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何であれ、罪はそれを宿している人自身に神の御怒りと呪いを招きます。罪は神と人を断絶させ、神に向かう人間の祈りも閉ざします。「もしも私の心にいだく不義があるなら、主は聞き入れてくださらない。」(詩篇66:18) 

神の最も激しい御怒りを引き起こすものは、偶像礼拝の罪であり、それは霊的姦淫を指しています。しかし、偶像礼拝とは、木や石で造った像を拝むことのみならず、本来、神でないものを神として崇め、慕い、従うことであり、神でないものに神のごとく栄光を帰することです。たとえば人間の指導者を神以上に愛し、聞き従うことや、生まれながらの自己を愛することもそこに含まれます。

私たちはもう一度、振り返る必要があります、肉に生きる者は神を喜ばせることはできません。肉による礼拝は神に受け入れられません。しかし、生まれながらの人の自己とは、肉の総体(もしくは要塞)のようなものであり、これに生きている限り、どんなに熱心に神を礼拝したとしても、自分ではどんなに善良な行いをしているつもりでも、神を喜ばせることは決してできないのです。ですから、私たちは神の憐れみにより、キリストと共なる十字架によって私たちの肉が死に渡されたという事実に信仰によって立ち、この事実を歓迎し、絶えず実際として保っていただく必要があります。肉にあるものを否み、肉を愛さない覚悟が必要です。

現代の教会を襲っている背教とは、御霊から来たように見せかけて、魂の領域に霊の偽物を作り上げることです。肉によるもの(魂によるもの)をあたかも霊によるもののように、あたかも神から来たもののごとく見せかけることです。どれほど多くのクリスチャンがこれに欺かれ、とらわれているでしょう。ですから、今ほど霊と魂の切り分けが必要とされている時代はありません。

「私はクリスチャンとなり、啓示を受けてキリストに対して目が開かれ、偽りとは訣別したのだから、そのようなものにとらわれることはもうない」と油断することは全くお勧めできません。ある人たちが、キリスト教界を出さえすれば、自分はもう欺かれないと思っているのは、全く憂うべきことです。

はっきり申し上げますが、欺きにはさらに深い段階があります。恐らく、私たちは手痛い失敗を幾度も重ねることなしに、自分の魂を警戒して見張り、目を覚ましている必要性を知ることはできないでしょう。私たちがたとえ今ここで一つの欺きを見抜いたとしても、だからといって、もう二度と欺かれない保証はないのです。使徒は言います、「驚くには及びません。サタンさえ光の御使いに変装するのです。ですから、サタンの手下どもが義のしもべに変装したとしても、格別なことはありません。彼らの最後はそのしわざにふさわしいものとなります。」(Ⅱコリント11:14-15) 

ある人々は、「私は見た(特別な啓示を受けた)」、「私はキリストを内に啓示された」などと語ります。それは本当のことかも知れません。しかし、かつて受けた啓示や、霊的な知識に満ちた非常に意味深いメッセージを語っているからと言って、本当にその人が今現在も、キリストにつながっている枝であるという保証にはならないのです。前回、「キリストのいのちの健やかさ」、「キリストの香り」の話をしたのは、欺かれないためです。

私たちは他人の主観的経験については、その真偽のほどを確かめる術を持ちません。啓示を受けたと語っている人の啓示が本当に神から来たものであるのかを客観的に検証することは必ずしも容易ではありません。しかし、客観的にその真偽のほどを試す方法があります。それは一人ひとりの行いの結ぶ実を見ることであり、ある時間的スパンに渡って、その人の「キリストにあるいのちの健やかさ」が保たれ、「柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人がら」(Ⅰペテロ3:4)が生長しているのか、それとも、その人がさまざまな外面的な富や飾りを誇りながら、セルフを誇り、その人の人格がますます尊大に高慢に頑なになって、病的な傾向が増し加わっているのかどうかを見ることです。言い換えるならば、その人が誰に栄光を帰しているのかを見極めることです。神のことを語っているようであっても、それによって本人が栄光を受けているならば、それは人自身から出て来たに過ぎないことが分かります。

すでに語って来たように、個々のクリスチャンが何に従って生きているのか、それはおのおのが結ぶ実によって見分けられます。語る言葉は偽ることができても、時間経過とともに結ばれる実を偽ることはできません。肉に蒔く結果は、必ず、滅びとなるのです。どんなに素晴らしい知識を誇っていたとしても、真に十字架を歓迎せず、魂から来るものを、あたかも御霊から来るもののように見せかけるなら、その人の最後は、そのしわざにふさわしい破滅となります。

さて、私たちは、神から来たように見せかけていながら、その実、そうでないものを愛し、従ってしまう危険を知らなければなりません。たとえば、内にキリストを啓示されなければ、誰もキリストを知ることはできません。御霊の啓示によらなければ、私たちは神を知ることもできず、最も単純な御言葉の意味を理解することさえできません。ですから、私たちは知恵と啓示の霊を賜ることを追い求めてよいのです。それは御言葉が次のように述べている通りです。

「どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示との御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。」(エペソ1:17-19)

このように、私たちは自分の目が開かれて、御霊が神を知るための知恵と啓示とを示して下さることを願います。しかし、それはあくまで神を知るためです。もしも私たちが神ご自身以上に啓示を愛し、もしくは霊的知識を愛し、追い求めるようになるならば、その時、啓示はすでに私たちにとって欺きとなり、つまずきとなっているのです。

使徒は言います、たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。」 (Ⅰコリント13:1-3)

私たちは神の奥義であるキリストを知る霊的知識を追い求めることができます。山を動かすほどの信仰を追い求めることができます。主の御名の中に集まる聖徒らの交わりを追い求めることができます。自分自身や、家庭や、兄弟姉妹や、国のために飽くことなく祈り、奉仕し、真理のために自分の身体を焼かれることさえいとわずに自分を無にして仕えることができます。私たちは何とそれは正しい事柄であると信じているでしょう。ところが、それらのすべての行為が、神に従っているつもりでありながら、その実、ただ自己のために追い求めているだけの場合がありうるのです! 

たとえば、神は私たちへの恵みとして家庭をお与え下さいました。仕事も与えて下さり、食べ物や着る物も与えて下さいました。私たちはそれぞれ自分の家庭を楽しみ、与えられた恵みを喜んで、一生懸命仕事をして構わないのです。しかし、同時に、私たちはどんなものにも心を奪われてはならないのです。神以上に神の恵みを愛するようになったり、恵みを受けるために神を手段にしてはならないのです。

「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。 」(マタイ10:37-39)

これは明らかに私たちに魂の愛を拒むよう言い渡しています。これは一体、禁欲主義の奨励でしょうか? 家庭を持たないことの奨励なのでしょうか? 世捨て人になるようにとの勧めでしょうか? とんでもありません。これは私たちが、心を尽くしてただ主なる神だけを一番に愛するようにとの戒めです。他のどんなものも、神以上に愛さないようにとの戒めです。は私たちの神。はただひとりである。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(申命記6:4-5) 

私たちは自分の魂を見張って、私たちの魂が、神以上に神がお与え下さる恵みを愛するようになることを警戒しなければなりません。父や母や妻や夫や息子や娘のみならず、神を知るための啓示や、霊的知識を、神以上に追い求めるようになったり、または主の御名による交わりを神ご自身にまさって愛したり、神ではなく指導者を愛して聞き従ったり、兄弟姉妹を神以上に愛するようになり、これらのものによって身を飾るようになってはいけないのです。

私たちは自分の外側にあるものに惑わされないように気をつける必要があります。サタンの欺きは常に外側からやって来るからです。それぞれの人の魂の特徴は異なっています。ある人は、感情に働きかけられることに弱く、ある人は、正義感に訴えられることに弱く、ある人は知識に弱く、ある人は活動に弱く、ある人は孤独に弱く、誤解に弱いのです。そしてそれぞれが、自分の魂の感覚を満たすために生き、それがあたかも正しい信仰生活であるかのように思っています。

ところが、私たちが霊によって自分の魂を治めることを少しでも知り始めるならば、自分の魂のそのような(愛すべき)弱点、私たちの大事に思っている魂の愛が、実に警戒せねばならないものであることに気づき始めるでしょう。なぜなら、私たちのそのような魂の特徴を刺激して、敵は容易に私たちを欺くことができるからです。

「そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。」(創世記3:6)

エバがそうであったように、クリスチャンであっても、目を覚ましていなければ、誰もが同じ結末へと至ります。今日、クリスチャンが欺かれるときは、十中八九、主の御名が口実に用いられます。救われた当初、クリスチャンはそれほど大きな誘惑には直面しないかも知れませんが、間もなく、私たちは自分の魂を喜ばせることと、神に従うことがいかに両立しないかを知らされる時が来ます。自分の魂の愛を主のために拒むことの必要性を知らされる時が来ます。

もしも私たちが自分の魂を喜ばせ、自分の魂が愛するものを当然のごとく愛しながら、それでも神に仕えることができると誤解するならば、私たちはひどく欺かれてしまうでしょう。その時、私たちを誘い出すのは、クリスチャンの魅力的な指導者かも知れませんし、魅力的な教えかも知れませんし、深い霊的な知識かも知れません。しかし、いずれにせよ、私たちが自分の魂を喜ばせてくれる何ものかにしがみつき、それらを人生の主とするなら、その時点で、私たちは神を裏切って、霊的姦淫を犯しているのです。

そのようにして、自分の外側にある何ものかに誘い出され、それを手にとってうっとりと眺めながら行動している間、クリスチャンは自分が神の外側に連れ出されたことに気づかないかも知れません。しかし、苦い幻滅がやって来て、やがて手に取って楽しんでいたものが、実は自分を滅びと死へ追いやるだけのものであったことが、否定できない形で示されます。その時になって、ようやくその人は自分が感覚に欺かれていたこと、自分の感覚がいかに信用ならないものであるか、自分の信仰が敬虔で偽りがないと思っていたことがどれほど大きな間違いであったか、自分の天然の魂の愛がいかに神に逆らう欲望に満ちた、腐敗したものであったかを理解するのです。(神が私たちにあえてしばしば大きな失敗を許されるのは、私たちが自分の動機は純粋だと思っている高慢さを打ち砕き、私たちの動機の中から、不純物を決定的な形であぶりだし、目を覚ましている必要を知らせるためです。)

「しかし、蛇が悪巧みによってエバを欺いたように、万一にもあなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真実と貞潔を失うことがあってはと、私は心配しています。」(Ⅱコリント11:3)

使徒は言います、「私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません」と。一体、ここで語られている「愛」とは何でしょうか? それはまさにキリストに対する真実と貞潔のことであり、死に至るまでも従順な花嫁の愛のことです。これは人に対する愛を指しているのではなく、父なる神への愛を指しています。言い換えるなら、父なる神への全き従順のことです。これは十字架の精神そのものであり、十字架を経られたキリストの神への愛のことです。十字架の死に至るまでも御父に従順であられたキリストの愛、御父への愛のためにご自分の命を惜しまずに投げ出されたキリストの愛、この御子の愛による、神の子供たちの神のご計画に対する全き従順、それがなければ、どんなに巨大な犠牲を払って善行を行なったとしても、すべては無意味だと言っているのです。

「子は父のなさることを見てする以外に、自分からは何事もすることができない。父のなさることであればすべて、子もそのとおりにするのである。 」(ヨハネ5:19)

人は神を抜きにしてでも、驚くほどの善行を行なうことができます。霊的な知識をさえ、もしかしたら、積むことができるかも知れません。しかし、人が自分の目にどんなに善行と思われるものを積み上げ、どれほど進歩と幸福に満ちた生活を打ちたてようとしたとしても、それが神のご計画の外で行なわれ、御旨に従っておらず、人間の魂を喜ばせ、人間を義とし、人間の栄光を満たすことを目的に行なわれているのであれば、一切が無益なのです。いや、無益であるどころか、それら一切が神の知恵に逆らい、呪いと刑罰を招くものとなるのです。人の目にどんなに良さそうに見える事柄であっても、神の御旨に反して行なわれることは全て滅びに直結します。

今の時代、ほとんどのクリスチャンが直面している偶像崇拝の危険とは、木や石で刻まれた「神々」を拝むことではなく、神ではなく人を神とし、自己を神とするという偶像崇拝です。神ではなく、指導者を愛して、指導者に仕えることもそうですが、神以上に、霊的教えや知識を愛することや、兄弟姉妹との交わりを愛すること、生まれながらの自分自身を十字架の死に渡すことを惜しみ、セルフを愛することも罪です。そうした行いはすべてセルフを愛することに端を発しています。そのようにして主と共なる十字架の死を拒み、自分の命を惜しんで、それを愛し、保とうとするならば、その人は結果的に、自分の愛した全てを失うことになるでしょう。(なぜなら、御言葉がそう告げているのですから)。

試金石は十字架です。本当に主のために十字架を負うことを私たちが歓迎しているかどうかです。神を愛しているのか、それとも、神から受ける恵みを愛しているだけなのかです。本当に神ご自身だけに栄光を帰そうとしているのか、それとも自分の栄光を愛しているのかです。長期的スパンで観察するならば、一人ひとりがどのような行いの実を結ぶのか、それによって、誰が主の本当の僕であるかを見分けることができるでしょう。また、そうするように御言葉は勧めています。それは私たちが欺かれないためです。

<つづく>

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「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)

「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。

しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」

こういうわけで、兄弟たちよ。 私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」
(ガラテヤ4:28-31)


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