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「あなたに向かって、私は目を上げます。
 天の御座についておられる方よ。
 ご覧ください。奴隷の目が主人の手に向けられ、
 女奴隷の目が女主人の手に向けられているように、
 私たちの目は私たちの神、主に向けられています。
 主が私たちをあわれまれるまで。」(詩篇123:2)


私たちは主に見(まみ)えるために、自分自身から目を離し、主に向かって目を上げ、なおかつ、熱心に扉を叩く必要があります。主に働いていただくために、私たち自身も一定の条件を満たさなければなりません。その条件とは、ただ一心に主を見つめるということに集約されます。私たちの(心の)目が、鳩の目のようにただまっすぐに主に向けられ、主の満足が私たちの満足になるまでに、私たちの心が彼に向けられる必要があるのです。

恋人を熱心に慕う者たちのように、私たちの心の注意のすべては花婿なる主に熱く注がれます。しかし、私たちはただ愛しい花婿を慕い、彼の到来を受身に待ち望むだけの花嫁であってもいけないのです。愛する者が何を願っているのか、私たちは全身全霊で彼に注意を向けます。花婿の期待に即応できるように、私たちの目は、「奴隷の目が主人の手に向けられ」るように、彼の一挙手一投足に注目します。私たちは僕のように待機し、彼が望む事柄をすぐにでもかなえようと待ち望み、指示があるならば、速やかにそれに従います。それは私たちが奴隷のように卑屈だからでもなければ、奴隷のように彼の罰を恐れているからでもありません。私たちが花婿の満足を心から願うほど、花婿を愛し、花婿とのために喜んで自分を捧げるからなのです。そのような姿勢で主を待ち望む時、主ご自身は私たちに喜んでお会い下さるでしょう。

世にはレディー・ファーストという習慣があり、聖書における花嫁と花婿との関係についても、多くの誤解を生じさせています。世の結婚式では、主役は大抵、麗しく着飾って、幸せに満ち足りた花嫁です。多くの宣伝広告が、結婚式は花嫁の願望をかなえるために存在すると人々に思いこませようとしています。そこで私たちは、結婚式において誰よりも光り輝いているのは花嫁に違いないと漠然と考えています。場合によっては、花婿はまるで花嫁を引き立たせるための添え物のようでさえあります。

しかし、聖書の原則を見るならば、私たちは聖書における花嫁と花婿との関係が決してそのようなものでないことを知ります。子羊の結婚における主役はあくまでキリストなのです。残念ながら、花嫁たるエクレシアが主役なのではありません。彼女(エクレシア)が飾られるのもすべて「夫のため」(黙示21:2)です。神が求めておられるのは、自分を結婚式の主役としたい花嫁ではなく、純粋に彼の心を満足させる花嫁なのです。

私たちはこのことによく注意を向けなければなりません。なぜならば、私たちは女性であるか男性であるかに関わりなく、全員がキリストに対しては花嫁の関係にあるからです。それなのに、何と私たちは花婿の栄光を望まず、それよりも自分の栄光を願うのでしょう。何としばしば神を自分の満足の道具にしようと願い、神を私たちの人生の引き立て役、添え物にして、彼の栄光を盗んでいるのでしょう。しかし、私たちは花婿をさしおいて自分が主役になろうとするような花嫁が、神の御心に少しもかなわないことを知る必要があります。

けれども、同時に誤解してはならないのは、このことは決して私たちの消極性や受動性を意味するのではないということです。ある人々は大きな勘違いをしており、花婿に栄光を帰し、主の御心を満足させるためには、自分からは決して何もしないのが良いと思っています。こうした人々は言います、すべては神の一方的な恵みにより、憐れみによるのだから、自分自身から出て来る働きは不要であるばかりか、有害であり、従って、私たちは何もしないのが一番だと。そうしていれば、神が自動的に御業をなして下さると言うのです。ですから、こうした人たちは、主にお会いするために(主に働いていただくために)、あらゆる犠牲を払ってでも、扉を叩き続けるということをしません。

しかし、明らかにこれは大きな間違いです。主はそのような怠惰で受身的な態度を私たちに決して願っておられません。聖書の原則はこうです、「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」(マタイ6:7)

これは私たちがあれやこれやのご利益を主に乞い願うことを指しているのではなく、他のどんなことよりも、私たちが神ご自身を熱心に捜し求め、主にお会いするために、あらゆる犠牲を払って、扉を叩き続けることを指しています。何と残念なことでしょうか、あまりにも多くの人々が、主の御手からあれやこれやの祝福を受けることは愛しても、主ご自身を求めず、主ご自身をこのような排他的な愛で愛さないのです。

しかし、上記の御言葉は、明らかに次の御言葉とも呼応しています、「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(黙示3:20) これは主の御心と、私たちの心とが呼応し、一つになる必要を指し示しています。戸の外でしばしば冷たい雨にずぶ濡れになりながら、私たちの心の扉を叩いておられる主の熱い思いと、主にまみえるまでは決してあきらめないという強い思いで主を捜し求め、扉を叩き続ける私たちの思いが呼応し、ぴったり一致する必要があるのです。命をも投げ出すほどの排他的な愛によって私たちを求めて下さった主の愛と、死に至るまでも従順にただ主だけを求める私たちの愛とが全く呼応する必要があるのです。

主にお会いするためには、明らかに、私たちの側でも満たさなければならない条件があります。神は私たちの自由意志を尊重しておられます。ですからもしも私たちが自分の意志を最大限に活用して、主を切に追い求めないなら、主が私たちの人生に現れて私たちにお会いして下さることもないでしょう。

次にそれでは、切に主を求めるとはどういうことを指すのでしょうか? ある人々は「主のために」ひっきりなしに活動にいそしみ、そのような活動熱心さが、すなわち、主を追い求める熱心さだと勘違いしています。しかし、目に見える活動が、すなわち主を追い求めるを熱心さなのではありません。

聖書には何度も、私たちの神は隠れたところにおられる神であること、彼は隠れたところで隠れたことがらを見ておられる神であることが示されています。

「イスラエルの神、救い主よ。
 まことに、あなたはご自身を隠す神。」( イザヤ45:15)

「あなたは祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」(マタイ6:6)


このことから分かるのです。私たちが神を求め、神を捜し求めなければならないのは、神がご自分を隠しておられるからです。従って、隠れたところにおいでになる隠れた神を捜し求めるとは、決して、目に見える外側の現象を追い求めることではなく、私たちの心の内側で人知れず進行する目に見えない過程のことであり、私たちが、心の全てを尽くしてただ見えない主ご自身だけを求める姿勢を言っているのだと分かるのです。言い換えれば、私たちの心の目がただ熱心に主だけに対して注がれること、どんなに主が私たちを喜ばせて下さったとしても、外側の現象に目を奪われ、恵みのゆえに主を愛するのではなく、たとえどれほど不利益をこうむっても、主ご自身を選び、彼だけを愛し、主ご自身を切に追い求めること、これが主が私たちに会って下さるために、私たちの側で満たさなければならない条件です。

「…そこから、あなたがたは、あなたの神、主を慕い求め、主に会う。あなたが、心を尽くして、精神を尽くして切に求めるようになるからである。」(申命記4:29)

これまで、私たちは自分は多少なりとも主を追い求めていると考えていました。自分は熱心なクリスチャンだとの自負さえ持っていました。しかし、残念ながら、私たちがどれほど主を求めていないか、どれほど主ご自身を知らず、どれほど主以外のものを愛し、主以外のものに頼って生きていたかが、逆境の日にあって暴露されます。その時、私たちは自分の不信仰が分かります。私たちがそれまで頼って愛して来た外側のものを全て剥ぎ取られるとき、主ご自身の他には何も頼るべきものがなくなるとき、私たちが求めて来たものが主ではなかったこと、主を求めるとは、本当は何を意味するのかが初めて分かるのです。

平和なときに次のくだりを読めば、私たちはペテロの不信仰を笑いさえするかも知れません。しかしこれは私たちの信仰の歩みそのものを象徴する出来事なのです。

「…イエスはすぐに彼らに話しかけ、『しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。』と言われた。すると、ペテロが答えて言った。『主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。』

イエスは『来なさい。』と言われた。そこで、ペテロは船から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、『主よ。助けてください。』と言った。

そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。『信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。』そして、ふたりは船に乗り移ると、風がやんだ。そこで、船の中にいた者たちは、イエスを拝んで、『確かにあなたは神の子です。』と言った。」(マタイ14:27-33)


私たちの人生は、主によって召し出されたその日から、ずっと水の上を歩くことの連続です。水はバプテスマ、死を象徴しています。私たちはキリストの十字架を信じて、この世から召し出されました。この世は私たちに対して十字架につけられて死にました。私たちはこの世の闇の王国から贖われ、愛する御子の支配下に移されました。

にもかかわらず、依然として、死んだこの世が私たちに対して威力を発揮するように思われるのです。十字架につけられたはずの肉、古き命が私たちを堕落させようとして威力を発揮するのです。水が静かなうちは、私たちは自分の信仰は立派で、どれほどでも歩いて行けると自負しています。ところがどうでしょう。ちょっとでも波が起こり、嵐が起こって来ると、もう私たちは外側の現象に翻弄され、ぐずぐずと自分の命の心配にとらわれるのです。

その時、私たちは十字架の死を本当には受け入れていない自分自身を見いだします。信仰によって歩いて来たと考えていながら、実は自分の能力に頼ってこれまで歩いて来ただけである事実を見いだします。私たちは水を恐れます、荒れ狂う現象を恐れます、私たちは獲得したものを失うことを恐れて、自分をかばおうとします、その時、私たちはどれほど多くのものを自分のこの手に抱えていたかに気づきます、あんなにも自負していた信仰はどこへ行ったのでしょう、「主よ、どうしてくれるのですか? このままでは私は死んでしまいます! 助けて下さい!」

多くのクリスチャンはこの時べテロが見せたような動揺をみっともないと考え、できれば避けたいと願うかも知れません。しかし、主の眼差しは人間の眼差しとは異なります。主は常に私たちをこのような徹底的に無力な地点へと連れて行きたいと願っておられると私は確信します。それは私たちが自分では何もできないことを本当に知らされ、それまでにしがみついて寄り頼んで来た自負心から目を離すためです。

残念ながら、多くのクリスチャンはなりふり構わずただ主だけを求めることが必要な地点へともたらされることがありません。これは行き詰まりがないということであり、傍目には幸福に思われるかも知れませんが、実は大変に不幸なことであると私は思います。

ただ主にだけより頼むとは、私たちが自分からは何もしようとしないという受身や消極性とは全く異なります、私たちは自分の全てをかけて、全身全霊で主によりすがるのです。後には退くことのできないところに立って、主だけに全てを賭けるのです。もし主が答えてくださらなければ、すべてを失うという地点に立って、主を求めるのです。(このような状況を、私たちが自分から用意する必要はありません、私たちに十字架を受け入れたいとの願いがあるならば、主がそれを整えられるのです。)その時、それまで「私にはできる」と言っていた私たちの言葉は、「私にはできません」との叫びに変わります。しかし、「主よ、助けて下さい!」と私たちが心から叫ぶならば、主は聞き届けてくださいます。私たちが自分から目を離し、見える現象から目を離し、私たちの心の眼差しをただ見えない愛する花婿にまっすぐに向けるならば――そうです、彼以外の誰がこの状況に対して答えを出しうるでしょうか――、命なるお方が死の状況に対する唯一の答えとなります。

私たちは命なるお方を知るために、それ以外のものに頼る態度をきっぱり捨てねばなりません。命の道を選ぶためには、死の道をきっぱり拒絶する必要があるのです。アダムの命に属するものにより頼むなら、そこには何の希望もありません。アダムの命により頼みながら、キリストのよみがえりの命に頼ることはできないのです。そのために、何度も、何度も、自分の古き命の限界に達して十字架の意味を内に啓示される必要があるのです。十字架を通さずして神に至る道はありません。ただ窮地に陥ったからといって、主を求めるのではなく、絶えず本当に主だけを求めるようになるために、私たちはバプテスマを受けて後も、何度も、何度も、水の上を渡ることを求められるのです。

やがて、私たちは主が私たちを助けて下さるのは、ただ私たちが自分の命を救うという目的のためだけではないことを見いだすでしょう。主にはさらなる偉大なご計画があります。しかしいずれにせよ、私たちが自分の中に頼るべきものがないことを知り、全てを賭けて主を信頼する時、花婿はこの信頼によって栄光をお受けになります。もしも私たちが他の全てのものを捨てて、純粋に彼だけを選び、そして彼を信頼するなら、彼は必ず応えて下さいます。

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【心からアーメン】
素敵な記事です。とても励まされました。ぼくたちにも、同じことが教えられています。不思議ですね。

『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。

もっとも大きな戒めです。

ぼくたちは、生涯をかけて、人生をかけて、命をかけて、主を愛したいですね!

【Re:心からアーメン】
ハレルヤ!

とても嬉しいコメントを感謝です。

そうなのですよ、震われないものが残るために全ての目に見えるものが震われているこの大変な時期、主が戸口に立っておられればこそ、シメオンとアンナのように主を待ち望む者には新たな喜びが沸いてくるのですね。

昨日は久々に映画「クオ・ヴァディス」を観ました。かつてはネロによるクリスチャンへの迫害や、ローマへの放火といった衝撃的で悲劇的な現象にばかり目が行ったものですが、今観るとリギアとウィニキウスの(素朴な)愛のドラマが心に迫って来ます。

それは信仰によって練られていく彼らの愛に、あらゆる困難を越えて結ばれるキリストとエクレシアの婚礼が重なって見えるからです。いつ観ても今日の状況と重なる部分が多い映画ですが、今は特に、目に見えるものが大きく揺さぶられ、人の作り上げた価値観が音を立てて崩れ去り、目に見えるものの偽りと不真実が明白になり、その悲惨さに多くの人たちの目が奪われていく中で、この暗黒の死の状況の中から、まことのいのちそのものであられる唯一のお方の真実ないのちの力と輝きが、より一層、否定できない形で放たれると思うのです。

神は愛をもってアダムを祝福されました、そして「生めよ、増えよ、地に満ちよ」と言われたのです。今、改めて、神は人を初めはこのような祝福の中で生かそうとされたその真実を思うのです。悲しいことに、アダムは堕落によって地を相続する資格を失い、祝福から除外されました。アダムの命に生きるなら、生きようとするもがきさえ死に至ります。

アダムは失格したのです。しかし、神はそれでも人をあきらめられませんでした。キリストが十字架で愛によってその命を投げ出して下さることにより、神は初めのご計画に立ち帰る道を再び私たちに切り開かれたのです。キリストとともに十字架の刑罰を受けることを通して、私たちはアダムの命に死に、アダムの腐敗とは何の関わりもない、彼の新しい聖いいのちによって生かされました。

万物は震われ、巻かれ、滅びるでしょう、しかし、私たちは彼のいのちによって生かされる新しい天と地の相続人なのです。そして御国はすでに私たちの只中に来ています。

何ということでしょうか。聖書を見るならば、神は常に人とともに住まいを得たいと切に願っておられたことが分かります。ダビデが神殿を建てることを考えたとき、主はお喜びになりました。それは主のために住まいをもうけることが、神の御心にかなっていたからです。ソロモンが神殿を建てましたが、その神殿はやがて神の御心を離れ、神の住まいからはほど遠くなって破壊されました(結局、アダムは神とともに生きることができないことだけが証明されました)。

しかし、神はあきらめられず、キリストを通して人が再び神とともに住まうご計画を最初から用意され、今も着々と成就されつつあるのです。子羊の婚礼の時が近づいています。戸の外に立って叩いておられる主の声を聞いて扉を開け、彼を迎えるならば、彼はその中にはいってその人と食事をともにすると言われるのです。

これは何と単純で素朴な愛の表現でしょうね。キリストにあって召し出された者が、花嫁として整えられて、主とともに住まいをもうけるために迎えられる。この時代がどんなに苦難に満ちていたとしても、数々の試練は花嫁を子羊にふさわしく洗い清めるでしょう。その白い衣は、試練と、子羊の血によって清められて来たものです。

上手く表現はできませんが、神と人とがともに住まうという、この素朴で偉大なドラマの進行を考えると、なぜか心に喜びが満ちずにいられないのです。それは、そこにこそ、神が何よりも得たいと願っておられる御旨の成就があり、御旨に従順に応答して神を喜ばせる花嫁があるからなのでしょう。

私は確信していますが、神を愛し、神とともに生きることによってのみ、人は本来設計された通りに、健やかに幸せに生きることができるのであり、神が私たちにお与えくださる愛に満ちた尊いいのちの中でこそ、私たち人も互いに愛し合うことが可能となるのです。それ以外(キリストのいのち以外)のものによって、人は健全に生きることはできない。今後、そのことがより明白にされる時代になると思いますよ。

どうか主がご自身の愛によって私たちを満たして下さり、キリストの愛を、キリストの御思いを私たちのうちに全うして下さいますように!私たちが主を知ることを切に追い求め、彼のよみがえりのいのちをもっと知ることができますように!
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「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)

「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。

しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」

こういうわけで、兄弟たちよ。 私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」
(ガラテヤ4:28-31)


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