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「イエスは言われた。「神があなたたちの父であれば、あなたたちはわたしを愛するはずである。なぜなら、わたしは神のもとから来て、ここにいるからだ。わたしは自分勝手に来たのではなく、神がわたしをお遣わしになったのである。

わたしの言っていることが、なぜ分からないのか。それは、わたしの言葉を聞くことができないからだ。あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない。彼の内には真理がないからだ。悪魔が偽りを言うときは、その本姓から言っている。自分が偽り者であり、その父だからである。

しかし、わたしが真理を語るから、あなたたちはわたしを信じない。あなたたちのうち、いったいだれが、わたしに罪があると責めることができるのか。わたしは真理を語っているのに、なぜわたしを信じないのか。神に属する者は神の言葉を聞く。あなたたちが聞かないのは、神に属していないからである。」(ヨハネ8:42-47)

* * *

筆者にはある時に分かった。この世に完全犯罪というものはないのだと。

聖書によれば、悪魔は「偽りの父」だ。

この世には2種類の父しかいない。真実しか語ることなく、私たちを決して欺かず、子として養って下さり、すべて必要なことを教えて下さる天のまことの父なる神と、私たちを騙し、盗み、滅ぼすために近づいて来る偽りの父(=悪魔)と。

悪魔は巧妙に嘘をつき、時には光の天使にも偽装するものの、その理論には必ずほころびがあることも分かった。

つまり、真理には矛盾はないが、嘘には必ず自己矛盾が含まれている。悪魔のロジックには、必ず、論理破綻があり、その論理破綻を明るみに出すことで、敵の嘘は崩壊するのだと。

一つ前の記事に引用したこの御言葉。ここには激しい霊的戦いの様子が記されている。

だが、その「戦い」とは、私たちの言葉を巡る戦いなのである。

「わたしたちは肉において歩んでいますが、肉に従って戦うのではありません。わたしたちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって要塞も破壊するに足ります。わたしたちは理屈を打ち破り、神の知識に逆らうあらゆる高慢を打倒し、あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせ、また、あなたがたの従順が完全なものになるとき、すべての不従順を罰する用意ができています。」(2コリント10:3-5)
 
まず、次のフレーズについて考えてみよう。

「わたしたちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって要塞も破壊するに足ります。」

ここで言われている「武器」とは何か? もちろん、神の御言葉、聖書の真理のことである。

細かい武器の種類は、エペソ書でも触れられているが、最も主要な武器は、御言葉の剣である。

「というのは、神のことばは生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。

更に、神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません。 」(ヘブル人への手紙4:13)


神の御言葉、それが敵の要塞を破壊するに足る強力な武器となるのだ。

神の御言葉が、物事の真偽を切り分け、レントゲン写真が小骨まで写し出すように、すべてのものを裸にするように、事の本質を明るみに出して行くのである。

私たちは御言葉を使って、物事の是非を検証する。それによって、嘘は嘘として正体を暴かれ、効力を失い、信用が失墜し、崩壊して行くのである。
 
次に、敵の「要塞」とは何のことだろうか? それは悪魔から来た、嘘で塗り固められた理論(偽りの思想)のことである。

「わたしたちは理屈を打ち破り、神の知識に逆らうあらゆる高慢を打倒し、」

と書いてある通り、敵の要塞は、屁理屈によって固められ、神に逆らう高慢という偽りの知恵によって防衛されているのである。

そして、敵の偽りを信じた人々が、敵の要塞を兵士のように守っている。

敵の要塞はいかにして破壊されるか。

御言葉の剣によって、真理と嘘が切り分けられ、嘘の嘘たるゆえんが暴かれることによってだ。それが屁理屈に他ならず、神に逆らう高慢であることが明るみに出されることによってだ。

そうして、嘘の嘘たるゆえんを明るみに出すことが、「わたしたちは理屈を打ち破り、神の知識に逆らうあらゆる高慢を打倒し」と言われていることの意味なのである。

だから、これは間違いなく、言葉による激しい論戦であり、思想対思想の戦いである。

「あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせ、」

とは、私たちのさまよう思考、自己から出たのか、神から出たのかはっきりとしない計画などを、すべて判別し、私たちの思いのすべてをキリストに従わせることを意味する。

先の記事にも書いたように、「キリストの思い」を持つこと、「わたしたちはキリストの思いを抱いています。」(1コリント2:16)と、はっきり言える状態になることだ。

パウロは言った、「だから、あなたがたは食べるにしろ飲みにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。」(1コリント10:31)と。

つまり、私たちの生活の隅々に至るまで、すべての思い、すべての挙動が、神のため、キリストの栄光を現すためになるほどまでに、私たちの心が神に捧げられることが必要というのだ。

「あなたがたの従順が完全なものになるとき、すべての不従順を罰する用意ができています。」

これはどういう意味か。私たちの心が完全に神に従うものとなり、キリストの思いを持つようになるとき、私たちの従順が完全なものとなり、ゆえに、不従順な者が罰せられる時が来る、という意味だ。

私たちが不従順な者を罰するのか、それとも、神ご自身が彼らを裁かれるのか、どちらなのかは分からない。これはサタンの終わりのことを意味していると言えるし、また、私たちが遭遇する個々の霊的戦いにおいて、敵が敗北するその瞬間のことを指しているとも言える。

いずれにしても、この霊的な戦いには、ある法則性があることが分かる。

それは、第一に、神の御言葉に従って、敵の思弁を見分け、これを喝破して撃退することが必要であること。

第二に、私たちの神への従順が、敵(サタン)の敗北と密接な相関関係があるということである。

従って、霊的な戦いに勝利するためには、ただ敵を糾弾しているだけでは不十分であり、私たちの神への従順が完成されたものになる必要がある。

そのことは、旧約聖書において、イスラエルの民が神に背く度毎に、捕虜となったり、敵の襲来を受けたり、国が荒廃を続けた様子を見ても分かる。その苦しみの中で、民は神に立ち返り、救いを求めて叫んだのである。

従って、この霊的な戦いは、私たちを取り巻く外的な世界(この世)と私たちとの戦いでもあれば、私たち自身の内側で繰り広げられる神への従順を巡る戦いでもある。

過去のトラウマだとか、人間関係や、職歴、入信歴、性格や考え方がポジティブか、ネガティブか、などが問題なのではない。

生まれも、出自も、両親がどんな人間か、兄弟がいるか、今どんな家に暮らし、どれだけの財産があり、配偶者はいるか、家族は何人いるか・・・そういうことも一切関係がない。

ただ私たちが神に対してどのくらい従順なのか、それだけが、すべてを決める決定打なのである。
 
だから、その戦いを始めるに当たり、私たちはまず、一体、我々は誰の側に立つのか、それをよく考えて決めなければならない。

私たちは誰を擁護するために立つのか。

それは生涯の問題である。

悪魔に属し、滅びが決定している堕落した自己を擁護するために生涯をかけるのか。

それとも、悪魔の王国の奴隷となっていたあなた自身を、そこから完全に贖い出し、自由にして下さった方の正しさを擁護するために立つのか。
 
何か重要な作戦を決行しようとするときには、いつも最悪の事態を想定しておかなければならない。軍隊を敵国に送って戦いをするに当たっては、戦争が思いもかけず長引いた場合に、どれくらいの費用がかかるかもよく考えておかなければならない。十分にその出費をまかなえるだけの軍資金をまずは用意しなければならない。

「大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。

もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。

あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。

また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。

だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」(ルカ14:25-33)

キリストの十字架の意味を知ったとき、筆者は、それ以後の人生を、神に従って送ることを決めた。二度と過去には戻らないこと、二度と偽りには戻らないこと、二度と堕落した自己には戻らず、神に従って生きることを決意した。

しかし、その時、その生涯が、戦いの連続となることを、筆者はまだ知らなかった。ただ贖い出されたという喜びのゆえに、危険は去り、すべての戦いは終わったかのように思っていたのである。

だが、実際にはそうではなく、ほんの少しの静けさの後、筆者を何としても古い世界に引きずり戻そうとする恐ろしい力が後を追って来た。

それに対し、筆者は自分のすべてをかけて、贖いを掴み取り、守り抜き、神の正しさを擁護して立ち仰せなければ、真理のうちにとどまることができず、敵の捕虜とされて引いて行かれ、敗北に至るしかないのだと分かったのである。

クリスチャン生活がそのような戦いの連続になると、知っている人は非常に少ない。

神を信じれば、ハッピーな人生が待っており、その後は、平和と喜びだけに溢れて生きられるなどと思い込んでいる人々は多い。

だが、キリストへの信仰は、ご利益信仰ではないのだ。

もちろん、神は信じる者たちのために多くの恵みを用意して下さるが、それが私たちの終局的な目的ではない。

そういうわけで、筆者が理解しておらずとも、すでに霊的な戦いは火蓋を切っており、筆者はその戦いに勝利するための法則を、誰からも教えられることなく、神ご自身から教わりながら、今日まで身をもって実地で学ばねばならなかったのである。

ある人々は、この世で自分の人生が上手くいくかどうかは、自分の努力と準備次第だと考えている。裁判で勝ちたい人々は、多くの証拠と書面を準備し、弁護士のもとへ相談に行き、首尾よく就職したい人々は、有力なコネを探し、面接の受け答えを練習し、履歴書の書き方を工夫する。幸福な結婚をしたい人は、容姿を磨き、目当てとする人がいそうなパーティーに顔を出し、知人にも紹介を頼み、婚活にいそしむ。

だが、物事の勝敗は、そんな努力や準備が握っているのではない。

私たちがどれだけ神の方を向き直るか、どれだけ光の方を向くか、ただそれだけが、私たちの人生のすべてを決める分かれ目なのである。

もっとはっきり言えば、神が私たちの味方をしたいと願って下さるように生きなければ、私たちの願いは何一つかなわないで終わる。

私たちがどんなに自分の内側を探っても、私たちの自己の中には何一つ確かなものがなく、我々の存在は、光に照らされなければ、無から無へと消えて行く暗闇のようなものでしかない。

だから、ただ神が、私たちの思いや願いに承認を与え、私たちの心の思いに一つ一つ、注意深く、耳を傾けて下さり、私たちがまだ何も語らない先から、私たちの願いに喜んで応えて下さりたいと願われ、私たちの生き様を、愛によって包み、尊厳によって覆って下さらなければ、私たちはたちまち、闇の中へ突き落とされ、敵の襲来の中で消えうせて行くしかない。

神が私たちの敵を打ち滅ぼし、私たちをすべての悪から救い出し、清い真っ白な衣を着せて、高貴な人として立たせて下さりたいと、心から願って下さらなければ、私たち自身が何をどんなに努力し、主張したところで、私たちの人生には、何一つ成就するものがないのである。

「神を味方につける戦い」

そのような言葉を使えば、多くの信者たちは、眉をひそめるかも知れない。

「ヴィオロンさん、あなたは神を打出の小槌みたいに、自分の願いをかなえる道具にしようとしているのですか」と。

そうではない。筆者はあくまで真剣に語っているのだ。

筆者は知っている、以上のような戦いをするために何が必要か。

その答えが、上記の御言葉なのである。

自分のすべてを神に捧げ、世人を喜ばせるためでなく、自分自身を喜ばせるためでもなく、ただ神を喜ばせることを第一にして、生涯を送ることである。文字通り、全生涯を神に捧げ、自分のすべてを、持ち物の一切を捨てて、主なる神に従って生きることである。

そういう決意を、かつて筆者はしたつもりであったが、まだ足りなかった。筆者は霊的戦いの激しさも、それにかかる費用のことも、よく知らなかったのである。だからこそ、建てようとしても、建て上げることができず、その度毎に、敵の嘲りの的となったのである。

それは、まだまだ費用の計算が十分でなく、すべてを捧げ切るということが何を意味するのか、筆者自身が知らなかったためである。

だが、筆者が知らなかったことについて、神は筆者に責任を追及されない。だから、後悔は全く必要ない。過去にこうすれば良かった、ああすれば良かった、と考えるのは、時間の無駄でしかない。パウロもこう言っている。

「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。

兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。 なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」(フィリピ3:12-14)
 
神は忍耐強く私たちを教え、戦いに必要なすべての知恵を与えて下さる。

そこで、ある時に筆者は口先だけでなく、はっきりと理解したのである。

この戦いに勝利し、救いの確信を守り切るためには、残る生涯、何もかも、本当に何もかもを、神のために捧げ切る以外に方法はないのだと。

それをしなければ、与えられた贖いの完全性を保つことさえ、できないで終わるのだと。

神は筆者に尋ねておられる。

「あなたはどこまで真剣なのですか。どこまで私のために捧げる覚悟がありますか。あなたが真に願っているのは、何ですか。自分にとっての楽しみ、この世での成功、人に侮られないことですか。それとも、孤独にならないことですか。人に愛されることですか。

あなたは本当に私に従って来るつもりがありますか。人の愛ではなく、私の愛を求めますか。私のために、あなたは何を差し出すのですか。すべてを捨てても、従順である覚悟がありますか」

筆者は気づくと紅海の前に立たされていた。後ろには、筆者を奴隷に引き戻そうとするエジプト軍の追手が迫っている。前には海しかない。この海を渡るには、奇跡が要る。その奇跡を起こすためには、筆者が人類の一員をやめるしかないのだ。

古き人類の一員のままで、この海を渡ることはできない。なぜなら、古き人は、みな罪に堕落しており、奴隷であって、古き人から構成される軍隊は、筆者に対し、奴隷としての債務証書を突きつけ、奴隷の世界へ戻るよう命令しているからだ。

彼らは言う、筆者の人類への借りは多すぎて、返せないと。それは筆者が生涯、苦役に服しても、返せないほどの天文学的な負債に達していると言う。

だから、彼らは筆者には逃げる権利がなく、それにも関わらず、ここまで逃げて来た筆者は、逃亡者であって、反逆者であって、狂人であり、引き戻されて、収監される以外に道はないと言う。筆者の発言は、妄想であって、思い込みであり、世迷い事でしかなく、筆者には、彼らの手に落ちて奴隷として引いて行かれ、生涯を苦役に費やす以外に、道はないと言う。

筆者は全人類に対してあまりにも大きな罪を犯し、人類を侮辱した罪により、死刑に処されるしかないというのだ。

そんな言い分をどうして聞けようか。そんな世界に戻ることに、何の希望があるだろう。筆者は彼らの怒号の前に、この人々からどれほど憎まれ、排斥されようとも、全く構わず、彼らが何を言おうと、この呪われた世で受けるすべての富と栄光を断ち切り、彼らとの絆を完全に断ち切って、ただ神の側につくことを宣言する。

筆者は主と共に十字架につけられて死んだのだ。主が身代わりにすべての刑罰を負われ、筆者を自由にしたのだ。それにも関わらず、彼らは何を叫んでいるのか。彼らの債務証書はもはや無効であり、筆者を縛る自由はないというのに。
 
だが、主は筆者に覚悟を問われる。

もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。

自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。

父、母、妻、子供、兄弟、姉妹」

これはもういい。もはや肉なる絆に未練を持とうとは思わない。

「更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。」

分かりました、と筆者は言う。

王妃エステルは言った、「このために死ななければならないのでしたら、死ぬ覚悟でおります。」(エステル4:16)

筆者はとうにその覚悟を固めたと思っていたが、まだ不十分だったのである。

筆者は言う。
 
主よ、この戦いは、筆者の命などとは比べものにもなりません。ここには、あなたの救いの正しさが、全人類への贖いの価値がかかっているのです。筆者が何度死んでも、あなたの御業の正しさは永遠に立ちおおせます。ですから、私は私の命を憎みます。

「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。」「自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」

一体、この世の持ち物が、御言葉の正しさを守るための戦いの前で、どんな価値を持つだろうか。

あの蛇のような人々の言い分が嘘であることが証明されるなら、筆者には、何も要らない。一生、十字架の死の中に留まり続け、一生、世の楽しみのすべてを失って構わない。

そんなものとは、到底、比べものにもならず、引き換えにもならない価値が、ここにかかっているのだ。

そういうわけで、どんな犠牲を払ってでも、筆者はその戦いにとどまり続けることに決めた。そのために、筆者の持てるすべてのものを捧げ切り、戦い抜くことを。

たとえ約束のものを見ないまま死んでも、筆者は生涯かけて、それを達成することを決めたのだ。

主よ、だから、覚えて下さい。あなたが私たちのための道であり、真理であり、命なのです。私たちの栄光のためではなく、ただ主よ、あなたの栄光のために、すべてを成就して下さい。あなたご自身の正しさと栄光のために、すべてを証明し、私たちに勝利を授けて下さい。

そうして、筆者は、神が約束して下さった贖われた完全な人を着るまで、決して諦めることなく、進んで行くことを決めた。もはや、筆者の人生などない。いや、それは筆者の人生ではない。

「もし自分で打ち壊したものを再び建てるとすれば、私は自分が違反者であることを証明することになります。

わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を捧げられた神の御子に対する信仰によるものです。

わたしは神の恵みを無にはしません。もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味となってしまいます。」(ガラテヤ2:18-21)

昔、キリストには代えられません、という讃美歌をよく歌っていたのを思い出す。

だが、その讃美歌には何か足りないものがあった。筆者は、主が私たちのために死なれた、というだけで、すべてを捨てて主に従うのではない。

キリストが私たちのために死んで、よみがえり、私たちのために、永遠の命を用意して下さり、私たちのために、真に完成された新しい人として、ご自分の人格を与えて下さり、天に完全で揺るぎない都を用意され、そこに私たちの住まいをもうけて下さっているからこそ、私たちも、すべてを捨てて、主に従って行くのだ。

アダムは失敗したが、神はキリストを通して、神の願いにかなう新しい完全な人を準備して下さった。この新しい人を着、天の都を目指して進むためにこそ、私たちはこの世から贖い出されたのであり、すべてを捨てて、主に従うのである。

それは、そこに約束されたものが、この世のすべてと引き換えにしても、はるかにそれ以上に勝ったものだからである。

そういうわけで、たとえ目の前に道がないように見えても、筆者は二度と、もと来た道には戻らない。たとえ死んでも、古き世界に引き戻されるつもりはない。嘘ばかり吐いている人たちは、退却するが良いのだ。彼らには紅海を渡り切ることはできまい。なぜなら、道であり、真理である方を、彼らは知らないからだ。

「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。

もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたのです。」(ヘブライ11:13-16)

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「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)

「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。

しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」

こういうわけで、兄弟たちよ。 私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」
(ガラテヤ4:28-31)


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