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久しぶりに、政治的話題からは逸れることになるが、少し前のオリーブ園から記事を引用しておきたい。

子たる身分において彼と一つである


 「それゆえ、彼は彼らを兄弟と呼ぶことを恥とされません」。「見よ、私と、神が私に賜った子供たちを」。彼は下って来て私たちの人性を身にまとわれただけでなく、私たちを彼の神性の中にもたらして下さいました。なぜなら私たちは、実際に、彼を通して、「神聖な性質にあずかる者たち」だからです。

彼ご自身の存在そのものが私たちの中に分与されます。そして、御父に対する彼の実際の関係に、私たちはあずかります。「行って、私の兄弟たちに告げなさい」と彼はマリヤに言われました。「私は、私の父またあなたたちの父、私の神またあなたたちの神のもとに行きます」

これは養子にされることではありません。出自不明な可哀想な子供が貴族の家庭に迎え入れられて、法的な息子・世継ぎになるのとは違います。そうではなく、その子供が再び生まれて、その貴族の家庭の血族になるようなものです。

私たちは実際に神と同じ性質にあずかる者にされました。ですから使徒ヨハネは、私たちの子たる身分の深遠な現実を、素晴らしい言葉で見事に言い表しました、「見よ、私たちが神の子供たちと称されるために、何という愛を御父は私たちに授けて下さったことか」

それから彼は、「私たちは神の子たちなのです」と付け加えます。神の子と呼ばれて法的にそう宣言されるだけでなく、神の命と性質を受けたがゆえに、実際に神の子なのであり、私たちの主のまさに兄弟たちなのです。彼の人性において彼の兄弟たちであるだけでなく、それ以上に、彼の神聖な関係においても兄弟たちなのです。

彼はこの権利にあずかる資格を私たちに与え、私たちをそれに相応しい者にして下さいます。彼は私たちを、そのための教育を受けていない不相応な立場に着かせるのではありません。私たちの輝かしい立場にふさわしい性質を私たちに与えて下さるのです。そして、私たちが完成されて輝かしい地位に着き、彼ご自身の似姿を反射して、御父の栄光の中で輝く時、彼が私たちをご覧になって恥ずかしく思う理由はまったくありません。


 今この時ですら、彼は全天全地の前で私たちのことを認めて下さり、私たちを兄弟と呼んで下さいます。ああ、これは最も低い神の聖徒にさえ、何と威厳を与えることか!彼は「私たちを兄弟と呼ぶことを恥とされない!」のですから、私たちはこの世の誤解を少しも気にする必要はありません。

イギリスのある将校の話です。その将校は、目立たない地位から高い地位に昇進したせいで、仲間の将校たちから無視され、嘲られていました。彼らはその人の卑しい出生を忘れようとせず、冷たく無視して通り過ぎていました。それを聞いた彼の上官は、ある日、兵営の中に入り、その人の宿営に向かって行って、そこに腰を下ろし、しばらくの間、彼と話をしました。それから、上官はその人の腕をつかみ、将校たちの宿営の前を半時間ほど腕を組んで歩きました。上官が通り過ぎる時、将校たちは深い尊敬を込めて敬礼しましたが、この敬礼に上官の連れもあずかりました。それから、上官はその地を去り、将校たちは驚き謹んでそのあとを見送りました。その日を境に、この新しい将校は常に敬われるようになったのです。その上官は自分の部下を恥としなかったのです。


 このように、私たちの祝された兄弟は、私たちの親類であることを、天地の前で宣言して下さいます。このように、彼は私たちの祈りを御座の前にささげ、御父の御顔の前で私たちの名を認めて下さいます。そして、死すべき人の名を、この宇宙の最高法廷で誉れあるものにして下さるのです。

* * *

この記事は極めて大切なことを言っている。

それは、私たち信じる者は、出自においてキリストに結ばれるだけでなく、性質においても、この方同様になるということだ。

最後の一文を、噛みしめるように読む。

死すべき人の名を、この宇宙の最高法廷で誉あるものにして下さるのです・・・

筆者はこのところ、大事な書類が長い間、書けないでいた。だが、筆者がそうして気力を失っていた間、驚いたことに、まるで筆者のために、この世の時計という時計が止まったように、コロナを口実に、あらゆる締め切りが止まってくれた。

昔、ヴァイオリンの教師がよく話してくれた五嶋みどりの「タングルウッドの奇跡」を思い出す。彼女がまだ少女だった頃、タングルウッド音楽祭の舞台でソリストとして演奏中に、ヴァイオリンの弦が二度切れた。一度目は、彼女が楽器を取り替えるまで、指揮者は指揮棒を振り上げたまま、演奏が止まった。指揮者はバーンスタイン。

まるでそれと同じように、見えない領域で、筆者が楽器を取り替えて演奏再開の準備ができるまで、すべての手続きが止まったかのようであった。
 
今、この国で起きているのは、まるで見えない戦争である。負けると分かっている戦争に、残る最後のなけなしの富まで投入し、一億玉砕へ向かっているようにも見える。
 
そんな中で、虚無に服した被造物が、呻きながら、神の子たちの現れを待ち望み、自分たちが滅びへの隷属から解放されて、栄光に満ちた自由にあずかれるときを待ち望んでいる、という聖書のフレーズを思い出す、

「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしたは思います。被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。被造物は、虚無に服していますが、それは、自分の意思によるものではなく、服従させた方の意思によるものであり、同時に希望も持っています。つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。

被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。被造物だけでなく、”霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。わたしたちは、このような希望によって救われているのです。

見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。」(ローマ人への手紙8:18-25)

今、目に見えているものを誰が待ち望んだりするものだろうか。見えていないからこそ、信じて待ち望むのだ。

人間が本当に心から望んでいることは何か。

たとえば、現政権が終わることか。この曲がった世の中が是正されることか。自分の居場所が出来ることか。富が、栄光が手に入ることか。

確かに、政治が変わること、世の中が変わること、生活を打ち立てること、それらが重要でないとは言わない。

だが、私たちにとって最も重要なのは、おそらくそのどれでもないだろう。

人が心から望んでいるのは、自分自身の造り変えである。

冒頭に挙げたオリーブ園の記事では、上官が一緒に腕を組んで歩いた将校が、それによって、ようやく彼を蔑んでいた仲間の将校たちから尊敬を得て、受け入れられるようになる一幕が記されている。

だが、上官と腕を組んで歩いたとしても、それだけで、人の内側が造り変えられるわけではない。人々の反応が変わっても、それはあくまで外側の事実である。

私たちが望んでいるのは、内側からの造り変えだ。滅びゆく卑しい自分自身の人格が、キリストの性質を受け継ぐ人格に造り変えられる過程なのだ。

多くのクリスチャンは、自分は救われたと言って喜んでいる。だが、彼らの人格は依然として救われる前のままで、生来の気性をそのまま引きずっており、何ら変化が伴わない。

魂が救われたと信じるところで満足して立ち止まり、そこから一生、変化しないまま終わるのだ。

筆者はそれは何かおかしいのではないかと思っている。

この世には、人が自分で自分の心をコントロールし、無意識に至るまで造り変えるためのノウハウが出回っている。

だが、筆者が述べているのは、そういう次元のことではない。催眠療法にかかって幼少期のトラウマを手放せば、心が自由になるといった次元の話ではないのだ。

そういう人為的・作為的な心のコントロールではなく、神の御霊が人の心に触れることによって、人が造り変えられる過程のことである。

キリストはご自分の命、人格、ご性質をすべて私たちに付与されたのだから、私たちはキリストの持っておられた性質にあずかることができるはずである。

それにも関わらず、なぜいつまでもずっと古い、生まれながらの自分自身を引きずって、呻きながら、もがきながら、その限界の中で生きていかなければならないのだろうか。

もちろん、生きているうちに完全な聖化が成し遂げられるとか、完全な贖いがあると、筆者は言うつもりは毛頭ない。

だが、キリストの命が確かに私たちの内に宿っているならば、彼はご自身の新しい性質、新しい命、新しい人格を、私たちの内側に分与し、形作っていくことができるはずなのだ。 それがない信仰は、ほとんど力を失った、嘘のようなものだと言えるだろう。

<続く>

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「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)

「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。

しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」

こういうわけで、兄弟たちよ。 私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」
(ガラテヤ4:28-31)


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