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今週は日曜日しか休みがないが、嵐のような一週間を終えて、今朝はゆったりと友との交わりの時を持った。人目につかない、隠れたところに、主がこっそりと保っておられる、私の小さな友と…。交わりが始まってまだそれほど経たないのに、主が私たちの交わりを保ってくださったおかげで、色々なことを分かち合えるようになった。

さて言いますが、友よ、私は今までの生涯で二度、裁判に関わりそうになったことがあります。今だから言いますが、いずれも自分から望んで裁判に関わろうとしたのです。両方とも、クリスチャンを名乗っている大勢の人々から、不当な仕打ちを受けたときであり、我が身の潔白を証明し、被害を取り返すために、裁判という方法論を考慮にいれたのです。しかも、二度とも折よく、私の訴えを全面的に真実であると認め、支援すると約束してくれる指導者が現われたのです。(しかも、二度目は、私が自分から依頼したわけでないのに、私の名誉を回復するために裁判を起こしたいと言う人が現われたのです。)

ああ、人として不当に侮辱されたり、傷つけられたり、貶められたとき、誰かが力強い味方になってくれて、公の場で私のために証言してくれて、私の名誉を守ってくれたらという願いが、どれほど熱く、抑えがたく胸の内に起こって来ることでしょう!

しかし、主は結局、二度とも、私を裁判に関わらせなかったのです。むしろ、私の期待をへし折られ、微塵に打ち砕かれました。支援すると言ってくれたその人たちは、二度とも全く同じように(それらは全く別々の機会であり、何の関係もない人たちだったにも関わらず)、平然と約束を破り、私の信頼を踏みにじって、自分の言葉を自分で無にしました。その不誠実な姿を見た時、私は、両者ともに彼らの親切な口ぶりの中には、実際、何の真実もなかったことを認めざるを得ず、それは「口づけをもって裏切る」態度であり、自分の命を惜しむようにとの誘惑であり、罠であったことを知ったのです。

今となっては、それらの二つの出来事が、両方とも、本質的に同一の起源に通じていると思うのです。そうである以上、それらは同一の結末に至るに違いありません。私は、裁判を通して、貧しい人々の訴えを弁護することが間違っていると言っているのではありません。それが正しいことであるのは、御言葉によれば明らかなのです。本当に貧しく、寄る辺ない、無実な人々の訴えを正しく弁護するために、力を持った人々が、裁判に関わろうとするならば、主はもちろんそれを許して下さるでしょう。

しかし、私を支援しようと言った人たちの動機は、主の御心にかなわなかったのです。それは人の栄光を追い求める中から出て来たことであり、しかも信頼できない約束であることが明らかになったのです。それを頼りにしようとした私の選択も、動機も、主の御前に間違っていたため(それは十字架を回避して私の命を保とうとする努力なのです)、私はさらなる重荷を抱えることになり、受けなくても良かった非難までも受け、ついに悲しみのうちに全ての期待を捨て去り、信頼したいと願った人たちのもとを去らねばならなくなりました。

けれども、まさしく、その失望の背後に御手を伸ばしておられるのは主であったのです。主が私を決して裁判には関わらせたくないと願っておられること、裁判を用いて名誉を取り返すことが御心に反していること、主は私をさらにへりくだらせて、試みようとなさっておられるがゆえに、幾多のつらい目に遭わせ、虚偽の訴えの前に私を立たせたのであり、私はその杯を喜んで御前に飲み干すことが求められていたのです。その杯を回避してはいけなかったため、主ご自身が、私を守られたのだと今は分かるのです。

「イエスは彼に言われた、『あなたの剣をもとの所におさめなさい。剣をとる者はみな、剣で滅びる。」(マタイ26:52)

そもそも、互に訴え合うこと自体が、すでにあなたがたの敗北なのだ。なぜ、むしろ不義を受けないのか。なぜ、むしろだまされていないのか。しかるに、あなたがたは不義を働き、だまし取り、しかも兄弟に対してそうしているのである。」(Ⅰコリント6:7-8)

もちろん、公衆の面前で行なった約束を平気で裏切るような人々は、厳しい報いを受けることでしょう。社会的信用も、それによって失われるのです。それは明白です。しかし、主は長い時間に渡って、私を説得されたのです、「あなたは甘んじて不義を受けなさい」と。

主は懇々と私に言われています、「あなたは臆病で、未だに自分の権益にこだわっている。しかし、臆病者は御国に入れないと書いてあることを知らないのか。あなたは自分の命を惜しんでそのような者になるつもりなのか。そうでないなら、どんな脅かしを受けても、どんなにいわれない非難を受けても、たとえ死の一歩手前に立たされることがあったとしても、私を信じて、全てを最後まで耐え忍びなさい。私の命の力を信じて、徹底的に十字架に服しなさい。あなたが一人ぼっちであろうと、大勢であろうと関係ない。あなたが真に十字架を歓迎するなら、この私が必ずあなたの命をも、名誉をも守ろう。彼らの訴えはあなたに対しては圧倒的な力があるかも知れないが、この私に対しては何の力もない。私が十字架ですでに闇の軍勢を全て打ち破ったため、あなたへの偽りの訴えはすでに打ち破られており、あなたが私により頼む限り、あなたは安全であり、罪に定められることは決してないと知りなさい。

しかし、あなたはただ私の解決の時が来るのを、忍耐して待たなければならない。自分自身で、肉の方法を使って悪に立ち向かってはならない。落ち着いて信頼し、喜んで人々のために裂かれることに同意し、私の名のために苦しみを受けることを喜んで受け入れ、私の方法に委ねなさい。隠れた物事を明るみに出すのは私である。誰が真理を語っているかを証明するのは私である。だから、あなたはただ私だけを信頼し、脅かされても、真理を述べ続けなさい。自分を被害者と思ってはならない。私があなたのうちで勝利者であり、私がすでに世に勝ったことを思い起こし、勇気を奮い起こして立ち上がりなさい。真理に従い、悪魔に立ち向かいなさい。死に至るまで忠実でありなさい。」

「兄弟たちは、小羊の血と彼らのあかしの言葉とによって、彼にうち勝ち、死に至るまでもそのいのちを惜しまなかった。 」(黙示12:11)

今までにも言って来たことなのですが、今もやはり思うのです、私たちが同胞からいわれなき非難を受けるようなことがあっても、見捨てられるようなことがあっても、あるいは、私たちの真実な忠告や訴えを聞いて、かつては友であった人たちが、私たちを憎むようになったとしても、そこから立ち上がって勝利する方法は、ただカルバリにしかないのだと。いや、もっと言うならば、カルバリで主イエスは私たちがこれまでに受けた打撃だけでなく、これから受けるであろうあらゆる未来の「被害」をも、全て決済して余りある勝利をもたらしたのです。私たちはその事実に立ち続ける必要があります。解決はカルバリだけにあります。いや、カルバリがすでに解決なのです。この世の方法に頼り、自ら裁判を起こすことによって名誉を取り返そうとするなら、その人は裁判によって自分も滅びるでしょう。

友よ、とにかく、主は私には裁判をお許しにはならなかったのです。他の人には良かったとしても、私には許されなかったのです。主が私に期待されたことはこうだったのです、どんなにひどく痛めつけられ、どんなにひどく罵られ、どんなにひどく名誉を損なわれ、脅されたとしても、全くの無力の只中から、ただ主の真実だけによりすがって、信仰だけによって、力強く立ち上がることを、主は望んでおられたのです。虚偽に対し、この世の力を用いて勝利するのではなく、ただ真実なるお方のいのちそのものによって、勝利をおさめることを、主は私に望んでおられたのです。

一人の人に過ぎない私には、正直に言うなら、その期待に応えるためには、かなり日数がかかったと言わざるを得ません。初めにあった恐怖心やら、自分の命を守りたいという願いや、また、誰かに守ってもらいたいとの願いが過ぎ去るまでに、月日が必要だったのです。一言だけ弁明を許してもらうなら、私は本当に一人きりですべてに立ち向かわなければならなかったのです。しかし、主の勝利を確信して立ち上がった時、人への恐れや期待はあっさりと過ぎ去り、逆に勝利の確信が内側に沸き起こり、どんな脅かしにも動じないほどの強さが、内側から沸き起こって来たのです。

しかも、友よ、不思議なことには、あなたの存在もそうなのですが、以前にはあれほどの孤立状態に思われたものが、今は全くそうでなくなり、かつては望んでも得られなかった協力者や、真実な証言者さえも、次々と現れ始め、完全に形成が逆転したのです。人の力によらず、主がお立て下さる二人、または三人の証言というものが、どれほど心強い、真実なものであるか、私は思い知らされています。まことの証人を立てて下さるのも主なのです! こうして私が信仰によって力強く立ち上がった時、私の人生のさまざまな場面で、勝利が実際として見られるようになったのです!

「あなたがたは立ち返って、落ち着いているならば救われ、穏やかにして信頼しているならば力を得る」(イザヤ30:15)

カルバリの勝利だけを根拠にして立ち上がるなら、私を拘束している偽りの縄目は、自然に手から剥がれ落ちるのです。それは勇者サムソンが自分を縛った縄をふりほどいた時と同じです。霊的な敵の脅かしは、まやかしであり、たとえどれほど非難の声を上げて吼えたけったとしても、真に主とともに十字架の死を経由した者、常に主とともに喜んで十字架の死に赴く者に対しては、何の力もないことが明らかとなるのです。そして、真実によって試みると、エリコの城壁が崩れるようにして、偽りの要塞は粘土のように脆く崩れ落ちて行きます…。

このようなことが、今までに何度も、何度も、起こって来たのです。私はそれを通して、聖徒らが霊的な敵のどれほど激しい憎しみにさらされているかを知って驚き、しかも、クリスチャンを名乗っている者がそうすることに驚く他ないのですが、それでも、時間をかけてゆっくりと、主は虚偽の教えに対し、どのようにして立ち向かうべきか、主がどのように偽りを明らかにされるか、どのようにして真実を示されるか、教えて下さっています…。もちろん、十字架以外に真理はないのですが、その十字架を宣べ伝えている者自身が、まず真っ先に、正真正銘、十字架の死に服することが求められているのです。それさえ確保されるならば、何の心配も要りません、復活の命はおのずからそこに働き、そこには打ち破ることのできない喜びと勝利の確信が生まれるのです。

暗闇は光の前に立ちおおせません。しかし、まず主にあって、従順に十字架に赴き、すべてを失うこと…、十字架において、セルフを徹底的に拒んで捨て去り、キリストだけを選ぶこと、十字架以外に誇るべき全てのものを喜んで失うこと…、試練の只中にあって、主の御手の下にへりくだり、砕かれることに同意すること…、それが主にあって、全てを得る道なのです。私の古き命ではなく、打ち破られない主イエスのまことの命に立ってこそ、虚偽に立ち向かうことができるのです。虚偽に打ち勝つ道はそれ以外にはないことを、少しずつ私は学ばされて来たのです…。だから、敗北のためではなく、勝利のために、主は私に言われるのです、「不義を受けよ!」と。

「たしかに、あなたがたの中でほんとうの者が明らかにされるためには、分派もなければなるまい。」(Ⅰコリント11:19)

「あなたがたは、わたしが平和をこの地上にもたらすためにきたと思っているのか。あなたがたに言っておく。そうではない。むしろ分裂である。というのは、今から後は、一家の内で五人が相分れて、三人はふたりに、ふたりは三人に対立し、 また父は子に、子は父に、母は娘に、娘は母に、しゅうとめは嫁に、嫁はしゅうとめに、対立するであろう」(ルカ12:51-53)


「そこで、あなたに勧める。富む者となるために、わたしから火で精錬された金を買い、また、あなたの裸の恥をさらさないため身に着けるように、白い衣を買いなさい。また、見えるようになるため、目にぬる目薬を買いなさい。 」(黙示3:18)


ふるい分けは私たち自身の内側でも進行しているのです。私たちの信仰は、試練の火の中をくぐらされて初めて、金のように洗練されるのです。どんなに人の目に良さそうに見えるものであっても、火に耐え得ないものは、全て試練をくぐらされると燃え尽きて、消失してしまいます。そこで、何度も、何度も、信仰は火の中で打ち叩かれ、不純物を除かれる必要があるのです。友よ、主の御前で富む者となることは、地上で富む者となることとはむしろ逆であり、アダムの命に属するものを十字架で全て失うことを意味します。しかし、それに素早く同意するなら、永遠に至る命の実を、もっと早く、私たちは結ぶことができるようになるでしょう…。

「よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。 」(ヨハネ12:24)

「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。 」(マタイ16:25)

ハレルヤ、我が愛する友よ、今は大きな喜びを持って言います、私たちは徹底的に十字架の御下にへりくだりましょうね! 主はどんなにそれを喜んで下さるでしょう! 私たちさえ、それに同意するならば、私たちの思いを越えて、どんなに豊かな命がおのずからそこに働くことでしょう! それが本当の過越であり、本当のふるいわけであり、主のために受けた損失は無駄にはなりません。仮に人の目にはどんなに卑しく見えたとしても、主が帰って来られたときに、永遠に至る報いを受けて、その苦労をねぎらわれる僕となりたいものですね。
 

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「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)

「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。

しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」

こういうわけで、兄弟たちよ。 私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」
(ガラテヤ4:28-31)


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