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筆者は、筆者にとっての「干潟」と一つの約束を結んだ。その約束の内容は、ここには書かないが、今はその約束を守るために、とても重要な時期であるから、あえて主の平安と安息の中にとどまっていたい。
 
ウォッチマン・ニーが書いていた、私たちは、装甲の中にいてこそ、敵のあらゆる攻撃から身を守ることができると。

装甲とは、キリストの十字架である。もしも十字架から外に出れば、私たちには、防御の術がない。そして、十字架の装甲とは、神の愛の中にとどまることであり、同時に、キリスト者の交わりの中にとどまることである。

これまでひたすら筆者が学ばされてきたのは、この装甲から外に出ない方法であった。

読者はよく見ておかれたい。敵はしばしば激しい挑発を持って、私たちを装甲の外へ連れ出そうとして来る。だが、私たちには、どんなことがあっても、平安を持って、装甲の中にとどまることが必要であり、また、可能なのである。

逆に言えば、非常に困難な事件が起きるときには、それと同時に天に用意されている祝福も大きいのだと言えよう。筆者はこれまでの経験上、知っているのだが、とても重要な、栄光に満ちた出来事が起きる前に、サタンは人間を攻撃し、落胆させようとして来る。

そこで、私たちは困難が起きるとき、今一度、主がこの先、どんな栄光を私たちのために用意されているのか、考えを巡らしてみることは有益である。

今、人間の本心が赤裸々に吐露されているが、それを通して、多くの人たちが、その人の隠されていた内心と、その人の生きる目的を知ることになったろうと筆者は思う。

今は激しい戦いの行われている最中であって、時期尚早な言葉を述べるべき時ではない。だが、人の内心が明らかにされ、覆われていたものが明らかにされ、各自がどのような目的のもとに歩みを進めているのか、万人が知りうる状態になるのは、聖書の御言葉にかなった事実であり、私たちのこれからの歩みにとって、必要不可欠なプロセスであると、筆者は思う。

だが、それだけでは、まだ足りないものがある。それは今、試されているのは、私たちが神の御言葉に従っているのか、それとも、自分の思いに従って歩んでいるのか、という問題だからであり、これがはっきりするためには、各自の他者への思いだけでなく、神に対する思い、すなわち、聖書の御言葉に対する態度が明らかにされなければならない。

一言で言えば、神の御言葉を真実なものとして、これに従うのか、それとも、神の御言葉そのものがファンタジーであるとして退け、これに従わないのか、ということが試されているのである。

聖書には、神は報復なさる方だと書いてある。しかし、その瞬間が来るためにも、ただ人が人を非難したり、憎んだり、罵倒したり、傷つけたというだけでは十分でなく、その人の神に対する態度、御言葉に対する態度が明らかにされていなければならない。

何度も書いて来たように、人がキリスト者を憎むということは、その人が、神ご自身を憎むことと同じであり、人がエクレシアを破壊しようと試みることは、その人が、自分で神の宮として造られた自分自身を破壊しようとすることと同義なのである。

だから、キリスト者(兄弟姉妹)を憎み、これを害そうとする人は、自分で自分を傷つけることになり、相応の報いが降りかかることになる。

とはいえ、私たちキリスト者がただ傷つけられたというだけで、神が私たちを守るために立ち上がって下さるわけではない。私たちを防御するために、神が立ち上がって下さるためには、条件がある。

それは、兄弟姉妹を攻撃する人が、ただ兄弟姉妹を憎んでいるというだけでなく、神ご自身を憎み、聖書の御言葉に逆らっていることが、はっきりと言い表される瞬間が来ることである。

その瞬間が来ると、神ご自身が動かれる。

このようにして、ある人が、兄弟姉妹を愛するか、憎むか、という問題は、その人が、神御自身を愛するか、憎むかという問題に直結しているのだが、それでも、神が動いて下さるためには、はっきりと神ご自身に対する冒瀆の言葉が述べられていることが必要であると、筆者は考えている。その段階まで来ると、人が人を対処するのではなく、神が人を対処される。

このところ、筆者の周りで、キリスト者の交わりが復興している。神はそこで時宜にかなって、多くの祈りと、助けを与えて下さり、エクレシア(神の教会)が建て上げられるために、必要なことをなして下さっている。

このような時に、このような交わりが復興していることも、決して偶然ではなかろう。私たちは、兄弟姉妹を憎んでいる者ではなく、兄弟たちを愛する者である。神がご自分の命を私たちのために捨てて下さったように、互いに支え合い、助け合う。

世人でさえ、私たちに対して驚くべき愛を示してくれている。だとすれば、まして神の家族である者たちが、互いに愛を示さないはずがあろうか。

以下の御言葉には、兄弟を憎む者は、人殺しである、とはっきり書いてある。キリスト者を憎み、攻撃する者の最終目的がどこにあるのかが、ここにはっきりと示されている。単なる非難や、攻撃ではなく、殺意であると書かれている。筆者が殉教を語る理由がここにある。

「なぜなら、互いに愛し合うこと、これがあなたがたの初めから聞いている教えだからです。カインのようになってはなりません。彼は悪い者に属して、兄弟を殺しました。なぜ殺したのか。自分の行いが悪く、兄弟の行いが正しかったからです。

だから兄弟たち、世があなたがたを憎んでも、驚くことはありません。わたしたちは、自分が死から命へと移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。愛することのない者は、死にとどまったままです。兄弟を憎む者は皆、人殺しです。あなたがたの知っているとおり、すべて人殺しには永遠の命がとどまっていません。イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。

世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同上しない者があれば、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう。子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。」(一ヨハネ3:11-18)

しかし、サタンの言い知れない憎しみに遭遇するときでも、私たちキリスト者は、平安の内にとどまることができる。そして、そのことによって初めて、敵の多くの攻撃が無に帰されて行くのである。

ステパノは石打ちにされる瞬間にも、人々の罪のためにとりなし、祈った。もちろん、ステパノには罪がなかったが、彼は自分を殺そうとする人々の罪のために、神にとりなしたのである。そんなことができたのも、ステパノが、石打ちにされるまさにその瞬間、天におられる主を見て、その栄光に満ちた姿を知っていたためである。

キリスト者があらゆる瞬間に、平安にとどまるための秘訣、もしくは、平安にとどまることができる秘訣は、その人が神を知っているかどうか、という一事に尽きる。
 
エクレシアとは、神の軍隊のようなものである。戦いに勝つためには、軍隊がきちんと建て上げられ、増強されていなければならない。そして、そのためには、最高司令官が、軍隊の成員に対して、自分を明らかにし、軍隊の成員が最高司令官を知るようになることが必要だと、最近のオリーブ園のオースチンスパークスの記事に書いてある。

最新の記事の一つから、少し引用してみよう。

「私たちの戦い」 第一章 最高司令官(5)

これは私たちを新約聖書に連れ戻します。エペソ人への手紙――あの偉大な戦いの手紙(なぜならそれはそのようなものだからです)――で、パウロは「知る」という言葉を大いに凄まじく強調しています。その冒頭で彼は祈ります、「それはあなたたちが彼の召しの望みの何たるかを知るためです」「それはあなたたちが聖徒たちの間にある彼の嗣業の(中略)富を(中略)知るためです」。「それはあなたたちが(中略)彼の力の卓越した偉大さを知るためです」(一・一八~一九)。「それはあなたたちが知るためです……」

「知る」というこの言葉が、私たちの戦いというこの問題全体を支配する言葉です。熟練した兵士だったので、パウロは主を知ることを大いに強調しました。「それは私が彼を知るためです……」と彼はある箇所で書いています(ピリピ三・一〇)。人々が重要だと見なしている他の何ものにもましてこれは遥かに重要である、と彼は述べました。彼はこの知識を彼が以前持っていたあらゆるもの――莫大なこの世の嗣業の富――と対比しています。「しかし」と彼は言いました、「私はそれをみな無――塵芥――と見なします。それは私が彼を知るためです」。これによりパウロはあのような戦士になったのであり、彼を通して教会の士気が大いに上がったのです。


 「最高司令官は、もし彼が賢明なら、自分の軍隊が自分を知るように配慮するだろう」。もしこの地上の死すべき人に関して賢明だと言えたとするなら、私たちの最高司令官はさらに賢明です。主は最高の知恵をもって――私たちはこれを謹んで申し上げます――彼を知る私たちの知識が絶えず増し加わるよう確証して下さいます。



これは非常に勇気を与えられる記事ではないだろうか。

なぜなら、神は、私たちから離れた遠くにいまし、沈黙のうちに、ご自身を現して下さらないような方ではないからである。神は、私たちに主を知る知識を与え、それによって、私たちを主に似た者に造り変え、私たちを創造された当初の目的へ――神がかくあれかしと望まれた人の姿へとー―建て上げて下さり、主と共に万物を統べ治めるというその使命を果たせるようにして下さる。

それは決して、達成できないようなはるか遠くにある目的ではなく、最高司令官は、私たちのそばに、手の届くほどそばに、いつも共にいて下さり、ご自身を現して下さる。

私たちが、あらゆる瞬間に平安にとどまることができるかどうかは、すべて主を知る私たちの知識にかかっている。パウロの祈りに心を合わせよう、どうか、主が、私たちに神を深く知ることができるようにし、私たちの召しにどれほど大きな希望がかかっているか、また、私たちに将来的に約束されたものに、どれほど大きな栄光が込められているか、心の目を開いて、見ることができるように。

また、地上において、いかなる艱難があっても、キリストがすべてのものを足の下に統べ治められ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に立っておられる以上、神は私たち信じる者に絶えず絶大な働きをなして下さることを信じよう。

軍隊の成員である我々は、最高司令官が、私たちのところにやって来て、私たちの労をねぎらい、ご自身を現して下さる瞬間を待ち望んでおり、それをこの上ない栄誉と考えている。その瞬間は、最初は、とても稀有なもののように思われるかも知れないが、次第に、より頻繁に、より長くなり、いつしか最高司令官は、いつも私たちと共にいてくれ、常にかけがえのない仲間として、喜びと悲しみのすべてを分かち合い、いつも絶えず共にいて、助けてくれることが分かるようになる。

一点、キリスト。いかなる瞬間にも、見るべきは、この方であり、その方の栄光に満ちた姿であることを知るようになると、私たちの平安は、揺るがされることがなくなる。

どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。

神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。

神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」(エフェソ1:17-23)

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「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)

「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。

しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」

こういうわけで、兄弟たちよ。 私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」
(ガラテヤ4:28-31)


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