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大晦日である。晴れた空に,夕日がいつになく美しく輝いていた。

その日は、筆者の関わるキリスト者の交わりが、文字でなく、音声でもなく、顔と顔を合わせた生きた交わりとなり、筆者の中で、エクレシアが完全に復興を遂げた日であった。

特段、何かがあったわけでないのに、信仰による交わりがあったというだけで、ここ数ヶ月の間、一度も味わったことがないほどの平安が心に訪れた。果たすべき課題はまだたくさん残っているが、それらをすべて脇に置いて、休むことができた。

これまでにも、様々な交わりに出席してきたが、その頃と今とでは、何かが違う。

こんなことを言われた。

「あなたにはねー、こんなこと言っていいかどうか迷ったんだけど、今朝、ヴィオロンさんと『不器用』という言葉が一つにつながったんだよ」

筆者はそれを聞いて「それはひどいですねー」とうわべは抵抗を見せつつも、頷いて笑う。

筆者は確かに不器用な人間であり、人のために何かしてあげようと思っても、そのタイミングを逸することが多い。筆者が動こうとする前に、気の利いた誰かが、もうすでに人々の世話に着手しているからだ。

ところが、キリスト者の交わりとなると、そんな不器用な筆者からも、世話を受ける人が出て来る。互いに仕え合い、満たし合う関係が不思議に成立する。

その日の話題は、主にあって、いかに自分の生来の力に対して弱められ、それに死に、主の力によって強められて生きるか、というところを巡っていた。筆者が不器用であっても、私たちは存在そのものが神の教会であり、己の力で何かを努力して果たすことによってではなく、ただ存在しているだけでも、世に影響を与え、信仰によって、キリストを人々にもたらす役目を果たせる。それができると信じて良い。

「もっと教会(エクレシア)に頼ったらいいんですよ」

とも言われた。以前には、なかなか人に頼るということができず、頼ることを恐れていた筆者であったが、ここ数年で、考えを変えさせられた。

近頃、筆者の周りには、どこからともなく、善良な人たちが集まって来るようになり、困難な日に、どれほど貴重な助言を受け、励ましを受け、支えられたか分からない。そうして助けを受けたからといって、決して、依存関係や、主従関係が生まれるわけでなく、それぞれが自分の信念を持ち、自立していながら、互いに支え合い、仕え合い、助け合う関係が成立するのである。

そのようなわけで、今年は、人から助けを受けることへの抵抗感がなくなり、特に、神の家族からの助けは、大いに受けて良いものであると分かった。肉の家族ではなく、天の家族が、はっきりと姿を現し、信仰の有無に関わらず、肉の家族以上に筆者を支えてくれるようになったのである。

筆者は、初めは恐る恐る、その人たちとの関わりに足を踏み入れ、恐る恐る、助けを受けた。かつて、あまりにも多くの交わりが、サタンの試みによって引き裂かれ、疑心暗鬼によってバラバラに分解されたので、またも同じことが起きないか、非常に心配であったが、何度、試しても、その交わりは分解することなく、筆者を取りこぼすこともなく、より安定して、強固なものになり、発展した。

以前にも、筆者はキリスト者の交わりを求めて、はるばる長い距離を移動した。その頃も、純粋にエクレシアを求めていたつもりであったが、その時と今とでは、何かが違う。エクレシアを求める熱心さにさえ、死んだのかも知れない。今、与えられているものは、恵みであって、筆者が探し求めた努力の結果とは言えない。

すべての希望が潰え、もう何も戻っては来ないだろうと思った頃に、望みをはるかに超えた恵みが、向こうから自然と姿を現したのである。

それは、天によって支えられている不思議な関係である。鳥が空中に巣をかけるように、地に属さず、地上のすべての関係を超越したところに、不思議な形で、交わりが保たれている。その交わりを何と名づけるべきか、分からない。だが、そこに筆者の居場所があり、平安がある。

その居場所は、信仰のない様々な人たちの間でも、不思議に成立している。たとえば、最近は、警察官から、「クリスマスケーキは食べたの?」と聞かれたり、この世の人から、「無事に年を越せるの?」などと言われ、御馳走を振る舞われたりもした。そんなに心配されるほど、筆者の境遇は危なっかしくはないのだと、とうわべは弁明するのだが、それでも、虚勢を張らず、ありがたく人の親切を受けるようにもなった。
 
これまでは、筆者を苦しめるためだけに、ひたすら筆者の嫌がることばかりをやり続ける人たちがいたが、今年は、そういう人たちと入れ違いのように、筆者が頼んでもいないのに、筆者が何を願っているのか、言葉も発していないうちから、筆者の願うことだけを、ひたすらやり続けてくれる人が現れるようになった。

しかも、それはただ単純に、望みをかなえてくれるという低い次元の関わりではなく、時宜にかなった助言があり、将来に渡ってまで、役立つ助けが与えられ、困難の中でも、率直に心の内を語り合い、互いに支え合い、励まし合う関係が成立している。そんな関わりが成立しうるとは、想像したことさえなかったが、筆者の未熟さによって揺るがされることのない、真実で誠実な信頼関係が成り立つことを知ったのである。

そういうわけで、「人が一人でいるのはよくない。彼のために助け手を作ろう」とおっしゃられた神の御言葉が、筆者の人生にも成就し、筆者自身も、人の助け手となったり、人々も、筆者の助け手となってくれたりして、これまでのように一人で時間を過ごすことがだんだん難しくなってきた。

かつてのように、開かずの間に向かって、扉を叩き続けるような、むなしい関わりが減って行き、そういうものが残っていても、ある時、バッサリと枝葉が切り捨てられるようにしてなくなる。そして、いつの間にか、筆者自身からも、命の水が細い川のように流れ出し、その流れを人々と分かち合うことができるようになった。

どういうわけか知らないが、長年、筆者を縛っていた敵の呪いが解け、筆者自身の中に残っている古き人の残滓が、どんどん筆者から切り離されて行くのである。恐れ、疑い、不信、肉なる情・・・、そういった古き人の思いが、御言葉による「手術」により、筆者から切断されて、取り払われて行く。これは人知を超えた不思議な逆説的なみわざである。

「キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろともに十字架につけてしまったのです。わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。」(ガラテヤ5:24-26)

筆者を憎む者が、筆者を踏みつけ、勝利の快哉を叫んでいる最中に、筆者は、キリスト者の交わりの中に入れられ、愛によって取り囲まれ、信仰者からも、信仰を持たない者からも、心を尽くした助けと慰めと励ましを受け、魂を生き返らされている。

追い詰められ、殺されかかっているように見える時に、かいがいしく世話を受け、「生きよ」と命じられ、「私はあなたの敵を滅ぼす」、「すべての重荷を私に委ねなさい。」、「私はあなたを見捨てない」、「私を信頼してすべてを任せなさい」と、主から励ましを受ける。

一体、この恵みは何なのだろうか。多くの苦難と、それを圧倒的に上回る慰めに満ちた励ましとのコントラストである。

主は、信じる者をお見捨てにならず、恥の中に捨て置かれることもない。同時に、神の家族も同じように、愛する人々を苦難の中に置いて去って行くようなことをしない。

まるで多くの人たちからこう言われているようである、「疑わなくていいんですよ、ヴィオロンさん、私たちは目に見えない家族として結ばれているのですから、引き離されることはありません、互いに助け合うのは当然です」

神は報復なさる方であり、無垢な者を破滅させようと企む者には、したたかに報いられる。だが、主の勝利は、私たちが肉の腕で勝ち取るものではなく、信仰を通して、神がなさるみわざである。そうであるがゆえに、それがどのように現れるのか、私たちは事前に知らないし、己の力を誇ることで、敵に対する勝利を勝ち取るわけでもない。

キリスト者の原則はいつも、「私は衰え、彼(キリスト)は栄える」、というものだ。だから、来るべき年は、ますます肉の力によらず、信仰による神の御業を待ち望み、主の御言葉の正しさを地上で証明することに専念し、自分自身を誇るのではなく、ただお一人の神を誇りたいと願う。
 
二つの詩編を引用しておこう。

詩編第1編

いかに幸いなことか
神に逆らう者の計らいに従って歩まず
罪ある者の道にとどまらず
傲慢な者と共に座らず

主の教えを愛し
その教えを昼も夜も口ずさむ人。
その人は流れのほとりに植えられた木。

ときが巡り来れば実を結び
葉もしおれることがない。
その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。

神に逆らう者はそうではない。
彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。
神に逆らう者は裁きに堪えず
罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。

神に従う人の道を主は知っていてくださる。
神に逆らう者の道は滅びに至る。

詩編第64編

神よ、悩み訴えるわたしの声をお聞きください。
敵の脅威からわたしの命をお守りください。
わたしを隠してください
さいなむ者の集いから、悪を行う者の騒ぎから。

彼らは舌を鋭い剣とし
毒を含む言葉を矢としてつがえ
隠れた所から無垢な人を射ようと構え
突然射かけて、恐れもしません。

彼らは悪事にたけ、共謀して罠を仕掛け
「見抜かれることはない」と言います。
巧妙に悪を謀り
「我らの謀は巧妙で完全だ。
 人は胸に深慮を隠す」と言います。

神は彼らに矢を射かけ
突然、彼らは討たれるでしょう。
自分の舌がつまずきのもとになり
見る人は皆、頭を振って侮るでしょう。

人は皆、恐れて神の働きを認め
御業に目覚めるでしょう。
主に従う人は主を避けどころとし、喜び祝い
心のまっすぐな人は皆、主によって誇ります。
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「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)

「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。

しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」

こういうわけで、兄弟たちよ。 私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」
(ガラテヤ4:28-31)


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