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<つづき>

<…>この出来事から言えることは、ウジヤ王は霊的にも道徳的にもイスラエルを代表していたということ、そして、イスラエルの預言者たちをも大部分代表していたということです。

これが、「私はくちびるの汚れた者であり、しかもあなたたちの預言者です。私はくちびるの汚れた民の間に住んでいる」という預言者イザヤの二重の発言の意味です。そしてこれは、はっきりとわかるように、ウジヤと関係しています。

ご存じのように、らい病に冒されている者は衣を上くちびるにあてて、「汚れている!」と叫びながら行き巡らなければなりませんでした。「私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる」という言葉の意味は、私たちは皆らい病に冒されているということにほかなりません

イザヤは事実上こう言います、「ウジヤに言えることは、私たち預言者や民にも全員言えます。あなたはこれを理解していませんし、私も主を見るまでは理解していませんでした。私たちはみな、ウジヤの件で起きたことに、とても深く印象づけられています。私たちはこの件に対する恐れに満ちた雰囲気の中で生活してきましたし、このことを声をひそめて話してきました。『これはなんと恐ろしいことだろう。ウジヤはなんと邪悪なことをしたことか。私たちの王がこんなことになって、このような最後を迎えるとは、なんと恐ろしいことだろう。らい病はなんと恐ろしい病だろう』と私たちは言っていました。

私たちはウジヤを非難し、『彼の一件はなんと悲惨なことか』と多くの感想を抱いていましたが、私たちもみな同じであることを私は見るようになりました。私(イザヤ)はこれまであなたたちに説教してきました(五つの預言の章がこのイザヤ書6章の前にあることを忘れないで下さい。これは説教生活開始時のことではなく、彼が自分の人生で新たな啓示に目覚めた時のことです)。私はこれまで説教や預言をしてきました。その私が、自分はウジヤに優る者ではないことを見るようになったのです

民よ、あなたたちは宗教的儀式や式典を巡り行き、神殿に詣で、犠牲をささげ、礼拝で自分のくちびるを用いていますが、そのあなたたちもウジヤと同じです私たちはみな、らい病に冒されているのです。あなたたちはこれを理解しないかもしれませんが、私は見るようになりました。どうやって見るようになったのでしょう? 主を見たことによります!<…>

主は地上の人々を取り扱っておられます。そして彼は、人々をどう見ているのか、彼らに対してはっきりさせようとしておられます。たとえその人々が大いに宣べ伝えてきたとしてもです。結局のところ彼ら自身が彼の目にどのような者なのか、彼ははっきりさせようとしておられます遅かれ早かれ、万事を守り、彼の御旨を確保するために、この現実は私たちの上に臨まなければなりません



神が求めておられること


神は何を求めておられるのでしょう?もしあなたの目が見えるなら、もし神の求めておられるものが見えるよう、あなたの目を開いてもらうことができるなら、あなたは彼の方法と、なぜ彼がこの方法を使われるのかを理解するでしょう。

第5章は神が求めておられるものを明らかにします。彼は御心を満たす民を求めておられますその民はレムナントと呼ばれていますそう呼ばれているのは、そのような民がレムナントにほかならないからです民全体が彼の御思いに従うことはないであろうことを、彼はとてもよくご存じです

彼は、御子の来臨の時代にまで至る御民の歴史と、この民が御子に行うことを予見しておられました。彼は民の心をご存じです「この民の心を肥えさせ、その耳と目を閉ざす」という恐ろしいことを行うよう、彼がイザヤに命じられるのはこのためです。彼はご存じです。


しかしそれにもかかわらず、応じる者たちがいるでしょう彼らはレムナントにほかなりません。このレムナントは6章の終わりで特に次のような言葉で述べられています――

そこになお、十分の一が残されても、それもまた、食い尽くされる。テレビンの木や樫の木が倒される時、その切り株が残るように、聖なるすえは、その切り株である。



倒された木の切り株――これに先立つのは木が倒れることであることがわかります。イスラエルを切り倒すために、また裁きの道具として用いるために神が召される国々によって、イスラエルは倒されるでしょう

その国々はイスラエルというこの木を倒しますが、その切り株が残ります――木全体が対処される時、この切り株の中に十分の一、レムナント、聖なるすえが残されるでしょう神は、御民の一般的群れ全体の中から、御心を満たす一つの群れを求めておられますそして、このレムナントを確保するために、彼はイザヤをとらえ、このような方法で彼を取り扱い、彼にこの幻を与えられます

愛する人たち、神が御旨を達成するには、私たちは徹底的に迷いから覚めなければなりませんし、神の目に自分自身がどのような者なのかとてもはっきりと見えるようになるよう、私たちの目を開いてもらわなければなりませんこれは恐ろしい啓示です!

自己満足、安心感、達成感、現状への満足感――これらの疑いがあるものや、それを示唆するものは何でも、レムナントの中にある資格を失わせますし、神の目的、神の御旨に役立つ者である資格を失わせます


ですから、イザヤ書の最初の5章でこの人が広範に及ぶ神の主権的裁きについて語り始めた後で、突然神が彼を捕らえられたように思われます。彼自身の生涯と彼自身の務めに転機が訪れます神の目に彼がどのような者なのか、また民がどのような者なのかということについて、神は極みまでも彼の目を開かれますウジヤに起きた恐ろしい出来事について裁き、非難し、息を殺してあのような言葉を話していた彼や人々は、自分たちも同じくらい悪いこと、何の違いもないことを示されました神の目には、彼らはみな衣を上くちびるにあてて、「汚れている、汚れている!」と呼ばわっていたのです


 

自己の命というらい病



このらい病とは何だったのでしょう? 「ああ、もちろん、それは罪のことです」と私たちは言います。たしかに罪のことです。しかし罪とは何でしょう? ウジヤを見ることにしましょう。<…>

「彼はすべて父アマツヤが行った通りに、エホバの目にかなうことを行った」。そして彼が主の道を歩んでいる間、神は彼を栄えさせられました。主に祝福され、主の光の中を歩み、主の恩恵を受けている人でも、それと同時に、すべての人の心の中に深く根を張っている例のものが、立ち上がって神の恵みを自分の功績にしようと常に待ちかまえています

自分のために名を上げ、自分のために地位を獲得し、栄達、栄誉、力、影響力、満足を自分のものとし、名声と地位を自分に得ようと常に待ちかまえています。そういうことです。らい病とは何でしょう? 神にとって忌むべきものであるこのものは何でしょう? これはあの自己の命にほかなりません。

自己の命は私たち全員の中にありますそれは神の事柄の中に常に入り込みさえして、それを個人の利点や功績にしようとしています主が祝福されると、私たちは主が祝福して下さったがゆえに、「自分はひとかどの者になった」と心の中でひそかに思うようになります自分に臨んだ祝福は神の恵みとあわれみを通して来たことを忘れ、私たちは「自分の内には祝福にふさわしい何かがあるにちがいない」とひそかに思い始めてしまいます

その何かとは自分の能力、自分の賢さ、自分の内にあるものですああ、高慢や霊的高慢さえも生み出し、自己のエネルギー、自己の力、自己主張、自己十全性によって、私たちをウジヤのように聖なる事柄の中に押し入らせるもの――これは奥深くにあるものであり、私たち全員の内にあるらい病菌であり、多種多様な道を取る自己の命です。そうです、らい病とは、どれほど現れたとしても、自己、自我の根源のことです。


ここに<…>祝福と繁栄の危険性があります。ああ、祝福のさなかに十字架につけられることを、私たちはどれほど必要としていることか! 祝福を安全なものにすることを、神はどれほど必要としておられることか。祝福を安全なものにすることは、私たち自身のこと、すべて恵みから出ていることを、神が絶えず私たちに示し続けることによります

また、神が私たちにいかなる種類の祝福、成功、繁栄を与えられたとしても、それは彼の目に私たちがそれにふさわしいからではないということを、たとえ人がどう思ったとしても、神が絶えず私たちに示し続けることによります。たとえ私たちが人々の間でどのような者だったとしても、神の目に私たちはらい病人にすぎません。

大事なのは、いかにして人々の間で成功するかということではなく、いかにして神と共に進んで行くかということです私たちはこの世で非常な高位に達するかもしれませんが、神と共に達するかどうかが大事なことです

さて、この話は私たちの多くを素通りしているかもしれません。なぜなら、私たちは祝福と繁栄をさずかった覚えがあまりなく、誇れるものもあまり多くないからです。私たちの多くは逆のこと、すなわち空にされることや低くされることを相当経験しています。しかし核心を突きましょう。たとえどん底にあっても、私たちの内には渇望があり、その渇望は自己の渇望なのですまた反発があり、その反発は自己の命の反発なのです

さて、人々や預言者の内にあるものを示すために、ここではウジヤが白日の下にさらされています。それは御旨に達することを神にできなくさせるものであり、対処されて暴露されなければなりませんそれを見過ごすことはできません。引きずり出して、それを私たちは見なければなりません


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「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)

「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。

しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」

こういうわけで、兄弟たちよ。 私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」
(ガラテヤ4:28-31)


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