・強迫性で、清め派の牧師などはメンタル病むのが多い。自殺者もね。だから、私は神学本読むときは、その提唱者の病理を読み取るべく読んでいる次第。要するに彼らの主張をマジで受け取るなということ。

要するに、ルターもカルヴァンもウェスレーも人間的に狭量であるから、彼らの神学は間違っている、というとんでもない言い分だ。

ここには、ルターは宗教改革によって、カトリックの教皇権を含め宗教権力を否定し、「聖書のみ」を唱えて、カトリックから分離し、聖書への回帰を唱えた結果、カトリック側からは異端者とみなされ、断罪された経緯などは、一切触れられていない。

さらに、かつては「人間に優しい砂糖まぶしの甘えの福音」は聖書に反する罪であるとして断罪していたDr.Lukeが、また、今もニッポンキリスト教界を根こそぎ否定しているDr.Lukeが、ルターとカルヴァンとウェスレーの狭量さを断罪するなどといった自己矛盾は全く愚かしい限りである。

プロテスタントの宗教改革者は「聖書のみ」の観点から、この世の世俗の権力と迎合したカトリックの宗教権力を否定したのであって、宗教改革者の人間的な弱点を取り上げることによって、彼らの果たした最も大きな功績までも否定するのは間違いである。

そこまでするならば、いっそDr.Lukeがカトリックへ回帰すれば良い。法王はあらゆる宗教の原理主義を否定しているようなので、考え方としては極めてよく似ている。「生ぬるい信仰」はOKだが、本気ですべてを捨てて、神に従うような考え方は、原理主義であり、過激派だから、御免被るというのである。

「苦しみの代価の伴わない、生ぬるい信仰」、「大衆迎合主義的信仰」を唱道していればこそ、Dr.Lukeはかつて自分を激しく罵り、プロテスタントを去って、カトリックへ行った言われている信徒と仲良く文通したりするのだろう。

そういう意味で、Dr.Lukeはもはや「聖書のみ」を唱えたプロテスンタントの中にはいない。そして、「聖書のみ」に基づく信仰を否定するからこそ、ニューエイジ、オカルト、サンダー・シング、禅、三島由紀夫など何でもありのごちゃまぜの福音を垂れるようになっているのだ。

だが、Dr.Lukeの出発点はペンテコステ運動だった事実も見逃せない。反カルト運動の指導者らも、ペンテコステ運動から出てきているが、当ブログでは、ペンテコステ運動は、その本質は盗みであるということを再三、述べて来た。

当ブログでは、ペンテコステ運動は、聖書の中から出て来たものではないということをいくつもの記事で解説した。また、その運動の本質は、本来は、キリスト教でないものが、既存のキリスト教の仮面をつけて、キリスト教の中に入り込み、これを内側から破壊し、乗っ取ることを目的としていることも指摘した。

反カルト運動を率いている村上牧師が、沖縄の教会をブランチ化したことへの疑問も前から述べているが、最近、Dr.Lukeが「第二のエクソダス」などを呼びかけているのも、既存のキリスト教から信者を離れさせるためである。

既存のキリスト教界を否定するのは自由とはいえ、自分の囲いでないところから、羊を奪い取ろうとするように、離れさせるのはいかがなものか。

ちなみに、当ブログでも、プロテスタントの終焉を述べているが、それは「聖書のみ」の信仰を否定するためではなく、カトリックの宗教権力を否定して「聖書のみ」の信仰へ立ち戻るために始まったはずのプロテスタントが、時を経て、牧師制度という、またしても聖書にはない宗教権力を打ち立て、それを固定化させたためである。

牧師と信徒の階級制には、聖書的根拠がない。だから、カトリック同様に、教職者を信徒にまさる階級として位置づけ、信徒から教職者への奉仕を当然視し、牧師に権力を持たせたプロテスタントは、もはやカトリックとの境界線を失い、新たな宗教権力となって、当初の宗教改革のエッセンスを失ったのであるとして、反対しているのである。

それゆえ、今やもう一度、プロテスタントからの宗教改革が必要とされている、というのが当ブログの結論である。

さて、話を戻せば、Dr.Lukeは自分たちは「神(=エロヒム)」だと豪語しているが、彼らの言う「エロヒム」とは何なのかは上記の記事に解説されている。

「かくしてあのキリスト(The Christ)がなされたことがキリスト(christ)であるわれわれにおいて再現される。ただし、私はわれわれがナザレのジーザスとは言っていないし、エロヒムであると言っているが、YHWHであるとも言っていないことに注意すること。何度も指摘するようにエロヒムとは霊的領域あるいはカテゴリーである(Dr.Heiser)。」

何と、エロヒムとは「霊的領域あるいはカテゴリーである」そうだ。

ここに欠けているものは何か。意思・人格を持ったパースンである。

聖書によれば、神は霊であるが、人間と同じように、意思や考えを持っておられるパースンである。キリストの御霊は、キリストの人格そのものである。

従って、ヘッド(頭)を失ったボディ(体)には、意思・考え・思いなどを持ち、体を統御する司令塔となる人格が存在しないのである。

ボディは、ヘッドの意思によって治められる領域であり、同じDNAを持つ一つのカテゴリーに属する細胞の集合体である、と言えるだろう。

これらの細胞の塊は、ヘッドの意思があってこそ、一つの目的へ向かって一貫性を持って機能する。

もしボディからヘッドが失われれば、そこには、統御されないバラバラのパーツ、空っぽの領域が広がるだけである。一つ一つの細胞が、てんでんばらばらに自己主張を繰り広げ、体全体の生き残りではなく、一つの細胞としての自分の生き残りのために、欲望のままに振る舞おうとするだけである。

聖書は言う。

キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。」(エフェソ4:16)

頭なるキリストがいなければ、体だけでは、成長することができない。節々を補い合うことも、しっかり組み合わされることも、分に応じて働くこともできない。

Dr.Lukeが「愛」を何より否定し、その言葉に拒否反応すら示していたことも思い起こされる。

さらに、Dr.Lukeは次の記事の中でこんなことも言っている。

メタモルフォーシスは栄光の中で-宗教の霊から解かれよ-」2018-06-26 |  by drluke 

「すなわち造り変え(メタモルフォーシス;トランスフォーメーション)は栄光の中でなされるのだ4)。栄光とは”Kavod”、その原意は「重さ」だ。神の栄光が望むとき、それは重い。その重さは素晴らしいエクスタシーをもたらす。その主の重いタッチが私たちを造り変える。決して歯を食いしばることによるのではない!  主ご自身ですら、喜びのゆえに十字架につかれたのだ5)。十字架教の宗教の霊から解かれよ!

当ブログでは、ペンテコステ運動がもたらす恍惚状態は、偽りのエクスタシーであり、その起源は、聖書にはなく、ヒンドゥー教のクンダリーニ覚醒と同じであるということを指摘した。

あらゆる原始宗教にはそういうエクスタシーがつきものである。

そして、Dr.Lukeは、そのような恍惚体験こそが、「栄光」であり、その中で、人々がキリストに似た者とされる、などと言う。そして、キリストは十字架につかれる瞬間にも、「歯を食いしばる」ことなく、「喜びのゆえに十字架につかれた」などと言うのだ。

この箇所について、Dr.Lukeは次の御言葉を引用している。

「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。-Heb 12:2」

しかし、この箇所は新共同訳ではこうなっている。

「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。

このイエスは、御自分の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。」(ヘブライ12:1-2)

真逆の文脈になっている。だが、KJVなどを見る限り、訳としては上記の訳の方が近いのではないかという気がする。

"Looking unto Jesus the author and finisher of our faith; who for the joy that was set before him endured the cross, despising the shame, and is set down at the right hand of the throne of God."
 
日本語訳の食い違いの問題をさておき、ここでは「御自分の前に置かれた喜び」をどう理解するのかが争点である。十字架そのものが喜びであろうはずがない。現に"endured the cross, despising the shame, "と書いてある通り、それは恥であって、忍耐の限りを尽くして負わなければならない死の苦しみである。

そこで、"for the joy that was set before him "、つまり、「御自分の前に置かれた喜び」とは何かと言えば、それは死の向こうにある復活の喜び、その復活を一人の人(キリスト)を通して多くの人(信じる者たち)が享受することになる喜びであるとみなせる。

つまり、神が独り子なるキリストに人類の罪の身代わりとして、人類の受けるべき死の刑罰を受けさせることによって、贖いの御業が完了し、そして、御子が栄光のうちに引き上げられた神の右の座に就かれたこと、それが復活の意味であり、それこそが喜びの内容である。

また、"and is set down at the right hand of the throne of God"、「神の右の座に就かれた」という後半部分こそが、「御自分の前に置かれた喜び」の具体内容だと見ても良いだろう。神の右の座に就くこと以上の栄光はないからである。

しかし、その喜び、その栄光は、死の刑罰を受け切った先にしか用意されていないものであり、そのために、キリストは神の栄光に満ちた形を捨てて人となられ、十字架の死に至るまでもご自分を低くされたのである。

キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。

このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」(フィリピ2:6-11)

 
このように、キリストが十字架の死の苦しみに至るまでも、ご自分を低くして、従順に御父に従われたからこそ、神はキリストにあらゆる名にまさる栄光を与えられたのである。

だが、当ブログでは、サンダー・シングについて分析した過去の記事においても触れたことであるが、グノーシス主義者は、十字架から死の苦しみを割り引き、かえって十字架を甘美な体験であるかのようにみなす。

ヴァレンティノス派に属するグノーシス主義文献、『真理の福音書』は次のように述べた。

「……あなたの見た、十字架の上で喜び笑っている者は、生けるイエスである。しかし、彼らが手足に釘を打ちつけているその人は、生けるイエスの肉体的な部分であり、それは身代りである。彼らは、彼の似像に残ったものを辱めているのだ。<…>」(『ナグ・ハマディ写本 初期キリスト教の正統と異端』、エレーヌ・ペイゲルス著、荒井献他訳、白水社、p.168)

「……いつくしみ深い忠実なイエスが、苦難を身にひき受けて耐え忍んだ。……なぜなら彼は、彼のこの死が、多くの人々にとって命であることを知っていたからである。……彼は木に釘づけにされた。……彼は 自らを死に至らせるが、彼は永遠の命を身につける。滅びの衣を脱ぎ捨てて、不滅をまとうのである。……」

「……木に釘づけにされた。彼は父の知識(グノーシス)の実になった。しかし、それは食べ[られ]ることによって破滅を与えるものになるのではない。そうではなくて、それを食べた人々が見いだすことに喜ぶようになる原因を与えたのである。なぜなら、彼は彼らを自らのなかに見いだし、彼らは彼を自らのなかに見いだしたからである。……」(同上、p.169)

このように、グノーシス主義者は、十字架を通して、キリストは人々にグノーシス(偽りの知識)を与える甘美な実になったと述べる。

彼らは、主イエス・キリストが十字架上で味わわれた凄絶な死の苦しみを矮小化、過小評価、あるいは、無視して、十字架には苦しみなど伴わず、十字架はかえって喜ばしい体験であったかのごとく描写する。そして、「それは食べられることによって破滅を与えるものになるのではない。そうではなくて、それを食べた人々が見いだすことに喜ぶようになる原因を与えたのである。」などという。

こうして、グノーシス主義者は、主の十字架の苦しみを割り引くことで、主イエスを信じる者たちが、日々、自己を否んで、自分の十字架を取って主に従う過程からも、すっかり苦しみを割り引いてしまうのである。

彼らは言う、キリストの十字架とは、人にとって喜ばしいグノーシスの実であり、その実は、それを食べた人が「決して死」んだりせず(創世記3:4)(=「それは食べられることによって破滅を与える…のではない」)、むしろ、その実は「まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くする」には「いかにも好まし」い(創世記3:6)、つまり、甘美なものであり、(=「それを食べた人々が見いだすことに喜ぶようになる原因を与えた」)、その実を見いだした人間は、「目が開け、…神のようになり、善悪を知るようになる」(創世記3:5)(=「彼は彼らを自らのなかに見いだし、彼らは彼を自らのなかに見いだした」=「エクレシアはキリストであることを発見する」)、つまり、十字架を取って主イエスに従うとは、決して「歯を食いしばることによるのではない」と、そこには苦しみも死も伴わず、むしろ、喜ばしい体験(エクスタシー)の中で、「永遠の命を身につけ」、「滅びの衣を脱ぎ捨てて、不滅をまとう」、つまり、神と自己とが同一になるというのである。

こうして、グノーシス主義者の言う「十字架」とは、聖書における十字架の概念から完全に逸れて、ただ単に人を高ぶらせる知識の実、つまり、エデンでサタンが人類をそそのかして食べさせた善悪知識の木の実と同じようになる。

奇しくも、Dr.Lukeはツイッターにおいて、「主は甘い」と述べたら驚く人があったが、リンゴを食べたことのない人にその味が分からないのと同じだ、などと言っている。

「「主は甘い」と言ったら、あるニッポンキ業界の女性に質問された。「それって、分かりません!」と言われても、リンゴを食べたことのない人にそのテイストをどうやってシェアできる?」(6月25日)
 
ここでリンゴのたとえが用いられているのも偶然ではない。禅の思想家である鈴木大拙は「二度目の林檎を食べねばならぬ」と述べたが、大拙の言う「二度目の林檎」とは、以前にも詳しく記事に記した通り、悟りのことであり、悪魔が人類に与える偽りの知識に開眼することである。
 
ペンテコステ運動のもたらすエクスタシーとは、人を偽りの知識で開眼させるための覚醒の儀式のことである(クンダリーニ覚醒などと同じ、「悟り」のための儀式)。

クンダリーニ覚醒の場面では、教師に手を触れられた人が痙攣するなどしながら恍惚状態に陥って地面に倒れ伏す映像を紹介した。(キリスト教界に入り込むグノーシス主義的・東洋神秘主義の危険⑦キリスト教界に入り込むグノーシス主義的・東洋神秘主義の危険⑧ 参照)
 
Dr.Lukeは言う、「神の栄光が望むとき、それは重い。その重さは素晴らしいエクスタシーをもたらす。その主の重いタッチが私たちを造り変える。決して歯を食いしばることによるのではない!  主ご自身ですら、喜びのゆえに十字架につかれたのだ5)。十字架教の宗教の霊から解かれよ!

これは、そのエクスタシーの中で、Dr.Lukeが得たとしている知識の中身をよく表している。彼はその儀式を通じて、既存のキリスト教界を憎むようになり、旧来の十字架の解釈とは全く異なる十字架の解釈を得た。
 
それを通じて、聖書に記されている十字架とは別の十字架、異なるイエス、異なる霊、異なる福音に目覚めたのである。
 
しかも、Dr.Lukeが「十字架教」などという言葉を使って、一人一人の信者が自分を十字架で死に渡すこと、日々の十字架を取って主に従うことを侮蔑・否定し、「十字架教の宗教の霊から解かれよ!」などと述べて、旧来の聖書的な十字架の理解を全面否定していることに注目したい。

これがその「エクスタシー」がもたらす実であり、美味な「リンゴ」を取って食べた人が受ける偽りの知識の中身なのである。

パウロは述べている。

「何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。

キリストは、万物を支配下に置くこさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださとるのです。」(フィリピ3:18-21)

頭を持たない体は、斬首された罪人と同じで、栄光とは何の関係もない存在である。それにも関わらず、罪人が自分の卑しい体を誇る。自分自身の欲望を誇る。自分自身を神と称する。

そして、信仰によって到来する霊的秩序を、目に見える世界の秩序に置き換え、地上天国を提唱する。
 
Dr.Lukeが以下の記事で述べているのとほとんど同じことを『国体の本義』が述べていたことを思い出したい。

神の国はNOW&HERE」2017-11-01 |  by drluke 
 
『国体の本義』は、万世一系の天皇家が永遠に続くものであり、そこに「過去も未来も今に於て一になり」「我が国が永遠の生命を有し、無窮に発展する」として、「我が歴史は永遠の今の展開であり、我が歴史の根柢にはいつも永遠の今が流れてゐる。」などと主張していた。

さらに、その「永遠の今」なる時空間を日本国民は生きるのかと言えば、天皇のために死すことにより、人は自己存在を昇華し、「真生命の発揚」すなわち、「永遠の今」に至れるなどという、とんでもない説を唱えていたのである。


国体の本義

第一 大日本国体、一、肇国から抜粋


  天照大紳は、この大御心・大御業を天壌と共に窮りなく弥栄えに発展せしめられるために、皇孫を降臨せしめられ、神勅を下し給うて君臣の大義を定め、我が国の祭祀と政治と教育との根本を確立し給うたのであつて、こゝに肇固の大業が成つたのである。我が国は、かゝる悠久深遠な肇国の事実に始つて、天壌と共に窮りなく生成発展するのであつて、まことに万邦に類を見ない一大盛事を現前してゐる。
<略>

 天壌無窮とは天地と共に窮りないことである。惟ふに、無窮といふことを単に時間的連続に於てのみ考へるのは、未だその意味を尽くしたものではない。普通、永遠とか無限とかいふ言葉は、単なる時間的連続に於ける永久性を意味してゐるのであるが、所謂天壌無窮は、更に一層深い意義をもつてゐる。即ち永遠を表すと同時に現在を意味してゐる。

現御神にまします天皇の大御心・大御業の中には皇祖皇宗の御心が拝せられ、又この中に我が国の無限の将来が生きてゐる。我が皇位が天壌無窮であるといふ意味は、実に過去も未来も今に於て一になり、我が国が永遠の生命を有し、無窮に発展することである。我が歴史は永遠の今の展開であり、我が歴史の根柢にはいつも永遠の今が流れてゐる。



第一 大日本国体、三、臣節、忠君愛国 より抜粋

我が国は、天照大神の御子孫であらせられる天皇を中心として成り立つてをり、我等の祖先及び我等は、その生命と流動の源を常に天皇に仰ぎ奉るのである。それ故に天皇に奉仕し、天皇の大御心を奉体することは、我等の歴史的生命を今に生かす所以であり、こゝに国民のすべての道徳の根源がある。

 忠は、天皇を中心とし奉り、天皇に絶対随順する道である。絶対随順は、我を捨て私を去り、ひたすら天皇に奉仕することである。この忠の道を行ずることが我等国民の唯一の生きる道であり、あらゆる力の源泉である。されば、天皇の御ために身命を捧げることは、所謂自己犠牲ではなくして、小我を捨てて大いなる御稜威に生き、国民としての真生命を発揚する所以である。


その時代には、天皇のために臣民は身命を捧げ、死ぬことにより、「真生命の発揚」すなわち「永遠の今」に到達することができるなどという愚かしい詭弁が唱えられていた。つまり、彼らの言う「永遠の今」には、死を持ってしか到達できなかったのである。

Dr.Lukeが以上の述べていることもそれとほぼ同じになって来ている。
 
われわれは新生命体であり、世の人とは致命的に異なる次元に生きているのだ。このアイデンティティーを明確に持たないと、いわゆる罪ゆるされた憐れな罪人に過ぎないとして、「まずしく・きよく・ただしく・うつくしく」という三浦綾子の世界に生きることになる。」

キリスト教界の貧しさを嘲笑し、上から踏みつけて勝ち誇る。なぜ三浦綾子が再三に渡り引き合いに出され、踏みつけにされているかと言えば、おそらくそれはDr.Lukeの女性蔑視が出てきたものなのだろう。同氏があえて嫌いな神学者を引き合いに出さず、わざわざ女性作家を引き合いに出して踏みつけにするのは、当ブログへの攻撃と同じ精神の上に立ってなされたものだと見える。

「貧しさなんて嫌だ。清さなんて古い。そんなものに美はない!!」というわけだ。
 
こうして、常に自分よりも弱そうな他者を引き合いに出して来ては、マウンティングして勝ち誇り、自分たちがいかに優れているかを強調せずにいられないという論法の中には、かつてこの日本国民が、自分たちは「万世一系の天皇家」を頂点にいただいているから、卑しいアジアの他国とは違う・・・などと言ってアジアの国々を侵略した驕りとほとんど同じ高慢さが見て取れる。

結局、今や我が国はそうして過去に見下していたアジアの国々にすっかり経済成長で追い抜かれ、置き去りにされているのであるが。
 
Dr.Lukeは、そのようにまで躍起になって、「清く、正しく、貧しく、美しく」という生き方を否定しながらも、同時に、中国共産党政権下で福音宣教を行ったために、20年間幽閉されたウォッチマン・ニーを再三に渡り、引き合いに出して褒めたたえるという自己矛盾ぶりだ。

ウォッチマン・ニーの生き様は、三浦綾子に比べて、はるかに貧しく、はるかに苦しみに満ちていたはずなのだが…。
 
さらに、Dr.Lukeは、

フェイスは時間のマトリックスを超える」2018-03-02 |  by drluke 
でこう述べる。

「フェイスには時間のスケールはない! それは永遠のNOW! われわれのフェイスは時間に束縛されていない(☞フェイスは時空を超える)。なぜなら-

神のわざは天地創世の時にすでに完成されていたのだ。-Heb 4:3」

ほとんど言っていることが「国体の本義」と同じになっていることにお気づきか。

ここには、グノーシス主義者が決まって陥る無限ループがよく表れている。グノーシス主義者には、必ず原初回帰を唱えるという特徴があるからだ。

つまり、彼らはエデンにこそ完成があり、エデンに戻ることが、人類の完成なのだと言って、輪を描く時間軸を主張する。

共産主義者も同じように、人類の歴史の最初には、いかなる経済格差もない「原始共産主義社会」があったとして、階級を廃絶することにより、その理想状態に逆戻ることを目指した。
 
だが、聖書の時間軸は直線である。そこにはアルファとオメガがあり、初めと終わりは決して同じにはならない。

聖書は言う。

見よ、わたしは新しい天と地を創造する。
 初めからのことを思い起こす者はいない。
 それはだれの心にも上ることはない。」(イザヤ65;17)

その日、天は焼け崩れ、自然界の諸要素は燃え尽き、熔け去ることでしょう。しかしわたしたちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです。」(2ペテロ3:12-13)

神の国が私たちのところに来ているとは、この直線的な時間軸の中に、神の側からの恵みとして、超自然的介入がもたらされ、救いを受け入れた人の中に、神の国の秩序が(永遠の命、キリストの復活の命)がもたらされたことを意味する。

だが、それでも、私たちが滅びゆく地上の幕屋の中で、体の贖われる時を待ち望みながら生きている事実は変わらない。私たちの贖いの完成は、あくまで未来の出来事である。

Dr.Lukeの説には、十字架の死がもはやないのだ。そこには、体が滅びへ向かっている事実もなければ、頭なるキリストの頭首権に服するという考えもない。

今というとき、滅びゆく罪に堕落した体が、あたかも聖なるものであるかのごとく祀り上げられ、それは実際には、死に定められた人間が首を切り落とされて地上をさまよっている姿と同じなのにも関わらず、その体が、「自分たちは永遠だ!」と叫んでいる異様さである。

キリスト教の正しい秩序は、霊が魂と肉体を支配するというものであるが、彼らの場合は、肉体が魂と霊を支配しようとしており、頭なるキリストが否定されることにより、体があるじとなって、唯物論が提唱されているのだ。

ヘッドを否定して、ボディが己を誇る思想は、すべて唯物論である。そして、唯物論に立脚しているからこそ、今、見えている世界で富や栄光を得ることが、神の国の富や栄光と同一視され、地上天国が説かれるのである。

だが、主イエスははっきりと言われた。

「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一歩を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで 他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」(マタイ6:24)

地上の富を追い求めながら、同時に、神に仕えることはできないのだ。

だが、それだけではない。すでに述べた通り、グノーシス主義は相反する概念を統合しようとする無限ループの教えなので、そこには、霊的死がない代わりに、必ず何らかの形で現実の死が求められることになる。

つまり、この世の富や快楽を求め、今という時の永遠性を主張しながらも、同時に死へ向かって行くという自己矛盾が必ず起きて来るはずなのだ。

筆者は、それがどういう形でDr.Lukeの教説に現れて来るのかは知らない。

今の所、Dr.Lukeは三島を讃えてはいても、三島のように「天皇のために死ね」とは言っているわけではない。ウォッチマン・ニーを引き合いに出しているが、誰もが20年間幽閉されるべきと言っているわけではない。

今の所、享楽的な生き方を唱道しているようであって、何かを口実に死へ向かうようあからさまに唱えているようには見えない。従って、その「死」が何を口実にもたされることになるかは、興味のあるところだ。

しかし、Dr.Lukeがウォッチマン・ニーの死を賛美しているところにも、筆者は三島由紀夫と似たような、ある種の「死の美学」を見いださないわけには行かないのだが。

また、当ブログの証を否定し、これを踏みにじって立ち向かって来た人物らに降りかかった滅びのことを思うと、筆者は、それがこの先、どういう形でやって来るにせよ、以上のような教説を唱えている人が、そのまま普通の人生を送るとは思えないものがある。

地上のエルサレム神殿は、石組み一つ残らないように崩された。マサダの城壁に逃れて立てこもった人々も、自ら死を選んだのである。

マサダに立てこもったユダヤ教徒たちは、自己の誇りを捨てないために死を選んだ。自己の教説を守るため、彼らの信じる「永遠の今」が否定されないためである。

また、グノーシス主義者たちは「肉体の牢獄」から魂を永遠に解き放つためと称して、死を選んだのである。
  
従って、この先、KFCにどういう形で「死の美学」が現れて来るのかは分からない。

だが、主と共なる十字架において自己の栄光を捨てることができず、それをしようとする人々を嘲笑し、踏みつけにするような人々の建てた城壁は、遠からず、バベルの塔として、何らかの形で崩される時が来るであろうと思わずにいられない。

御言葉も、十字架に敵対する人々の行き着くところが「滅び」であるとはっきり告げている。

「キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。

主と共なる十字架の死を拒んで、生まれながらの自己を神とする人々は、堕落した人間の体を神聖なものであるかのようにみなし、己の欲望を神として生きている。

従って、そのような人々は「腹を神」として歩んでいるのだと言えるのであって、彼らのその後については、三島由紀夫が割腹自殺したことや、イスカリオテのユダの末路を思い出し、早急にそのような生き方からは離れるべきだろう。

「そのころ、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言った。

しかし彼らは、「われわれの知ったことではない。お前の問題だ」と言った。そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ。祭司長たちは銀貨を拾い上げて、「これは血の代金だから、神殿の収入にするわけにはいかない」と言い、相談の上、その金で「陶器職人の畑」を買い、外国人の墓地にすることにした。

このため、この畑は今日まで「血の畑」と言われている。こうして預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。
彼らは銀貨三十枚を取った。それは、値踏みされた者、すなわち、イスラエルの子らが値踏みした者の値である。主がわたしにお命じになったように、彼らはこの金で陶器職人の畑を買い取った。」 (マタイによる福音書 27:3-10)

「兄弟たち、イエスを捕らえた者たちの手引きをしたあのユダについては、聖霊がダビデの口を通して預言しています。この聖書の言葉は、実現しなければならなかったのです。ユダはわたしたちの仲間の一人であり、同じ任務を割り当てられていました。

ところで、ユダは不正を働いて得た報酬で土地を買ったのですが、その地面にまっさかさまに落ちて、体が真ん中から裂け、はらわたがみな出てしまいました。このことはエルサレムに住むすべての人に知れ渡り、その土地は彼らの言葉で、『アケルダマ』、つまり、『血の土地』と呼ばれるようになりました。
詩編にはこう書いてあります。

『その住まいは荒れ果てよ、 そこに住む者はいなくなれ。』
また
『その努めは、ほかの人が引き受けるがよい。』」 )(使徒行伝 1:16-20)

ヘッドから切り離されて、ボディだけが無事に生き残ることなどあり得ない。十字架に敵対する人々の末路は滅びである。だから、筆者はどんなに嘲られ、蔑まれようとも、主イエスと共に十字架の死にとどまることを固く決意する。今は特にそうしなければならない緊急の時だ。

奇しくも、Dr.Lukeが幾度も引き合いに出すウォッチマン・ニー自身が、十字架の装甲から外に出れば、我々は一巻の終わりだと告げている。それは主と共に十字架の死にとどまることだけが、復活にあずかる道であり、それ以外に、信じる者が主と共に栄光を受ける道はないという強いメッセージだ。
 
だから、読者よ、この悪い時代に惑わされることなく、立ち返って救いを手放さないようにしなければならない。
 
筆者は全面的に次の御言葉にアーメンと言う。もしもこの御言葉を原理主義と呼んで嘲笑うクリスチャンしかいなくなっているとしたら、もはやこの世に信仰はほぼ見られない時代になったのである。

もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。
<略>
だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」(ルカ14:25-33)
 
最後に、常に忘れられがちになっているが、私たちが主のために投じたものが、決して無駄になることはなく、真に主イエスに従うために必要があって捨てたものならば、必ず、百倍にされて報いられると聖書は告げていることも思い出そう。
 
キリストの福音は、ハッピーエンドであって、決してウォッチマン・ニーのような悲劇には終わらない、と筆者はみなしている。

むろん、苦しみの渦中にある時には、それは分からないかも知れない。だが、主は私たちが福音のために捧げた犠牲を決してお忘れにはならない。百倍にもしてそれを返して下さることが約束されているのである。

かくて天の御国の法則は、主のために捨てた者がそれを豊かに得、この世ですべてを握りしめたまま何一つ捨てなかった者は、何も得られないで終わるというものである。
 
ペトロがイエスに、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言い出した。

 イエスは言われた。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。」(マルコ10:28-30)

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「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)

「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。

しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」

こういうわけで、兄弟たちよ。 私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」
(ガラテヤ4:28-31)


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