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「こうして、いろいろの働きをする神の知恵は、今や教会によって、天上の支配や権威に知らされるようになったのですが、これは、神がわたしたちの主キリスト・イエスによって実現された永遠の計画に沿うものです。

わたしたちは主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信をもって、大胆に神に近づくことができます。だから、あなたがたのためにわたしが受けている苦難を見て、落胆しないでください。この苦難はあなたがたの栄光なのです。」(エフェソ3:10-13)
 
掲示板も時には正しい忠告を行うことがある。自己愛しか語れない連中の虚しい議論の合間に、村上密がどのようにして唐沢治の陳述書を手に入れたのかを調べるためには、裁判所に問い合わせるのが一番だという旨の助言があった。

いみじくも、筆者は杉本への措置のために、保全係と連絡を取っていたので、久方ぶりにこの件について問い合わせた。すると、当事者には、記録を閲覧した人間を特定できる事が分かった。

つまり、閲覧記録を照会しさえすれば、村上密が、唐沢治の陳述書を裁判所経由で手に入れたのか、それとも、唐沢本人から入手したのかは、はっきりするということである。

筆者の見解としては、村上と唐沢との間にメール文通があれば、それは二審で、村上がこの陳述書の中身を本物だと信じた理由として提出されるだろうと思う。

神は不思議な方で、隠れたところで行われている事柄を、明るみに出される。ある意味、事件の解決に時間がかかるのは、そのためなのである。私たちが思っているよりも、さらに悪は深く、さらに思いもかけないほど、人間の堕落は深い。

私たちの予想を超えて、これらの牧師たちが深いレベルで霊的堕落に陥っていることを示すものとして、おそらく、二審では、これまでとは違った種類の証拠が出て来るのではないかと見られてならない。

一審では、杉本も村上もしばらくの間、「否認する」と「不知」しか書かれていない答弁書を出して、沈黙を守っていた。村上は、一審の間中、沈黙を守ったと言えよう。そして、判決が下されてから、初めて口を封じられた杉本徳久と交替するように、己が内心を吐露し、筆者に対する公然たる権利侵害の記事を書き始めたのである。

だが、二審では、杉本と村上の役割が逆転し、杉本が沈黙し、村上が発言することになる。その時、村上の内側から何が出て来るのか、筆者は非常に興味深く思っている。

ちなみに、筆者には村上のブログそのものが非常に気持ちが悪い。最近は、筆者がひとこと欄で述べたことや、「牧師が御言葉の解釈を独占したがゆえにカルト化が起きた」などとする論を、村上がまるで自説のごとく振りかざし、筆者の論を次々借用している様子が理解できる。

唐沢もそうであった。唐沢は、信徒らが執筆しているブログから勝手にテーマを盗んで行っては、メッセージで我が物のように勝手に利用することを繰り返していた。クジャクの羽をつけたカラスであって、すべてが借り物なのである。

村上密の記事「選択」にはこうある。

「裁きが、遠い外国に対してであるときは、人々は喝さいしたはずである。しかし、段々自分たちに近づいていることに気付かない。とうとうその裁きが自分たちに向けられた時、誰が喝さいをあげるだろうか。それは嘆きと悲しみの時の到来である。私は喜んで宗教問題に通り組んでいるわけではない。嘆き、悲しみ、被害者の回復のために取り組んでいる。しかし、被害者が回復していくときは喜ぶ。だから、嘆きと悲しみを共有し、やがて来る喜びも共有しようと全国を飛び回っている。」

聖書は、裁きは神の家から始まる、と言う。村上は、裁きが自分の足もとまで迫っているのに、未だそれを他人事のように書く。自分だけは裁く側であって、裁かれる側には回らないという思い上がりが透けて見える。

だが、二審では、村上自身に裁きが下されることになる。  

そして、今、裁きから逃げ回っている杉本にも、逃げられない時がすぐに来る。

二人は、裁きを受け止める勇気も覚悟もない人間である。自分たちは神のように人を裁くことができるという思い上がりに陥っているだけである。その点は唐沢も同じだ。

この三人は、自分たちはニッポンキリスト教界の監督者であって、自分には諸教会を裁く資格があるという途轍もない思い上がりに陥り、己が罪を神の御前に悔い改めるチャンスを失っている。

人生の終わりには、ゲヘナに投げ込まれて終わるだけの偽預言者である。
 
ちなみに、カルト被害者は10年以上前から、村上の薄情さ、冷淡さ、痛み苦しみへの共感のなさを訴えて来た。聖神中央の被害者は、あっという間に村上から逃げていなくなった。

村上が、以上の記事に書いているように心優しい人間であったなら、そもそも身内が自殺に至ることは絶対になかったはずである。もちろん、長年、自分の下で仕えて来た長澤牧師を、主任牧師として育ててやれないなどのことが起きるはずがない。

いつまでも自分が栄光を独占しようとするため、身内以外に誰も後継者が育っていない、これは独裁者の特徴である。
 
偽預言者には悪い実しかならない。うわべの自画自賛の言葉に騙されることなく、実態をよく見極められたい。
 
* * *

さて、杉本徳久が賠償金を払いたくない、筆者の取立は迷惑行為だ、自分は取立の「恐怖」によって体調を崩している、などとするメールを本日、送りつけて来た。

ゴールデンウイーク前から連絡しているにも関わらず、いよいよ勤務先に手が回ると分かって大慌てだ。
 
だが、筆者は、杉本がこうして支払いの時期を引き延ばしていることに、心の底から嫌悪を侮蔑を思えるが、それにも、神の計画があると見ている。なぜなら、その間に、商工会議所、同窓会(東京銀杏会)、ヤギの会などにも連絡を取ることになり、その過程で、杉本がありもしない経歴を詐称している事実が分かったからである。

もしも杉本が速やかに誠意をもって判決に応じていた場合、筆者には、彼の虚偽の深さが見えなかったであろうし、関係者に、事実が知れることもなかったであろうと思う。杉本がここまで卑劣な人間であることが、彼に近しい社会に伝わる結果にはならなかったであろう。
 
村上密についても同様なのである。もしも一審判決が下されてから、判決確定までの間、村上が沈黙を守っていたならば、筆者はおそらく、この一審判決で満足して立ち止まっていたに違いない。筆者もまた、村上に疑問を感じつつも、その内面の悪の深さを見抜けないまま、そこで争いが打ちきりになっていた可能性があるのだ。

だが、神はあえてこの事件を引き延ばされた。それはやはり、人の隠れた内面が極みまで明らかにされるためではないかと思う。
 
従って、物事がこじれているように見えるところにも、神の深い采配は働いている。そして、杉本が支払いを遅らせれば遅らせるほど、事実はより多くの人々に知れて、彼はますます窮地に陥り、社会で居場所を失って行くことになる。

また、以下にも書いたが、筆者の策はいつも一つではない。神はこの世で知恵あると己惚れている者を、高みから見て嘲られ、この世では無知と思われている者、無力と侮られている者を大胆に用いられて、御業を示される。神は教会を通じて、この世の諸々の支配と権威に、ご自分の多種多様な知恵を示されるのだ。

だから、神の教会の知恵は尽きることなく、この世のすべての人々の知恵を上回っている。私たちキリスト者は、敵の策略を足の下に踏みしだき、彼らのしかけた罠を高く飛び超えて行くだろう・・・。
 
* * *
  
さて、杉本は控訴していない。判決に不服を示していないのだ。にも関わらず、筆者の控訴を理由に、賠償金を支払わないとする彼の屁理屈には、呆れるのみである。

今回の判決には、仮執行がついている。仮執行は、賠償金の部分と、ブログ削除の部分にかかっている。

従って、杉本が未だコメントを削除していないことや、賠償金を支払わないことに対しては、筆者は強制執行、間接強制をかけて、取立を行う権利を有する。それが認められていればこそ、すでに債権差押命令が出ている。

一つの差押が空振りに終わりそうでも、取立業者に委託すれば、勤務先を調べてもらえる。その上で、勤務先に相談し、給与の差押などの措置に及ぶことは可能だ。

しかし、何よりも、こうした情報が勤務先に知れた時点で、平和裏に勤務を続けて行くことは難しくなるものと想像される。

そのことは、学術研究者から成るヤギの会の事務局員も、筆者がただ電話でこの訴訟の話を伝えただけで、決してこちらの言い分を一切疑うことなく、再三、杉本の行為を筆者に詫びていた様子からも分かる。

これが、普通の良識ある社会人のまっとうな反応なのである。それにも関わらず、杉本は、筆者がヤギの会に連絡を取った行為さえ、迷惑行為であるかのように非難している。

杉本はHCCの榊山牧師に勝訴した時、訴訟費用を早く払えと言って、HCCを非難していた。坂井能大を訴訟で破ったときには、即日で、裁判所で坂井に解決金を支払わせている。

それにも関わらず、自分だけは判決に従いたくないと駄々をこねる。どこまで我が身可愛さのゆえに、法に逆らい、世間の常識に逆らい、人に迷惑をかけ続けて、自分だけを愛し続け、わがままを通すつもりか。

杉本のキリスト教徒への非難には何の根拠もなかった。自分が裁判でキリスト教徒に打撃を与え、彼らからただ巻き上げることだけが、彼の目的だったのは明白である。本当に反吐が出るほどの嫌悪を催す、としか言いようがない。

もちろん、このような人間がキリスト教徒のはずがないし、悔い改めの余地があるとも全く思えない。このような男が、信者を名乗るだけ我々には大きな迷惑である。

筆者はメールに次のように書いた(多少文言を変えた部分がある)。
  
  

 ただちに託金にて賠償金を支払いなさい。

杉本徳久様

ゴールデンウイーク前からお支払いを要求しておりました。一体、いつお返事がいただけるのかと思っていましたが、あまりに無責任な対応を非常に残念に思っています。

さて、杉本さんが、賠償金の支払いおよびブログ削除の実行をこれ以上遅らせたいと願っておられることは、一切認められません。

一審判判決にはご存じの通り、主文の6に「この判決は、第2項及び第3項に限り、仮に執行することができる。」とございますので、控訴の有無に関わらず、私には判決の第2項、第3項をあなたに対してただちに実行に移す権利がございます。

第2項は賠償金の支払い、第3項は20本以上のブログ記事の削除を命じる判決です。仮執行の宣言がなされている以上、控訴審の判決を待たずとも、ただちに一審判決を実行可能なのです。

しかも、杉本さんは控訴なさっておられませんので、一審判決に同意という立場を公にされたことになります。ですから、今の杉本さんは、一審判決に不服も申立てていないわけですから、それにも関わらず、判決に従わない理由は、何一つございません。

しかしながら、杉本さんは賠償金の支払いは言うに及ばず、第3項さえ現時点できちんと履行なさっておられず、5月13日まで数多くの記事を削除されませんでしたし、未だにコメント番号17も内容を書き換えただけで、削除しておられません。

これは杉本さんが判決を実行しなければならない立場にあるにも関わらず、それを正当な理由なく無視し、一方的に履行を怠っていることを意味しますので、私はこれに対して、強制的に判決を実行に移すための措置を取る正当な法的権利を有しています。

実際に、私にその権利があるからこそ、立川支部が、債権差押命令をあなたに送ったのです。

しかも、私一人では限界があると判断すれば、第三者などの回収業者に委託することも可能です。

私はこれまで杉本さんが電話やメールにきちんと出られず、正当な理由なく、賠償金の支払いをいたずらに遅延させて来たため、やむなく杉本さんの知人やご家族や大学関係者や勤務先に、杉本さんが判決に従うよう、杉本さんに連絡を取ることが目的で、問い合わせを行わざるを得なくなっています。

そのために膨大な時間を費やさせられています。あなたご本人がきちんと連絡に応じないのですから、あなたの知人にそうした問い合わせを行うことには、やむを得ない正当な理由があります。

あなたは実名でブログを執筆されて来た方であり、今回、誰でも不特定多数の人々が閲覧できるインターネット上で私の名誉を公然と毀損されたわけですから、あなたに関して、一審判決の中では、何一つ秘密に当たる情報もなく、そこで、私が判決内容をあなたの知人やその他の人々に口外したところで、何ら、あなたに対する権利侵害にも、迷惑行為にも当たりません。

そのようなわけで、あなたが判決にきちんと従うまで、私が以上の措置を取ることには、「正当な理由」がございますし、続行せざるを得ませんので、ご了承下さい。

このような事情ですから、あなたには、私の法的に認められた正当な取立を「迷惑行為」などと呼ぶ権利はなく、そもそもあなたは私からの電話に、最初の1本を除き、全く出ておられませんし(その他の電話は一切通じていないので、通話記録もない)、このメール一本以外、一通のお返事もしておられませんので、それにも関わらず、迷惑行為が成立する理由もありません。

むしろ、私の名誉を毀損され、民事訴訟でも判決に従わず、迷惑行為を繰り返しておられるのは杉本さんだと思います。

さらに、あなたは私の記事や取り立てが原因で、体調不良に陥ったかのような、小学生のような文句を書き連ねていますが、あなたが運営しておられるFC弥生というサッカーチームの掲示板には、

https://fcyayoi.hatenablog.com/

2019   

   5/18   Sat 新横浜駅前 新横浜 球技場グランド 天然芝  2:00 - 4:00

     vs   浜のオヤジUnited

 杉本 水野

と記されており、休日には趣味のサッカーに興じて元気に走り回っておられるご様子ではありませんか。体調不良の影すらも見受けられない現状に驚かされます。

ヤギの会の事務局は、私の置かれている状況を理解して下さり、あなたの行為が、会の信用を損ねるものなので、あなたにしかるべき対応を求めると回答し、私にも詫びてくれました。

それにも関わらず、今回、ヤギの会からの連絡を受けたにも関わらず、あなたが今になってもまだ賠償金を支払いたくないと子供のように駄々をこね、「怖い」とか「体調不良になりそう」などと、自分が被害を受けているかのように訴えるメールを私に送って来られたことは、まさにあなたが市井の良識ある一人前の社会人として、自らが負うべき法的責任を一切、負えないわがままかつ幼稚な人間であることを示す驚くべき事実ですから、その旨も、合わせてヤギの会の事務局に、お伝えしておこうと思います。

多分、そのようなあなたの態度を見れば、これまで、あなたを信用して来た人たちも、あなたという人について考えを翻し、もはやあなたを信用し続けることはできなくなるのではないかと想像します。

特に、杉本さんはかつてHCCと裁判をし、HCCから訴訟費用を取り立てた過去がありますし、坂井能大氏をも裁判に訴え、彼に少なくない解決金を即日に裁判所で支払わせています。ご自分はこうして裁判を利用して、他の人々に、賠償金を支払わせていながら、ご自分だけ、子供じみた言い訳で、債務を逃れることができないのは当然と思います。

さらに、杉本さんは、過去10年間ほど、再三再四、私に「刑事告訴」や「裁判」を口実にして、様々な要求を行う脅しめいた内容のメールを送りつけられています。そして、私が要求に従わなければ、「実名を無断で公表する」とか「卒業した大学に問い合わせる」などとおっしゃっておられました。

それにも関わらず、私が杉本さんや関係者に対して、司法で下された判決に従い、賠償金の取立という「正当な理由」に基づいて連絡を行うことが、一切、迷惑行為に該当する理由があるはずもありません。

そこで、最後に通告します。

今、私は、株式会社メディアテラスの代表としての杉本徳久に対し、差押と取立を行っています。ですが、杉本さんがお支払いをなされませんと、今度は、杉本さんの勤務先などをお調べして、給与の差押等に及ぶこととなります。

しかし、勤務先が特定され、給与の差押等が行われますと、杉本さんの生活にも色々と直接的な影響が出て来ることでしょう。

それを望まれないのであれば、杉本さんには、今、すでに差押通知が来ている金額をただちに供託して府中支局におさめる以外に、以上の事態を防ぐ手段はありません。

私には控訴審の準備のための作業がありますから、待ちできる期間はもはやありません。

そこで、まずは、杉本さんが18日に新横浜競技場グランドに来られる際、サッカーチームの方々にこうした事情があることを伝え、理解を乞い、杉本さんとの話し合いの場をもうけていただこうと考えております。

横浜のチームも参加しているようですし、良識ある市井の方々は、ヤギの会と同じように、この問題に理解を示して下さるはずです。

また、万一、杉本さんが非常に乱暴な対応に終始されたりした場合に備えて、神奈川警察署にも、私が取立を目的に杉本さんに接触をはかる旨は、前もって伝えておきます。

それに先立ち、債務承認弁済契約書を送ります。

当日、ご署名捺印を求めます。ただし、サッカーチームの前でこうした書面の交付に及びたくないとお思いの場合には、メールで署名捺印の意思表示を前もって示して下さい。

そうでなければ、予定の時刻にグランドに参りまして、関係者一同にこうした事情があることを伝え、理解と助力を求めることとなります。その際、判決文、債権差押命令、杉本さんが書かれたブログ、また、杉本さんが書かれましたメールも持参することとなりましょう。

それでも杉本さんが、誠意ある対応をされない場合には、この先、勤務先の特定と給与の差押が不可避となりますので、ご了承下さい。

ヴィオロン

追伸

さらに、杉本さんが本日中に債務弁済契約書に署名捺印の意思表示を見せられず、このメールに何らの返答もされない場合は、杉本さんのメールの内容と、私のお送りしたこのメールも合わせて、ヤギの会にお伝えしておきます。

ヤギの会には、判決、債権差押命令、杉本さんのブログをお送りしておきますのでご了承下さい。

また、神奈川警察署には18日の件はこれから伝えますが、制止を受けた場合には、契約書の当日手交をとりやめ、メールで取り交わし、それができない場合には、やはり早急に業者委託等により、勤務先の特定と給与差押に直接的に及ぶ可能性がありますので、これはグランドでお会いすることを約束するものではありません。

また、杉本さんのご両親はクリスチャンという話でしたので、場合によっては、代理人等を通して、ご家族と接触を図り、この件をご相談させていただくことも検討しています。

このように、杉本さんが賠償金の支払いを遅らせますと、多くの方々が、杉本さんの無責任でわがままな行為に、心痛める結果となり、むろん、刑事事件の進展にも差し支える結果となり、生活にも影響が及ぶことをよくお考えになるようお勧めするのみです。

以前に伝えた通りの方法で、ただちに賠償金を支払いなさい。

ヴィオロン

 
おそらく、神奈川警察署は筆者が杉本に会うことを許可しないであろう。だから、筆者はグランドには赴かないと思うが、杉本はよくぞ自分が訴えられている最中、神奈川警察署のテリトリーに自分から入って来る気になったものだと思う。
 
さらに、このメールを送った直後、杉本はホームページを書き換え、自分は審判・用具係だと豪語している。

いずれにしても、病人には休日にグランドに赴くことさえ不可能だ。この猛暑の中、数時間、電車に揺られ、外出するだけでも、いたく体力を消耗するだろう。従って、杉本のメールは、自分にとって不都合なことは何もやりたくないという身勝手な意思表示でしかない。

だが、筆者には、いつも二重三重の方法がある。だから、表向きに実行すると言った方法以外にも、数多くの別の方法論をその陰で駆使することになろう。
 
さて、杉本の送りつけて来た駄々っ子のようなメールは、予告した通り、杉本の書いたブログ記事、判決、債権差押命令などと共に、ヤギの会に送付しておく。それ以外にも、杉本の関係者に相談する時には、杉本の幼稚なメールは、一セットとしてまとめて送付することなるだろう。

おそらく、杉本が筆者に送りつけて来たメールを送付すれば、会からの脱退は免れられなくなるものと思う。あのメールを読めば、通常の人々は、あまりの強烈な自己愛にめまいがして来て、杉本徳久という人間について、根本的に考えを改めざるを得なくなるのではないだろうか。
  
筆者は杉本のメールを読むとき、彼は本当に研究者だったことが一度でもあるのかと、非常に疑問に思わざるを得ない。

文体が、学術論文を一度でも真剣に書いたことのある人の文体ではないのだ。そもそもすべての記事やメールが、文章を愛する人の書く内容ではない。

杉本は大学院修士課程に在学していたことがあると、かつてブログに記していたが、よく考えてみると、修士論文を書き上げたとは一度も書いていなかった。従って、院を修了し、修士の学位を得たのかどうかも、当人の記述からは、はっきりしない。特に、東京大新領域に所属していたのかどうかもよく分からない。
  
とてもではないが、この男の文章では、一本の修士論文も書き上げられないだろうことを筆者は疑わない。

(以下は、杉本がかつてブログに掲載していたプロフィール「他人からの呼ばれ方」の記載。)

  


杉本の人生がどのようなものだったかは知らないが、杉本が主宰しているサッカーチームは、都立西高校のサッカーチームから派生したものだ。高校生活までは、比較的リアルな足跡が見える。ヤギの会でも世話人をつとめたり、ホームページ管理をしていたところを見ると、リーダー役をつとめて、多くの人々をまとめ、脚光を浴び、注目されるのが大好きな人間像が浮かび上がって来る。

だが、そういうことは、高校の同窓会くらいでやめておけばよかったのだ。下手に大学院に進学し、学問を志し、そこに自分には到達できない高みがあることを知って、挫折感を味わったのではないだろうか。大学院時代の記述には、ほとんど何も感慨深い事柄が記されておらず、研究テーマもよく分からず、院を修了したのかも分からないまま、サラリーマンになったと記されており、サラリーマン生活にも、味気無さ以外に見いだせるものは特になかったようである。

杉本のプロフィールから見えて来るものは、精神がずっと「大人になり切れない子供」のまま、子ども時代や、学校時代の、大勢でわいわいがややがと楽しんでいる自分を捨てられないまま、一人前の責任を負えずに、現在を迎えてしまった男だということである。彼には、自分が憧れているものと、現実に自分が努力して手にできるものとの巨大な落差が認識できなかったのであろう。

企業経営者になってからも、多方面に手を出し、音楽スタジオを創設したり、教会音楽に取り組んだりもしていた。だが、音楽に関しては、基礎的素養がなければ、ビジネスとしての成功も難しいだろう。そんな風に、憧れだけで、様々な事柄を手掛けるのだが、基礎というものがきちんとできていないため、すべてが中途半端なまま瓦解して行ってしまう。

その最たるものが、信仰生活である。

* * *

信仰生活とは、神の高みに至り着くことを目指す人生だと言えるので、ある意味では、この世のどんな人たちの人生に比べても、最も不遜な試みだと言えなくもない。

だが、学問においても、高みに至り着くためには、己をむなしくして努力することが必要であるように、神を知るためにも、人はへりくだって自分を捨てねばならない。それができないまま、美しい飾りを身にまとうように、憧れの対象をいくら身の回りにかき集めても、人はクジャクの羽をつけたカラスにしかなれない。
 
しかも、「神」を自分のアクセサリーとして身に着けようとする以上の高慢は、人には見られないものである。ちょうど掲示板でも、ギリシア語やヘブライ語の知識を誇示し、自分は聖書を誰よりも原語で読んでいるなどと豪語しながら、マリアの処女懐胎を否定している投稿者がいるが、呆れることである。

知識は人を高ぶらせる。だが、信仰は、人をへりくだりに導く。

キリスト教の信仰は、自画自賛、自己顕示、自己愛のために持つものではない。
 
杉本の人生からは、この点をはきちがえた男の悲哀が伝わって来る。つまり、最も高みを目指しながら、結局、何者にもなれなかった男の悲哀である。だが、何者にもなれなくとも良いから、せめて判決には従うごくごく普通のまっとうな社会人として生きていれば、それで良かったのではないのかと筆者は思う。

そうしてさえいれば、まさかここまで人生を失うことはなかったはずである。

なぜキリスト教会に敵対し、なぜ自分が他の教会や信者よりもさらに優れた信仰を持っているかのように豪語し、罪もない大勢のクリスチャンを中傷し、裁判に引きずり出し、打撃を与える必要があったのか。

何よりも、杉本が、聖書の神よりも自分自身を高く掲げたことが、破滅の始まりなのである。杉本が否定したいのは、次のことだ。

生まれながらの人間には、聖なる要素は何一つなく、人はみな生まれながらにして、神の御怒りの子であって、己が罪を悔い改めて十字架の贖いによって救われる以外に道はないこと。

イエス・キリストの十字架の贖いを受けなければ、誰一人、神に受け入れられることはないこと。生まれながらの人間には、どんな努力によって、自分を変えることはできず、人間の一切の自己救済はむなしく、人間の生まれながらの自己を改良する方法では、人は何者にもなれないどころか、ゲヘナの子になって終わるだけであること。

信仰生活の基礎は、キリストご自身であって、人の生まれながらの自己ではない。

しかし、杉本は自分を愛し、自分を手放すことを惜しみ、自分の美が失われることを拒んだ。彼は十字架の贖いを拒んだ。そして、神以上に己を義として、諸教会に戦いを挑んだ。そうであるがゆえに、彼は自分の罪が全く見えなくなって、これを悔い改めることも、反省することもできなくなり、神の救いから、自分を除外し、滅びの道をひた走っているのである。

正直に言えば、現在の杉本には、杉本がかつて筆者に向かって発した呪いの言葉が、そのまま跳ね返っているだけのことである。杉本が他者を精神的に追い詰め、他者が心を病んで立ち直れなくなることを積極的に願いつつ、容赦のない呪いの言葉を浴びせて、他者を中傷し、他者の社会生活が不可能になることを積極的に願う言葉を、おびただしい回数、公の場所に書き記し、また、そのように自分が嘲り、罵った人間の苦しみを、高みから見下ろして、これを踏みにじって嘲笑するようなことがなければ、今、彼がこのような立場に置かれることはなかったであろう。

筆者は、杉本がまだ多分に嘘をついていることを知っている。彼はサッカーの審判が出来るくらいに元気だ。だが、たとえ仮病であったとしても、自らの債務を逃れるために、杉本が自分を「病気」だと宣言したことは、神と人との前にきっと覚えられるだろう。人は自分で口から発した言葉に、自分でとらわれ、自分で恐れた事柄が、実現して行くからである。

不思議なことである。杉本は、警察の取り調べが「怖い」と言うのではなく、筆者の取立や、ブログ記事が「怖い」と言うのである。そういう感覚がまだ残っているならば、2010年頃から、杉本が再三に渡り、筆者に送りつけて来たメールが、筆者にどれほど大きな不快感、精神的苦痛をもたらしたか、彼には分かるはずだ。

ところが、当時、杉本が「訴訟」や「刑事告訴」という文言をやたら振り回していたので、それらのメールは、たとえ名目だけであっても、「正当な理由」があれば、迷惑行為に該当しないとされた。ならば、筆者はその理屈を裏返しにして、現在の杉本にそっくりそのまま当てはめるのみだ。まさか筆者が判決に従うよう杉本に求める行為が、迷惑行為に当たるはずもない。
 
このように、人には他者に対して行った行為が、いつか自分に跳ね返ることになる。憐れみのない者には、憐れみのない仕打ちが跳ね返り、残忍な者には、残忍な仕打ちが跳ね返る。その逆に、憐れみ深い人間には、憐れみが返され、施す者には施しが、人を赦す者には、赦しが返って来る。

筆者はこれまで幾度も杉本に悔い改めるよう警告して来たので、十分にその時期は過ぎたものと思う。

このように、神は人の心を極みまで探り究められ、おのおのの行いに応じて報いられる方である。事態が紛糾しているように見えるのは、杉本には、まだまだこれからその身に降りかからねばならない出来事が多数、残されているためである。

筆者は贖いの絶大な効力を知っているので、これまで杉本にどんな言葉によって呪われても、それに打ち負かされることはなかった。だが、信仰の盾のない杉本には、自分が他人に向かって吐いた言葉が、自分自身に跳ね返って来る時、防御の方法はないであろう。

杉本が発して来た残酷で容赦のないクリスチャンへの呪詛の言葉は、これから信者たちを離れ、彼自身の生涯に付きまとうことになる。杉本が恐れているのは、筆者ではなく、彼の行った数々の残酷な行為を覚えておられる神ご自身の報復と、聖徒らからの徹底した侮蔑と嘲りである。
 
   <続く>
 

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「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)

「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。

しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」

こういうわけで、兄弟たちよ。 私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」
(ガラテヤ4:28-31)


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