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3.不利な判決から逃げ回る杉本徳久と、賠償金を支払えない株式会社メディアテラス

さて、杉本は、強制執行がなされたにも関わらず、未だ自主的に判決に従う態度も見せず、賠償金を支払ってもいないことを断っておかねばならない。

これは杉本の恐るべき怠慢および無責任である。杉本はブログで不祥事を起こした牧師を激しく非難し、彼らは民事、刑事できちんと責任を取るべきだと息巻いていた。たとえ国外に逃亡しても、その責任からは逃げ切れるものでないと非難していた。

なのに、自分が裁判で負けると、不利な判決からはとことん逃げる・・・。何という呆れるほどに卑劣な二枚舌であろうか、と筆者は憤りを覚えずにいられない。他人に向かっては、「市井の良識」などを上から目線で振りかざし、自分こそ他人に説教できる筋合いにあるかのように振る舞い、自分の考えに従わない者には、様々な権利侵害を予告して、脅しめいた圧力をかけつつ、命令口調で語っていた。なのに、自分自身はどこまでも法的・社会的な責任を負うことを拒否するとは。
  

 
第三債務者である株式会社メディアテラスの代表としての杉本の陳述書。極端に内容が手抜きで不誠実であるばかりでなく、判決にも自主的に従わず、強制執行されても、賠償金の支払い能力のないこの企業の信用が問われる。
 
だが、そもそも、判決言い渡し後、強制執行によって差押を実行せねばならないような相手は、まずまともとは言えない。その上、強制執行も空振りに終わるとなると、よほど悪質な相手と言える。真に資金繰りに苦労していることが考えられる。

これで、株式会社メディアテラスの実態も、杉本徳久という男の本質も、万人の目に明らかになったと言えよう。

こんな微々たる賠償金さえ、速やかに支払えない企業と取引することが、どんなに危険であるかは、今更、言うまでもないことである。しかも、判決に従わない人間が、一体、どんな人間の言い分ならば、聞くというのだろうか? 

筆者は、杉本に向かって、早く賠償金を裁判所に供託するよう強く要求する。いつまでも無責任かつ卑怯に逃げ回っていると、「逃亡の恐れあり」とみなして、こちらはより断固たる厳しい措置で臨むことになるだけだ。

そうなると、日常生活も完全に中断し、より多くの人々に失態が知れ渡り、その後、社会生活に復帰することも、難しくなるだけであろう。そうなる前に、早くこの問題を解決することである。

杉本自身の言葉を使うなら、「いつまでも逃げ回っていないで、市民として果たすべき責任を果たしなさい」ということだ。

この先、神の教会と贖われた人々を厚かましくも非難・断罪して来たこの男が、自らの責任からどこまで逃げ回るつもりか、見ものである。筆者は、杉本がこれまで教会に対してして来たことを思えば、彼は全世界に対する教訓となるのがふさわしいと考えているため、はっきり言っておくが、情けをかけるつもりはない。
   
こうして、判決を実行に移すためのすべての手間暇を、何もかも筆者にかけさせて、自分に不利なことは、何一つ自分から実行しようとしないところに、杉本徳久という男の利己的で甘えた性格がよく表れている。
 
これが今まで司法制度を使って、クリスチャンを脅かして来た男の本性である。自分から他者を訴えて来たにも関わらず、自分が債務から逃げれば逃げるほど、ますます不利になり、信用が落ちて行くだけであることを、分かっていないようである。
 
神はこの問題にもふさわしい解決を与えて下さるであろう。だが、杉本の名は、このようなことを繰り返せば繰り返すほど、恥に変わって行くことになる。
   
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4.教会を冒涜するカルト被害者救済活動の要塞として利用された杉本ブログ

しかし、おそらく、以上のような性格は、杉本のみならず、掲示板で誹謗中傷を重ねているカルト被害者の擁護者全体にもきっと当てはまるものであろう。掲示板で権利侵害を繰り返して来た連中に、いざ訴訟に引っ張り出され、責任をきちんと担う覚悟があるとは到底、思えないからだ。
 
杉本もそうだが、この人々は、被害者意識というものが、人の人格を根底から腐らせてしまうことを示す生きた実例である。彼らは「被害者」の美名を利用して、ひたすら自己を美化し、自分だけを憐れんでいるうちに、全く他者のことをかえりみることのできない、どうしようもなく幼稚で甘え切った人間へと変わって行ってしまうのである。

筆者はこのような人々を見ると、彼らは何かしらの悪質な疑似宗教による重症のマインドコントロールに陥って、正常な意識を失っているのではないかという風に思えてならない。

筆者から見れば、それは戦前・戦中の軍国主義を彷彿とさせる出来事である。戦前・戦中の日本人は、自分が見たことも、会ったこともない天皇を神だと信じ、天皇を拝み、支持することによって、あたかも自分自身も、神々の子孫に高められるかのように思い上がっていた。

そして、彼らは自分たちが「神々」の子孫であると考えながら、天皇の名において、若者を特攻隊に送り、隣人を隣組により密告し、罪のない人たちを特高警察に売り渡し、侵略戦争を支持していたのである。それが己を「神々」であると自負するようになった人たちの忌むべき真の姿であった。

今、カルト被害者運動を支持する人々も、全く同様の誤謬に陥っているものと思われてならない。彼らにとって、詩織さんや、ビュン事件で被害を受けた人々や、その他の残酷な被害を受けた人々は、まるで「神々」のような存在である。

彼らは美化された被害者の像を、あたかも神聖なもののように伏して拝み、それに自分自身を重ね合わせることによって、あたかも自分も、何かしら神々しい存在になれるかのように思い込み、被害者意識を崇め奉ることによって、その高慢の中で己を滅ぼしているのである。

筆者から見れば、彼らは、被害者意識を擬人化して、これを神にまで祀り上げて拝んでいるだけである。だが、彼らが拝んでいる被害者意識の正体とは、生まれながらの人間の罪深いセルフ(自己)でしかない。そうであるがゆえに、彼らは自らが帰依している罪深い被害者意識に飲み込まれて、自らトラウマの権化のようになって、その中で自己を喪失して滅びてしまうのである。
 
我々はそろそろ、杉本ブログに集まる人々が、これまで盛んに自己を美化するために振りまいて来た「被害者」という美名や、彼らが作り出した耳に心地良い美談・お涙頂戴の物語の覆いを取り払って、その陰で、彼らが実際にはどれほどの無法を容認・助長して来たのか、現実を直視し、冷静に考え直すべき頃合いが来ているのではないかと思う。

さらに、掲示板の悪質な投稿は、村上密がブログに記事を投稿すると、早速、勢いづくという特徴があることにも、注目されたい。そのことを見れば、掲示板に最も影響を与えているのは、杉本ブログだけでは決してないことが分かるはずだ。

村上・杉本のブログは、これまでカルト被害者救済活動という、聖書に反する冒涜的運動の一大要塞として利用されて来た。それに唐沢治も加えて、これら数名のブログの投稿は、今やキリスト教会を嘲り、聖徒らを侮辱することによって、神を冒涜し、教会の前進に打撃を与えるための攻撃拠点として、暗闇の勢力に存分に用いられているのである。
  
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5.他人の匿名性を非難しながら、自分は匿名に隠れる杉本徳久

さて、杉本は第一審で、「自分はカルト被害者救済活動などしていない。」と主張した上、カルト被害者の裁判にも無関係を装っていた。
 
だが、ネット上で、誰がそんな言葉を信じる人がいるだろうか? 杉本ブログの主要なテーマが、杉本自身の裁判も含め、カルト被害者の裁判に関する情報の発表にあり、カルト被害者の裁判をきっかけに、不祥事を起こした牧師たちや教会を声高に非難・断罪することにあったことは、誰の目にも明白である。

カルト被害者の裁判の模様をいち早く発表していたからこそ、杉本のブログは世間の大々的な注目を集めて来たのである。
 
ところが、今や、過去に自分に成功をもたらしたその事実さえ、都合が悪くなると、自分で否定するほどまでになっているとは・・・。

ちなみに、杉本は今や自分のブログから、自分の名を消している。

あれほど「匿名のブログには信憑性がない」と叫んでいた杉本が、今や「匿名に隠れている」。

これは、形勢が不利になって、これ以上、訴えられると困ると考え、杉本がそそくさと自分の名を消したというだけでなく、杉本が自分の名を当ブログに奪われたことをも意味する。
 
これは昨年2月に筆者が杉本に対して民事調停を提起してから、その後、現在に至るまでの間に、杉本が自己のプロフィールをどのように書き換えたかを示す画像である。

1.「随想 吉祥寺の森から」の書き換え前のプロフィール



ちなみに、ここで杉本が自分の氏名や連絡先を開示していただけでなく、「健全な魂は健全な肉体に宿れかし」などと、三島由紀夫を彷彿とさせるような発言を行っていたことも、注目に値する。一時は肉体を鍛えていたとも書いている。これは唐沢の理念とも共通するものであろう。

おそらく、このプロフィールが書かれた頃、杉本は若さと活気の絶頂にあったのではないかと見られる。様々な心のトラウマや不安、自信のなさが文章に見え隠れするものの、外見的には、これから未来を迎える若者として、それなりの自負を持っていた様子が伺われる。

だが、「健全な魂は健全な肉体に宿れかし」という言葉は、聖書の理念とは決して相容れるものではない。筆者は、キリスト者の優先順位は、霊→魂→肉体であって、見えないものが見えるものを規定する、というものであることを再三に渡り、述べて来た。

ところが、「健全な魂は健全な肉体に宿れかし」という言葉は、それをさかさまにするものであって、要するに、下部構造が上部構造を規定するという唯物論を指す。

別な言葉で言えば、健全な肉体とは、宮であり、器であって、これは神の神殿たる人間を象徴する。そして、健全な魂とは、人間の魂であるだけでなく、宮が迎える見えない神の霊のことを暗示している。

そのように考えると、以上の言葉は、神と人との聖書的な秩序を逆転させるものであって、神を迎える宮を立派に整えることで、そこに迎えられる神も立派になる、と言っているようなもので、結局のところ、人類を神以上に誉めたたえる異端的思想を暗示しているのである。

このプロフィールは、2005年に発表されたことになっているが、当時からこのように書かれていたのだとすれば、それはその当時から、杉本が聖書とは相容れない唯物論的思想を心に持っていたことを意味し、この「さかさまの思想」こそが、後に杉本を村上と共に「教会の破壊者」とし、破滅へと至らしめる暗い運命となったのだと言えよう。

2.「随想 吉祥寺の森から」の書き換え後のプロフィール

 
 
書き換え後のプロフィールは、以上に挙げた、若さと活気にあふれた輝かしい自己紹介と比べると、惨めなまでに寂しい内容である。杉本の名も、連絡先も、消されているだけではない。「健全な魂は健全な肉体に宿れかし」という言葉さえも、どこかへ消え去っている。

健全な肉体を造り上げることで、健全な精神を養うという、杉本流の神殿建設の試みは、不成功にしか終わらなかった。そして、プロフィールは圧縮され、ただ自分は年を取った、青春は過ぎ去った、と言わんばかりの哀惜の言葉で締めくくられている。

筆者は次の御言葉を思い出す。

人は皆、草のようで、
 その華やかさはすべて、草の花のようだ。
 草は枯れ、

 花は散る。
 しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」(Ⅰペテロ1:24-25)

どんなに一時は勢いがあるように見え、輝かしい成功をおさめているように見えたとしても、それがもし束の間に咲き誇る花のようなものでしかないならば、その成果は一瞬で過ぎ去り、消え去って行く。

もしも主の御言葉に立たないならば、すべてはむなしく、存在しているように見えても、次の瞬間には消え失せてしまう。

健全な肉体が健全な魂を養うのではない。神から与えられた新しい霊が、私たちの心を治め、肉体をも治めるのである。この秩序を覆す者は、決して永遠の領域に入ることはできない。人間が己を神以上に高く掲げて、主の御前に立ちおおせることは決してない。

杉本と杉本のブログに今起きていることは、御言葉によらずして、神の教会を敵に回す者に、どのような運命が降りかかるかを万人の前で示したものである。

だからこそ、杉本は全世界の教訓となるだろうと筆者は述べているのである。
  
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6.村上密を偽預言者であるとみなしていたにも関わらず、これを擁護した杉本徳久

ちなみに、話のついでに、第一審でも論じたが、杉本が当初は村上密に対していかなる不信感を持っていたかについても、述べておきたい。

以下は、2005年に杉本が書いた記事であるが、今でも閲覧可能である。ここに、その当時、杉本が村上をどのようにとらえていたかがはっきりと記されている。



ここで杉本は、不祥事を起こした聖神中央教会がペンテコステ派に属していることを説明した上で、当時、聖神中央の事件で被害を受けた少女たちのケアに当たっていた村上密を指して、これは聖神中央の牧師と同じほど信用できない牧師であるとして、辛辣な言葉で村上を批判している。該当の記述を抜き出しておく。

「ちなみに今回、少女たちを救い出す役回りを引き受けている村上密(「むらかみひそか」と読む)牧師はアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の京都教会にいる人だが、このアッセンブリーズという教団もアメリカ源流の福音主義的ペンテコステ派。そのスタイルは全くそっくりである。私はずっとアッセンブリーズ日曜学校に行っていたからよく解る。だから、犠牲者の少女達は彼に相談したのだろう。

私は間違ってもアッセンブリーズを異端だと否定はしないが、相当に深い問題を感じている。ちなみにこの村上氏、詳細はとても申し上げる余裕がないが、私個人は全く一切、信用していない人である自身がかつて統一教会のカルトにはまっていた時期があり、そこからの「脱会」経験を持っているので、「カルト宗教からの被害者信者の救済」をライフワークにしている人であるとだけこの場では申し上げておくに留めたい。」


さらにこの記事で、杉本は幼少期にペンテコステ派の教会で受けた心のトラウマについて、これを性的凌辱事件になぞらえつつ、それが自分にとって、生涯、払拭しがたいほどの被害体験であると語ていた。ここにも、杉本の暗い運命を予表するいくつもの言葉が並んでいる。

杉本にとって、幼少期から属していた教会は、彼を神に導く場所ではなかったようである。杉本はペンテコステ派の教会で受けたトラウマのことしか語らず、そこで神を知ったことの意味を語ることはない。

幼少時に牧師から性的に陵辱を受けるという、こうした経験をしてしまった人たちはいったい、どれほどのトラウマを今後引きずることか、気の毒でならない。私など、あの「異言」や「祈りの細胞」、「Devotion」などを幼少期から青少年期にかけて、ろくに客観的な説明もされずに目の当たりにさせられたことでものすごい打撃を食らっている。カルトといわれてもやむを得ない面を、紛れもなくペンテコステ派や福音主義派は持っているのである。
 
 彼らのスタイルを絶対に認めないとはいわない。しかし、子どもに対する接し方、あるいは女の子や女性に対する働きかけに知恵と配慮があって当然である。それが全然ないという場合が少なくない。はっきり言って連中はばかじゃないかと思う。だから、今持って彼らに対する不信感と軽蔑の感情が私の脳裏から消えてくれない。今のままのスタイルを一切の見直しなしに進めていったとしたら、やがてまたこうしたカルト的軋轢や性的なスキャンダル(牧師だけでなく、教会員どうしのそれも含めて)を生んでしまうだろうと私は思う。」

確かに、ペンテコステ派の教会に様々な偽りの霊が入り込み、混乱した運動が多数、生み出されて来たのは事実である。そういう意味で、杉本の指摘は全く的を外れているわけではない。だが、杉本はペンテコステ派を批判するばかりで、聖書の御言葉に立ち帰らず、神の真実性を信じない。それゆえ、彼は教会につまずき、彼が教会に向けた批判が、そっくりそのまま、杉本自身に跳ね返り、彼がカルト牧師と名指しした人物への非難が、杉本自身への非難となって跳ね返るという悪循環に陥るのである。

これが、聖書の御言葉に立脚せずに、自分の人間的な判断や価値観に基づいて、神の教会や贖われた信徒たちを敵に回すことの非常に恐ろしい結末であると筆者は考えている。

どれほどひどい不祥事を犯したように見える牧師たちを非難する際でも、私たちが注意しなければならないことは、その非難は、人間的な観点からなされてはならず、聖書に立脚したものとならなければならない、という点である。

相手は一度でも神のために献身し、福音の使徒となった人々であって、そうした人々に向けて、聖書の御言葉による裏づけなしに、つまり、神による守りなしに、ただ人間的な観点からのみ非難の言葉を向けると、非常に恐ろしい結果が跳ね返って来る。
  
福音の使徒に、人間的な思惑に基づいて立ち向かえば、待っているのは敗北のみである。私たちは常に御言葉によって武装しなければ、こうした問題に立ち向かうことはできない。

そういう意味で、杉本が人間的な正義感に基づいて、教会を告発して来た作業は、神の知恵に逆らう恐るべき高慢の上に成り立ったものだと言えるのである。彼を支持するカルト被害者の擁護者たちのしていることも同様である。
 
さて、筆者自身が、ペンテコステ派の教会で育って来た思い出を振り返っても、むろん、この運動には、実に多くの問題があることは確かであるだが、そういった問題の存在を認めつつも、筆者は常に神への信仰を持ち続けて来たし、神が真実な方であることを決して忘れたことはない。

だから、筆者は杉本と違って、ペンテコステ派で立ち直り不可能なトラウマを負ったなどと、考えることもできないし、その後、ペンテコステ派以外の様々な教会で見聞きした混乱も、何ら筆者の信仰を弱めるものとはなっていない。

話を戻せば、杉本がもっと辛辣な言葉で、村上密を非難した記事がある。

これも2005年に書かれた記事で、今も閲覧することができるが、この記事の中で、杉本は、村上密が統一教会時代に、神の語りかけを聞いて回心したという体験談を、全く信用できない眉唾物の作り話として、一刀両断に切り捨てている。



ここでも、杉本は聖神中央教会の牧師による性スキャンダルに触れつつ、被害者の信徒をケアしていた村上密が、全く信用できない人間であり、加害牧師も、被害者のケアに当たっている牧師も、どちらも本質は同じであって、偽預言者に他ならないという厳しい結論に至り着いている。

そして、村上密が信用できない人間であることを示すために、彼の眉唾物の回心体験を引き合いに出し、懐疑の念を示している。該当箇所を抜き出しておこう。

「この聖神中央教会の被害者のケアに当たっているのが、日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の京都教会、村上密(むらかみ・ひそか)牧師であることはすでに何度も私も書いたことだが、彼が牧師に転身したきっかけは「神の声を聞いた」からだそうである。
 
 当時、教祖・文鮮明が率いるカルト的教団、統一教会(桜田淳子などが会員であり有名)の信者だったのだが、ある日、

 「密(ひそか)、密(ひそか)」
 
 と村上氏の名前を呼ぶ声が聞こえた。

 「なぜお前は私を迫害するのか?」
 
 主イエス・キリストのお声だったと彼は言う。統一教会のドグマ(教義、教条)が誤りであることに「気づいた」彼は、カルトの悪夢から目覚めてキリスト教徒に変わったのだとされる。

 以前にもちらっと書いたが、私自身はそういう「神秘的経験、バプテスマ的体験」はいっさいしたことがない。「声」も「姿」も私の五感でキャッチしたことは一度もない。負け惜しみで言うわけではないが、 
 
 「使徒パウロでもあるまいし、そうそう簡単に神の声が聞こえてたまるか。あほらしい。」

 といつも思う。
 
 くだんの村上牧師の逸話は、修辞学の名手といわれ、新約聖書の多くを記述し、屈指の文才を持った使徒パウロが、まだ自ら進んで初代キリスト教会に迫害の限りをつくしていた時に経験した
 
 「パウロよ、パウロ。なぜおまえは私を迫害するのか。」

 という神の声を聞いて以後の人生を大転換したという使徒行伝の下り(これを「パウロの回心」という。)と全く同じ。いきなり統一教会の教えが間違いだと気がつき、劇的に真理を知ったという話の突飛な展開とも合わせ、どうにも私には飲み込めない話である。

 「神の声を聞いた」

 という人の中には、本当にそういう恵まれた幸運に身を置くことが出来た人もいるのだろうが、多くは詐欺師的、偽預言者的な虚偽が混じっているので重々気をつけるべきだと、少なくも私は申し上げたい。

実際に村上がこのような話を当時から人前で吹聴して回っていたことは、筆者も見聞きして知っているので、この記述は嘘ではないと言えよう。アッセンブリー教団では、この手の奇跡体験はまことに人受けが良い。

だが、同時に、村上はその頃から、自分が統一教会を脱会したのは、父親と親族によってほとんど半殺しの目に遭わされて、力づくで家に連れ戻され、脱会させられたからだ、というもう一つの体験談をも披露していた。

そこで、そうした体験談も考慮すると、筆者は杉本同様に、このような奇跡体験が本物であるとは全く信じる根拠がないものと考える。これは村上の「創作」であるとしか言いようのない話である。あまりにも痛ましい形で、統一教会への逃避行に終止符が打たれた村上が、その心の傷を覆い隠すために作り上げた物語なのかも知れないし、あるいは、このようなことが自分の身に起きたと、村上は今でも本気で信じ込んでいるのかも知れないし、受け狙いの自慢話を「創作」したのかも知れない。

だが、いずれにしても、人が神に出会うことは、このように突飛な体験ではあり得ず、もう少し、知的にも、論理的にも、説明のできる出会いになるのが通常である。なぜ統一教会が誤っているのか、自分自身で考え、少しずつ、気づきが始まり、まことの神が分かり始めるというのが、カルトからの脱会の通常のパターンであろう。

このように理屈を超えた何らかの神秘体験に力づくで圧倒されるがごとくに、いきなりすべてが180度転回して、それまでの生き方が誤りだったと劇的に分かる、ということはまずない。

いずれにせよ、この記事を通して、2005年の時点では、杉本は村上を詐欺師・偽預言者と言わんばかりの目で見ていたことが分かる。

さらに、杉本の村上への不信感は、「干潟は水が腐っているわけではない」という記事の中でピークに達する。この記事についての解説は、「キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられている」という記事の中ですでに述べたので、繰り返さないが、この記事で杉本が指摘していることの中には、非常に重要な見逃せないポイントがあるため、なぜ杉本はこの時の自分の直観に従って、その後も、村上は信用できないという信念を持ち続けて生きることができなかったのであろうかと、筆者は首をかしげざるを得ない。
 
杉本は、この記事の中で、次の村上の言葉に猛反発していた。

 「悩み苦しみが心の中に溜まったままだと、悪水ぬきが必要です。話を親身になって聞いてくれる人は溝や堀のような存在です。悪水のはけ口になってくれるからです。良くない聞き手は、悪水を逆流させます。悪水をぬけば、悩み苦しみも心の肥やしになり、その人の心を沃野にします。」

当時の杉本の見解はこうであった、人の悩み苦しみは、断じて心の中に溜まった「悪水」などではなく、親身になって聞いてくれる人が現れ、その苦しみが取り除かれさえすれば、見栄えの悪い干潟は、整然とした街並みに置き換えられ、人の心は肥沃になり、ハッピーな人生を生きていける、などというお気楽で単純な結論は絶対にあり得ない。

それは、杉本自身が、アッセンブリー教団で心に抱えた言い知れないトラウマや、あるいは、人生で初めて被告とされた際に味わった裁判の屈辱が、決して誰にも打ち明けることのできない心の悲しみ、秘密として、永遠に捨てられずに持ち続けられるものとなることを、自分で予感していたためかも知れない。

人は誰しも、決して誰にも打ち明けることのできない心の秘密を抱えており、それは誰かに話したからと言って、決して解決に至ることはない。誰か良い聞き手を見つけて、自分の苦しみを吐露しさえすれば、話しただけで都合よく問題が解決するかのような村上の論は、あまりにも浅薄で、見当はずれであって、現実を無視しており、絶対に実現し得ない不可能事であることを、杉本自身が、自分の心の傷を振り返って、悟っていたのであろう。

それにも関わらず、杉本は村上を偽預言者としてきっぱり退けることに失敗するのである。

それは、ただ村上が、このような記述を不都合と思い、これを取り除くために、杉本を懐柔して行ったというだけでなく、杉本自身が、誰にも打ち明けられない自分の心の秘密を、黙って神の御許へ持って行き、神にのみ打ち明け、心を注ぎだして祈り、解決を求めることをしなかったためであると筆者は考えている。

むしろ、「健全な魂は健全な肉体に宿れかし」という杉本の主張は、村上の論を嫌悪・反発しながらも、見栄えの悪い干潟はさっさと埋め立てて、公共事業により整然とした街並みを造ることこそ、人類の幸福であるかのような村上の論と響き合うものである。

これと同じことが、唐沢治と杉本との関係にも当てはまる。杉本は唐沢をも2010年当時は、偽預言者として非難していたが、結局、その主張を貫くことがないまま、自ら偽預言者呼ばわりしていた唐沢と意気投合するはめになる。

このように、杉本の心の中には、常に相矛盾する考えが同居しており、結局、杉本は何かを偽りだと見抜いても、その信念を最後まで貫くことができず、常に自分にとって安易な方を選んで妥協してしまうことを繰り返した。

それは、黙って根気強くただ一人の花婿だけを待ち望むことに耐えられず、手っ取り早く、自分を慰めてくれる理解者を求めて、幾人もの愛人で心を満たしたバビロンの姿を彷彿とさせる。

杉本は様々な教会の混乱を見るとき、そうした現象の背後にも、主の御手が働いておられることを見ようとしなかった。そして、混乱した有様だけを見て、信仰なくして教会をバッシングして、その手痛いツケがすべて自分に跳ね返って来ることになった。

杉本は自分が理解者であるかのように考え、飛びつき、手を伸ばした人々によって、さんざん欺かれ、利用され、人生を奪われ、滅ぼされてしまった。それだけではない。杉本が養おうとした健全な肉体も、健全な魂も、彼を裏切ったのである。そういうものは、何もかも、束の間に過ぎ去るものでしかなく、彼に栄光をもたらさなかった。

公共事業によって建てられた町並みは、人目には、堅固で、長持ちするように見えるかも知れない。だが、それは太古からの自然である干潟に比べ、あまりにも短命で、無内容の、薄っぺらい束の間の営みでしかない。公共事業の痕跡は、100年ほどで過ぎ去るであろうが、干潟は、何万年も残り続ける。

人と人との出会いや関係が、どれほど良好に見え、そこにどれほど大きな一大運動が出来上がり、自信と、輝きと、勢いがあったとしても、御言葉に立たないものは、すべて風のように過ぎ去り、消えて行くだけなのである。

杉本ブログの栄枯盛衰は、そのことを我々によく伝えている。御言葉を捨てて、人間の慰めにすがれば、すべての栄光はむなしく消え去るということをよく物語っている。
 
杉本は、筆者と当ブログに挑戦した時、自分の勢いによって、筆者を容易に打ち負かすことができると考えていたに違いない。だが、筆者は、御言葉によって武装していたので、彼を打ち破り、杉本によって人質にされていた筆者の像を彼の手から取り返し、逆に杉本の名を、杉本から奪った。杉本がブログから名を消したのは、当ブログに名を奪われたからであり、それはもはや杉本の存在そのものが、当ブログによって上書きされて、消えかかっていることを意味する。
 
これが神の教会の圧倒的な霊的優位性なのである。ものを言うのは、性別でも、外見でも、人数でもない。霊的優位性である――。この優位性を、筆者のみならず、教会全体が持っているのであり、今まで教会はさんざん杉本や村上の恫喝にも等しい非難によって圧迫され、また、唐沢の罵詈雑言によって嘲笑され、提訴の脅しによって、踏みにじられて来たように見えるかも知れないが、実際には、聖書の御言葉に立脚しないカルト被害者救済活動こそが、教会の足の下に踏みにじられるべき屑のような存在でしかない。それゆえ、その霊的事実は、間もなく実際として、この地上に引き下ろされることになる。
 
杉本が判決から逃げ回ることのできる期間はそう長くはない。遅かれ早かれ、彼はこれに従わざるを得なくなる。そして、杉本のみならず、杉本に深く関わって来たすべての牧師たち、信者たちも、彼と同じ罪にあずかり、彼と同様に、教会によって塵芥のように踏みつけられた上、外の暗闇の投げ捨てられ、恥をこうむり、足早に姿を消して行くことになると筆者は予告しておく。
 
これから杉本に起きることは、カルト被害者救済活動全体を震撼させる教訓となり、この運動を根底から揺さぶり、最終的には完全に瓦解させる効果をもたらすであろう。彼が教会や聖徒らに対して投げつけたすべての悪罵が、まさに彼の身の上に成就する時が来たからだ。

キリストを知らない、キリストによって贖われていない、聖霊を内に持たない人間が、生まれながらの肉の思いで、教会に手をかけることは、それほど恐るべき罪なのである。そのことは、アナニヤとサッピラの例を思い出すだけで十分である。

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「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)

「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。

しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」

こういうわけで、兄弟たちよ。 私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」
(ガラテヤ4:28-31)


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