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世の終わりにはクリスチャンの間でもふるい分けがなされるという話を聞くと、強い反発を示す人たちがいます。クリスチャンを名乗っているからと言って、その人が必ずしも御国に入れるかどうかは分からず、御旨に反する行ないをすれば永遠の報いを失ってしまう場合があるという話をすると、決してそんなことはあるはずがないと強い抵抗を示す人々がいます。

こうした人々は、次のような御言葉を根拠に言います、神は愛であり、神は全ての人が御子を信じて救われることを願っておられるのであり、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである」(ヨハネ3:16-17)、また
「主の御名を呼び求める者は誰でも救われる」(ローマ20:13)のであるから、神は御子を信じるクリスチャンを御国から除外するようなことは決してなさらないし、クリスチャンの間でのふるいわけは存在しないか、たとえあったとしても、それは神のなされる仕事であるから、私たちが言及すべきテーマではないと言うのです。

しかし、そうではありません。永遠の命だけに関して言うならば、私たちはキリストの贖いの十字架を信じて永遠の命をいただいたのであり、この事実は決して、私たちの行いによって左右されるものではありません。私たちが御子の贖いによって救われたことは永遠に変わらない事実です。そして恵みによって救われた以上、私たちは律法の裁きと呪いの下にはもういないのです。
「もし恵みによるのであれば、もはや行ないによるのではありません。もしそうでなかったら、恵みが恵みではなくなります。」(ローマ11:6) 

しかし、主の僕としての私たちの道がここで終わらないことは、はっきりと聖書が示しています。クリスチャンは、神の御約束により永遠の命は失うことがなくとも、生き方に応じて、それぞれ報いを受けられるのかどうかを決定されます。場合によっては、永遠に至る報いを失ってしまうだけでなく、御国からさえ除外される危険性があることを御言葉は告げています。

いずれにせよ、聖書を読むならば、私たちは人生の終わりに自分の行いに応じてそれぞれ裁かれること、その時、僕としての怠惰さのゆえに御国に入れなくなる危険が確かに存在することが分かるのです。だからこそ、御言葉は私たちが欺かれてむなしいものに人生を費やし、永遠の報償を失い、御旨から逸れていくことのないように、目を覚まして、欺きと偽りに立ち向かうようにと、再三に渡って警告しているのです。

「良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。…わたしに向かって、『主よ、主よ。』という者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。」(マタイ8:19-21)

このように、たとえ救われてキリストにつらなる枝とされたとしても、良い実を結ばないならば、その枝は火に投げ込まれて焼かれてしまいます。これはクリスチャンが永遠の命を失うことを意味するのではなく、人生を焼き尽くされて失うこと、永遠に至る報いを失ってしまうことを意味します。

さらに注意すべきは、上記の御言葉が、にせ預言者を警戒するようにという文脈の中で語られていることです。御旨を行なわないクリスチャンは、ただ怠惰な僕として叱責を受けるにとどまらず、他の兄弟姉妹をも惑わして滅びへと誘い込む偽預言者として裁かれる可能性があることが読み取れるのです。もちろん、誰一人として、「私は偽預言者です」と自称してやって来る人はいないでしょう。

ですから、これはまさに敬虔な主の僕と見えるクリスチャンの中に、主の僕を装いながら、その実、悪い実を結ぶ木となる者が現われることを指しており、そして、そのような欺きに巻き込まれてともに罪に与ることがないように、誰が主の忠実な僕であるかを、私たちは彼らの行いの実によって試し、見分けるようにと勧められているのです。

「愛する者たちよ。すべての霊を信じることはしないで、それらの霊が神から出たものであるかどうか、ためしなさい。多くのにせ預言者が世に出てきているからである。 」(Ⅰヨハネ4:1)

「にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。ぶどうは、いばらからは取れないし、いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。同様に、良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。…良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。こういうわけで、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです

わたしに向かって、『主よ、主よ。』という者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。」(マタイ8:15-23)

「主よ、主よ」と言う者とは、まさにクリスチャンのことに他なりません。主の御名によって熱心に奉仕し、力ある業を行なっているように見えるクリスチャンが、必ずしも、主に知られているとは限らず、むしろ、神の眼差しから見て、「不法をなす者ども」と呼ばれ、御国から除外されるにふさわしい者たちである場合があるというのです。

ですから、私たちは欺かれる危険を軽視してはなりません。うわべだけで惑わされないようにしなければなりません。主イエスの贖いの十字架を信じて救われた人は皆、神の子とされ、その魂は贖われ、その人は主の僕とされていますが、しかし、永遠の命に与った全ての僕が主によって永遠の報償によって報いられるわけではないのです。

「だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまで取り上げられるのです。役に立たぬしもべは、外の暗やみに追い出しなさい。そこで泣いて歯ぎしりするのです。」(マタイ25:29-30)

良い実を結ばない僕は御国の外に追い出されてしまうばかりか、実を結ばない枝として、今生の人生においても、その成果をことごとく焼き尽くされて失ってしまう可能性があります。

「人の心は何よりも陰険で、
 それは直らない。
 だれが、それを知ることができよう。
 わたし、主が心を探り、思いを調べ
 それぞれその生き方により
 行ないの結ぶ実によって報いる。」(エレミヤ17:9-10)

私たちは、主に仕える自分の動機は清くて純粋だと思っているかも知れません。自分の満足のために主に仕えているのではないと言うかも知れません。恵みを受けるために神を利用しているのではなく、自分の利益のために信仰があるわけではないと言うかも知れません。しかし、それを調べられるのは主です。

主は人の心を奥底まで探り極め、私たちの動機を調べ、その行ないの実によってそれぞれを裁かれます。主は、私たちの信仰を試練によって試されます。その時、私たちが清いと思っていた動機が、神の聖に遠く及ばず、少しも純粋ではなかったことが証明されます。義人ヨブが苦しみの下にへりくだり、悔い改めることを求められたように、私たちはたとえ義人であったとしても(子羊の血潮によって義とされていたとしても)、主に仕える私たちの動機がどれほど純粋でないかを、何度も、何度も試され、不純物をろ過され、徹底的にへりくだることを求められるのです。

サタンがヨブを試みた時のように、もしも悪魔が私たちを試みることを許されるなら、大きな苦しみがやって来るでしょう。悪魔に立ち向かうことそのものが、苦しみを伴うでしょう。「目を覚まして悪魔に立ち向かう」ことと「苦しみ」との間に密接な関係があることを私たちは見いだします。

「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食いつくすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人人は同じ苦しみを通って来たのです。」(Ⅰペテロ5:8-9)

しかし、悪魔とその手下が食い尽くすことができるのは、私たちの肉だけなのです。彼らは十字架で死んだ者に対しては手出しができず、キリストのよみがえりの命に対しては全く無力です。私たちは自分たちはキリストのよみがえりの命によって生かされていると言います。しかし、私たちは主に仕える自分の動機の中にどれくらいの不純物が混じりこんでいるのか、自分がどれくらいキリストの命ではなく、アダムの命によりすがって、この古き命を愛して生きているのか、自分では全く分からないのです。ですから、サタンがヨブを試みたとき、主はヨブの心から自己義認の思いを徹底的にあぶり出し、それを取り除くよう求められたように、神は私たちに対しても、試練を通して、動機を試されるのです。

そのため、私たちは時に自分にとって全く利益となるものがなくなった状況下で、神に従うことを求められます。それは私たちの肉にとってはとてもつらいことです。自分のために主に仕えている間は、試練が来ると私たちはおじ惑い、意気消沈し、さっさと逃げ去ってしまいます。試練の中で神に仕えることの中には、肉を喜ばせる要素が何もありません。もしも私たちがその時、自分を愛することを選ぶならば、主を裏切り、捨てるしかありません。その時、自分を愛することと主を愛することは両立しなくなるのです。

しかし、そのような状況の中でも自己を否んで主を選ぶことを学ばされるのは、私たちがさらに真に御霊から発した純粋な動機によって主に仕える者とされるためです。試練を通過した後には、私たちの信仰はより完全になり、より強く、動かしがたいものへと変えられます。

ですから、主の御手から受ける苦難は、「あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招きいれてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く絶たせ、強くし、不動の者としてくださ」(Ⅰペテロ5:10)ためなのです。

残念ながら、試練を甘んじて受けることに、多くの場合、私たちは失敗してしまいます。自分を愛して、十字架の苦しみ(主からの懲らしめ)を拒んでしまうのです。しかし、それにより、私たちの受ける報いが決定されていきます。ある人々は、試練を見ると脇に飛び退って逃げ、ある人々は、試練をきっかけに、十字架そのものに反対するようになり、あるいは、主からの懲らしめを憎むようになります。しかしそのようにして、主の御手から苦しみを受けることを拒む度に、人はますます心頑なになり、へりくだりから遠くなります。十字架の試練を回避するとの宣言を繰り返せば繰り返すほど、人はますます自己に生きるようになり、主の御旨から遠く逸れて行ってしまいます。

キリストと共なる十字架で徹底的にセルフを否み、セルフを死に渡すようにという要求は、私たちにとって、最初はとても残酷なものに思われるかも知れません。それは真理ではあっても、私たちの生まれながらの自己にとってはとても不快であり、致命的な宣告であり、まさに「狭き門」に感じられます。

それに比べて、十字架の試練を回避して、あるいは十字架の解釈を自分にとって心地よいものへと変えて、自分の命を保つようにという誘惑は、人の耳にはどれほど甘く聞こえ、好ましく感じられるでしょう。世は拍手喝采して、そのように妥協した偽りの十字架の教えを受け入れるでしょう。大勢のクリスチャンも、主によって懲らしめられる苦しみを厭い、その偽りの教えの見目麗しさ、心地よさに惹かれるあまり、広い門を選んでしまうのです。

狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」(マタイ8:13-14)

十字架の苦しみを回避して、自分を惜しむように勧めたり、もしくは、十字架に都合のよい解釈を施して、十字架をこの世の花々で飾り立て、恵みだけに満ちているように見せかける教えは、人間の耳に心地よく響くので、人々の心をとらえるでしょう。そのようにして苦しみを厭い、「広き門」を歓迎する人々は、いのちに至るまことの狭き門を厭い、主からの懲らしめを軽んじ、十字架の苦難を嘲笑し、敵対しさえするでしょう。しかし、そのようにして主に従う上での苦しみや困難を避けようとする教えは、どんなに当世風に聞こえ、人に受けしたとしても、十字架に最も敵対する教えであるから、必ず、最後は滅びとなるのです。

「…人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからですしかし、あなたは、どのようなばあいにも慎み、困難に耐え、伝道者として働き、自分の務めを十分に果たしなさい。」(Ⅱテモテ4:3-5)

日々の十字架が困難を伴うものであることは、聖書のいたるところで告げられています。主と共なる十字架が私たちの肉体にとって、決して甘く、心地よいだけの、都合の良いものではありえず、むしろ、苦しみを伴うものであることは、至るところで御言葉が示しています。にも関わらず、十字架の苦しみを回避しようとして、十字架の概念を曲げて、それを自分を喜ばせるものへ変えようとしてはいけないのです。そのようにして偽りを語る教師たちは、いずれ厳しい裁きを受けるでしょう。その偽りに巻き込まれてはなりません。御言葉ははっきりと告げています。

キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました

キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、神によって、メルキゼデクの位に等しい大祭司ととなえられたのです。」(ヘブル5:7-10)

このように、キリストは肉体において苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ心構えで自分自身を武装しなさい。肉体において苦しみを受けた人は、罪とのかかわりを断ちました。こうしてあなたがたは、地上の残された時を、もはや人間の欲望のためではなく、神のみこころのために過ごすようになるのです。 」(Ⅰペテロ4:1-2)

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「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)

「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。

しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」

こういうわけで、兄弟たちよ。 私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」
(ガラテヤ4:28-31)


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