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短い短い休息のひと時であった・・・。

不思議なことだ。人間的な判断と、霊的な判断はしばしば大きく食い違う。判決言い渡しと共に解放感を覚えていたのは、筆者のあくまで人間としての感情、知性、判断であった。

心の深いところで、筆者の霊的な判断は、戦いがこんな中途半端なところで終わるはずがないし、終わってはならないことを的確に知って、大いなる拒否反応を起こしていたのではないかと見られる。

そこで、判決言い渡しの前日から引きずっていた風邪は、新たな一歩を踏み出すまでの間、日に日に悪くなる一方であった。
   
しかしながら、今週初めが来るまで、判決言い渡しと共に、事件は終了したものと考えていた筆者は、早くも事件の後処理をすべく、民事部にいくつかの書類作成を依頼し、事件ファイルの閲覧を申し出た。そこには、訴訟費用の計算という目的も含まれていた。

訴訟費用の計算は面倒で時間がかかる上、そこには弁護士費用などの大がかりな費用も含まれておらず、さほどの利益が見込まれないためか、裁判に勝っても、訴訟費用の確定をする人は非常に少ないという。だが、一応、ひと通りの手続きを学ぶ必要があるし、できることは時間のある間にきちんとやっておきたいと思った。

だが、筆者が晴れ晴れとした顔で記録閲覧を頼んだのとは対照的に、書記官はいささか顔を曇らせていたように見えた。

「訴訟費用の計算をしたいんですが」
「まだ送達が完了してませんし、判決の確定まで待った方が?」
「今の時点で見ておいた方がいいんで。後になると面倒なんでしょう」
「今はまだ記録の整理中で。しかも、控訴があるかも知れませんよ?」
「ないですよ」
「分かりませんよ、まだ」
「そんなのないですってば・・・」
 
筆者は、これまで書記官が常に裁判官の判断に忠実に従って動いて来たのを知っていたので、まさか書記官が控訴によって、裁判官の下した判決が覆されることを望んでいるわけでないことは理解していた。だとすれば、何が書記官の心にひっかかっているのだろうと、腑に落ちないものを感じた。
  
しかも、筆者は控訴を無意味なものとして一審判決を確定させるべく、早々に書記官に様々な書類作成を依頼していた。(これは被告が控訴しても全くと言って良いほどに利益がないようにするための措置である。)
  
ところが、4月1日に被告村上の出したブログ記事ですべての状況が変わり、思いもかけないことに、原告側から控訴を考える事態となった。その事情を電話で詳しく告げてから、再度、記録閲覧を申し出ると、書記官の表情が曇り後晴れになっていた。

もう一度記録閲覧に出向くと、再び緊張モードに入った筆者とは裏腹に、今度は書記官が晴れ晴れとした表情をしていた。そして、気前よく大量のファイルを出して来てくれた。

ちなみに、訴訟費用などは、実際に、全く微々たるものでしかないが、このようにほんのごくわずかな費用であっても、負債は負債に違いないと言える。従って、筆者は、このような負債が、たとえどんなにごくわずかであろうと、神の子供たちに負担として生じることは、絶対にあり得ないことだと理解している。

(なぜなら、キリストは私たちにとって不利な債務証書を、すべて十字架で破り捨てられたのであるから、私たちには債務というものが存在しないためである。)

そういう意味で、筆者は裁判官の判断に異議を唱えるつもりはないが、一審の判決は、霊的観点から見れば、必ず覆されることが前提とされているような内容だったと言える。

さらに、どういうわけか知らないが、筆者は訴えを出すときに、訴訟費用の負担を、仮執行の範囲から外した。なぜそうしたのか、今になっては理由がよく分からないが、そうしたことにより、実際に、現時点で、不法行為に問われなかった村上の訴訟費用の負担が、判決確定前に筆者にかかって来ることは決してないという結果が出ているのである。

従って、現時点で、筆者にはいかなる「債務」もない。こうしたことは、まさに神の知恵であるとしか言いようのないことである。従って、それにも関わらず、筆者が訴訟費用の計算をしているのは、いずれこれを被告ら(後の被控訴人ら)に請求するための備えである。
  
さて、控訴状を事件係に持って行ったとき、早速、訂正があると告げられ、見栄えにこだわりたかった筆者が、まだ日にちはあるので書き直すと言ったところ、係がいつになく断固たる表情で首を横に振った。

「いいえ、一か所くらいの訂正なら、今ここで訂正した方がいいです。とにかく早く出した方がいいですから・・・。これで十分にきれいですよ」
   
何だか抗いようのない口調であったので、筆者はそれに従うことにした。筆者は別にその日でなくても良いと考えていたのだが、付与された番号を見ると、まさにこの日のために特別に用意されていたような数字の並びで、天には今日でなくてはならない何かの事情があったのだろうという気がした。
 
その後、分厚いファィルに埋もれて、記録の閲覧謄写をした。筆者は書類の山に埋もれると、自分のことなど何もかも忘れてしまうたちで、朝からずっと様々な書類を作り続けて、その時まで、ほとんど何も食べていなかったことに気づいた。それに加えて風邪が追い討ちをかけた。
 
本当は判決言い渡し後、せめて一週間くらいは、ゆっくり休まなければならない。記録の閲覧など後回しである。だが、こういう事件の場合、そうも言っていられず、事件の記録を一つ一つめくっていると、様々な思いが込み上げて来て、思っていた時間をあっという間に過ぎ、5時前に急かされるようにして庁舎の外に出た。

車に乗り込んだ時、突然、ふとこの事件を担当してくれた裁判官の気配を、まざまざとそば近くに感じたような気がした。それはちょうどまるで筆者の目の間に、事件ファイルを持った裁判官が現れたかのようで、人間の常識を超えて、何か切迫したメッセージを伝えられたような気がした。

実におかしな出来事であった。裁判官は異動して横浜地裁にはいないはずであり、もちろん、筆者が記録閲覧したことも知るはずがなく、今ここで起きていることに関心を寄せる理由があるとも思えないが、一体、何かが起きたのだろうか・・・と筆者はいぶかしく思った。

理由は帰宅してから分かったような気がした。村上密のブログに、まさに筆者が裁判所を出る直前の時間に、早くも筆者が控訴したというニュースが投稿されていたのだ。
 
村上密が筆者の行動を、筆者自身よりも早く報道しているとは、驚き呆れることであった。しかも、彼が「完全勝訴」と書いた同日の夕方、3時から5時にかけて、裁判所の業務時間が終了するまでに残されたわずかな時間の筆者の動きを、これほど正確に知って素早く報道しているとは、実に奇妙かつ不気味なことである。
   
まさにジョージ・オーウェルの世界を彷彿とさせる出来事である。双方向のテレスクリーンには、「祖国を捨てた人民の敵ビオロン、本日夕刻、ビッグ・ブラザーを控訴!!」などという文字が踊り、テレスクリーンには、その他にも連日のように、筆者を人民の敵として告発するニュースが新たに流されている。まるでエマニュエル・ゴールドスタインさながらの扱いを受けている気分だ。

筆者が約10年前に、ビッグ・ブラザーの支配するあの国を、秘密警察の暗躍する全体主義国と呼び、そこから国外亡命を遂げてからというもの、筆者はあの国では、まさに祖国を捨てたゴールドスタインさながらの狂人・罪人として扱われているのだ・・・。

なぜ杉本ブログに賠償が命じられて後、また、掲示板が大々的に刑事告訴の対象とされて後、村上が自らのブログで、当ブログ執筆者の実名を公表したり、当ブログを名指しで非難する記事を次々と書き始めたのか、そこに、筆者の言う「全体主義国」の有様を、読者は伺い知ることができよう。

一審では、村上―杉本の共謀関係は立証されていないが、筆者はこのような結果となることを前々から予測していた。つまり、杉本による権利侵害は、杉本が独自の判断により、単独でなしたことでは決してない――というのが筆者の以前からの推測なのである。もしそうでなければ、村上は、杉本が自らのブログで筆者を批判できなくなったことを皮切りに、今度は自分のブログで筆者を批判し始めることは決してなかったであろう。

二人はメール文通も書証として提出して来ているが、その内容は、二人が完全に気脈を通じていると言えるものであり、さらに、杉本に賠償が命じられても、村上は決してそのことを報道しない。このことか分かるのは、つまり、村上には、杉本がしたことが許しがたい人権侵害であるという認識が今もって欠けているということである。

そして、杉本が果たせなくなった役割を担うために、村上はずっと何年も前から当ブログに掲載されていた記事について、今になって自らのブログで批判を展開し始めたのである。(だが、村上が書いている控訴以外に関する記事については、おそらく刑事事件等の捜査が進み次第、筆者の主張の裏づけとして、証拠を提示しながら書いて行くことになろう。)
 
さて、話を戻せば、おそらく裁判所の関係者ならば、事件番号が付与された時点で、リアルタイムで控訴の情報を把握することは可能であろう。

だから、裁判官も(村上の記事はさておき)、控訴のことを知っていておかしくないと思われるが、書記官の態度を見る限り、裁判官にも、きっとこの控訴が、判決内容を不服としての控訴でないことくらいは、十分に理解してもらえるだろうと思う。むろん、二審の裁判官にもそれが分かるように、理由書をきちんと作成する予定である。

裁判官には、法的根拠に基づいた判決しか出せない。そこにはいささかの情も込めるわけにはいかないし、事実と異なる事柄や、推測に過ぎない事柄も書けない。しかしながら、彼らにも人間的な感情はあって、それは必ずしも、法的な解釈に沿うものとは限らないのだ。

しかも、一審でこの事件を担当してくれた裁判官と書記官の二人は、筆者が口頭弁論の際に、被告杉本・村上の双方から、提訴・反訴・控訴の脅しを受け、被告杉本からは徹底的な誹謗中傷を受け、どれほど二人から見下され、蔑まれ、踏みにじられていたかを、実際に、その目で見て知っている生き証人のような人々である。

さらにもっと言えば、被告杉本は、一信徒に過ぎない筆者を、宗教指導者と呼び、まるで筆者が魔女か何かででもあるかのように形容した書面を提出して来た。杉本が提出した準備書面は、杉本が公表したブログに輪をかけて、筆者に対する恐ろしいほどの誹謗中傷に満ちており、こうした常軌を逸した内容の書面は、裁判所の関係者の目に触れたのである。
 
裁判官も、書記官も、裁判所の権威を守る側に立っているので、誰かが判決に異議を唱えることを自分から望んだりはしない。むろん、争いが長引くことを望んだりもしない。それでも、筆者は、この人たちに限らず、筆者を取り巻く、雲のような無数の証人たちから、「ヴィオロンさん、あなたはもう戦いが終わったと喜んでいるようですけど、本当にそれで満足なんですか。本当にこれがあなたの心から納得できる答えなんですか。これがあなたが命をかけてまで、立証しようとした内容なんですか。あなたは自分が目的達成できたなんて、本当に思っているのじゃないでしょうね。あなたは安全になったわけでなく、依然として、立ち向かうべき危機の最中にあるのに、まさか本当にこのような結果で、満足して立ち止まってしまうつもりじゃありませんよね・・・」と迫られていたような気がしてならない。

被告杉本からの控訴はあり得ないと、筆者は今も判断しているが(なぜなら、村上が完全勝訴したと宣言しているものを、杉本が控訴すれば、かえって敵に判決を覆すチャンスを与えることになるからである)、そのこととは別に、筆者自身が戦うことをやめて立ち止まってしまうことに対し、無言の警告が投げかけられていたように思う。

ここで立ち止まることは、妥協であって、偽りの平和への安住であって、それを選べば、たとえ被告から控訴がなされなくとも、あなたは遅かれ早かれいずれ死へ向かうだけだと。

だが、そのことは、誰よりも筆者自身が霊の内でよく分かっていたと言えよう。筆者は人間的な判断としては、この成果で十分だと考え、それ以上、争いを続行する理由もなかったので、ひとまず戦いは終わったと喜んでいたが、その心情とは逆に、日に日に具合が悪くなって行ったことが、人間的な観点から見る事実と、霊的事実がいかに異なるかをよく示している。

筆者がようやく食べ物をまともに口にできるようになったのは、控訴状を出し、さらに刑事告訴の具体的な相談を警察と始めてからのことであった。

今では被控訴人となった村上密の内心が、まずはブログを通じて、余すところなくぶちまけられるのを待つのみである。まずは隠れていた事柄が明るみに出されなければならないためである。
 
筆者は、この道は、筆者が考えているよりもはるかに長く、ずっとずっと先まで続いていることを思い知らされている。人間的な休息は、霊的停滞をしか意味しないのかも知れない。
 
こうして、筆者はお世話になった民事部を後にして、人生で初めて得たまずまずの判決をも後にして、さらに遠くへ歩いて行こうとしている。たった一人で、どこまで歩いて行かねばならないのかも分からないが、待ち受けている何もかもが、見知らぬ世界なわけではない。

いずれにしても、すべては天の采配である。ここで立ち止まってはいけないのだと、筆者は警告されている。塩が塩気を失えば、誰がそんなものに注意を払うだろう。心から望む通りの目標に達するまで、代価を払うことをやめてはいけない。もっともっと深く井戸を掘りなさい。もっともっと高く、遠くまで歩いて行きなさい。リスクを取って自分の十字架を負い、日々、主と共に戦い抜いて、勝利と解放を勝ち取る姿あってこそ、人々からも、真の意味での理解や尊敬を勝ち得ることができるのだ・・・。
 
どうして女性が一人で戦わなければならないのか。筆者はこの深い井戸から何を汲み上げようとしているのか。筆者が争いのために争いを起こしているわけでないことは、今後の一連の記事の中でも、説明して行かねばならないし、きっとそれは可能だろう。

というよりも、筆者は己が利益のためにここに立っているわけではないのだから、この仕事を貫徹するのは、筆者だけでなく、神のなさる仕事であると考えている。これは主との共同作業である。そうである以上、この先は、もっと多くの気負いを手放して行かなくてはならない。そうでなくては、各種の重荷を負いつつ、軽快な足取りで先に進んで行くことはできないだろう。

ここではっきりと断っておきたい。二審で出る結果は、筆者からいかなる負債をも将来に渡ってまで完全に取り除くものとなるであろうと。たとえ数千円に満たない被告1名の訴訟費用であろうと、残らずそれらは取り除かれる。

今、筆者がせねばならない仕事は、この事件に限らず、目には見えないが、うず高く筆者の机の上に積み上げられた悲痛な嘆願書を、次から次へと処理することだ。これが筆者の「お仕事」なのだと、今は非常によく分かる。週末も、作成せねばならない書類が山積みだ。

かつてできるだけ見栄えの良い履歴書を作成しては、何とかして人々に良い印象を与え、誰かから出来合いの仕事を与えてもらおうと奔走していた頃は、こんな仕事が存在することに、心を留めたこともなかった。

誰からも振り返られず、打ち捨てられていた、目に見えない訴えを取り上げ、それを悪魔と暗闇の勢力を打ち破るために、大いなる武器として行使する。誰も述べなかった新しい言葉を述べて、社会をよりよく変える起爆剤とするために、戦いの武器として行使する。これは心から意義があると言える敬服すべき有益な仕事だ。

そういう仕事が、一つ着手すると、次から次へと入って来る。そして、どういうわけか、戦い続行するために必要な材料も、自然と向こうから集まって来る。

今、筆者が「干潟」にとどまって掘り起こしているこの「仕事」には、はかりしれないほど深い意義がある。そうである以上、その仕事を果たすための前提は、神が整えて下さるであろう。そもそもそれがなければ、筆者は第一審の判決にたどり着くことさえ不可能だったのである。

渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れるようになる。」イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている”霊”について言われたのである。」(ヨハネ7:37-39)

何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労はその日だけで十分である。」(マタイ6:33-34)

「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハネ4:13-14)

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「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)

「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。

しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」

こういうわけで、兄弟たちよ。 私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」
(ガラテヤ4:28-31)


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