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今こそ、神の家から裁きが始まる時です。わたしたちがまず裁きを受けるのだとすれば、神の福音に従わない者たちの行く末は、いったい、どんなものになるだろうか。

正しい人がやっと救われるなら、
 不信心な人や罪深い人はどうなるのか

と言われているとおりです。だから、神の御心によって苦しみを受ける人は、善い行いをし続けて、真実であられる創造主に自分の魂をゆだねなさい。」(1ペテロ4:17-19)

* * *

「天のお仕事」を始めてからしばらく経つ。

ある指導者が「私たちはキリストだ!」と豪語している。この理論の誤りについては、後ほど記事にする予定である。エクレシアはキリストの体であって、キリストご自身ではない。ところが、彼らはそんな初歩的な聖書理解さえ失い、エクレシアはキリストだと言い始めた。

その指導者は神学を無用なものとして否定・攻撃しているが、それも当然、彼らはかしらであるキリストに服することを拒んでいるので、体の欲望に導かれるまま進んでいるだけで、自分で物事を考える力がそもそもないのだ。

それはまるで首を切り落とされた罪人が、頭がなくなったのに、まだ動き、よろめき、手足をばたつかせながら、この世をさまよっているかのごときグロテスクな光景である。それがキリストとは何の関係もない腐乱死体に過ぎないことは、この先、如実に証明されるであろうと思う。

唯物論とは、かしらであるキリストを否定して、からだに過ぎない者が、己を神だと宣言する「さかさまの理論」に他ならない。彼らは、ヘッドから切り離され、ヘッドを否定して、ボディだけで生き残れると主張して、ボディを鍛える。だが、そんな生き方が可能なはずがなく、頭を失った体は、短い期間で、己を守れなくなり、その体の細胞は壊死して行き、腐臭を漂わせることとなる。

前にも書いた通り、ハンセン病者の体が形を失って行くのは、痛みの感覚がなくなることによる。頭を失えば、体は神経の感覚がなくなり、痛みを感じなくなる。痛みの感覚が失われるからこそ、自分の弱い部分を守れなくなり、自分を自分で痛めつけ、人の形を失い、崩壊して行くことになる。

筆者はそういう恐るべき自己顕示、自己栄化に生きる道を拒み、十字架の死にとどまって、地道に天の仕事を遂行している。そこから復活の命が現れるためだ。

筆者の言う「天の仕事」とは、悪魔と暗闇の勢力が作り出した偽りの理論の嘘を明るみに出し、彼らの罪を証明する作業である。

それは根気強い地道な作業の積み重ねだが、敵の城を崩すためには、避けて通れない道だ。考えれば考えるほど、敵がいかに卑劣な論旨のすり替えを行っているがよく分かる。

こうして、暗闇の勢力との論戦を繰り広げるうちに、分かったことがいくつかある。

第一に、悪魔はまともな理論をどうしても作れないこと。悪魔の作った理論には必ずほころびがあり、自己矛盾があり、論理破綻がある。それを見つけ出し、嘘の嘘たる所以を明らかにすることによって、悪魔の理論が崩壊する。

端的に言ってしまえば、敵の理論は、自己矛盾による無限ループに陥っており、目指している目標を決して達成することができない。その事実が明るみに出されれば、それは誰にとっても無用な理論として打ち捨てられることになる。

第二に、悪魔には人権がない。だから、悪魔と暗闇の勢力に与した人たちには、他人を傷つけることしかできず、自分を守ることができなくなるという特徴がある。 つまり、自らの正当な権利を擁護するために立ち上がるということが、彼らにはどうしてもできないのだ。

だから、彼らは攻撃されっぱなしになり、自己防衛できないまま、弱体化して行く。彼らが応戦すると叫ぶのは、報復措置として不法行為を行うという予告でしかなく、彼らは不法行為を行わずして、正当な方法で身を守ることができない。

だから、彼らが自己防衛に成功したように見えるときでさえ、そこには不法行為がつきものであって、その事実を静かに指摘することによって、彼らの成功は失われる。

また、彼らは欲望に満ちており、自己を顕示するための享楽的な活動にしか精を出せないため、最も苦しい戦いを地道に孤独に戦い抜いて、身の安全をはかり、自分を守り通さねばならないときに現場を離れ、お祭りに精を出す。防衛のシェルターが敗れても繕わず、自分を守れない。

彼らは採算度外視で拡大すること、繁栄することばかりを目指し、破れ目を修復し、弱ったもの、傷ついたものを包み、病んでいるものを癒し、自己や他人を世話することがどうしてもできない。だから、彼らの言う成長は、ハリボテの人形のように中身のないものとなり、その空虚さを明るみに出せば、その成長は、風船のように弾け飛んで消え失せる。

* * *

今、筆者の中で、激しい争奪戦が起きている。それは自己のアイデンティティを巡る争奪戦である。キリストに贖われた新しい人として立つか、それとも、過去の残滓にとどまるか、重要な戦いの正念場である。

反カルト運動の指導者や支持者らは、長年に渡り、自分たちが一度、捕虜とした人間を、生涯に渡り、奴隷として拘束し、逃がさないために、手かせ、足かせをつけては、その人間を決して自由にしないと宣言して来た。

だが、神はそれとは全く異なる結論を私たちのために提示して下さる。

それが、真理によって私たちが得た自由、キリストにある新しい人である。

筆者はその真理を掴み取り、それを堅く握って手放さずに、先へ進んで行く。ここから先は、エクソダスの道、別れた紅海を渡っていく道だ。敵軍はもう追いつけない。

筆者はある人を数年前に「サタンに引き渡す」と書いた。筆者が反カルト運動と完全に決別し、聖書の真理に立つための戦いの覚悟を決めた瞬間であった。

たとえこの地球上の誰一人、理解せずとも良いから、一人になっても、聖書の御言葉に固く立ち、神がキリストにあって私たちのために約束して下さった絶大な栄光の真理に固く立って、その約束を破壊しようとする者に、断固、立ち向かうことを決めた。

それからしばらくの間、依然として激しい戦いが続き、筆者は、あまりの戦いの激しさに、何度か、それをやめようとしたことがあったが、その度毎に、暗闇の勢力が、筆者に敵対していたその人間を、敵軍の捕虜として、筆者の手の届かないところへ連れ去って行った。

筆者が最も劣勢にあって、ほとんど絶望しかかっているような時にさえ、その人は悪魔によって捕えられたまま、筆者との間で停戦を結ぶこともできず、打ちのめされ、罪を宣告されて、ついに筆者の力によらず、暗闇の勢力によって連れ去られたのである。

そうして、戦いの渦中で、その人は筆者から引き離されて、暗闇の勢力によって、二度と戻って来られない領域へ連行された。

筆者は、それを見ていささか驚いた。暗闇の勢力は、自分たちを守るために一致団結しているのかと思っていたが、そうではないことが分かったからである。暗闇の勢力の中にも、序列があって、彼らは破滅を宣告された者を捕虜として、彼らをより深い破滅へと引きずり込むために活動しているのだ。

だから、彼らは自分たちが助かるために連帯しているのではなく、破滅を宣告された者から順番に、より深い破滅へ引きずり込むために連帯していると言って良い。何にせよ、それは破滅を運命づけられた者たちによる連帯だから、助け合っているように見えるのは表面的なことでしかなく、その連帯の中にいる人間は、結局、全員が破滅することになる。

そういうわけで、長年、筆者を苦しめて来た人物は、筆者には手を触れることができなくなり、遠く、遠くへ連れ去られて、戻っては来れない領域に行った。再度、戦いをしかけて来ることがあれば、その時が、その人の完全な終わりになるだろう。

そこで、筆者はさらなる戦いのために、後ろを振り返らずに、別れた海を新しい地へ向かって前進している。新しい地へ到達するのか、それとも、諦めて途中で立ち止まって、溺れ死ぬのか、それは私たちが自ら選択する道なのだ。

他人のことを論じているうちに、自分自身が失格者にならないよう、よく気をつけて歩まなければならない。
 
過去は私たちを常に出てきた故郷に引きずり戻そうと狙っている。だが、私たちは後ろのものを忘れ、前へ向かい、目の前に置かれた賞与を目指して走り抜かねばならない。たとえ目の前に広がっているのが、海でしかなかったとしてもだ。

主が用意される道は、薄暗がりの中にあって、それが勝利の凱旋の道だと分かることはほとんどない。そこを歩いているときに、その道が天に続いていると分かることもまずない。

戦いは激しく、恐れや不安が取り巻き、孤独と戦いながら、身一つで手探りに進むしかない。後になってようやく分かる、そうして人知れず支払った代償、孤独に歩んだ戦いの道を、神はご覧になって、評価されていたこと。そのように代価を払うことでしか、決して成果を勝ち取ることはできないことが。

だからこそ、筆者は誇示しようと思えば、誇示できるものがあっても、キリストご自身以外のものを誇ることはすまいと決めた。やろうと思えばできないことではなかった。だが、その度毎に、心を押しとどめるものがあり、その神聖さ、厳粛さを決して手垢にまみれたものにしないためには、事を秘めなければならないと分かった。 

今まで、筆者のために尽力してくれた人たちも、いなかったわけではないが、筆者は、それを誇ろうとも思わないし、その人たちに、お礼も言うまいと決意している。お礼を言ってしまえば、天での報いがなくなるだろう。ただ黙って、互いにやるべきことを果たしただけと、感謝もねぎらいもなく、素っ気なく別れるのが良い。

そういうわけで、筆者は表情を固くして、本音を語らない。まだ戦いは続行しており、終戦などしていない。どうして今、すべてが終わったかのように安堵して、喜ばしい台詞を口にし、くつろぎの時のように過ごすことができるのか。

腰に帯をし、身を引き締めて、霊的な武器で固く武装して立ち、大切な結論は、心に秘めておけ。神にのみ心を打ち明けよ。人にどうこう言わせてはならない。命と引き換えにしてでも、守り抜かねばならない宝がある。

むろん、それは神がご自分の独り子を通して私たちに与えて下さった完全な救いのことであり、完全な贖いのことであり、この古き世界からのエクソダスのことだ。

エジプト人が溺れ死んだそのときに、やっと筆者は笑顔を見せることができるかも知れないが、それも束の間であり、一つの仕事が終わっても、高く、高く、さらなる高度へ向かっていかねばならない。

世にどっぷりと浸かっていればいるほど、人の物事の判断はダメになる。神の御前に静まり、全てを置いて、御心を尋ね求めねばならない。人間の利益の全てを脇において、神が何を願っておられるのか、その観点から物事を見ることが、どうしても必要なのである。

2009年に起きた出来事を、確固として握り、手放さないようにせねばならない。それを考えていたとき、自民党政権は、2009年に終わっていたのだと気づいた。それ以後の歴史は全部、嘘であり、泥棒の歴史であり、政権交代によって、この国の民意が打ち立てるはずだったものの否定、破壊の連続だったのだと・・・

あの時に掴んだはずのものを守り通せず、敵の恐るべき卑劣な作戦に打ち勝つ術を知らなかったから、我が国の現在があるのだと。

* * *

筆者が訴訟について具体的なことを書かなくなったので、何も進展していないと考えている人々は多いかも知れない。

前にも書いた通り、真に勝利が確定していないのに、快哉を叫ぶのは極めて愚かなことであって、私たちは神が勝たせてくださるなら勝つが、神が味方して下さらなければ、そうではないと、謙虚に言わなくてはならない。

敵の足元は崩れており、 それは感情論ではなく、峻厳な事実である。だが、今、そのことについて書こうとは思わない。

地上に立派なエルサレム神殿が建っているとき、まさかイエスが生きた神殿であることを理解した人はほとんどなかった。イエスは神殿が破壊されても3日で建て直すと言われた。それはご自分のことを指して言われたのである。

神の国の秩序、新エルサレムの秩序は、私たち信じる者の中に来ている。なのに、そのことを知っている人はとても少ない。地上の多くの人々は、あの山、エルサレムへ駆けつけ、自分好みの指導者の発言の中に、神の国があると信じている。

しかし、聖書は警告している、人に惑わされるなと、あそこに、ここにキリストがいると言われても、彼らに着いて行くなと。

東京都知事選などを見ていると、我が国の主都は魔都となったと思わざるを得ない。筆者は候補者全員を見渡して、誰も選ぶ人がいない、という結論にしか至り着かないからである。

多くの人たちは知らない、この国に裁きの時が迫っていること。前からずっと書いていることだが、オリンピックは開かれず、コロナは収束せず、東京に迫っているのは巨大地震である。

今、この主都に新しいものを建設する時ではない。

だが、筆者は地上を取り戻すために奔走している。人間の失われた尊厳を、失われた調和を、失われた正義、真実を回復し、神が私たちのために用意して下さった新しい人を着る約束を、確かにこの手にしっかりと握るために。

貧しい者が天の国を得、悲しむ者が慰めを得、義に飢え渇く者が満ちたり、心の清い人が神を見るために。 

だからこそ、戦いがあり、語らなければならないのだ。私たちのアイデンティティは何か。神がキリストの十字架を通して、私たちのために用意して下さったものは何か。

私たちは死に物狂いで、キリストを選び、御言葉の中にとどまらねばならない。古き自己を否み、日々の十字架を取って、キリストに従い、まといつく罪を振り切って、あらゆる古き人の痕跡を脱ぎ捨て、しみも、しわも、その類いの一切ない、栄光の花嫁なる教会を自ら選択し、そこに立ちおおせねばならないのだ。
 
今の時代は、イエスが地上を生きておられた時代と同じで、地上には数々の立派な神殿が築かれ、厳かな儀式があり、きらびやかな衣をまとった聖職者たち、教師たちがいる。

だが、私たちは自分自身の心の内に、神の国が到来しており、神の神殿を破壊する者は滅ぼされる、という法則を思い出さなければならない。

あの教会でも、この指導者でもなく、私たち自身が、ノアの箱舟であり、次なる時代のために備えられた贖いの初穂なのであり、キリストを長兄とする神の家族なのである。

だから、すべての指導者や、カウンセラーを名乗る人々から離れなさい。見えない神ご自身、キリストから与えられた油である御霊に直接、教えられて歩みなさい。

目に見える指導者につき従えば、待っているのは、霊的搾取だけである。そしてついには、滅びへと誘い込まれることになる。
 
よく見ておいてもらいたい。多くの人たちが、自分は「紅海を渡り」、「キリストに連なる者」になったと豪語している。ある人々は、「キリストご自身になった」とさえ言う。自分たちは新創造であって、約束の地にたどり着いたと彼らは言う。

だが、彼らのエクソダスが本物でなければ、彼らは紅海を渡り切ることはできず、途中で溺れ死ぬことになる。今、筆者が、追っ手がようやく筆者に手を触れられなくなったと述べているだけで、紅海を渡り切ったとは述べていないことに注意してもらいたい。

パウロでさえ、自分はすでに得たとは思っていない、得ようとして前に向かって身を伸ばしていると述べているのに、すでにすべてを得たかのごとく豪語している人々の発言には注意する必要がある。
 
それは各人の激しい戦いである。みんな仲良く、手を携えて天の門をくぐることなどできない。神はそれぞれの生き方に報いられる。御言葉を聞いても従わない者は、神の国に到達することはできない。これは厳粛な結論である。 
 
筆者の周りでは、箱舟建設を嘲笑する声が絶えなかったが、すでに大雨が降り始めている。エジプトのファラオのように、筆者を奴隷にしておきたい蛇のような人たちが、何度、エクソダスを阻もうと追って来ても、私たちの前進は、それによって妨げられることはない。

策が多いから功を奏するのではなく、神が知恵を与えてくださるからこそ、助かるのだ。

この国の人々は、あたかも安全配慮義務を怠ったまま、高い高い塔を建てている建設現場の労働者のようだ。あるいは、兵糧もないのに、大戦争を開始すべく、他国に奇襲をしかけている国のようだ。

この地が大きく振るわれるとき、彼らが築いた脆い土台では、塔は立ちおおせない。彼らの皮算用では、大戦争を遂行するに十分な費用は賄えない。しかも、彼らは、初戦が終わっただけなのに、もう終戦が来た、勝利は確定したなどと言って喜んでいる。

まるで我が国のかつての大戦の時と同じである。

真に砂上の楼閣を建てているのが誰であるかは、数年も経過しないうちに、はっきりと分かるだろう。今、一人、また一人と紅海を渡り切れずに、敵に連行されて行く人々が現れている。ここから先、その人数はもっと増えて行くことになる。

筆者の論を、極めて少数説だとして嘲る人々がいるが、主イエスは再び地上に来られるときに、この地に信仰が見られるだろうかと言われたのであり、ノアの時代には、人類のうちで救われた者は8人しかいなかった。

キリスト教が、マジョリティの福音だと書いてある箇所は聖書のどこにもない。
 
裁きは、神の家から始まる。信仰による義人も厳しく試されている以上、不信心な者、罪深い者の行く末は、筆舌に尽くしがたいものとなる。頭なる方を否定して、体を神とした人間の末路は、三島由紀夫の最期を思い浮かべるだけで十分である。
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「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)

「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。

しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」

こういうわけで、兄弟たちよ。 私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」
(ガラテヤ4:28-31)


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