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今、日本社会の根本的な秩序が崩れ落ちようとしている。行政も、司法も、立法も、雇用環境も、何もかもだ。すべての分野においてメルトダウンが起き、倫理道徳は遺棄され、物事の正常な判断が破壊されている。
 
この状況において、私たちは何をするのか、問われている。

それに対する答えは、以前と変わらず、正しいことを正しいと主張して、事実を明るみに出し、あくまで現行の法秩序の中で、物事を是正し、あるべきところに帰着させるために、これまで通り、戦いを続けるだけだ。

フランクルの言葉を借りて、コロナ禍で人間性が試されたと言う人がある。今も状況は同じだ。全てがカオスと化すとき、人はどう振る舞うかが試されている。どんなに証拠を集めても、最後は主観がものを言う。私たちが何をあきらめずに求め、主張し続けるのか、最後にはそれだけがものを言うのだ。


* * *

なぜこれほどまでに地が忌むべき場所となり、人は清さを失い、社会からは公正も正義も真実も失われ、どちらを向いても腐敗堕落しか見られなくなったのか。

そのことを考えるとき、世を嘆く以前に、我々の眼差しがまず神を一心に見上げることから逸れたことを思う。人が御言葉に背き、神を忘れたそのズレの度合いだけ、地は狂うのだと。
 
この地は見捨てられ、地はよいどれのようにふらつき、人はまるでみなし子のようだ。なぜそうなったか。人が神を捨てたからだ。 

世直しや、腐敗の除去を叫ぶ以前に、人が神に立ち帰らないことには、神は働いては下さらない。
  
今、この地に必要なのは、罪と滅びの宣告、それだけだ。人にやさしい言葉は捨てねばならない。

たとえば、筆者が何かに対して異議申し立てをしたり、批判したりする度ごとに、噛みついて来る人々があるが。それを見たからと言っても、批判の声をあげることを決して恐れてはならない。

「それで、こう書かれています。
神は、高慢な者を敵とし、
 謙遜な者には恵みをお与えになる。
 だから、神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます。」(ヤコブ4:6-7)


人の歓心を失うこと、この世に波風を立てること、暗闇の勢力の反発を恐れてはならない。体を殺すことはできても、魂をゲヘナで滅ぼすことができない人々を恐れるには足りないからだ。

 人間は自分にとってやさしいか、人に対してやさしいか、社会に益があるかで他人をはかろうとする。自分にとって不快なもの、やさしくないもの、すぐに役立ちそうにないものを悪と決めつけ、断罪する。
 
だが、神は人にとってやさしいかどうか、という基準で物事をご覧にならない。人の自己は堕落しており、サタンへと通じている。 自分にとって好ましく、やさしく感じられるものを善とみなす考えは、エデンの園でアダムとエバを堕落させた誘惑そのものなのだ。

神の評価は、人にとってどう感じられるかとは全く関係がない。ただ神に対して、我々がどう振る舞うかに尽きる。神から見て好ましいかどうかであって、人に対してではない。そして、神は公正、正義、真実を望まれる。

このような目線の違いをはっきり区別できるようになるためには、私たちは世の基準を離れねばならない。暗がりでものを見るように、私たちの価値観が、少しずつ転換して行くことが必要だ。

「自分」を中心に物事を考えるのではなく、「神」を中心に物事を考えること。人に接近すればするほど、世にどっぷり浸かれば浸かるほど、人は神からどう見られているかを中心に物事を考える清さを失う。

そこで、筆者は何ヵ月間もかけて、ただ主の中に入り込むために、思いのすべてを神に傾注することが必要だと感じている。この世との切断だ。自分を主なる神の御前に全焼の生け贄として捧げ切ること。全ての思いを虜にしてキリストに従わせること。それがなされればなされるほど人は強くなるだろう。

もしも本気で天を地に引き下ろし、この地に正義や真実を打ち立てたいと願うなら、まず神の御前に自分を完全に捨て、心を注ぎ切る勇士たちが現れねばならない。

ギデオンが召されたときのことを考えるべきだ。 
 
「ギデオンは彼に言った。「わたしの主よ、お願いします。主なる神がわたしたちと共においでになるのでしたら、なぜこのようなことがわたしたちにふりかかっ たのですか。先祖が、『主は、我々をエジプトから導き上られたではないか』と言って語り伝えた、驚くべき御業はすべてどうなってしまったのですか。今、主 はわたしたちを見放し、ミディアン人の手に渡してしまわれました。

主は彼の方を向いて言われた。「あなたのその力をもって行くがよい。あなたはイスラエルを、ミディアン人の手から救い出すことができる。わたし があなたを遣わすのではないか。」」(士師記第6章13節-14節 )


薄暗がりの中で次第に目が慣れるように、神は我々の眼差しを人の権益から神の権益へと移される。

見なさい、あなた方は自分たちの権益が脅かされ、自分たちの肩身が狭くなり、自分たちが奴隷のように虐げられ、捕虜のように引いていかれ、囚人のごとく閉じ込められ、脅かされていると言う。しかし、その前にまず見なさい、脅かされているのは、神の権益なのだと。神の威光と尊厳が傷つけられ、神が退けられ、侮られているのだと。

いつになれば、あなたたちは自分から目を背け、神の権益が脅かされていることに目を向けるのか。いつになれば、自分を離れ、神の視点から物事を見て、今この地を神がどのようにご覧になっているかを考えるのか。

もしそのことに心が至れば、あなた方はもはや今までのように、自己の都合だけを語ることはできなくなるはずだ。人類の代表として、神に向かって言わねばならない言葉があるはずなのだ。

ただ神に栄光と尊厳を帰すること、そうすれば、その分だけ神もあなたをかえりみて下さるだろう。光を受けたいならば、光の方へ向き直るしかない。この地が暗闇の中に投げ入れられ、死にかかっている状態を憂慮するなら、心を天に向け、まことの主なる神にのみ心を向けて、悔い改めて、神に立ち帰ることしかない。それを他人に要求せず、あなた自身がそうするしかないのだ。

エクソダスとは、回心であり、切断であり、人がただ神の方だけを向き直ることーーただキリストのみを心の伴侶として生きるその決意のことなのだ。 

一体、全地を見回し、今、人の観点からではなく、神がこの地をどうご覧になっておられるのかという観点から、この地の腐敗に心を痛める、まことの花婿なるキリストの花嫁にふさわしい人間が一人でもいるだろうか。

誰もが背き、迷い出て、勝手な道を行った。未だに人々はめいめい好き勝手な教師たちに群がっている。

だが、主はご自分の心にかなう人々を集められる。ひそかに召し出され、集められる。いつか地が回復されるときまでに、ご自分の勇士たちを集められる。 

そこにあなたがいるのかいないのか、自分に問うてみるがよい。あなたの心は誰に向けられているのか。あなたが神の御心に心を留めないにも関わらず、神だけがあなたに心を留められると考えることは、神を侮っている。
 
だから、横暴な主人であるこの世を捨てて、ただキリストの御もとに、清い花婿のもとへ召し出され、花嫁仕度をしなさい。

人間の権益、人間の感情と思いを離れ、聖なる方の御思いに、ほんのわずかでも心を向けてみなさい。そうすれば、あなたはきっと自分の言い分を脇に置いて、まず神の必要をかえりみざるを得なくなるはずだ・・・。  

以上のような必要性から、筆者はますます人の権益を離れ、自分を十字架で死に渡し、神の権益の観点に自分を移して行かねばならないと考えている。
 
* * *

安倍氏の私怨を晴らすためとも言われた広島代理選挙で、フライングがバレた。買収によって正しい結果を出すなど無理な相談なのだ。堅固な成果を打ち立てるためには、正しい手法を使うしかないのだから。

だから、もしも不正により裁きを曲げる人々がいても、嘘は必ずバレる時が来る。真の勝利を得るよりも前に、自分たちは勝ったと、快哉を叫ぶことは、やはり愚かすぎて勧められることではない。

勝利を得るための戦いは、極めて地道で根気強い論証作業の積み重ねであり、それは人情による癒着や、情けによって左右される世界ではないのだ。むしろ、魂では愛着の対象となるものを切り捨て、己自身に死なねばならない。それは肉と皮を切り捨て、骨だけを残すような作業である。情によって覆されることのない論理を構築し、その骨組みに固く立つことが必要なのだ。

人間とは、肉と皮からできているものではないということを、どれくらいの人たちが知っているだろうか。フワフワしたもの、ファジーなもの、曖昧でグレーなものばかりが好まれるこの悪しき時代にも、外科医は人が歩いている姿を見て、外側の造作ではなく、骨格を見る。骨が歪んでいれば、将来、発生する病気まで分かるというのだ。

神の御言葉はすべてを切り分け、真実と嘘を切り分け、何が永遠に残る価値であって、何がそうでないか、物事の真の有様を裸のようにえぐり出すことができる。

「というのは、神のことばは生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。

更に、神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません。 」(ヘブル人への手紙4:13)


物事の骨子の部分こそ、すべてを規定するのであり、肉と皮はあってないようなものだ。肉と皮は、火に焼かれればすぐに消えるが、骨は焼けても残る。

御言葉は、それ自体が、何度も何度も火に焼かれて洗練された金のようで、検証作業が尽くされているので、試されても、ぐらつくことなく、固く立ちおおせることができる。 
 
だから、「私はある」と言われる方と、全ては無であるという勢力が対峙して、後者が勝つことはない。もしそういうことがあるとすれば、それは不正にしかよらない。

筆者は不正義は見飽きているため、目もくれずに真っ直ぐ進んで行くだけだ。時代を前に進めるために筆者はこの仕事をしている。

筆者は長いスパンで物事を見、完全に満足するまで終結宣言を出さない。深く潜水し、息の長い勝負をしたい。

そこで、様々な仕事の中で、証拠固めの作業を続けている。敵の嘘を崩壊させるためには、足元から基礎を固めていかねばならない。フワフワした肉と皮ばかりの理論ではなく、固い骨格を作り上げ、がっちりと基礎を固めて動かせないようにしていくことが重要なのだ。

* * *

次々と人に訴えられながら、自分は有罪にならなかったと誇る人がいる。愚かなことだ。危ない橋を自ら渡りながら、最悪の事態に至らなかった事実を誇るなど、愚か者のすることである。 全ての証拠は語るのだ。表面的に何も起きていないように見えるからと言って、真に何も起きていないと考えるべきではない。抜け駆けや反則を常とし、蛮勇を誇る人たちは必ず罠に落ちる。

世間的に高い地位にあり、知名度があっても、過去に問題を起こした人物や団体については、調べていくと、何らかの悪事の証拠が残されている場合が多い。

そこで、筆者が遭遇する事件も、一つ一つ記録に残していくことの重要性を思わされる。その蓄積が後世の人に手がかりとなるのだ。

聖職者、法曹界の人間、政治家、行政職員などを問わず、権威ある立場にある人々による暴言、失言、不法行為、正当でない判断の情報は、克明に記録され、国民に共有されるべきだろう。

彼らは国民から監視される立場にあるのだから、そうなるのは当然である。もしも困った人が、最後の望みをかけて、法的手段を講じようとしたとき、それを出迎える弁護士や裁判官、政府の職員、聖職者らが、法をねじ曲げて、不正義を助長し、弱い者の口を封じる悪人だった場合、庶民は一体、どこに助けを求めれば良いのか?

すでに相当量の情報がネット上でアクセス可能となっている。これまでに、筆者が望みもしないのに、筆者が集めた証拠を、勝手に敵対勢力が暴露したことがあるが、その情報も、民草にとっては、極めて重要な判断材利となるものばかりだ。

だから、筆者のこれまでの努力の成果はむなしいものではない。いつかは情報を共有することになろう。

すべては国民のもの。司法も、行政も、立法も、何もかもだ。私たちの家を強盗の巣にはさせてはいけない。だが、そのためにも、筆者は見えない領域において、神の御前を歩まなくてはならない。

多くの人は、自分を有利にするために、この世の権力を利用することを考え、人におもねり、ご機嫌を伺うだろう。だが、筆者は天の権威を利用することを考える。 

* * *

この戦いは筆者のためではなく、神の国の権益のためだ。筆者はそのための兵士として召された。この国に真実のために命をかける者を神は召される。敵が尊大に勝ち誇っている時代はもうすぐ終わる。

書けば書くほど分かってくることがある。それは、言葉は武器であり、フワフワした雰囲気や、属人的な絆を断ち切って、物事の本質を明るみに出す力があるということ。私たちが主張することをやめてはならない理由はここにある。

ゴリアテは勝利を確信して快哉を叫んだが、次の瞬間に敗北した。神は生きて働いておられる。人は時間を巻き戻すことはできないが、神にはできる。

ところで、筆者が裁判所が好きだと思うのは、ここでは時間の概念が止まっており、物事を初めから是正することが可能だからだ。だが、神はそれ以上に、アダムの堕落という人類最悪の地滑りをさえ、時を超えて是正することのできる方なのである。
 
グノーシス主義者は、過去や現在の功績をもとに、未来をはかろうとする。彼らが主張するのは、いつも決まってエデンへの逆戻りだ。しかし、キリスト者は未来から現在と過去を逆算する。

悪魔はカルバリで打ち破られた。永遠の滅びが決定している。それが我々の物事の判断基準であり、我々はその事実に立脚し、全てをそこから逆算し、現実を是正して行く。

いわば、未来に立って、現在と過去という時に向かって、光を照射するのだ。
 
だが、そのようなキリスト者は、世人から見れば、あらゆる面で、実に馬鹿げた非現実的空想を信じている愚か者だろう。たとえば、福音書に記されている奇跡などは、現代にはあり得ない、死者の復活などあり得ない、悪魔などいない、キリストの再臨など夢物語だ、と言う人々は多い。

彼らは言う、こんなものを信じるのは、馬鹿げた妄想の世界の住人だけだと。

しかし、信仰者にとって、それは創作ではない。むしろ、それこそが確かな霊的リアリティなのである。

自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。」(2コリント2:14)

だとしたら、一体、それが創作ではないことをどうやって証明するのだ? それは、見えない世界におけるリアリティを現実に引き下ろし、適用することによってだ。

よくキリストの再臨を天を仰いでぼんやりと待つ人がいるが、必要なのは、そんな空を打つような作業ではない。基礎固めの作業だ。すでに知っている結論(霊的事実)を現実に引き下ろし、地に適用すること。 それは私たちが知っている霊的事実を、地に投影し、地に「アーメン(その通りです)」と言わせる作業だ。

創世記第一章1から4節までにはこうある。

「はじめに神は天と地とを創造された。地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。神は「光あれ」と言われた。すると光があった。 神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。」

私たちはそれぞれ使徒行伝の続きを生き、また、自ら天地創造の場面に立ち会い、創世記第一章に身を置いているも同然である。

キリスト者は、天に立つ者である。そこから地を見下ろすと、地は形がなく、混沌として、闇に包まれている。形がないとは、実体がないということで、事実が何であるか、地上では何一つはっきりしない。その世界はリアリティを失った虚無の深淵のごとく、移ろいゆく形のない世界だ。

しかし、神の霊が水の面にある。神の霊とは、御言葉であり、光だ。その光は、水に反射する。反射とは、アーメンと言葉を返すこと、言い分を肯定することだ。

我々人間は、自分自身が神に造られた被造物として、御言葉にアーメンと頷く存在である。他方で、我々はキリストを信じ、彼と共に天の御座に就く者として、御言葉に規定されたリアリティを、天から光として地に照射する。水はこれを大量に反射する。すなわち、我々の信仰告白にその通りだと頷く。その光の反射により、地の形が現され、この世の成り立ちが証明される。新しいリアリティが地を覆う。

その光の世界は、光を持たない闇の世界と区別されて、天と地は異なる秩序によって支配される。私たちは御言葉の光によって、レントゲン撮影のように、この地に存在する事物の本質を明るみに出し、その成り立ちを証明する。

嘘偽りを好む人間は、闇の中に隠れ、光のもとに出て来ない。そうして照らされなかったものは、すべて闇から闇へと消えて行くものでしかない。

そうして光によって検証され、試され、価値を証明されたものだけが、真に形あるもの、リアリティとして立ちおおせる。物事の価値を裏づけるのは、我々の投げかけた言葉、我々が照射した光なのだ。

聖書によれば、信じる者は、栄光から栄光へと、鏡に映すように、キリストの似姿に変えられていく。これは形なく、むなしく、混沌としていた地に光が照射されるのにも似ている。キリスト者は、自ら光を反射する者であると同時に、その光をこの世に向かって照射する者でもある。

だからこそ、神の子供たちは世の光なのであり、私たちが御言葉を持って、光を照射することにより、真実と偽りのコントラストがはっきりと浮かび上がる。

照らされなかったものは、無かったと同然に闇の中に過ぎ去る。
 
こうして、私たちの検証作業は、天と地とが共同して事物の形を明らかにするもの。何が永遠に属するもので、何がそうでないかを、決定的に明らかにし、区別するものだ。

だから、物事の是非、正邪、善悪を切り分け、何が真実であって、何が偽りであるかを明らかにするためにも、私たちは自分の言葉を発し、信仰を告白して行かなければならないのである。

* * * 

神の御言葉は首尾一貫しており、ほころびがないが、悪魔の理論には必ず、齟齬がある。悪魔は嘘を吐くとき、本音を吐いていると言う。

闇の勢力の振りかざす論は、嘘に基づいているので、必ず、どこかに論理破綻があり、それは自己矛盾している。そのほころびを丹念に取り出し、指摘していくことによって、偽りの論を覆すことができる。

敵を倒すには、敵の言葉をそのまま使えばよい。論理破綻があることを静かに指摘すること。最も有効な異議申し立ての手段は、論理破綻を明るみに出すことなのだ。そうすれば、亀裂が入った壁が崩れ落ちるように、理論そのものが崩壊に至る。

普通に考えれば、悪魔の理論であっても、権威を持って宣言された言葉を覆すのは難しいと思われるかも知れない。だが、狭き門を通過するのは、キリスト者の義務、らくだが針の穴を通ることこそ、我々の救いなのだ。 

神の御言葉は、この世のすべての言葉よりもなお強固な耐性を持ち、永遠に立ちおおせる。
 
悪魔はキリストを十字架につければ、復活が起きることを知っていたのに、御子をはりつにして殺した。今も暗闇の勢力のやり方は同じ。

だから、迫害や圧迫、報復を恐れてはならない。体を殺しても、魂をゲヘナで滅ぼすことのできない者共のすべての脅しを恐れてはならない。
 
私たち信じる者には、日々の十字架の死を通して命が働く。死が大きければ大きいほど、そこに働く命も大きい。天的な戦いにおいて被る被害は、全て神が余りある命の恵みにより覆われる。死は、命に飲み込まれる。

だから、地が混沌としているのを見、暗闇の勢力のわざを見ても、落胆することはない。 

神に従いなさい、そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなた方から逃げ去る。恐れおののいて、転び、まろびつ、命乞いをしながら、あなたの前から姿を隠し、逃げ去っていくだろう。

そして、私たちは清く、汚れなく、しみもしわもない天のエルサレム、栄光の教会として、キリストに似た者とされ、天の栄光に輝く。

その現実が現れるまで、決して退却することなく、根気強く、言葉による切り分けを続けて行くべきである。
 
「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。

わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(2コリント4:16-18)

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「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)

「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。

しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」

こういうわけで、兄弟たちよ。 私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」
(ガラテヤ4:28-31)


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