忍者ブログ

「わが子よ。私のことばをよく聞け。
 私の言うことに耳を傾けよ。
 それをあなたの目から離さず、
 あなたの心のうちに保て。

 見いだす者には、それはいのちとなり、
 その全身を健やかにする。
 力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。
 いのちの泉はこれからわく。

 偽りを言う口をあなたから取り除き、
 曲がったことを言うくちびるを
 あなたから切り離せ。

 あなたの目は前方を見つめ、
 あなたのまぶたはあなたの前をまっすぐに見よ。
 あなたの足の道筋に心を配り、
 あなたのすべての道を堅く定めよ。

 右にも左にもそれてはならない。
 あなたの足を悪から遠ざけよ。」(箴言4:20-27)


この終わりの時代、私たちキリスト者が直面する問題は、これまでにも語り続けて来たように、キリストを選ぶのか、セルフを選ぶのか、です。十字架において真に自分の命を拒んでキリストだけを選び取るのか、それとも、自分の命を惜しんでキリストを捨てるのか、この二者択一を私たちは絶えず迫られているのです。

言い換えるならば、これは主語は誰かという問題であり、「誰がその働きをしているのか」、「誰がそれによって栄光を受けるのか」という問題に直結します。

十字架を語っていることと、本当にその人が十字架を受け入れ、負っているのかどうかは別の問題です。神のためにと言ってなされている働きのほとんどが、実際には、神ではなく、人に栄光をもたらしています。クリスチャンの多くは、神のためにさまざまな働きにいそしんでおり、自分は十字架を知っていると考え、自分の正しい行いに満足していますが、立ち止まってよく考えてみるならば、その働きの中には、人自身から出たに過ぎない、神とはおよそ無関係な働きがどれほど多く混在していることでしょう。

人の目にどんなに良さそうに見えたとしても、神から発しないものはすべて堕落しています。それらはすべて、滅びへ通じていることが、その働きの終わりになって明らかにされるでしょう。歴史の主役は神ご自身です。それなのに、神のご計画の前に、人間が立ちはだかって、わ・た・し・を主役にして躍り出ようとする態度ほど悪しき行いがあるでしょうか。しかし、私たちの自己はそのような高慢さに満ちています。

人の自己の内には、神のご計画に絶えず逆らい、絶えず十字架を回避し、あの手この手でアダムの命の全面的な死を何とかして逃れようとようとする欲望があります。人の生まれながらの自己は、アダムの死という考えに耐えられず、自分が死の刑罰以外には何にも値しないとは、どうしても認めようとはしません。私たちの生まれながらの自己は、常に自分が正しいと主張し、神の御前に自分が汚れ、腐敗していることを認めようとしません。むしろ、神の裁きを否定して、神を自分が栄光を受けるための手段に貶めてまでも、神以上に自分を高く掲げようとします。

生まれながらの自己はサタンの座であり、神に敵対して罪に生きており、この生まれながらの自己を持って神に仕えることができる人は一人もいません。神は自己から出た礼拝をお受け取りになりません。ですから、真に神に仕える者となりたいならば、キリストの十字架を通して、この自己に対する死というものを経なければなりません。そうなって初めてキリスト者は神に全面的に受け入れられていることを実際に知るでしょう。しかし、そのようにして主と共なる死が私たちのうちに保たれるためには、私たちは自己の忌まわしさを啓示によって見せていただき、自己を絶えず喜んで十字架にて死に渡す態度を保つ必要があります。

このことはただ神の憐れみによって、御言葉が成就してなされるのであって、私たちの努力にはよるのではありませんが、しかし、だからといって、私たちの自由意志による協力なしには神は何事もなされないことを忘れてはなりません。もしも私たちが十字架における自己の死を拒否し、それを望みさえしないならば、神でさえ私たちに御業をなさらず、私たちを放っておかれるでしょう。そうすると、私たちは悪しき軍勢のなすがままに彼らの家財道具として用いられる以外にはなくなってしまいます。今日あまりにも多くのクリスチャンが始めの信仰から離れ、さまざまな堕落に落ち込んでいく中には、彼らが自己を愛し、自己を真に十字架の死に渡すことを拒み続けて来た背景があります。

ですからまず、私たちは自分の意志を活用して神に積極的に願うのです、十字架で自己を否むということがどんなに重大な意味を持っているかを、御霊が私たちに知らせて下さるように、自己とは私たちが考えているように決して良いものではありえないこと、自己がどれほどまでに罪と腐敗に満ちているものであり、これを愛することがどれほどの危険であるかを御霊が教えて下さるように…。そして、主と共なる死が絶えず我が身に実際となり、私たちがこれまでのように古き命に支配されて生きるのではなく、キリストの新しい命によって、神に対して生きる新しい人とされることを、神に真剣に願い求めたいのです。どうか神が私たちを憐れんで下さいますように!

さて、兄弟たちよ、時は縮まっています、私は、キリストかセルフかという、この二者択一には、中間というものがもはや存在しえない時代に来ているように感じているのです。どちらかを選ぶことは、どちらかを捨てることを意味し、はっきり言いますが、両者は決して共存も両立もできないのです。(私たちの生まれながらの自己は、主と共なる十字架の死を経由して、キリストの命によって、神に対して生かされる新しい人へと変えられます。そうして、魂が霊を治めるのでなく、霊が魂を治め、御霊によって治められる人となる必要があるのです。)

しかし、あまりにも多くのクリスチャンが、この十字架における自己の死、というテーマを聞くと、笑って、もしくは耳を背けて去っていきます。あるいは多大な侮辱を感じて憤るか、もしくは悲しみながら去っていきます。これは極端なペシミズムに違いないと考えるのです。しかし、注意して下さい、聖書は私たちが自己の内に何かをさらに「得る」ことによって真理に到達できるとか、永遠に至る報いを得られるとは全く言っていないのです。(もちろん、私たちが救われたのは信仰によるのであって、行いによるのではありません。しかし、その後、むしろ、私たちが主にあって何を得たかではなく、私たちが主にあって何を捧げ、注ぎ出したかが、私たちの永遠に至る報いを決定します。)どうか、あの金持ちの青年のように自分の財産を惜しんで私たちが主に従うことを拒みませんように。

別の言葉で言えば、真理に対してどのくらい忠実であるかが、私たちのいのちの健やかさの度合いを決定します。ある人が私に真実なクリスチャンとは何かを考える際に「キリストのいのちの健やかさ」に注目することが有益であると早くに教えてくれたことを今でも忘れません。キリストの香りは健やかないのちの香りです! それは増し加われば増し加わるほど、ますますその人を健全にします。しかし、自己の香りは、それとは全く違って、初めのうちこそ個性的に思われても、増し加わるほどにその人を病的にしていくので、ついに最後にはキリストのことを全く知らない人でさえ、それが見分けられるほどになるのです。

主は私たちに幾多の出来事の中を通らせ、十字架の下に砕かれることを求められますが、それを再三に渡って拒まないように注意が必要です。公然と十字架を退け、むしろ、生まれながらの自己を愛することを公に宣言すると、それが悪しき信仰告白となって、そのクリスチャンには、短期間で明確な霊的病の特徴が現れて来ます。それは高ぶりという病であり、自己栄化という病であり、そこにはもろもろの罪に対する鈍感さが平然と見られるようになります。

注意して下さい、私の経験から言えることは、自己は肥大化します。なぜなら、神ご自身が私たちの全てを得なければ満足されないように、サタンもまた、もしも私たちのうちに何らかの足がかりを得られるとするなら、その足場のみならず、私たちの全てを占領するまでその誘惑をやめないからです。こうして、クリスチャンは激しい戦いを仕掛けられています。もしもその中で、私たちが自己を愛し、我が内にサタンへの座をもうけるならば、ちょうど恐ろしい病が潜伏しながら時間をかけて進行するように、自己を愛するその人の内で、自己は肥大化していき、その人の正常な人格を壊し、ついにはどんな人でもその人の異常に気づかざるを得ないほどまでに、その人の内から、(キリストのまことの)いのちの健全さが失われるのです。

ですから、私たちは神の懲らしめの御手の下に自主的にへりくだりたいと思うのです。罪を犯したとき、それに気づいて悔い改める余地が与えられるかどうかは、神の憐れみによります。神の憐みを失うまで、心を頑なにしてはなりません。「…神は、人をみこころのままにあわれみ、またみこころのままにかたくなにされるのです。」(ローマ9:18)

注意して下さい、人があまりにも甚だしく神を侮った場合、神はわざとその人の心を頑なにして、その人が正しい忠告を聞いても、もはや悔い改めることができないほどまでに心を頑なにされ、そうして、あえて滅びに引き渡されることがあります。神に仕える者であったにも関わらず、甚だしく神を侮って、神へのささげ物を汚し、自分を高く掲げたエリの息子たちがそうであり、彼らは再三に渡り忠告に耳を背け、主を侮るという罪を犯し続けて、主に殺されました。また、アナニヤとサッピラもそうでした。私たちは、真理を喜ばず、不義を喜ぶということ、神の真実を侮り、神の真実を曲げるということがどんなに大きな罪であるかを思い出す必要があります。

「しかし、彼らは父の言うことを聞こうとしなかった。彼らを殺すことが主のみこころであったからである。」(サムエル記Ⅰ2:25)

「不法の人の到来は、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれに伴い、また、滅びる人たちに対するあらゆる悪のあざむきが行なわれます。なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。それゆえ神は彼らが偽りを信じるように、惑わす力を送り込まれますそれは、真理を信じないで、悪を喜んでいたすべての者が、さばかれるためです。」(Ⅱテサロニケ2:9-12)

ですから、私たちは神よりもセルフを高く掲げる罪の恐ろしさを知らなければなりません。セルフの罪とはどこにあるのでしょうか? それは神よりも自分を義と主張するところにあります。神の真実を曲げ、神の真実を退け、神ご自身を排斥してでも、己を正しいと宣言するところにあるのです。このような自己を擁護することは、自らを義と見せかけるために義人アベルを殺したカインや、世の罪を告げ知らせるために来られた小羊、まことの命の君を逆に罪に定めて殺してまでも、自分の正しさを主張したパリサイ人や律法学者らと同じ不義へと通じるのです(そうである限り、自己を愛する人の末路は、最初こそ正しいように見えても、最後には必ず、真理そのものに対する挑戦となり、また、真理に生きている義人に対する理由なき敵対と憎悪へ至るのです。)。

クリスチャンは神の神殿とされた人々であり、自分の身体を義のために生きた供え物とするべく選び出された人々です。神殿の主(あるじ)は誰でしょう? 私たちなのでしょうか? 神の神殿を破壊する者は、神によって滅ぼされるのです。クリスチャンには、真理に生き、神に仕える以外の生き方はないのであり、真理を知りながら、神に仕える者とされたにも関わらず、神よりも自分を愛して生きた人たちは、神を信じない人たちよりも、さらに厳しい裁きを受けて、容赦のない滅亡へと引き渡される危険性があることを知るべきです。

ですから、それぞれが注意して自分の歩き方に気をつけなければなりません。もしもキリストかセルフかという選択において誤った場合、私たちは気づかぬうちに、我が身に罪のゆえの呪いと死を招き、もはや命を取り返せないところまで行ってしまうかも知れないのです。これは決して大袈裟な表現ではないのです。
 
「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。(自分の)いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。人の子は父の栄光を帯びて、御使いたちとともに、やがて来ようとしているのです。その時には、おのおのその行ないに応じて報いをします。」(マタイ16:24-27)

<つづく>

PR


この記事へコメントする








絵文字:
Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字









「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)

「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。

しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」

こういうわけで、兄弟たちよ。 私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」
(ガラテヤ4:28-31)


(08/14)
(08/06)
(07/17)
(05/14)
(05/09)
(05/07)
(05/07)
(05/02)
(03/20)
(03/05)