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「ヤコブよ、なぜ言うのか
 イスラエルよ、なぜ断言するのか
 わたしの道は主に隠されている、と
 わたしの裁きは神に忘れられた、と。

 あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。
 主は、とこしえにいます神
 地の果てに及ぶすべてのものの造り主。
 倦むことなく、疲れることなく
 その英知は究めがたい。

 疲れた者に力を与え
 勢いを失っている者に大きな力を与えられる。
 若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが
 主に望みをおく人は新たな力を得
 鷲のように翼を張って上る。
 走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」(イザヤ40:27-31)

なぜ鷲は天高く翼をかって飛んでも疲れないのか、その理由として、上昇気流に乗って飛ぶからだということが解説されていた。

上昇気流に乗って飛ぶ・・・、このことは我々キリスト者にとっても非常に重要であると筆者は考える。

キリスト者が翼をかって天高く舞い上がる秘訣となる上昇気流とは何か?と問うならば、その答えは、「望み」であると筆者は考える。

私たちを高く舞い上がらせる原動力となるものは、私たち自身が心に抱く望みであり、その望みの高さが、私たちを舞い上がらせる高度を決める。
 
フィリピの信徒への手紙にはこうある、「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。」(フィリピ2:13)

また、エフェソの信徒への手紙にはこうある、「わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。」(エフェソ3:20-21)
 
私たちは自分が思いのままに何かを願い、志を立てているように思うかもしれないが、神が私たちの心に願いを起こさせて下さることがここに記されている。

しかし、しばしば私たちは、もはや二度と翼をかって天高く舞い上がることもできないほど、どん底に突き落とされたように感じることがある。望む気力さえもはや残っていないほど、疲れ果ててしまうこともある。

だが、それでも、時と共に、主は私たちの内なる人を強めて下さり、その苦難の只中からさえ、新たな望みを引き出して下さる。

そして、その新たな望みが、私たちを再び、天の高度へ引き上げ、主に似た者へと変えて行く原動力になる。

「しかし、主の方へ向き直れば、覆いは取り去られます。ここでいう主とは”霊”のことですが、主の霊のおられるところに自由があります。わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」(2コリント3:17-18)

ここで言う主の似姿に変えられること、栄光から栄光への変遷、それはまさに一つの望みから新たな望みへと、上昇気流を掴みながら天の高度を飛んで行くようなものである。

とはいえ、もちろんのこと、その望みとは、人がてんでんばらばらに自分で思い描く望みではなく、主が与えて下さり、主の御心を満足させる望みでなければならない。
 
人にはあたかもすべての望みが潰えてしまったように思える時があるだろう。しかし、主は、地中に深く埋もれた種のごとく、私たちの望みを保って下さる。その望みが、時が来て発芽する。そして、私たちの目の前に天からの贈り物のごとく現れる。

キリストの復活の命は、支配する命であると書いた。その支配は、私たちが心に抱く望みと連動して働く。それはこの世の物流も、経済も、何もかも超越して支配する命である。

「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。わたしたちは、願い事は何でも聞き入れてくださるということが分かるなら、神に願ったことは既にかなえられていることも分かります。」(一ヨハネ5:14-15)

もしも御心にかなう望みを抱くならば、それは神に聞き入れられていること、すでに望みはかなえられていることを信じなさい、とある。

筆者は望みが潰えてしまったように感じられるときに、多くの望みの芽が発芽するところを見させられて来た。たとえば、神は正義を実行されることを決してためらわれる方ではない。

だから、筆者が正義や真実をこの地に引き下ろすための戦いをあきらめようとしても、それで戦いが終わることはない。神は何がご自分の真実であるかをはっきりと全世界に示される。そのために、道端の石からでも、ご自分のための証人を起こすことがおできになる。

そこで、私たちがもう疲れた、戦いは終わった、全世界は悪しき者に牛耳られ、キリスト者には一縷の望みもない・・・、などと思っているところから、神はご自分の力を発揮される。それが死を打ち破る復活の力なのである。

キリスト者には失敗というものはなく、人の目にどんな失敗と見える事柄であっても、神はそれを修正してもとの軌道に戻すことがおできになる。だから、何事も悔やむ必要もなければ、思い悩む必要もないのである。
 
また、私たち自身が、自分でも心に願っていることを気づいていないような、かすかな願いであっても、神はキリストの復活の命を通して、これをただちに実現に至らせる力を持っておられる。私たちは何かを願ってから、それがかなうまでには、大変な時間がかかると考えているかも知れないが、必ずしもそうではない。

キリスト者の願いは、この世のすべてのものが、その支配に服する高き御名をつけられた方の命と連動して働いている。だから、願ったとき、もうすでにそれは私たちの手に、まるで目に見えるもののように約束として与えられていることを信ずるべきなのである。

神は何より正義と真実を愛される。公義を行なわれる方である。だから、正しい者が悪者にとらえられて裁かれ、罪に定められることを決してお許しにならない。主に逆らう者が滅ぼされるときを、正しい者はその目に見ることができる。それが聖書のあらゆる箇所で約束されている事柄であり、また、筆者が心から望んでいる結末でもある。

それが御言葉の約束である以上、それは必ず成就するから、現状がどのように見えても、人々には落胆しないでもらいたい。筆者があきらめたとか、退却したとは思ってもらいたくない。神は今日も生きて働いておられ、御言葉の約束も確かなものとして生きて効力を及ぼしている以上、主に信頼を置く者が見捨てられたり、恥をこうむることは決してないのである。

そういうわけで、私たちは御言葉の約束を手に心の限りを尽くして主に呼ばわり、その約束の実現を権利のごとく求め、固く信仰に立って歩みを進め、未来に何が起きるのか、神がどれほどはかりしれない恵みを私たちの信仰の報いとして与えて下さるのか、大きな期待感を持って主を見上げるべきである。
   
「主に従う人は、口に知恵の言葉があり
 その舌は正義を語る。
 神の教えを心に抱き
 よろめくことなく歩む。
 主に逆らう者は待ち構えて
 主に従う人を殺そうとする。

 主は御自分に従う人がその手中に陥って裁かれ
 罪に定められることをお許しにならない。
 主に望みをおき、主の道を守れ。
 主はあなたを高く上げて
 地を継がせてくださる。
 あなたは逆らう者が断たれるのを見るであろう。」(詩編37:30-34)
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「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)

「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。

しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」

こういうわけで、兄弟たちよ。 私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」
(ガラテヤ4:28-31)


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